少女は冬の海にいた。
岩だらけの海岸には少女以外誰の姿もなく、ただ波の音だけが規則的に鳴っていた。
ここにきた理由は…たぶん無い。
何となく家にいたくなくて、何となく海に行くのが相応しく思ったからだ。
しかし実際海に着いてみると、まったく陳腐な思い付きだったと、少女は苦笑した。
ざ………ざ………
時刻は午後4時過ぎ。
思いつくままに電車を乗り継ぎ、ぐるぐると遠回りをしたせいで、本来なら30分もあれば着くはずのこの海まで2時間もかかってしまった。
ざ………ざ………
冷たい潮風が少女の髪を乱す。
すぐに帰ろうかとも思ったが、とりあえず少し歩いてみることにした。
後ろ手に組んで、少女は波打ち際を歩き始めた。
まだ青い空に、月がやけに眩しい。
(そういえば今日は満月だったっけ…)
ざ………ざ………
時計を家に置いてきてしまっていたので、正確な時間はわからなかったが、
五分ほど歩いたところで、少女は向こうの方にある人影に気づいた。
(あれ…人?なに、してるんだろう…)
ゆっくり近づくと、その人影は男であることがわかった。
男は岩の上に腰かけ、ぼんやりと考え事をしているようだ。
(どう…したのかな…)
男の服はびしょぬれで、どうやら靴も片方無いらしい。
シャツにはところどころ血のようなものも滲んでいる。
「…大丈夫ですか?」
あと数歩のところまで近づき、少女は恐る恐る男に声をかけた。
しかし男は聞こえなかったのか、まったくの無反応である。
(ちょっと、怖いな…)
少女はそう思ったが、心配な気持ちの方が大きく、また恐る恐る声をかけた。
「あの…大丈夫ですか?」
「…え?」
ようやく気付いたのか、男は顔をあげて少女の方へと向いた。
歳は二十代後半か三十代前半くらい。
少し茶色がかった長髪がぬれて顔に張り付いて、まるでお化けみたいだと少女は思った。
「あ…あの、どうかしましたか?」
「え…あ…いや、僕は…」
男はあわてて、ぬれた髪を右手でかき上げる。
「怪我、してるようですけど…どうされました?」
「ああ、いや、うん大丈夫だよ。それより、き、君の方こそこんな所でどうしたの?一人?」
「え?あ、あたしは…別に…」
突然質問を返されて少女は驚いてしまった。
ざ………ざ………
「あのさ…」
静寂の後、先に口を開いたのは男の方だった。
「…はい?」
「よかったら、少し、話し相手になってくれないかな?」
「え?あの、あたし…ですか?」
「う、うん。少しでいいからさ。」
「えっと…」
正直、少女は男に声をかけたことを後悔していた。
何かされるのではないか、裏があるのではないかという恐怖を感じていた。
「あの…それより病院に行った方が…」
「あ…うん…そうだね。ごめん…」
少女の言葉に男はまたうなだれてしまった。
その様子があまりにも残念そうなので、少女は少し申し訳ない気持ちになった。
「あの…」
2歩ほど後ろへ下がってから、少女は再び男に声をかけた。
「あの…何かあったんですか?」
男は顔をあげ、再び少女の方を向く。
「え?あ…いや、どうも、海に落ちてしまったみたいでね。」
「どこから?」
「どこ…?…高い、高いとこから、かな。」
「高いところから落ちたんですか?」
「え?うん、そう、高いところからね。」
ざ………ざ………
「あ、あのさ。君の、名前は?」
「名前…ですか?」
また唐突な男の問いに、少女は落としていた視線を男に戻す。
よく見ると、男は背も高く、なかなかかっこ良い。
「アヤ…綾子です。」
「アヤ…ちゃんか。」
男は一瞬驚いたような顔をすると、急に黙ってしまった。
ざ………ざ………
「あの…あたしの名前が、どうかしましたか?」
「え?いや、何となく聞いたことがある気がしてね。」
「よくある、名前ですから。」
「そう…そうだね。」
ハハ、と男は笑う。
ざ………ざ………
「あの…」
「え?」
「あの、あなたは?」
「僕?僕の、名前?」
「はい。」
男は何故かとても困ったような顔をすると、手を口に当て何かを考え始めた。
ざ………ざ………
「あの…」
「…幽霊。」
「え?」
「僕は…」
ざ………ざ………
「幽霊だ。」
さっきより傾いた陽が、海を、二人を赤く染め始めている。