クロ電話ノ鳴ル処
彼方の黒い夢の中
もう一度、電話が鳴った。警戒しつつ、再び手に取る。
『信也か。ワシだ』
「じーちゃん……」
馴染みのある声に、両肩から力が抜けていく。
『昨日入れておいた留守電、聞いたか?』
「留守電?」
そんな履歴などはなかった。言いかけて、誰の仕業であるのか思い浮かんだ。
「……いや、昨日は早く寝たし、今日も起きたばっかで気がつかなかった。わりぃ」
『まぁいい。それより美津子のことなんだがな、やはり家に電話をかけてはおらんそうだ。脅かすつもりはないが、昨日、家でなにか変わったことはなかったか?』
「いや、別になにも」
『そうか』
余計なことを言ったところで、じーちゃんを混乱させるだけだ。クロの存在は十年間、俺にしか見えなかったのだから。
『今日の昼には家に帰るからの』
「俺はいつも通り学校だけどな。じゃあ、そろそろ支度するから切るぜ」
『うむ』
受話器を落とす。念のため、少し電話の前に立ちつくしていたが、三度目はなかった。
いつも通り、二階に戻って制服に着替え、鞄を持って一階に戻る。階段を往復するだけで、軽く息があがってしまう。体調は最悪に近づく一方だった。正直、横になって目を瞑っていたい。
「……くそ」
風邪薬を取りだし、余分な三錠を口に含んで、水で押し流した。大丈夫だと自分に言い聞かせて外に出た。
家の鍵を閉めたところで、誰の見送りもないことに気がつく。じーちゃんが家を開けることは滅多になかったし、クロに至っては十年間、変わらずこの家に在り続けていた。自分一人しかいないというのは初めてで、"置いていかれた"と感じてしまう。
「……ガキじゃねーんだから」
当たり前のことを自分に言い聞かせ、自転車に跨った。
「いってきます」
返事はやはり返ってこない。
学校前の坂道が辛い。風邪薬を飲んで家を出た時は、気合いを入れればどうにかなるだろと軽く考えていた。すぐに後悔した。
(……やべぇ)
咳き込む数は増えるし、頭痛はひどくなる一方だ。足元も地面を踏みつけている感覚がない。呼吸はぜぇぜぇと、病人のそれと変わらない。
(……これ、結構ヤバいんじゃねーか……)
重苦しい気分のなか、真っ先に浮かんだのはバイトのシフト表だった。今日は仕事がないので良かったが、明日にも尾を引くようなら、早めに連絡しないといけない。携帯を取りだしたところで思いだす。
(穴吹と、新しい携帯買いに行くんだったな……)
せっかく、部活を終えてからでも行くと言ってくれたのだから、キャンセルはしたくない。それに、あのメールを送ったのがクロであったことを、上手く誤魔化しつつ、伝えないといけない。考えつつ、携帯電話を操作しようとした時だった。
「よぉーす! おはよーさんっ!」
いきなり背中をぶっ叩かれた。危うく倒れそうになる身体をどうにか支える。妙なイントネーションで、バカみたいな明るい声と同時に、こんなことをしてくる知り合いは一人しかいない。
「……村田」
「おいおい信也、大丈夫かいなっ!」
「誰の、せいだと、思ってんだ」
「スマン。まさかそんなオーバーリアクションとられるとは思わんかってん。つーか、なんや調子悪そうやん」
「……平気だよ」
「そう言うなや。ほれ、自転車貸しぃ、代わりに押して上ったる」
「平気だっつってんだろ」
「さよか。相変わらず頑固モンやなぁ」
「誰が頑固者だ……」
じーちゃんならともかく、俺は別に頑固じゃない。
言い返そうとして、また両足がふらついた。
「信也、お前顔色悪すぎや。ソッコー保健室行った方がええで。マジで」
「……大丈夫だ、って……」
「どっから見ても大丈夫やないわ。ほれ、えぇから貸し」
半ば無理やり、ひったくるようにハンドルを奪われる。支えがなくなると、予想以上に足元がふらついた。それでも、鞄の重荷がなくなっただけで、随分と楽に感じた。
「わりぃ……」
「えぇって。気にすんなや」
風が吹けば飛ぶように軽い村田だが、他人の面倒見は人一倍いい奴だった。
「ほれほれ、頑張りや~。もうちょいで校門抜けるでー」
「……おぅ」
頭が上手く回らないまま、一言、二言、どうにか返事をするのが精一杯だ。自転車置き場について鍵をかけた時には、喉がカラカラに乾いていた。たまらず咳込むと、また視界がぐらりと揺れた。
「信也。お前今日は授業でんなや。うつされるのだけはゴメンやで」
「いや、せっかく来たんだから、一限ぐらいは出れる……マスクだけ、保健室から借りてくるから……」
「ホンマのホンマに、頑固モンやなぁ」
だから、俺はそんなんじゃない。
