天ノ雀――アマノジャク――
10.負け犬
呼吸ができなかった。なぜって息をするどころではなかったからだ。
赤くなり、青ざめていく天馬の顔色を見て雨宮がけらけら笑った。
「やっぱりおまえは面白いな。それでこそ、いじめ甲斐があるってもんだ」
「――――」
畳の上に眠り転がる戦死者たちの身体を、長い足で乱暴に蹴りのけながら、雨宮が芳野が座っていた対面へ腰を下ろした。
ふぁさっと中身の無い左腕の袖が翻る。
天馬は顔を雨宮に向けたまま、横目でにやついている白垣に視線を送る。
(どういうことだ、なんてこいつがここに……)
「僕が呼んだんだよ」と天馬の心を読んだようなタイミングで、白垣がいった。
「雨宮が君に会いたがってたんでね、僕が人肌脱いで感動の再会をセッティングしてあげたのさ」
「なんで……」天馬がごくっと生唾を飲み込んだ。
「おまえが、こいつと連絡取れるんだよ……こいつは、こいつは」
「だって雨宮は君に負けて人権を剥奪された、かい」
頬杖をついた雨宮が愉快そうに頬を緩めて二人を眺めている。烈香は黙り込んだまま牌をいじっていた。
「雨宮はね、馬場、君に負けた後、自分の力で他人の人権を奪ったんだよ。だから今、こうして自由に振舞ってる」
「どうしてそんなことを――」
「知ってるに決まってる。だって」
苦しげに眉をひそめて、白垣は笑った。
「GGS-NETのボスは、僕の親父だからな」
「――――」
「驚かせてばかりで悪いね。でも仕方ない、事実だから」
白垣が指し示した指にしたがって、天馬が顔を動かした。
「烈香もね、実はGGS経由で雇った代打ちなんだ。だから三村から身を守れなかった。いつもジャッジが守ってくれてたからね」
「俺も知ったときは泡を食ったぜ」と雨宮がいった。
「だが、まァ、どうでもいいじゃねえか。誰が何、なんてこたァな。大切なのは」
ひょいと摘んだ牌を卓に烈しく打ちつけ、振動が天馬の心臓までびりびりと揺るがした。
「俺とおまえがここにいるってことだ――そう思うだろ? おまえも」
天馬は身を固くしたまま、何もいわなかった。
そんな彼を置き去りにするように、卓に散っていた牌を雨宮が流し込み、新しいヤマが競りあがってきた。
数え切れぬほど見てきた光景が、その時、天馬には生々しく思えた。
「場所はこのままでいいな。ちょうど俺が天馬の対面だし、お誂え向きだ。上家の姉さん、名前なんていうんだ」
「おまえに名乗る名前はない――」と烈香は冷たい視線を向けた。
「死に損ないの負け犬が」
一触即発、の雰囲気になるかと思いきや雨宮はカカカと笑った。
「ごめんよ、ホントは知ってたんだ。さっき白垣がいってたからな。烈香ってんだろ。よろしく、サムライ姉ちゃん」
無視して配牌を取り始めた烈香を雨宮は好ましく思ったらしい。しげしげと眺め回す。
「ふうん、ナギサにちょっと似てるな。あいつが博打打ちになってたら、こんな風だったのかな」
「ナギサ?」
「天馬の妹だよ。――ところで天馬」
びくっと天馬の身体が震えた。
「起家だぜ。さっさと振れよ」
白垣に取ってもらった配牌、十四枚が天馬の手元に伏せられたまま、起こされる時を待っていた。
東一局はさらっと雨宮が三本五本をアガった。白垣がへええ、と息を漏らした。
「君、マンガン以下もアガることがあるんだね」
「当たり前だ。さっと流すこともあらァ。親は俺だけのもんだからな」
ああ、そうだ、と雨宮が東二局の頭にいった。
「レートだがな、面倒だから、オールインにしよう。トップ家がここにある金、そのすべてをまるかきだ」
それを聞いて烈香の眼が瑞々しく輝き始めた。打牌の速度が加速する。
「その上で、天馬、サシウマといこうぜ」
「サシウマ……オールインなのにか……?」
「ああ」
「額は……」
「一億に決まってるだろ、俺たちの博打なんだから」
「冗談いわないでくれよ、負けたら払えないよ」
「男なら負けてから払い方を考えろ。――おや、またツモだ。ハハハ、悪いな、二千、四千!」
「――次の半荘にしようよ。途中から言い出すなんて卑怯だぜ」
聞き取りがたい声で、ようやっと天馬はそういった。
その顔面は蒼白で、いまにも倒れこみそうなほどの衰弱を見せている。わずか二局の間で、もう何度も、牌を取りこぼしていた。
雨宮は、烈香から受け取った五千点棒を残った右腕でバキンとへし折った。
「――次なんかねえよ。死んだら終わりだ。負けても終わりだ。それが俺とおまえの関係なんだ。おい、白垣、隣の卓から五千点棒もってこい」
僕はメイドじゃないぞゥ、とぶつくさいいながら、白垣が五千点棒を取りに立った。
対面の親、雨宮がリーチをかけている。
まだ三順だ。安全牌は少ない。
天馬はぐっと拳を握り締めて、身のうちから湧いてくる怯えを消そうと尽力したが、今度は肩が震え始めた。
(早いリーチだ。ヤミテンでアガれる手ならリーチとくるだろうか。
ピンフのみ? ありうる。それなら二九、裏が乗って五八。
しかし、ドラは五萬、ピンフのみならドラを引いての手変わりや三色を目指すんじゃないだろうか。
もう手役やドラ引きが済んでいてマンガン以上ならヤミにするだろう。
では字牌単騎、即引っ掛け?
