「海にいるのは人魚では無い。」
「え?」
アヤがぽつりと呟いた言葉に、男は見上げていた視線を落とした。
「知らない?中原中也。」
「知らないな。」
「オンガクカの癖に。」
「きっと…専門じゃないんだ。」
「ふーん。そうだよね、船頭さんかも知れないんだもんね。」
言ってアヤは笑う。
そしてうーんと背伸びをした。
パキっと小さく骨が鳴る。
「『海にいるのは人魚では無いのです、あれは、波ばかり』ちょっと間違ってるかも知れないけど。」
「それが?」
「うん?何かね、海見てたら思い出したんだ。」
「そっか…」
ざ………ざ………
「ほんとね。」
「何が?」
「波、ばかり。人魚なんて、全然見えない。」
「まあ…ねえ…」
「幸せみたいね。」
「幸せ?」
「そう、幸せ。日常の波間に幸せって人魚をさがしても、いつも、波ばかり。」
「ああ…」
ざ………ざ………
「でも。」
男は不意に立ち上がった。
思っていたよりも背が高い。
「急にどうしたの?」
「ほら、こうやって見たら見つかるかもしれない。」
「何が?」
「人魚さ。」
アヤもよいしょと立ち上がる。
月明かりに海はきらきらと煌めいていた。
「…ほんとだ。」
「え?」
「いるかも、人魚。」
ざ………ざ………
ざ………ざ………
「座ろっか。」
「うん、そうだね。」
男に促され、再びアヤは岩に腰を下ろした。
ひんやりとした岩の感触を、不思議と心地よく感じた。
「今、何時かしらね。」
「さあ…僕は、ちょっとわからないけど…」
「そうよね。」
「帰りたくなった?」
「え?」
アヤは意外そうに男の方へ向き直る。
直視したアヤの顔に、男は何だか照れくさくなる。
「ほら、話をしてても、退屈だろうし、帰りたくなったかなって。」
「そんな事無いわ。けっこう楽しいもん。」
「そ、そう?」
「うん。こんなに人と話したの久しぶりだしね。」
「そうなの?」
「うん。お父さんもお母さんもいないし、誰に聞いたのか、友達もお母さんがいなくなっちゃったの知ってるみたいでさ、何か、変な距離感じるんだよね。」
「そっか…恋人とかは、いないの?」
「…それ、セクハラだよ。」
「ご、ごめん。」
ハハっとアヤは明るく笑った。
「恋人はいないなあ。恋はしてみたいけどね。」
「そっか…」
「うん。それにこんなに男の人と話したの初めてだよ。」
「そ、そっか。」
「さっきから『そっか』ばっかり。」
「ご、ごめん。」
ざ………ざ………
「まださ、出会ってたぶん1時間か2時間くらいだけどさ。」
「うん?」
「最初は、けっこう怖かったんだけどね。」
「怖かった?」
「当り前でしょ?でもね、今は不思議と大丈夫。」
「そっか…ありがとう。」
「また『そっか』だ。」
「ごめん…」
ざ………ざ………
「もう少し、おしゃべりしよっか。」
「…ありがとう。」
男はずっと胸にあった巨大な不安が、いつの間にか抱え切れる程度の大きさになっているのに気付いた。
『僕も…怖かったんだ。』という言葉と、こぼれそうになった涙を呑み込んで、男は空を見上げた。
月がかかっている。
よく見ると、満月を少し過ぎているようだ。
さっきから月を見るたびに、何かを思い出しそうな気がする。
何か、大切な事を…
「…って、ねえ。」
「え?」
アヤに呼ばれて男は視線を戻した。
「今、聞いてなかったでしょ?」
「あ、ごめん。なに?」
「もう言わない。」
「教えてよ。」
「いやよ、恥ずかしいもん。」
「恥ずかしい事?」
「ないしょ。」
ざ………ざ………
「…あたし、けっこう、寂しかったんだ。」
「え?」
「また聞いてなかった?」
「…ないしょ。」
「もう!」
ずっと向こうに船の明かりが見える。
帰る船か、往く船か、それはわからなかったけれど…