グレネードで木っ端微塵になって死亡し、死後の世界に到着したアッシュが始めに思ったこと。それは、
「これ何かの間違いじゃねぇのか」
……であった。
地獄
アッシュが死んでから、一週間目の朝。
生前は狭くて汚いボロ家に相棒のノアと二人で住んでいたが、目覚めた部屋はその倍は広かった。
天蓋付きのキングサイズベッドを独り占めである。床一面を覆いつくす絨毯なんて、生きてる内に見たことも無かった。
起きればすぐに控えていたメイドが着替えを手に取り、着せてこようとしてくる。
その手を振り払い、アッシュは皺一つ無い灰のスーツを渋い顔で纏い部屋を出る。
窓から陽光が差し込むダイニングには、朝食にしては豪勢すぎるフレンチが並んでいた。
ワインを一口飲む。やや酸味が強くて苦く、その中に僅かな甘みが舌を転がり、芳醇な香りが鼻を抜けていく。
肉のソテーをナイフで切ってそのまま刺し、口に入れる。マナーなど知らないし知ったことではない。
一噛みで染み出る肉汁が、口一杯に広がる。とろける様に柔らかい肉そのものと絡み合って、自然と喉を滑っていった。
美味い。この世のものとは思えない美味さだ。
当然だ、ここはあの世もあの世、天国なのだから。
「今日から貴方はここで過ごしてもらいます」
そう言った女の、それも豊満な肉体をした天使に対してアッシュは、
「お前俺を誰だと勘違いしているんだ?」
と質問してしまう。
つい言ってしまった後に、(しまった。勘違いさせたままにしておけばよかった)と後悔するアッシュ。天使は笑顔で答えた。
「アッシュ様ですよね。本名はアッシュ・ギアランドですが、貴方本人は孤児のため自分の苗字をお知りになってない」
アッシュは死んでから初めて知った自分の本名にも驚いたが、何かの間違いでない事にも大いに驚いた。
何せアッシュは悪党も悪党、悪いことなら全てやってきたような犯罪者の鏡だったのだ。
殺した人の数なんていちいち覚えてもいない。アッシュが天国へ行けるなら、地獄行きの人間などいないだろう。
そのくらい、アッシュはこの場所に不釣合いであった。
「なぁ、別にあんたらの判断に異を唱えるわけじゃねぇが聞かせて欲しい。何で俺は天国送りになったんだ?」
その質問に、天使は待ってましたと言わんばかりに説明を始めた。まるで、何人も同じ質問をしたかのようにスムーズに。
「はい。何十年か前に、あの世の人権団体が『凶悪犯罪者に更正のチャンスを!』と唱えるデモがありましてね。
悪いのは本人のせいでは無く、環境のせいで悪くなってしまったんだと言う風潮から、凶悪犯罪者は天国の中でも最高級の楽園へ招待することになったんです。
実際、悪人とされていた人の多くは家庭や周囲の環境に問題があった人ばかりでした。死んだ後まで酷い環境なんて可哀想じゃないですか。なので死後のカリキュラムを」
「なるほど、大体わかった。もういい」
放っておいたらずっと喋り続けそうな勢いなので、アッシュは説明を打ち切らせた。
「で? ここは法律とかは無いのか? 何をしてもいいのか?」
「はい。ここは楽園。何でもあるし、何でもできます。危険は全くありません」
なら今すぐこの間抜け面した天使をひん剥いて犯してやろうか。
とも考えたが、用心深いアッシュはしばらく様子を見る事にした。
この女はそう言うが、ここはあの世。何が起こるかはわからない。
うまそうな事を言い、調子に乗って何かしでかしたらすぐに捕まって地獄行き……なんて事もありえる。
「ふーんわかった。とりあえず、これから俺は何処へ向かえばいい?」
案内された豪邸が強盗の目標ではなく自分の家だと知ったとき、アッシュは開いた口が塞がらなかった。
それから一週間。アッシュは天国をこれ以上無いほどに堪能した。
出される飯は一級品、ビンテージ物の酒はプールに注いで泳げるほどに有り余っていて、声をかければ絶世の美女達が股を開く。
何でもあったし、何でもできた。
ここは正に天国。ここなら、この環境なら、確かに人生をやり直せる。
そう思っていた。
「どうです、ここは? お気に召しましたか?」
変わらぬ笑顔で尋ねる天使に対し、アッシュは言った。
「ここには、本当に何でもあるのか?」
