天ノ雀――アマノジャク――
14.田舎に泊まろう! Gamblers Ver.
ごとん、ごとん、と列車の規則正しい揺れがカガミの肩を揺らしていた。
昨日の夜に出発し、途中ホテルで一泊し、気が乗らなかったためか昼まで寝過ごし、それから切符を買って新しい列車に乗ったものの、いまだ目的地には辿りつかない。
ずっとこのまま、どこにもいかなければいい。観覧車のように。
カガミは、四人が向かい合えるボックス席の窓を開けた。夏のむわっとした暑気が流れ込み、彼女の髪を洗う。
父親に、夏は家に戻ってくるように連絡を受けたのが一週間前。
あれやこれやとつべこべ言って引き伸ばしていたが、逆鱗に触れる前に大人しく言うことを聞くことにした。
故郷の風は彼女の心をひどく繊細にさせてしまうだけのものだったので、なんの郷愁もありはしないが、今の暮らしを粉々にされてしまうよりはいい。
あのまま逆らい続けていれば、いつかの朝、マンション下のゴミ捨てに級友の死骸が叩き込まれていてもおかしくはなかった。
彼女の父、加賀見虎太郎は暗殺を生業としているのだから。
もっとも今は副業の賭博協会の仕事がほとんどではあったが、時折本業に精を出すこともある。
その際に、自慢の娘を助手として率いることも。
科学が発達するまで、加賀見の家は武術と詐術を駆使した、肉体と精神を鍛錬によって強化するタイプの、さほど珍しくない一族だった。
もし百年前に生まれていたら、カガミは今よりも少しだけ楽だったろう。
窓に燦々と太陽が熱射を浴びせている。白い手を透かすと、掌に橙色の点が宿った。
その手は、カガミの意思によって常人の何十倍もの力を発揮することができる。
カガミの祖父――虎太郎の実父が戦中の人体実験で成功させた秘術だという。
だがカガミはそんなことに興味はない。ルーツも、原因も、どうでもいい。
重要なのは、自分が人間ではない、という一点なのだった。
人間は、膨れ上がった身体に満ち溢れる膂力で人を殴り殺したりしない。そうせよと実父に命令されたりもしない。
それは化け物の所業だ。だからカガミは、自分も、父も、人間とは思えなかった。それが薄幸の十六年間で培われた彼女のコンプレックス。
人間ではない、と薄い唇が呟いた。自嘲気味な笑みが浮かぶ。
蝉が鳴いている。
到着した駅の看板は、文字がかすれてとても読めなかったが、どうやら誰も塗り直そうとはしないらしい。
また訪れるものはほとんど旅人ではないので、わざわざ名乗る必要もないのだ。
駅員のいない改札を抜けると、広大な草原が広がっていた。風が渡るたびにする潮騒に似た音を聞き、カガミは顔を伏せた。
戻ってきてしまった。帰りたくもない故郷に。
このまま逃げ出してしまいたい、そう思いながら地面と磁場を発生させている足を引きずり引きずり、カガミは人気のない道を歩き始めた。
道の先に、小さな山が見えた。実家はその山のふもとにある。
その土の下には、たくさんの同胞のなきがらが埋まっているはずだった。
誘拐してきた子どもを実験、改造し戦闘人間に仕立て上げ、闘わせる。それが虎太郎の使命であり唯一の趣味だった。
「闘いというのは――」虎太郎は父親らしい親しみのある笑みをいつも浮かべていた。
「とても生物らしいことだ。愛する、憎む、ということも大きな感情の流れではあるが、それは実は重要じゃない。
なぜって、命を賭けてる間、誰もなにも考えないからだ。
君は無心になれるかい、空奈?」
「いいえ、なれません」幼いカガミは答えた。今と変わらぬ大きな、それでいてどこか儚げな瞳で父を見上げて。
「そうだろう。闘いは、私たちを何も考えない状態……空にしてくれる。闘いだけだ。
それ以外は、休息や充足に過ぎない。無ではないんだ。
私はそれが、腹立たしい」
集めた子どもたち、そして実の娘を、彼は争わせた。
このことに関しても、彼はいつも息子たちの恨みがましい目線を受けつつはっきりとした解答を与えた。
「古い話だが――毒虫をぞっとするほど集め、壷に入れる風習があった。なぜだかわかるかね、空奈」
「いいえ、わかりません」少し背の伸びたカガミは答えた。
「ふむ――狭い壷に押し込められた毒虫たちは、自然の摂理に従い、争い殺しあう。お互いの全力と猛毒をもってね。
そして最後に生き残った虫は、特別な虫だ。たったひとりの生存者には、生き残っただけの理由と強さがある。その虫を昔の人は呪いに用いたそうだ。
――どうだね、君は、最後の毒虫になれるかね?」
カガミはたったひとつだけ、確信していることがある。
生き残る、ということは、時として望まぬながらに達成されることである。
がんばれば報われる、という法則はエラーに過ぎない。
