ここはレトルトカレイ高校である。
木造建築の四階建て、その一室にある男が居た。
この物語の主人公である高校2年生、恵比寿(えびす)健太郎であった。
恵比寿は肩に学生鞄をひっさげ、今まさに下校の準備をしていた。
と、そこに。
「あー、今日も授業疲れたでんなあ」
学生服のボタンを律儀に全て留めているこの似非関西弁の男は明治(めいじ)鉄夫である。
少し小太りな体型で鉄道マニアな事からクラス中の男子からは鉄ちゃんと呼ばれている。
ちなみに女子からはオタクと呼ばれている事は本人は知らない。
「鉄ちゃん、今日もボタンちゃんと留まってるな」
「俺のポリスーやからな」
「?」
「恵比寿~、そこはポリシーやろ! って突っ込み入れなアカンで」
「あ、うん」
「まぁええわ、帰ろうやぁ」
明治の前歯がキラリと光る。
歯磨きを毎日欠かさない明治の歯はとても綺麗だった。
明治の母の歯も綺麗らしいがそれはまた別の話である。
さて。
帰ろうぜ、と誘われた恵比寿であったが。
「ごめん、鉄ちゃん。今日、部活なんだ」
「部活やて?」
「うん。カレー部」
レトルトカレイ高校。
創設42年の歴史を持つ由緒ある高校で、
田舎でも都会でもない普通の住宅地の中に鎮座している、何の特徴も無いような普通の高校だ。
ただ一つ違うのは、
「そういえば恵比寿、カレー部やったよなぁ」
「うん、だからごめんね」
そう、何を隠そう実は恵比寿健太郎はレトルトカレイ高校の伝統あるカレー部の一員だったのだ。
このレトルトカレイ高校では全校生徒の約半数以上がカレー部に所属するという、いわゆる大カレー部高校なのである。
その腕前は毎年カレーの全国大会で上位入賞を収める程のレベルで、文化祭ではカレー部の作る激ウマカレーライスを求めて長蛇の列ができるほどである。
中でも部長の大塚が作るカレーは全国のカレー通の舌を唸らせる程で海外からも「次はうちのカレーフェスタに出展してほしい」とのオファーがあったくらいである。
「えぇよ、ほな俺は鉄道の特番があるさかい帰るわ」
「それじゃあまた明日な、鉄ちゃん」
「ほなお先~」
ちなみに明治は帰宅部だった。
お互いにちょいと手を上げて明治と恵比寿は別れた、また明日という輝かしい日に出会えることを信じて。
さて、明治と別れた恵比寿は意気揚々とカレー部部室の家庭科室に向かって歩き出したのだった。
◇ ◇
埃っぽい音を立てて今42年の伝統あるカレー部部室、家庭科室のドアが開かれる。
「ちぃーっす」
鼻を香辛料の匂いが刺激する。
恵比寿が挨拶をすると中にはもう既に何人かの生徒が今日もカレーを作り始めていた。
恵比寿は自分の班のテーブルにいき、荷物を降ろした。
「お~っす恵比寿、今日も元気そうだな」
この男はカレー部部長の大塚(おおつか)アキオだ。
無駄に良い声をしているダテ男である。
ただしただのダテ男というわけではなく、カレーの腕前はこの学校一、いや日本一、世界にも通用すると言われている。
「おかげさまで元気だよ、大塚くん」
恵比寿は少しはにかんだ笑顔を返した。
声に出してこそ言わないが、恵比寿は大塚の事が嫌い──とまでは言わないが苦手だったのである。
「そうかそうか、それはヨカッタな」
大塚は大げさに喜んでみせた。
このリアクションの大きさも大塚のチャームポイントである。
それから数分も経たないうちに生徒が続々と家庭科室にやってきて、全ての席が埋まった。
ある席では今日の献立を巡り議論が勃発し、またある席では怪しげな試験管を取り出し始め香辛料の調合を行っていた。
大塚と恵比寿の席では、
「恵比寿」
「うん?」
「今週末の大会、お前も出場するんだろ?」
大塚の言っている大会とは、野球でいう地方予選、陸上競技で言うインターハイ予選、サッカーで言う都道府県予選のような大会で
レトルトカレイ高校が所属する県カレー委員会が主催する伝統ある大会だった。