「はい、ございます! アッシュ様が望むなら、どんなものでも一流品を揃えてみせます! 食べ物も、お酒も、服も、車も、家も、地位も名誉も、女の子だって!」
満面の笑みで得意気に言う天使。
「じゃあ食いたいものがあるんだが」
「はい、何でしょう!」
だがその顔は、アッシュの言葉によって固まった。
「ブルー・コアのマスターが作った、安っぽい油を使ってベタベタのギトギトになった、あのマズいナポリタンはあるかい?」
「……え? ……えーっと……その材料とレシピがわかれば……再現できないことも……ないとは思います……けど」
予想外の注文に面食らった天使は、しどろもどろの様子で曖昧な返事をする。
「そうかい。じゃ、メチルアルコールを濾過したかのような刺激が鼻にくる、明らかに健康に悪いウォッカは?」
「そ、そんな物ありませんよ! ここにあるのはどれもこれも一流品、健康に悪いものや美味しくないものなんてございませんし、あったとしてもお出しできません!」
慌てて前言を撤回する天使に、アッシュはくくっと笑った。
「ははっ、そうかそうか。やっぱりな。おかしいと思ってたんだよ。ここには極悪人が来るはずなのにさ、最後に死んだ俺だけしかいねぇ。
ノアにチェイスにドレッズにジョーカーにカマ野郎のヒューリー。それに太っちょのアラン、クソったれクリプスにマスターのブレン、ウェイトレスのビッキー。
誰一人いねぇ。……あの極悪人どもはどうした? どこへ行った?」
「ええと……その人達は、前はいたんですけど……」
「当ててやるよ。地獄に堕ちたんだろう? それも、自分から」
「!」
アッシュの発言に、天使が震えて押し黙る。
アッシュはそれを、肯定と捉えた。
隠し持っていた包丁を突きつけ、天使を睨んで凄む。
「俺をそこへ連れて行け。なんならそこら辺の奴ら全員ぶっ殺して、それにお前の目をくり貫いてペニスをぶち込んでやってもいいんだぜ?
何でもしていいっつったが、天国の環境で人格が変わらないなら地獄に行くしかねーよな? どうする? 俺としては余計な手間は取りたくないが」
慌てた天使に役所に連れられ、エレベーターで地下へと進む。
途中すれ違った偉そうな中年天使に「またか」と言いたげなため息を吐かれた。
最下層のB20階で止まったエレベーターから暗い廊下を進み、一つの部屋を開錠して。
地獄へ堕ちる穴が、眼前に広がっている。
「お前、あいつらの事知ってたんだろ? 俺がこうするとは思わなかったのか?」
「い、いえ……私は新米なので、貴方のお仲間さん達とは直接会ったことはありません。
貴方は用心深い方なので一人でいきなり暴れたりはしないだろうし、愛想のいいお前なら大丈夫だろう、って言われたので……」
「……ノアとは物心ついた時からの仲だ。一番古い記憶は奴とゴミ箱で残飯を漁っていた」
半泣きで言う天使に対し、アッシュは一人語り始める。
「盗みも殺しも、何をするにもあいつとは一緒だったな。俺が計画を立ててあいつが行動する。分け前が少ないってほざいていつも喧嘩になったもんだぜ。
あのチビいっつも俺に悪態ついてるくせによ、最期は俺を庇って死にやがった。バカじゃねーのか。
チェイスは俺達のリーダーだ。ギャング相手に取引したり殴りこんだりする度胸があって、分が悪くなるとすぐに引っ込んじまう。
なんだかんだでみんな頼りにしてたが、待ち伏せしてた敵に撃たれてあっさり死んじまいやがった。
ドレッズのアホはどっから手に入れたのかダイナマイトをいつも持って来ててよ。煙草吸うから危ねーっつってんのにこれ見よがしに見せ付けてきやがる。
ギャングとの抗争で身体に巻きつけて『ひゃひゃひゃ、これで撃てねぇだろ!』って突撃して脳天撃ち抜かれた時は笑おうか呆れようか迷ったもんだ。
ジョーカーはヤクで脳がイカレてたが、まあ面白い奴だった。
キメすぎて死ぬ間際に突然マトモになって先に事故で死んだ妻や子供に謝りやがって、後味悪いったらなかったぜ。
ヒューリーはゲイだって事を除けば割かしマトモなやつだったな。
と思ったけどアッシュを殺ったギャングのボスのケツ掘りに行って一人で半分くらいぶっ殺してたわ。敵に回らないでよかった。結局自分のケツに鉛玉入れられちまったけどな。