なぜって自分は、自分よりもきっともっと生きていたかったろう義兄弟たちの屍の上に立っているからだ。
実家の門が見えてくる。大きな観音開きのその門を見ただけで、カガミは燃え盛る太陽のことを忘れた。
だが、そのゆっくりとした足取りは、一度止まり、それから駆け出さんばかりに速まっていった。
門に辿りつくと、戸惑ったように止まった。
カガミは、何か言おうとするように口を開けたが、結局言葉にならなかった。ただ、驚愕によって、いつも涼しげな瞳がわずかに大きく開いていた。
「よう、カガミ、遅かったなァ。待ちくたびれて、干からびちゃったぞ」
雨宮秀一は、背広の上着を肩に担いで、石段の上に座っていた。
夏の甘い風が吹き、空っぽの左袖が揺れる。
「どうし……て……」やっとそれだけ言葉になった。
雨宮は手うちわでパタパタ顔を仰いでいた。
「いろいろあってね……ま、なんとか生き残ったわけだ。大変だったんだぜ。まったく、おかげで左腕がなくなっちまった」
雨宮が立ち上がると、カガミは無意識のうちに一歩引いた。
「何をしているんです、こんなところで――復讐ですか、それなら」
「勘違いするなよ。俺は別に恨んじゃいねえさ。たぶんね」
「質問にちゃんと答えてください。でないと――」
「ご自慢の腕で俺の首をねじ切るって?」
端整な顔に浮かんだ薄気味悪い笑みを見、カガミはそうする直前まで激情に駆られたが、なんとかそれを冷ました。
「俺は今晩から始まる、おまえんちの盆に参加しようと思っただけよ」
「盆――?」
そこでカガミは父の仕事を思い出した。
虎太郎は、家にばくち打ちたちを呼んで時折賭場を設えることがあった。
種目はポーカー、チンチロ、手ホンビキ、そして――麻雀。
それに雨宮は参加しに来たのだという。得意げに胸を張っているのが、カガミのカンにいちいち触った。
「天馬に素寒貧にされたくせに、生意気です」
「あれ? おかしいな、おまえそんなツンツンしてたっけ?」
「あなたが嫌いなだけです」
「すげぇショックだ」雨宮は笑った。
「せっかくお土産を大急ぎで持ってきたっていうのによ、おまえが遅れてるから、俺らのが先に着いちまった」
「……俺ら?」
いいから入ろうぜ、と雨宮は乱暴に門を足で開けた。
「もう中で、麦茶を飲んでるよ。俺はおまえの出迎え役だったんだ」
カガミ家に執事、メイド、お手伝い、それに準ずる共同生活者は存在しない。
虎太郎ひとりが、広すぎる武家屋敷を管理している。
あの『蟲毒の儀』がカガミの代以降も続けられていれば、もう少し賑やかだったのかもしれない。一時的に、だったろうが。
数ある客間のうち、比較的小さな一室の襖に手をかけ、雨宮が振り返った。
「驚くなよ」
「もう予想はついてます」
ふふん、と雨宮は鼻を鳴らして戸を開けた。
テーブルに肘を乗せた天馬が、よ、と手を挙げた。これは想定内。まぬけ面に腹が立つ。
カガミはあえて無視してその隣で抹茶アイスクリームを食べている大柄な男を凝視した。
――実父の虎太郎だ。人好きのよい笑顔で娘を出迎える父をカガミは無視し、さらにその隣を見て、硬直した。
「やあ――」と挨拶してきた見覚えのない少女をカガミは睨む。
「誰ですか」
「さあ、誰だろうね――」少女は天馬を見やる。天馬は雨宮を見る。虎太郎は笑っている。雨宮は天馬を見る。
天馬は張り倒された。
「はっはっは――」虎太郎はひたすら笑っている。
「よく帰ってきたね、空奈。父さんは嬉しいよ。おまえ、春から一度も帰ってこないんだから――ゴールデンウィークも戻れないくらい高校とは忙しいところなのかね、馬場くん」
「どうですかね、そうでもないと思いますが」
首を傾げる天馬をカガミは睨んだ。天馬は怯む。
ヒバリという名の少女について、カガミは、雨宮の友人という紹介を受けたものの、まだ納得いっていないことだらけだったので苛立ちは収まらなかった。
「お父さん――」カガミは、父上という呼び方を躊躇った。
「私には状況がよく読みこめないんですが」
「よくもなにも」虎太郎は皿の隅にこびりついた抹茶アイスをかき集めている。
「おまえの友達が遊びに来てくれたんじゃないか。もっとも雨宮の坊ちゃんは、私にとっても馴染みの方だけどね」
「だから坊ちゃんはやめろってんだよ」雨宮がむっと顔をしかめた。
「友達……」カガミは天馬を見やった。遠い眼差しで明後日を見ている。
「空奈、おまえも友達を作るようになったんだなァ。父さんは嬉しいよ。――そういうわけで皆さん、広いばかりで何もない家ですが、ゆっくりくつろいでください。
そうそう、坊ちゃんは前にも一度、来たことがありましたっけね? 勝手はわかりますか?」
カガミが風を切るような勢いで雨宮を振り返った。そんなことは知らなかった。
雨宮が、うちに来たことがある?
