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「一枚絵文章化企画」第二会場
「桃子(薫子編)」作:ナナコ

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「桃子(薫子編)」作:ナナコ (↑のナナシ先生とは別人ですが、続かせて頂きました)



 薫子はパジャマ姿でパソコンデスクに向かっている。椅子に座り、40cm四方の1人用ホットカーペットの上に、両足の裏側をぺったりとくっつけている。そろったひざの上には、湯たんぽが乗っている。薫子は、両手を上げて伸びをした。一度深く呼吸をして、それから、上がっていた両手を曲げて後頭部を抱えた。生乾きの髪の冷たさにびっくりしてすぐに手を離した。湯たんぽがひざからずり落ちそうになった。
「うまく描けないなあ」と、右手をマウスに戻した薫子がつぶやく。
 薫子のマウスが繋がっているノートパソコンの液晶画面には、手書きのイラストが表示されている。砂浜でポーズをとる水着姿の女性を描いたような絵だった。キーボードの横に広げられた真新しい雑誌には、画面上の絵と同じ構図の写真が掲載されている。薫子は、グラビア写真を真似て、パソコンで絵を描いていた。
 薫子はマウスカーソルをペイントソフトの後ろのウインドウに合わせてクリックし、スカイプの画面を前面に持ってきた。コンタクトリストに入っている「部長」という名前をダブルクリックし、タイピングする。左右とも人差し指だけを使っている。
「うまく描けません><」
 すぐに相手からの返答が表示される。
「大切なのは気持ちなのです。どれだけ強く想っているかなのです」
 返事を読んだ薫子はいったんキーボードから手を離し、ひざの上の湯たんぽをなでた。湿度低下を感知した加湿器が運転を再開し、熱い水蒸気が薫子の部屋に放出される。湯気は薫子の頭上に立ち上り、エアコンの温風に吹かれて霧消する。
「上手ではなくてもいいのです。気持ちさえこもっていればいいのです」
 薫子が返事をする前に、部長からの二度目のメッセージが届いた。薫子の両手は湯たんぽを離れ、キーボードに向かった。しかし薫子は、文字を入力する代わりに、ショートカットキーを押して、開いていた全てのウインドウを最小化した。薫子に似た男性のバストショット写真が、デスクトップの背景に全画面表示されていた。
 突然、スピーカーから着信音が流れ、小さなウインドウがポップアップした。チャットをしていた部長からの、スカイプ通話の呼び出しだった。薫子はあわててヘッドセットを装着してから、画面上のOKボタンをクリックした。マイクの位置が鼻の前に来ていたので、少し下げた。
「どうして返事をしないのです?」
 部長の質問に、薫子は一言「ごめんなさい」と答えたきり、黙ってしまった。
「だいじょうぶ、きっとうまくいくのです。安心して私に任せて欲しいのです。薫子は余計なことを気にしないで、自分の気持ちを素直に表現すれば良いのです。その部分だけは、薫子にしかできないことなのですから」
「でも」と、薫子がようやく発言する。「本当にこういうのでいいのかなあって……」
 スピーカーの声が応答する。
「お兄さんの好きな女性のタイプは、もう薫子も理解したのでしょう? その為にあなたに家探しを頼んだのですから。好みに合わせた絵を描けば、それだけ成功率は上がるのです。お兄さんを悦ばせる自分の分身だと思って、心を込めて描くのです」
 第三者の言葉によって薫子は、自分の働いた悪事を目の前につきつけられた。薫子は昨日、兄がアルバイトの面接に出かけている間に、彼の部屋へ忍び込んだのだ。そして薫子は、部長に指示された通りにベッドの下を覗いて、雑誌を発見した。結果を部長に報告すると、同じ雑誌を購入し、グラビアページの写真に似せた絵を描くようにとの指令を受けた。薫子は、生まれて初めて、男の人が読むという雑誌を買った。薫子は、目の前に置いてある雑誌からわざと視線をそらして、部長との会話を進めた。
「いえ、絵のことだけじゃなくて。この、アプリケーションという形をとるというのも……」
「ただ伝えるだけでは力不足なのです。禁断の愛という障壁を乗り越えるためには、特殊な仕掛けが必要になるのです」
「そう、なのですか……」
「そうなのです。まさか、いまになって怖気づいたのではないでしょうね。いわゆるサプライズパーティーのようなものですから、そんなに心配することはないのですよ。そもそも、考えてもみてください。常識的な大人の男性がですね、血の繋がった妹から普通に告白されたとして、すんなりと受け入れてくれると思いますか?」
「思いません……」
「そうでしょう。そういった理性の壁を取り払うのが、本能の力なのです。本当は薫子が自分の肉体で直接迫れば手っ取り早いのですけれど、あいにくあなたの体はお兄さんの趣味に合致しないようだし、あなた自身にもそんな度胸はないのだから」
「すみません……」
「だから私が、電算部の威信を賭けて協力しているのです。お兄さんの関心を引くアプリケーションを作成、フリーソフトとして公開。ホームページのURLを、スパムメールを装って送信。ダウンロードしたお兄さんがゲームで遊んで、興奮して感極まった瞬間、薫子の愛の告白が画面に表示される。理性が飛んだ状態ならば、純粋な想いが心に直に伝わるのです」
 薫子は、部長の声を聞きながらデスクトップの背景画像を見つめている。兄の目を、兄の鼻を、兄の口を、兄の乾燥した皮膚を、見つめている。タンクの水がなくなったことを意味する加湿器の電子音が響いても、構うことなく薫子は兄の写真を見つめている。薫子は、兄が男前ではないことは知っている。面接を受け続けていること、つまり、面接で落とされ続けていることも知っている。しかし、兄が新しい面接の予定を入れ続けていることもまた、薫子は知っていた。薫子は、そんな兄が、好きだった。
「わかりました」
 薫子は部長とのスカイプ通話を終えて、マウスで絵を描く作業に戻った。描き上がった頃には、薫子の短い黒髪はほとんど乾いていた。完成したイラストを、部長宛てにメールで送っておく。薫子はゆっくり息をついて、開いていた雑誌とノートパソコンを閉じた。そして薫子は、ついさっきまで自分が描いていたイラストを思い浮かべた。薫子は、顔だけは自分に似せて描いたつもりだった。薫子は、両手を重ねて胸に押し当てながら、自分を見て楽しんでいる兄の姿を想像していた。薫子は、まだ温かい湯たんぽをどけて、エアコンの温風を止め、電気を消してベッドに入った。ひんやりした布団に包まれて、薫子はすぐに眠りに落ちた。