もちろん大塚は昨年のチャンピオンであった。
1年生にして他の先輩を押しのけ優勝、他校の生徒を追随を許さぬ完膚なきまでの圧倒的勝利を収めたのだった。
「大会かぁ」
「お前も出場すれば良いセンいくと思うけどな」
「そうかなぁ」
「そうだって」
大塚は恵比寿に大会出場を薦めるが、恵比寿には致命的な弱点があったのだ。
それは、恵比寿の作るカレーは料理とは思えない程クソマズイという事である。
しかし大塚はその事実を知らないのであった。
「今日エントリー締め切りだから、お前ちゃんと考えとけよ」
◇ ◇
「アキオ、恵比寿くん。二人とも、何話してるのっ?」
「おぉ、グリ子か」
江崎グリ子、このカレー部の紅一点。
レトルトカレイ高校の誰もがが憧れるカレー部マネージャーに就くことが許された数少ない女子である。
その江崎が大塚の事をアキオと呼び捨てにするには理由があった。
「恵比寿が大会に出場するって話をしてたんだよ」
「えぇっ? 恵比寿くん大会にでるのっ?」
「俺が先生に推薦してやるから大丈夫だと思う」
「そっかっ、恵比寿くんガンバってねっ」
トントン拍子に恵比寿を差し置いて二人で勝手に話が進む。
そう、この二人は付き合っていたのだ。
伝統あるカレー部部長とマネージャーのカップルはもはや学校公認となり、二人のためにデート休暇が許される程である。
そう、二人はこの学校の誰もが憧れるナイスでベストなカップルだったのだ。
若干話から置いていかれた恵比寿は不機嫌そうな顔で二人の話を聞き流していた。
だが視界の端では江崎をチラチラと眺めていた。
恵比寿は大塚の彼女、江崎の事が好きだったのだ。
◇ ◇
「おいこら、おめーらさっさと席につけ」
ドアを破壊しようかという勢いで空けたこの男はカレー部顧問の中村である。
中村は黒板の前に立ちチョークでカツカツと字を刻んでいった。
チョークの粉が飛び交い、何秒か後そこには小奇麗な字で夜露死苦と書かれてあった。
「おめーら、この字が読めるか?」
挑発するような語気で中村は生徒達に語りかけた。
何人かは意味深に目線を合わし、また何人かはさっぱりわからないといった表情。
おずおずと手を上げる者が2.3人といったところだ。
「なってない! まったくなってない!」
中村はカン高い声を上げ生徒達に言い放つ。
荒々しく黒板消しで自らの文字を消すと、
「恵比寿っ!」
恵比寿を指名した。
呼ばれた恵比寿は天井に刺さった画鋲が落ちるスピードで立ち上がり、
「はい!」
「今何て書いてあったかわかるか?」
中村は薄ら笑いを浮かべて恵比寿に尋問した。
「わ、わかりません」
「あぁ?! きこえねぇぞ!」
「わかりません……」
「あんだと?!」
「わかりません!」
水を打ったような静けさとは裏腹に、恵比寿の心臓の音は一人オーケストラを奏でていた。
激しくうなるビートの旋律で鼓動の早さが加速する。
新入部員たちが忙しそうにおろおろと中村と恵比寿の顔を交互に見返す。
「わ・か・ら・な・い、……だと……」
ツカツカツカと靴の音が恵比寿に近づいてくる。
悪魔の笑みを浮かべた人間の形をした何かが恵比寿に近づいてくる。
「恵比寿っ!」
「はいっ!」
名前を呼ばれて反射的に返事が出る。
どうしてこうなってしまったのかもわからないほど恵比寿は混乱していた。
ぐるぐると思考が迷宮入りしたラビリンス。
意味がわからず目が回りそうになる。
沸騰した思考はそろそろメルトダウンしそうだ。
しかし、中村は無常にも恵比寿の両肩をガシリと捕まえ、ついにこれで短い命も尽きたかと思われた。
恵比寿は、
恵比寿はその時
あぁ、こんな事なら江崎にちゃんと告白すれば良かったとくだらない事を考えていた。
「お前……よくやった」
しかし、以外にも中村の口から出てきた言葉は賞賛であった。
意味がわからず恵比寿は中村の顔を見る。
笑っていた、悪魔ではなく天使の笑みで。
