「あたし、お母さんにあなたの事、話したの。」
「…え?」
驚いて草汰はうつむいていた顔を上げた。
綾子は笑顔のまま、草汰を真っ直ぐ見つめている。
「ゆ…お母さんに、僕の事を?」
「うん。そう。先月、かな。」
「そ、そっか…」
「うん。お母さん、すっかり元気にはなったんだけど、時々すごく不安そうな顔してたから。だからね、いつか話そうと思ってたんだ。」
穏やかな口調で話す綾子だったが、草汰はいてもたってもいられずに目を逸らした。
(え?どうして?気付いてたって事なのか?)
草汰の頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになる。
(僕は…まだ話していないのに。何で?)
「あのね。」
少し大きな声で、綾子はまた話し始めた。
草汰も逸らした目を綾子に戻す。
「お母さん、この近くの海辺で見つかったの。最初は記憶が混乱してて、それで身元が分からなかったらしいんだけどね。」
「そう…」
「あなたも、ほら、この場所にいて、記憶が無かったでしょ?だから、何か関係あるのかなって、思ってたの。」
「…ごめん。」
草汰は情け無さと申し訳無さから素直に頭を下げた。
消えてしまいたい気分だった。
「ううん。いいのよ、謝らないで。」
綾子は草汰の頬を両手でそっと挟むと、そのままゆっくりと顔を上げさせた。
「いいの。」
「…お母さんは、何て?」
「うん…あたしが『海でこんな男の人に会った』って言ったら、お母さん泣き出しちゃってね。『ごめんなさい』って。」
「そっか…」
「でね、『その人は無事だったの?』って言うから、あたし『うん』って言ったの。お母さん、すごい安心したみたい。」
「それで?」
「それだけよ。」
「それだけ?」
「うん。」
綾子はゆっくりとうなづいた。
真剣な、真っ直ぐとした瞳だった。
『話そう』
草汰は決心した。
「たぶん、もうわかってるんだろうけど…僕が君のお母さんを、連れ出したんだ。」
「うん。」
「やましい事は、誓って何もしてないよ。」
「うん。」
「ただ、君のお母さん…由香さんが、落ち込んでるみたいだったから。」
「うん、うん。」
「だから…」
「ありがとう。」
いつの間にか泣きながら話していた草汰に、綾子はハンカチを差し出した。
草汰は急に恥ずかしくなって、小さく手を振りそれを断った。
「ありがとう、なんて…そんな、僕は…」
「ううん。ありがとう、だよ。」
そう言って綾子は岩の上に立ち上がった。
草汰はそれを見上げる。
眩しくて、綾子の顔が見えなかった。
「あたしずっと、お父さんもお母さんも、大人は自分の事で悩んだりしないって思ってた。うちの家族は仲良しで、不満なんて何も無いって。」
「ごめん…」
「だから、何であなたが謝るのよ。」
すっと綾子が腰を屈める。
急に顔が近くなり、草汰は少しドキッとした。
「でも、お母さんは悩んでたのね。あたし、考えもしなかった。子供だったの。」
「子供、か…」
自分の方がよっぽど子供だと、草汰は思った。
「お母さんがいなくなって、あたし、本当にびっくりしたの。『なんで?どうして?』って。」
「うん。」
「だって、思い当たる理由が何も無かったんだもん。」
「うん。」
「だから色々考えたわ。実は今までの幸せ全てが、嘘だったんじゃないかなんて考えたりね。」
「そんな事、無いよ。」
「そうね。でもあの時は考えたの。」
寂しそうに、そして照れくさそうに綾子が笑う。
「…お母さんが見つかったって聞いた時、あたし最初はいなくなった理由を聞きたいって思ったの。でもね、実際お母さんに会ったらそんなのどうでも良くなっちゃった。」
「そっか。」
「うん。でね、何となくわかったの。大人も悩んだり、不安になったりするんだなって。誰にも言えず、ごまかして、悩んだりするんだなって。」
