「ごめんなさい。ごめんなさい。」
日も暮れかかり教室の窓から斜陽の光が差し込んでくる放課後の午後。
俺はある女の子からそんな事を言われた。
斜陽の光の影になって見えないのか、また教室の電気を点けないせいなのかはわからないが。
その女の子の顔は暗闇の靄がかかったようによく見えない。
「×××が謝ることないよ。」
それでも俺は誰かの名前を口から発する。
誰が?誰の?
「でも、私のせいで…。」
「×××が悪いわけじゃないよ。」
俺達は向かい合って席に座っている。
教室には俺とその子の2人だけしかいない。加えて言うと俺たちの座っている席3つ分しか存在しない。
30~40人分の机がひしめき、個人個人がその個性を余すことなく発揮するには小さすぎる空間。
だが今そこに存在している教室はそれであってそれとは異なるものだった。
3つの席にとってこの教室はあまりにも広すぎていた。
「人はいつだって現実に目を背けたくなる。逃げたくなる。自分が傷つくのが嫌で他の人を犠牲にしてまで生き延びようとする。そんな人間に君は心底愛想をつかせてるんだろ?」
俺の口からそんな言葉が出る。だが俺自身はそんな事を今この場で言おうと思ったわけではない。
それでもまるで台本を決まったように演じるがごとく、話は止まることがない。
そこにいるのは俺だけど俺じゃない。
その感覚が強くなっていく。
「だから君はこんなくだらない現実から逃げたくてしょうがないんだろ?いいよ、俺が手伝ってあげる。」
その言葉はもう×××にかける言葉のものではなかった。
×××も自分に言われている言葉でないのもわかっているようだ。
じゃあいったい誰に?
手伝うってなにを?
自分が発した言葉なのに、そこに自分の意思は介在していない。
とても気持ち悪い。
「だから、俺にすべてを任せな。」
俺と×××と呼ばれたその子は座っていた席を立ちあがって3つ目の席の方を向く。
そもそも疑問に思っていた。なぜ俺と×××しかいないこの空間に3つ目が存在しているのか。
物事のすべてには意味がある。あるとしたらその3つ目にも意味があるはずなのだから。
だがその3つ目にはなんの意味も持ち合わせていなかった。逆にそれがそれを色濃く示している。
──そこに意味は存在していた。
俺が
瞬きひとつせず、膝に手を置いてお行儀よく座っている俺が座っていた。
3つ目に座っている俺が今の俺。
そう認知した瞬間、席を立ちあがった俺から席に座っている俺に。
すべての感覚が川の激流のように意識が入り込んでいくのがわかった。
今ここに座っているのが俺。
あそこに立っている俺は俺じゃない。
でもさっきまでは俺の意識があそこに滞在していたのはほんとだ。
「あ、や、な…」
声を発せようとしても空声しかでてこない。そればかりか体の自由も効かない。
この空間内で俺に許された自由は、ただただ起こったことを傍観するだけのようだ。
「×××、いけそうかい?」
「まだ…ごめんなさい。」
「そうか、謝ることはないよ。ゆっくり羽化してけばいいんだから。僕たちには悠久の時間が用意されているんだから。」
もう一人の俺と×××が何について話しているのかはわからない。ただ、何かをする対象は俺だということははっきりとわかる。
防衛本能とでも言うのだろうか。5感のすべてが危険信号を発している。
「と、いうわけだ。まだ君の望みを叶えられそうにない。今日はこの辺にしておくよ。」
もう一人のおれはそう告げて指をパチンと鳴らす。
それを合図に先ほどまでの空間はもう一人の俺を中心に円状に収縮して消えていってしまった。
残るは俺ともう一人の俺と×××、それと3つの机だけ。
教室も斜陽の光も、影すらも消え残りは闇そのものだけだった。
「それではさようなら。君がまた良い夢を見られることを祈っているよ。まぁ、この場合良い夢とは君にとっては悪い夢なんだろうけどね。ククク。」
もう一人の俺は不敵な笑いを含んだ事を言いつつどこへともなく消えてしまった。
彼が消えてしまった後も俺の体の震えは止まらない。体の自由もまだ効かない。
俺はなす術がないのでその場で子猫のように怯えてるしかなかった。
「あの──」
残った×××は俺の方へとゆっくりと近づいてきた。
一歩
一歩と歩みよってくるたびに頭に結んである鈴がシャンシャンと音を立てている。
鈴といっても一般的な金色のそれとは違っていて黒に塗りつぶされたような、それはそれで綺麗だと思わせる程の漆黒だった。
「ごめんなさい。あなたを私の依代にするのにまだ私のムマが足りないの。」
俺の座っている机に両肘を置いて頬杖をついた彼女が言った。
先ほどまで見えなかった×××の顔がよく見えた。
潤いのある口、きりっとした鼻、さらっと伸びた髪を漆黒の鈴で結ってある、見栄えるほどの美人だった。
ただその目には幾重にも包帯が巻かれており視界はしっかりと閉ざされている。
「でも大丈夫。もうすぐなの。もうすぐであなたとひとつになれる。身も、心も。」
更に身を乗り出してきた×××は俺の耳元で囁く。
こんな美人にこんなことされたら、いつもの俺なら熟した果実のようにドロドロになって何も考えられなくなってしまうようなおいしい状況なはずなのだが、今の俺は気が気じゃなかった。
もちろん悪い意味で。
体の震えがさっきよりもひどくなって、さらに呼吸をするのさえ困難になっていた。
空気が質量をもったかのように重い。
「うふふ。震えちゃって可愛い。安心して。1つになることはとっても気持ちいいことよ。」
×××から目をそらしたい。しかしそれとは裏腹に瞳孔はしっかりと見開いており、×××に固定されたまま動かない。
無意識的に目から涙がとめどなくあふれてくる。
俺が防衛反応を示した本当の対象は消えていったもう一人の俺ではなかった。
「──ら──こら──す─すむ──」
どこからともなく声が聞こえてくる。
それは×××の声やもう一人の俺の声のものでもなく。
脳に直接聞こえてくるような、とても現実味のあふれる声だった。
「あら。もう時間だわ。残念もっと一緒にいたかったのに。それじゃあまた次合う時までに、ごきげんよう。」
×××もその声が聞こえたらしい。
名残惜しそうに、もう一人の俺が消えたであろう2つの席がある方に戻っていく。
「あ。そうだ。」
何かに気づいたように足を止め、彼女はこちらを振り返る。
「私の名前は×××よ。覚えておいてね。」
そう言って彼女は消えた。
その刹那
すべての空間は土砂のように崩れ去った。