やっと理解した、ああ、これは。
「という事で新入部員の皆さん、こんなカレー部ですがよろしくおねがいします」
新入部員歓迎のデモンストレーションだったのだ。
◇ ◇
「散々だったな、恵比寿」
下駄箱で靴を履き替えながら、大塚は言った。
散々とはつまりさっき起こった顧問・中村とのやり取りであり、カレー部はいつもこんな感じですよというデモンストレーションであり。
去年自分も見たはずの事なのに、まさか自分が標的になるなんて思わなかった恵比寿には寝耳に水の出来事だった。
恵比寿は、ハハハと空笑いしながら右足をアディダスのスニーカーに捻じ込んだ。
カレー部。
活動内容。
面白おかしく美味しいカレーを作る事。
「それじゃあ俺とグリ子は先に帰るからな」
「ばいばいっ、恵比寿くんっ」
あははははは、と笑いながら下校していく大塚と江崎の姿が今の恵比寿には些か眩しすぎるのであった。
あぁ。
どうしてあの笑顔を浮かべる天使は自分ではなく大塚の隣にいるのだろう。
自分と一緒に居ない間、あの二人はどこでナニをしているのだろう。
ナニをナニしているのだろうか。
考えただけで恵比寿は悪寒がしてしまったのであった。
「江崎さん……」
「江崎がどうしたって?」
振り向くとそこには坊主頭の大男が居た。
カレー部の4番打者こと、オリエンタルである。
どこか民族風の衣装に身を包み、コアな一部の女子から人気があるらしいオリエンタルは右手にラブレターらしいピンク色の封筒を握っていた。
ハートマークのシールに「オリエンタルさんへ」と可愛らしい文字が添えられているのを恵比寿はじいと見つめた。
「あぁ、これか」
オリエンタルはやれやれと言った感じでその短い頭髪をガシガシと掻く。
また告白されたんだよーとでも言わんばかりの雰囲気に恵比寿は若干いらいらしながらも、
どうして自分にはそういった類の話と縁がないのだろうと落ち込むのであった。
「また告白されてしまってな、一年生に」
また、という辺りにアクセントがあるように聞こえるのはきっと恵比寿の被害妄想だろう。
その右手のラブレターの色みたく、人生バラ色の人間にはそう聞こえない仕組みになっているに違いない。
「へぇ」
「もちろんお断りしたいよ、俺には心に決めた人がいるからな」
オリエンタルは幼いころに結婚の約束をした女性がいるらしい。
三鳥チキンという女性なのだが、幼いころ別れて以来再会は果たしていないらしい。
そんな今どこに居るのかもわからないような女性を今か遅しと待っているオリエンタルを、これまたどっちにしろ羨ましく思う恵比寿であった。
「俺の話はいいんだ、それよりも江崎がどうしたって?」
「いや……べつに、なんでもないよ」
「何も無いことはないだろう。お前江崎の事好きなんだろ?」
「そ……そんな事あるか! 誰があんなブスの事なんか……」
恵比寿は強がったが嘘という事は既にバレバレである。
江崎はこの学校で一番可憐な女子で、恵比寿の初恋の女性でもあった。
「お前がそんなだから大塚に江崎を取られてしまったんじゃないか?」
その言葉は見事なまでに事実を突きすぎていた。
そうである。
あれは、入学式の日──
『おい! 恵比寿!』
『大塚くん』
『お前の前の席の女の子、なんて名前だっけ』
『えーっと、江崎さん?』
『そうそう、可愛いよな』
『……うん』
『……彼氏とか居るのかな』
『さぁ……でも可愛いよね』
『だよな』
『……うん』
『俺……告白しちゃおうかな』
『え……』
『だってさ! すぐ付き合わないと誰かに取られちゃうだろ! じゃあ俺告白してくる!』
『あ、ちょっと……行っちゃった』
その5分後、二人はめでたく結ばれたのである。
これがレトルトカレイ高校ベストカップル誕生秘話であった。
「江崎さん……」
ぽつりと呟いた言葉はむなしく霧散した。
オリエンタルはその巨漢をのっしのしと揺らして、