「おう。ま、楽しくやらせてもらうぜ、お父さん」
雨宮がにやにや笑っている。虎太郎は出て行った。
「話し合いを始めましょう」
カガミが上座に座っている。反対側に三人は正座させられていた。
「なんで僕まで正座なんて……足が痺れちゃうよ」
「お黙りください」
「それなんて敬語? ちーっとも敬意が僕には感じられないんだけど?」
びりびりとヒバリとカガミの間で火花が散る。天馬と雨宮はこっそり足を崩した。
「そんな難しい話じゃないよ」雨宮が言った。
「俺と天馬は、つまり、仲直りしたんだ。な、そうだろ?」
「違う」天馬はすねたように言い返した。「行き先が同じだっただけだ」
「――だ、そうだ。まァ何でもいいや。それより、おまえこそ天馬に黙って里帰りなんて可哀相じゃないか。
こいつはおまえがいないと夜も眠れないんだぜ」
「……それは……父に会わせるわけにいくわけがないじゃないですか」
「なぜ。天馬はおっさんと上手くやってたように見えたが」
それがカガミにも不思議だった。
カガミが高校に通っているのは、嶋あやめの、一種の悪戯に等しい企みのせいであり、まったく虎太郎にとってメリットがない。
娘の学友に出くわそうものならバラバラに切り刻んで死体の河に打牌してしまうような男なのだ、彼女の父親は。
そのはずだったのに――。
あの穏やかな父の態度を思い出し、カガミはぶるっと身体を震わせた。
「――あの父にも気まぐれなところがあった、ということでしょう。私が知るものですか。とにかく、その」
三人に言葉を待たれ、カガミはしどろもどろになった。
「しばらく、あの、いるんですか、うちに。本当に?」
「俺はいる。生活費を稼がないとな。天馬も打つか? 金なら貸すぜ」
「俺は打たない」
天馬は無表情だった。誰かの個性が乗り移ったかのようだ。
「でも、ま、その、なんだ。帰るのも、かったるいしな。いいんなら、泊まってく。おまえがいいっていうなら」
天馬はカガミを上目遣いに見やった。
ふう、とため息をつき、カガミが緊張をほぐそうとした時。
「ま、僕の答えは決まってるけどね」とヒバリが言い出した。
「ほう、では、あなたの答えとは?」カガミが問う。
「天馬についてくだけさ」
いとしいカガミに悲しげな瞳を向けられ、天馬はヒバリを蹴倒した。
「誤解されるようなことを言うんじゃねえ、このスットコドッコイッ!!」
「えぇーでもぉーえぇー」ヒバリはにやにやしている。愉快犯の笑みだ。
天馬はそれからしばらく、地獄のような暑さとカガミの視線に耐えながら、ヒバリの頭のおかしさを熱弁する羽目になった。
だが、カガミはそのほとんどを聞いてはいなかった。
慌てふためき汗だくになっている天馬の身体越しに、二人の奇妙な闖入者に懐疑の視線を送る。
二人はそっくりな顔つきをしていた。精神の兄妹のように――。
彼らには何か企みがあるのだろう。では、天馬はそれを知っているのか知らないのか。
知っているなら、どうして教えてくれないのか。
それでも、カガミは天馬を疑おうとは思わなかった。
疑ってしまうことは、とても簡単だと知っていたから。