自分が無理をしているのは分かっているが、止まってなどいられない。そんな余裕はないんだ。進まなければ。前へ、前へ。ひたすらに、進むんだ。
目を覚まして、最初に視界に映ったのは、見慣れない白い天井だった。
「……」
記憶を手繰り寄せてみる。一時間目が終わったところまでは、どうにか思いだせた。しかしそれ以降の記憶がない。
「どこだここ……」
ひどく疲れていた。上体を起こすのも億劫で、身体を横向きにして天井から目線を外すと、部屋の窓が映った。その先には高校の正門付近の様子が見渡せた。陽は沈みかける直前といった様子で、夕暮れと夜の中間といったところ。窓から流れ込んでくる冷えた隙間風は、微かに消毒液の匂いを漂わせていた。
「ここ……保健室か?」
体調が悪くなり、ここに来たのだろうか。それとも、誰かが運んでくれたのか、思いだせない。保健室の教員も席を外しているようで、聞ける相手がいない。やることがなく、腕時計を見ると五時過ぎだった。上手く働かない頭の片隅で、授業が終わる時間だなと思った時だ。キン、コン、カン、コン。チャイムが鳴った。
にわかに辺りがざわつき始めた。授業が終わって教室から出てきた生徒の声が聞こえてくる。その間にどうにか上体を起こしたが、ベッドから降りるのは億劫に思えて、しばらくぼんやりしていた。壁の向こう側の廊下から、何人かの足音が聞こえてくる。軽いノックの音。ほぼ同時に扉が開いた。
「―――失礼しまぁす……って、先生居らんやないか」
「村田殿、少々声が大きすぎますぞ」
「うん、寝てるかもしれないんだから、静かにね」
聞きなれた三人の声。すぐに視界が重なった。そのうちの一人、どんな時でも変わらない調子の村田は、鞄を二つ持っていた。
「ありゃ、起きとったんか。残念やわぁ。せっかく額に、"肉"って書いたろ思っとったのに」
「なんでだよバカ野郎」
宙で指を動かし、文字を書く真似をしつつ、愉快そうに笑いながら近寄ってくる。
「だいぶ元気になったみたいやん。ほれ、お前の鞄」
「悪い、ありがとな」
「えぇって、気にすんなや。中にジャムパン入っとるけん、家帰ったらゆっくり食べや」
「またジャムパンかよ」
「糖分は身体にええんやでー」
「村田殿が言うと、妙に嘘っぽいですな」
「本当にねぇ」
「なんやねんお前ら。失礼なやっちゃなぁ」
「普段が普段だからさ」
「やかましーわ」
相変わらずのやりとりが、妙に落ち着いた。学生鞄をベッドの隅において、改めて三人の方に振り返る。
「一限目にでたことは覚えてるんだけどよ。俺、その後どうしたんだ」
「信也、覚えてないの?」
「……あー、あとが怖いでぇ……」
「左様でありますな」
三人分の溜息が重なる。一番絵になる法隆寺が、やはり絵になる仕草で言う。
「一限目が終了した時でありましたな。我々が号令で立ちあがった後、意識を失い倒れゆく信也殿を、咄嗟に穴吹嬢が受け止めたのですぞ。そうでなければ、床とキッスをしていたことでしょうな」
「……マジか」
「うん。穴吹さん凄く心配してたよ。後で謝っておいた方がいいね」
「わかった」
「ほんま、無茶ばっかしおってからに。あそこまで頑固やとは思わんかったで」
「だから俺は……」
「信也って、昔からそうなんだよねぇ」
「我が道を行くのは構いませんが、少し無理をしすぎでありますな」
言い返そうとした時だった。俺の意に反して、二人とも村田の言葉に頷いていた。続けて「はぁ、やれやれ」と、村田がわざとらしいリアクションを取る。ムカツク。
「穴吹の奴は、逆にそういうとこに惚れたんかもしれへんけどなぁ。せやかて、そんな態度ばっかやと、しまいには愛想つかされるで?」
「うん。僕も気をつけた方がいいと思う」
「失礼ながら、我も同意しておきましょう」
「……容赦ねぇな、お前ら……」
「友達ってえぇもんやろ?」
「うるせぇよ」
「それからもうちっと、周りの事信用してもえぇと思うんや。ほれ、今日の朝とか、自転車押したろって言うたら、最初断ったやん」
「あの時は、まだ大丈夫だったんだよ」
「せやからぁ~」
今度は珍しく苦笑する。
「そうだね。信也はもうちょっと、視野を広く持った方がいいかもね」
しかも続けて、さらりと、竜二が釘を刺してくる。
「自分のことになると、頑なになっちゃうんだよねぇ」
「一点を見つめると、他が目に入らなくなる性質でありますな」
「穴吹と一緒や。似たもん夫婦やで、ホンマ」
「なんだよ……」
ズバズバと、病人相手に言いたいこといいやがって。
眉をひそめた時、もう一度、保健室の扉をノックする音が聞こえてきた。たっぷり数秒待った後、「失礼します」と言って部屋に入ってくる。穴吹だった。