「男なら、どーんとぶつかってみろよ。当たって砕けろっていうだろ」
「砕けるのは嫌なんだけど……」
「砕けたこともない人間が砕けた後の事を心配しないでよろしい」
妙に説得力のある台詞を残し、オリエンタルは体格に似合わぬ鞄を引っさげて帰っていった。
下駄箱の前に一人残った恵比寿。
何かを決心したかのように踵を返し、職員室へと向かっていった。
◇ ◇
中村がいびきを立てて眠っている。
そこに現れた葱を背負ったカモネギもとい恵比寿。
「中村先生!」
そのカビゴンの鼾をも凌駕するボイスは中村の鼓膜を確かに揺さぶった。
魂を震わせる青春のパワーは、30代半ばというのに独身貴族のバツ1男性教師もとい中村に確かに響いた。
「ふが。なんだ、恵比寿か」
大きくふくらんだ鼻風船がパチンと消えて中村の眠気が覚醒した。
中村はよっこいしょと立ち上がり、大きく伸びを一つ。
「で、どうしたんだ恵比寿。先生に何か用か?」
「先生、僕、好きなんです」
砂糖菓子の弾丸が中村の心を打ち抜いた。
甘い甘いその言葉は30歳半ばの男性教師の心にいけない形で伝わってしまった。
「え……恵比寿。いいか? 落ち着け、事を焦っちゃいけない」
「でも、もう、僕。とまらないんです」
止まらないと迫られる中村。
しまった、さっき悪ふざけが過ぎたかと反省するが時既に遅し。
下校時刻をとうに過ぎたこの職員室は陸の孤島、密室トリック、中村と恵比寿の二人だけのピンクな空間。
そこでは繰り広げられるは甘い甘い青春の一ページ。
「僕……ぼく、好きなんです」
言っちまった。
こいつ、言っちまったよ。
中村は覚悟を決めた。
告白である。
これは、告白である。
男子生徒からの。
間違っちゃいけない、自分は生まれてこの方愛した女性の数は星の数。
バツは一つ付いてしまったがそれもご愛嬌というもの。
どこかの出っ歯のコメディアンはもう何年もその話題でメシを食っているではないか。
だがしかし。
だがしかし。
男性からのこの熱烈な愛情表現。
そんなものは中村が未だ経験したことの無い聖域だった。
であるが故に。
中村は言葉を失い、なすがままにされる。
まさに、サンドバッグ状態。
何も抵抗する術を持たぬ赤子同然である。
「僕……、好きなんです……」
心の弾痕が増える。
打ち込まれる弾丸は重く、そしつ強い。
この純粋な思いはかくも強いものか。
自分が忘れていた何かを思い出させる。
そう、それはある一つの感情。
それは、
愛。
「恵比寿……」
受け入れる覚悟をして、目を瞑る中村。
さぁ、
さぁ。
こい、
受け止めてやる。
「僕……江崎さんの事が好きなんです」
吉本新喜劇ばりのずっこけをご想像していただこう。
その後中村が辿ったであろう悲劇は職員室の無機質な小汚い廊下との熱い口付けであった。
椅子から転げ落ち顔面から落ちる勢いそのままに、長い長いキスシーンを演じた。
「あ、江崎が好きなのね」
安心したような、安心できないような。
言いようも無い、当ても無い気持ちを胸にしまう30歳半ばの男性教師。
「はい、先生どうすればいいでしょう」
「俺が知るか!」
当然の台詞である。
閑話休題。
「でもな、お前が江崎の事を好きであっても。あいつは大塚と付き合っているんだろう?」
「はい……」
「カレー部部長とカレー部マネージャーのお似合いカップルだ。正直奪うのは厳しいんじゃないか?」
「それは……」
「勘違いするな」
中村は言葉を切って、
「難しいからできるのか? それともできないのか?」
あえて厳しい言葉を選んだ。
ライオンは子供を谷に突き落としあえて修羅の道を歩ませるという。
ならば生徒を一度突き放すのも教師の仕事であって当然だろう。
「できます、もう逃げません」
中村の予想に反して恵比寿の口からは頼もしい言葉が聞こえた。
自分が知る恵比寿という生徒はもっと奥手で目立たなくてカレーを作るのがクソ下手糞な生徒だったはずだ。
