『決して期待すまい』と自分に言い聞かせながら、今週も駅前へやってきた草汰だったが、予想外に由香は先週に続いて草汰の前に現れた。
時刻は4時過ぎ。
傾きかけた夕陽に照らされた顔は、今日も笑みをたたえている。
「今日も来ちゃった。」
買い物帰りなのかビニール袋を両手にぶら下げた由香は、Tシャツに薄手のジャケット、細身のパンツといった格好だ。
そのジャケットは草汰も好きなブランドのものだった。
男物だろうか、肩幅が少し余っている。
「またあの曲、聴かせてくれる?」
由香がしゃがみながら言う。
「あ、はい、もちろん。」
思わずぼうっとしてしまっていた草汰は、慌ててギターを抱え直した。
いつの間にか喉がカラカラになっている。
若干声がひっくり返りながらも、草汰はリクエストの曲を歌った。
「んー、やっぱり良い曲。」
胸の前で小さく拍手をしながら、由香はうんうんと頷いた。
「ありがとうございます。」
「いえいえこちらこそ。」
頭を下げる草汰に、由香も小さく頭を下げる。
「さ、また来るね。」
急に立ち上がる由香につられて草汰も立ち上がる。
立って並ぶとずいぶん身長差がある。
頭一つ分以上違うだろう。
「びっくりした。」
「ご、ごめんなさい。」
「もう、急に立つんだもん。創くん、背高いねぇ。」
由香が草汰を見上げる様に話す。
初めて出会った頃は、そんなに身長は変わらなかったと思う。
こんなところにも時間の流れを感じた。
「もう、帰られますか?」
「え?うん。ご飯、作らないと。」
「そっか…」
『期待しない』の誓いは何処へやら、草汰は心から落ち込んだ。
何だかひどく別れ難かった。
「また、来るから。」
由香は少し困った様に笑うと、草汰の顔を覗き込んだ。
肌が綺麗だな、と草汰は思った。
「来週も、いますから。」
「うん、またね。来れたら来るから。」
「はい…」
肩を落とす草汰に小さく手を振り、由香は家路へとついた。
(落ち込み過ぎだろう…)
『まだまだだな』と、草汰は自分を笑った。
その後も由香は二週に一度くらい、多いときは三週連続で草汰のもとを訪れた。
曲も聴かず、二言三言話して帰る事もあれば、あれこれ話してから帰る事もあった。
話す内容は家族の事がほとんどだった。
それを草汰は少し寂しく思ったが、家族との出来事を話す由香は本当に幸せそうな笑顔だったので、反面嬉しくもあった。
二度三度と会ううちに、季節は過ぎ、いつの間にかすっかり風は冬の匂いに変わっていた。
最近はギターを弾く指がかじかみ、続けて何曲も演奏するのが辛い。
一年の終わりも近く、街も何処か慌ただしい雰囲気だ。
先月までは、多い時では四人五人と立ち止まって歌を聴いてくれたものだが、先週くらいからは皆足早に通り過ぎて行く。
ここ三週ほど、由香の顔を見ていない。
年末という事もあって、何かと忙しいのだろう。
極力寂しがらないように努めて、草汰は歌をうたった。
最近は時々オリジナルの曲もやるようになった。
学生の頃を思い出す。
あの頃は未来に対して漠然とした、でも確かな希望があった。
最近はどうだろうか?
草汰はぼんやりと空を見上げた。
今日は雲が多い。
『雨が降らないといいな』と思った。
この路上で歌い始めて数ヶ月、雨に降られた事は一度も無かった。
「今日はおしまい?」
声をかけられ視線を下げる。
久しぶりの、由香の姿がそこにあった。
茶色のロングコートの襟を立てて寒そうにしている。
心なしか笑顔も曇っている気がした。
時刻はまだ昼を過ぎたばかり。
由香が来るのはいつも夕方であったから、『珍しいな』と草汰は思った。
「隣、座っていい?」
「え?あ、はい。」
そう言って由香は草汰の左隣、道端の花壇の縁に腰掛けた。
初めての事だった。
急な接近に、草汰は情け無いほど動揺する。
「今日、寒いねぇ。」
「…はい。」
「あんまり寒くていっぱい着て来ちゃった。着膨れるの嫌いなんだけどね。」
「…はい。」
目が合わせられず、『これではいけない』と思いつつもそっけない返事になってしまう。
意を決して草汰は由香の方を向いた。
うつむき気味の由香の顔には、いつもの笑顔が無かった。
「何か…ありましたか?」
思わず口に出た。
由香はそれにはこたえず、小さく笑って、伸びをする様に上を向いた。
「創くん、自分の事、大人だって思う?」
「え?」
突然の質問に草汰は頭が真っ白になる。
今日はずっと慌てている気がした。
「あたしね、もうこんなおばさんなのに、まだ大人だって胸張って言えないわ。」
由香は草汰の返事を待たずに話を続けた。
「年をとって、色んな事も経験して、子供だっているわ。でも、どこかで自信が無いのよ。大人だって。」
「…それはわかります。僕も、年齢的には大人ですけど、まだまだ未熟なところばかりで…」
「あたしも。」
由香が草汰の方に向き直り、小さく笑う。
寂しげな笑顔だ。
「『これであなたは大人です』っていう、明確なゴールって無いじゃない?二十歳になれば大人だって法律で決まってても、テストがあるわけじゃ無いしね。」
「はい。」
「小さい頃は大人が用意した世界の中で『人生とはこんなものだ』『人間とはこういうものだ』って学んだわ。体も勝手に成長していくし、毎日学校があって色んな事を勉強して、知識が増えていく実感もあった。」
「はい。」
表情から本心を探ろうと、草汰は由香の顔を見つめたが、その寂しげな笑顔からは何もうかがえなかった。
「でも、実際に大人って言われる年齢になって思ったの。『あたしは本当に大人なの?』って。今あたしが二十歳ぐらいの子を見ても、まだまだ子供だなって思うの。でも法律上は大人でしょう?」
「そう、ですね。」
「大人って、何なのかしらね。」
由香が大きく息を吐く。
白い溜め息はすぐに冬の空気に溶けていった。
草汰は何も言えず黙ってしまった。
「今は、毎日書き換えられていく新しい童話の世界で、ありもしない寓意を探している気分。『もっと大人にならなきゃ』って気持ちはあるんだけど、実際、もうすっかり大人なのよね。」
自嘲気味に由香が笑う。
何も言えないでいる自分が、草汰は嫌になった。
「ごめんね、勝手にべらべら喋っちゃって。」
そう言って由香は立ち上がった。
「いえ…何も言えなくて…すいません。」
「困らせちゃってごめんね。別にね、何かあったわけじゃないのよ?ちょっとだけ元気が出ない、そんな日ってあるわよね。」
「はい…」
誤魔化す様に明るく話す由香を、草汰は哀しく思った。
せめて歌をうたってあげたかったが、声が上手く出せない。
ギターを抱えたままの指先も、すっかり冷えて動きそうに無かった。
「また、来るね。」
「あの…」
草汰は慌てて立ち上がり、立ち去ろうとする由香を呼び止めた。
「なぁに?」
「こんな僕で良かったら…もし何かあったら…いや、何もなくても…相談、してくださいね。」
「…ありがとう。」
草汰の言葉に、由香はいつもと同じ笑顔でこたえた。
遠ざかる由香を見送りながら、草汰は自分の中に、何かひとつの決意が固まるのを感じていた。