「何となく?」
「そう、何となく。んー、うまく説明できないね。」
綾子はもどかしそうに頭をかいた。
草汰はわかったようなわからないような気分だった。
「ごめんね、上手く話せなくて。」
「ううん、何となくわかるよ。」
「…それって褒めてるの?」
意地悪そうに綾子は草汰をにらんだ。
「褒めてるんだよ。」
「ふうん。まあ、良いけど。」
そう言って綾子はまた岩の上に腰掛けた。
会話が途切れる。
日差しが痛い。
草汰は、太陽の光が自分の体を通り抜けて行ってる様な気がした。
「ありがとうね。」
「うん?」
先に口を開いたのは綾子だった。
「ありがと。」
「どうして?」
「気付かせてくれて。」
「…僕こそ、ありがとう。」
また会話が途切れる。
綾子の表情が暗い。
何かを悩んでいる様だった。
「あの…」
「あのね。」
心配になって草汰が声をかけようとすると同時に、綾子が声を上げた。
少し大きめのトーンが、無理をしてる様に感じた。
「あのね…」
「うん?」
「あたし…あなたと…」
綾子が何かを言いかけて、うつむいて言葉を飲み込んだ。
けれどすぐに決心した様に顔を上げる。
その目にはうっすらと、涙が浮かんでいた。
「あたし、この夏、あなたと会ったの初めてじゃないわ。」
「…え?」
言葉の意味がわからず、草汰は口を開けたまま固まる。
綾子の目から、ぽろぽろと涙が零れた。
「先週も、あなた『久しぶり』って。」
「…嘘だ。そんなわけ無いよ。」
「ううん。だからあたし、今日こそはちゃんとバイバイしなきゃって…この前は、お母さんの話とかも出来なかったから…」
そう言って、綾子はわっと泣き出してしまった。
(先週も僕と会っただって?そんな事…)
草汰は先週の自分を思い出そうとした。
しかし思い出せるのは、綾子と出会ったあの日と、それより前の事ばかりだ。
(どういう事だよ…まさか、僕は…)
「ごめんなさい…」
綾子が震える声で言う。
その声に草汰ははっとなる。
(ああ…駄目じゃないか…)
草汰は綾子の肩をそっと抱き寄せた。
(…僕の事なんて、どうでも良いじゃないか。)
不安は一瞬で吹き飛んだ。
もしかしたら、もうずっと気付いていたのかも知れない。
「僕はね。」
優しく綾子をなだめながら、草汰は独り言の様に話し始めた。
「僕は、君たち親子を、君が子供の頃から知ってたんだ。」
「…ほんとう?」
綾子が顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになっている。
「うん。僕は、君たちの笑顔が大好きだった。だから、それを守りたかった。」
まだぽろぽろと涙を流しながら、綾子は草汰を見つめていた。
草汰も目線を合わせる。
綾子の顔が滲んで見える。
「哀しい思いをさせてごめん。」
「ううん。ありがとう…」
「ありがとう。」
草汰は綾子の涙をそっと拭った。
その後を慌てて、綾子は照れくさそうに拭う。
「大人になったね。ほんと、別人みたいだって思った。」
「あなたのおかげよ。」
「ありがとう。」
綾子の手をそっと握り、草汰はゆっくりと立ち上がった。
つられて綾子も立ち上がる。
「…もう、お別れ?」
「その方が、良いみたいだ。」
「どうして?」
「僕の役目はもう終わった。それに、僕も君に負けない様に、成長しなくっちゃ。」
草汰が綾子の手を放す。
その手を綾子がつかんだ。
「あの…」
「また、一からやり直してみるよ。」
「うん…」
「さ。」
つかまれているのと反対の手で、草汰は綾子の手を放させた。
「…『またね』?」
「…そうだね、『またね』が良いね。次は、ちゃんと胸張って。」
草汰が笑う。
綾子も笑った。
「またね。」
ふいの風に、綾子の白いワンピースがなびく。
まるで、天使の様だと、草汰は思った。
潮騒と幽霊 完