まさかこんなに勇気を持っているとは。
生徒の成長に感心しつつ中村は、
「わかった」
わかった。
お前がそこまで言うなら、俺が舞台を用意してやろう。
そう告げた。
「次のカレー県予選大会、そこで江崎を賭けてお前と大塚が勝負をする。勝った方が江崎の彼氏になる、それでどうだ」
「問題ありません、やります」
「そうか、じゃあ大塚と江崎には俺から言っておいてやろう」
「はい!」
勝負は今週末。
江崎をかけて。
今、恵比寿と大塚の勝負の火蓋がきって落とされた。
なお。
忘れっぽい性格の中村であったので、大塚と恵比寿がこの事を知るのは、大会前日の事であるがそれはまた別の話……。
◇ ◇
「ダメだ!」
誰も居なくなった深夜の家庭科室に恵比寿の声が木霊する。
ぐつぐつと煮え返る鍋の中には、緑やら黄色の液体が渦巻いていた。
「こんな味じゃ大塚くんに勝てない……、こんな味じゃだめだ……」
恵比寿は涙を流して悔しがった。
自分のカレーは大塚には勝てない。
だが、江崎さんの笑顔を取り戻すために恵比寿はひっしになってカレーを作った。
そして気がつけば朝になり、また昼になり、放課後カレー部の部員が家庭科室に訪れた時には恵比寿はもう20種類ものカレーを作っていた。
全て茶色い何かである事は間違いないがカレーと呼んで相応しいかどうかは疑問である。
興味津々な一年生がこの日鍋にあったカレーをツマミ食いし、救急車で搬送されたという事は顧問である中村しか知らない。
!
日没も近づこうかとしているその時、エクスクラメーションマークが恵比寿の頭で爆発して昇華してカタルシス。
「そうだ、修行だ」
そう、修行である。
どんな強い敵を前にしても漫画のキャラクターは修行を繰り返す事で己を鍛え、相手を倒す。
昔読んだ漫画を恵比寿は思い出していた。
大会の日までに山に篭れば、自分もカレーを作る料理の腕も格段に向上するに違いない。
次の瞬間、恵比寿は上履きのまま山に向かって走り出していた。
冬の山は冷える。
たとえそれが標高500m程度の山でもだ。
山の天気は女の機嫌と同じように変わりやすいという言葉があるが、まさにその通りである。
先程まで快晴だった空はとうに雲に覆われ、横殴りのスコールが恵比寿の足を止めていた。
寒い、とても寒い。
学生服だけでは到底しのげないような寒さだ。
ここで恵比寿は己が犯した重大なミスに気がつく、
「しまった、カレー作る道具忘れた」
その時、のっしのっしと鉞を担いで現れたのは金太郎ならぬオリエンタルにそっくりなじいさんだった。
「誰じゃお主」
「あなたこそ誰ですか」
「ワシか? ワシはこの山に住むじいさんじゃ」
「ぼ……僕はレトルトカリイ高校の生徒です」
恵比寿がレトルトカレイ高校の生徒だと告げるとじいさんは目の色を変えて喜んだ。
「お主! あのカレーで有名な高校の生徒だったのか!」
「は、はい」
「という事はカレー部か?!」
じいさんは恵比寿の両肩をつかんで前後左右に振って喜びを表現した。
まさにアマリリス状態である。
「ちょうどカレーが食いたかったのじゃ。お主、ワシにカレーを作ってくれぬか? そこにカレーの道具があるから自由に使ってくれ」
「本当ですか?」
恵比寿は喜んだ、こんなところでカレーの道具と遭遇できるなんて思ってもいなかったからだ。
そのカレーを作る道具はどれも手入れが施されており、じいさんの道具に対する愛情がひしひしと伝わってきた。
そうか。
そういう事だったのか。
恵比寿は納得した。
道具に籠める気持ち、すなわち愛。
食材に籠める気持ち、すなわち愛。
愛する人に対する気持ち、すなわち愛である。
世の中の全ては愛で出来ているのだ。
今までの自分には愛が足りなかった。
恵比寿は感動のあまり涙を流した。
じいさんに感謝する気持ち、すなわちそれこそ愛であり、恵比寿が学ぶべきことであったからだ。