クリプスのクソ野郎は情報屋の癖によく裏切って俺達を売ろうとしてたな。情報屋だからか。
金があったから殺されないで済んだあいつが空き巣に入られて無一文になった時は哀れすぎて笑ったぜ。誰からも信用されずにのたれ死んでたっけな。いいザマだ。
ブルー・コアのマスター、ブレン。麻薬売買を仕切ってたが、俺にとっちゃいい奴だった。
ノアがヘマして入院しちまったせいで金もねぇ、腹が減りすぎて強盗もできねぇ。そんな死にかけの状態で水を頼んだら、何も言わず飯と酒を出してくれた。
くっそまずくてそのまま死にそうになったが、うますぎて涙が出てきた。あれ以上の料理は、こんなとこじゃ出ねぇよ。
ツケを払うつもりはあったんだが、その前に死んじまうとはな。礼も言えずじまいだ。
ウェイトレスのビッキー。いいケツしてるが、触ろうもんなら酒瓶で頭ぶん殴られるのがブルー・コアの常識だった。
太っちょのアランが頭カチ割られて死にかけたのを根に持って、すぐそこの家まで帰る間に部下と輪姦したらしい。
最初はひどく暴れたものの、そのうち抵抗しなくなって喘ぎ出した事に調子づいたらしく、『あれは俺の女だ!』と豪語してた。
が、呼び出されたビッキーに咥えたペニスを噛み千切られ、頭を酒瓶で割られた上に火を付けられ丸焼きにされ、部下の座るテーブルに
『肉料理お待ちのお客様ー』
と置かれたのを見た時は、あの女には手を出さないでおこうと思ったもんよ。抗争に巻き込まれて、ブレンに告白もできずにおっ死んじまったけどな」
そこで一旦切って、アッシュは天使に向き直る。
「なあ。ここには何がある? 何もねぇよ。
望めば何でも手に入る。食い物も、酒も、服も、車も、家も、地位も名誉も、女も。何もしなくてもだ。
俺は生きていた頃、金持ちになって毎日贅沢するのが夢だった。
あんなド底辺でドンパチやって一日一日をなんとか生き伸びなくてもいい。
ここで過ごすような、何一つ不自由無く、何でも思い通りになる。そんな暮らしを夢見てた。
でもわかったんだ。そんなもんには何の価値もねぇ。
勝負もせずに、何も賭けずに、動物園のブタのように与えられて生きていくだけの人生は、死んでるのと同じだ。
もっとも、もう死んでるんだがな……ひょっとして、これが罰なのか? だとしたら、全く皮肉が利きすぎてるぜ」
何も言い返せない天使を横目に、アッシュは穴へと歩を進む。一歩。また一歩。
「……貴方も自ら進んで地獄に堕ちるのですか?」
アッシュはニンマリと微笑んで、その暗闇へと飛び込んだ。
「違うね。地獄から抜け出すのさ」
「いてて……どこだここ」
何年も落ち続けたような気もするし、一瞬だったような気もする。
アッシュが落ちてきた所は、どこかで見たような酒場だった。
テーブルを挟んで、派手なドンパチをやらかしている。相手は……
「……鬼? 悪魔か?」
「おう何してやがった、遅ぇぞアッシュ!!」
ノアの叫び声に、チェイスが反応する。
「アッシュか、いい所に来た! ほら使え」
と言っていかにも粗悪品といった様子のピストルを投げ渡す。
「何やってんだお前ら……」
呆れたアッシュに、ブレンが笑う。
「奴らバカだからイカサマに気付かなかったのさ。チェイスがボロを出しちまって、奴さん鬼みたいになっちまった」
「なったと言うか元々鬼か何かの類だろ」
「アーーーッシュッ!! 私のかわいいアッシュ! 会いに来てくれたのねぇん!」
「あらアッシュ、久しぶりじゃない」
「やっぱりお前がいないとしまんねェよなァ!?」
「フフフハハハハ! 我が盟友よ、久しいではないか! 共に奴らを蹂躙しようぞ!」
ヒューリーにビッキー、ドレッズにジョーカーもそこで銃を乱射していた。
「クリプスのクソったれは?」
「とっくの昔に裏切って向こう側だ!」
「ファッティ・アランは?」
「さっき私が誤射したわ」
「一日三回は誤射してるじゃねーか」
「クックック……ハッハッハッハッハ……!! 変わってねぇなぁ! 何もかも!!」
アッシュは腹の底から笑い、ピストルを握り締め銃撃戦に参加した。
――ここはなかなか、住み心地が良さそうだ。