 翌朝、部長からの返信メールが届いた。
「上出来なのです。いま、前にもらった告白文とこの絵をアプリケーションに組み込んで、アップロードとメール送信を完了したのです。ゲーム用のメッセージは私が適当に2,3パターン程度作っておきましたから、あとはお兄さんが桃子をダウンロードして、絵の各部をクリックして遊んでくれるだけでいいのです。しばらく遊んで内部条件が満たされれば、説明書に記載された裏コマンドを受け付けるようになり、愛の告白が表示されるのです。そこでお兄さんは薫子の気持ちに気付き、めでたく二人は結ばれるのです」
 薫子は、小さな声で「ありがとう」と言った。薫子は、自分一人では決して兄に想いを伝えることなどできなかっただろうと思った。薫子はパソコンデスクの前から離れ、窓際に歩いてカーテンを思い切り開けた。部屋の中が白くなる。薫子は、まぶしい光が降り注ぐ自宅前の小道を、兄と手をつないで歩いてみたいと思った。恋人同士になったら、二人でどんな話をしよう。どこに一緒にデートに行こう。そんないつもの空想も、いまの薫子にとってはまるで来週の予定を考えているかのように現実的になっていた。

 薫子はその日以来、兄の様子を一層注意深く観察していたが、現在に至るまで特に変わった反応は見られず、兄はいつも通りに面接を受けに行っては帰ってくるだけであった。

       

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