リーチ宣言牌の六索の筋は切れない。字牌も切れない。数牌も切れない。
適当に切るわけにもいかない、一発がまだ消えてない。
どうすればいい。
南単騎?
なぜそう思う。ああ、そうか、昔あいつのダブルリーチが南単騎だったからか。
また同じ待ち?
まさか。いやそのまさかがありうる。それがギャンブルだ。それが勝負だ。
わかってる。わかってるんだ――)
タッ、と天馬は打牌した。その指がそろそろと離れていく。南。
「ロン――」
雨宮の声は、昔と変わらず澄み通っていた。
「リーチ一発チートイツ。裏はないか、調子悪いな。九千六百」
上家の白垣がひょいっと天馬の手を覗き込んで、うわあと悲哀の声をあげた。
「かわいそうに。安全牌がひとつもない。まァ、僕でもそれを打つよ。仕方ない」
「てめえ白垣――」と天馬は恨みがましい顔つきになった。
「謀りやがって」
「なんてこというんだ。せっかく幼馴染と会わせてあげたのに。感謝してほしいくらいだよ」
いけね、パンをくわえてくればよかったなァ、と雨宮が茶々を入れる。
「それにね、馬場、君は友達は作らないんだろ? だったら僕を味方だと思うのは筋違いだぜ」
「味方だなんて思ってねえ、でも」
「じゃあ文句はいっちゃアカンな。耐えたまえ、耐えることこそ麻雀の奥義なり、ってね」
天馬はぐうの音も出なかった。
東三局一本場、烈香がタンヤオ赤赤をさらりとツモ上がった。
千、二千の一本づけ。
天馬が穴七索を食わせてしまった次の順で、ピアノ待ち三面張をツモったので、雨宮がすねたように口をすぼめた。
「絶好の箇所を鳴かせやがって、バカ野郎」
「し、仕方ねえ、だろ……」
ああ、やばい、と天馬は思った。
点棒の話ではない。そんなもの、どうでもいい。
呼吸が苦しい。窓を開けたい。だがそんな簡単なことが言い出せない。自分から相手に働きかける、その勇気が湧いてこない。
どうしたことだろう、天馬の心から一切のポジティブな面が消失してしまっていた。
残ったのは骸のような暗く重い痛みだけだ。
昔に戻っていた。何もできなかった頃に。
たったひとりの登場によって、天馬はこの三ヶ月間で築き上げてきたあらゆるものを喪失していた。
そして、彼をそこまで動揺させられる人間もまた、この世にたったひとりしかいなかった。
雨宮秀一は落ち着いた、それでいて鋭さを失っていない表情で三家を均等に見渡している。そこに侮りは欠片もない。
その視線の動きは、かつてあの嶋あやめや、この三日間で烈香や進藤が見せていたものと同じ軌道をなぞっていた。
勝負師の目つきだ。自分が憧れていたもの、まさにそれだ。
東四局、天馬はトイツっていた白を第一打で切り飛ばした。
ポン、と雨宮が発声する。
王牌を見ると、ドラ表示牌に中が開かれている。
誰かが仕組んだのかと思った。そんなわけはない。
自分の手も、ドラも、何もかもわからない。劣等感でどんどん正しい判断ができなくなっていく。
泣きたくなった。本当に、どうしてしまったのだろう。
その局は雨宮が白ドラ3をやすやすとツモあがって終わった。
やけに視界がぐるぐるすると思ったら、いつの間にか天馬は眼を回していたのだった。
人から嫌われる、その才能に長けていた。けれどもしかしたら自分は、思いやりとか、無償の愛とか、そういったものを扱う才能がなかったのかもしれない。
どちらでもいい、と天馬は思った。
狭い箱庭に閉じ込められていた頃、天馬にとって、社会とは雨宮のことだった。
彼以外の人間は徹底して天馬を無視したし、いじめようとさえしない者の方が多かった。
だから、仮にどんな虐待を受けようとも、人と接する機会は雨宮と、彼に従う取り巻きたちとの時間だけだったのだ。
なぜだろう。天馬は、ちゃんとしようと思っていたのだ。
人から嫌われまい、と努力して生きていたのだ。
だが、功を奏さない。
少し抜けていて、とんでもないポカをする者が愛嬌として許され、ほんのちょっとしたミスで、天馬はこの世のものならざるような目つきを向けられる。
どうしてだろう。どこに差異があるのだろう。
天馬はずっと疑問だった。
おまえの第一印象は最悪だ、とかつて、誰にいわれたのだったか、そんな言葉をぶつけられたことがある。
どうしろというのだろう。
ただ、そこにいるだけで、どうして嫌われなくてはならないのだろう。せめて知らない人として、他人らしい扱いをしてほしかった。
人間らしく暮らしたい。天馬は心の最奥で、ずっとそう思ってきた。
人間らしさ、とはなんだろう。平和、とはなんだろう。
もう何もわからない。ただ、疲れていた。
「ロン。――起きてるか、天馬」
「うん――」
「八千点だ。残ってるか」
「あるよ」雨宮に点棒を投げやりに渡す。
(俺の完敗だよ、雨宮。降参だ。おまえはすげえよ。
おまえの顔を見ただけで、俺ァ、なにもできなくなっちまった。
なんでだろう。こんなはずじゃなかったのに――)
だが、こうも思う。
いじめられていたにせよ、どんなに苦しかろうと、あの頃の方が、自分は人間らしかったのではないだろうか。
生きていく上で必要のない勝負、それをするのはもはや生き物じゃない。
化け物だ。
自分は化け物じゃなかった。それだけのことだ。化け物の素質がなかった。
もし、素質があったら、どう生きていけたのだろう。
この、雨宮の登場でさえ、武者震いして喜んだろうか。
嶋あやめだったら、そうしたのだろうか。
南一局、天馬の親番が終わった。