ぐつぐつと食材を煮込む。
愛で作ったカレーをご飯にかけてじいさんの前に持っていった。
カレーである。
もうそれは茶色い何かではなく、まさにカレーだった。
「では……いただきます」
ゴクリと唾を飲む音が聞こえ、
次に咀嚼。
ゴクリ。
「どうですか」
恵比寿が聞くと、老人は何も語らず気を失ってしまっていた。
どうやら感動のあまり気を失ってしまったらしい。
恵比寿はこの修行で得た事を教訓とし、次の大会に生かす決心をした。
しかし、大会はもう1時間後である。
急げ恵比寿、走れ恵比寿。
「ありがとう! じいさん!」
恵比寿はじいさんに感謝すると、急いで山を降りたのであった。
「あ……あ……、カレーがクソマズくて死ぬかと思った……」
◇ ◇
そして大会である。
「おい恵比寿、時間ギリギリに到着するとは余裕だな」
入り口では大塚が恵比寿を待ち構えていた。
恵比寿のボロボロの服装とは裏腹に、大塚はビシっと三角巾を身につけカレー部の正装をしていた。
だが恵比寿は知っている。
恰好や味が問題なのではない、大事なのは愛であると。
「大塚くん、負けないよ」
にじみ出る感情を今はかみ殺す。
噛み付くのは今ではない。
「顧問の中村先生にきいたんだけどよ、この勝負勝った方がグリ子の彼氏に相応しい男とするらしいな」
「あぁ……」
「恵比寿! お前には負けないぜ!」
「こっちだって負けないよ!」
戦いのゴングが鳴り響く。
調理時間3時間待ったなしの一本勝負が今始まったのであった。
しかし、ここで恵比寿は自分のミスに足元を掬われることになる。
エプロンと三角巾を忘れたので調理する事がルール上許されないのだ。
だが、それは応援に来ていたオリエンタルに借りる事で難を逃れたのであった。
今自分は一人で闘っているのではない、いろいろな人の後押し、感謝の気持ちを背に闘っている。
恵比寿は泣いてしまいそうになるのをひっしにこらえた。
まだ泣くときではないからだ。
まだ勝負の最中なのだ。
包丁を取り出し、食材の皮を丁寧に剥く。
そして秘伝のカレールーを鍋にぶちこんで適量の水を加えて一気に熱する。
あとはこのスイッチを捻り火を出し2時間ほどグツグツと煮れば──
「そこまで!」
無常にもここでタイムアップとなってしまった。
恵比寿は制限時間がある事をすっかり忘れてしまっていたのだった。
しかし、ぎりぎりでなんとかカレーを作ることに成功し、
恵比寿は審査員に自分のカレーを提出することができた。
全てを出し尽くした恵比寿は、とても充実した表情に包まれていた。
暖かい拍手が恵比寿に向けられていた、
それは江崎グリ子からのものだった。
しかしそれは恵比寿の勘違いで、グリ子の拍手は大塚に向けられていたのであった。
だがその事を本人は知らないのだった。
結果発表の日が訪れた。
「おい恵比寿、とうとうこの日がやってきたな」
「うん」
「勝っても負けても文句なしだぜ」
「もちろんだよ」
結果発表。
大塚は見事1位で全国出場を果たし、恵比寿は落選した。
「恵比寿……」
「大塚くん……」
「お前にしちゃ、よく頑張ったよ」
「うん……でも次は負けないよ」
「これからもヨロシクな」
ここに奇妙ではあるが確かに友情は生まれた。
硬く握手を交わした二人にはそれ以上の言葉は必要なかった。
「恵比寿くん……あのね」
「江崎さん?」
グリ子が恵比寿に話しかけた、その顔はどこか赤い。
「先生に聞いたけど、二人で私を賭けて勝負したらしいわね」
「そうだよ、でも僕は負けちゃったんだ。だから君の事はもう」
「あのね、恵比寿くん」
「なんだい?」
「私ね、男の人の魅力って料理の上手さだけじゃないと思うの」
「え? どういう事?」
「カレーを作ってる恵比寿くんの姿とてもかっこよかったわ、私と付き合ってください」
「ほ、本当かい?」
「えぇ、これからもよろしくね。健太郎」
おわり。