「――あっ、猪口っ!」
視線が交わるといつもの口調に戻る。それと同時に表情が和らいだ。花咲くように笑う。
「よかった、本当、よかった」
後ろ手で静かに扉を閉め、駆け寄ってきた。言ったら間違いなく怒るだろうが、忠実な子犬みたいだと思った。そして村田がもう一度、わざとらしい「はぁ、やれやれ」を繰り返す。
「ほな邪魔者は退散しますわ。ごゆっくりど~ぞ、お二人さ――ぐふっ!?」
言葉よりも先に手が出る穴吹の体質。笑顔で裏拳。村田の鼻面に命中し、尻持ちをついた両手を二人が掴む。引きずるようにして退散した。
*
「猪口、大丈夫? 熱下がった?」
「たぶんな。大分落ち着いた」
「びっくりしたよ。いきなり倒れるんだもん」
「さっき三人から聞いた。手間かけさせて悪かった」
「うぅん、大丈夫」
軽く頭を振って、穴吹が笑う。それを見て心臓の鼓動が少し早くなった。緊張している自分を感じると共に、反面、穴吹がいることの、安心感のようなものも感じていた。
「あれ、保健室の先生は?」
「俺が起きた時にはいなかった。まぁ、すぐ戻ってくるんじゃないか。それより穴吹は、今日も部活あるんだろ?」
「うん。これから行くよ。終わったら携帯買いに行く約束してたけど、ちょっと無理だね」
「大丈夫。風邪移さないように、マスクしとくから」
「なに言ってんの。私じゃなくて、自分の身体心配しなさいよねっ」
「だから、俺は大丈――」
言うと同時に裏拳が飛んできた。たいした威力はなかったが、完全に不意打ちで入ったので、軽くふらついた。眉を厳しく吊り上げた綺麗な顔が、胸に突き刺さる。
「自分の身体をなんだと思ってんの。もう、猪口の大丈夫は信用しないからねっ! ギリギリまで無茶したら、周りの方が迷惑するんだからっ! 絶対に無理しちゃダメっ!」
「……わりぃ」
結構、本気で怒っているらしかった。形の良い眉がハの字になっている。それなのに、居心地が悪い思いをするというよりは、むず痒い。自然と表情に笑みが浮かんでしまう。
「心配してくれたんだな」
「当たり前でしょっ! 次、大丈夫って言ったら、無理やりにでも病院に連れてくんだからねっ!」
直情的な視線。言ったことは曲げない、という意思がひしひし伝わってくる。
「バ、バカ言え! 病院なんか行ってたまるかっ! 第一、保険証とか持ってないだろお前っ!」
「……猪口、もしかして、病院嫌いなの?」
「嫌いだ」
胸に棘が突き刺さる気分。病院は嫌いだ。
大切なものを、なにもかも、なくしてしまった。
そのことに気がついた、最初の場所。
「へんなの」
穴吹がくすりと笑う。耐えきれないというように、穏やかに微笑んだ。その顔を見て、不思議と心が軽くなる。
「猪口、子供みたい」
「うるさいな」
穴吹はさらに表情を崩して、可笑しそうに笑った。
「よしよし」
「…………おい」
頭の上に掌が乗る。ゆっくり、ゆっくり。
「ふふ」
血が昇るのを感じた。恥ずかしい。気まずい。そう思うのに、なのに、胸の中では、彼女の掌が心地良いと感じていて、なにも出来ない。
「猪口は変なところで子供だよね。精一杯背伸びして、誰よりも一生懸命に頑張ってるんだね。そういうとこ、好き。でもね、身体は大事にしなきゃダメなんだから」
「……穴吹」
「うん?」
それ以上は何も言わなかった。何も聞かなかった。両腕を伸ばして彼女を抱きしめた。両腕のなかで、柔らかな彼女の全身が緊張するのが分かったが、それすらも、力を込めて閉じ込めた。
「好きだ」
今朝からずっと感じていた、得体の知れない喪失感が消えていく。ぽっかり空いてしまった胸の内が、満たされていく。
「……側にいて」
離したくない。離されたくない。失いたくない。独占したい。
誰にも渡さない。自分だけの物にしたい。永遠に。
「……どこにも、行くな」
綺麗な感情と、薄汚いエゴが混じり合う。
結局は自分を押しつけているだけだとわかっている。それでも手放せない。
「……猪口……」
ふっ、と少しだけ距離が空く。優しく潤んだ瞳が、そっと閉ざされた。応えるように、背に回した片手だけを外して、頬に添え、
―――ちょっと男子! 見えないっ! 見えないってばっ!!
―――おい! 押すなよっ! 絶対に押すなよっっっ!!
―――えっ、なにそれ、前フリ?
―――んなわけあるかボケェ……うお、うおお、うおおおおおっ!?
どんがらがっしゃん。
保健室の扉が盛大に開かれた。村田を含め、クラスメイトの男子連中が勢いよく崩れ落ちてきた。その後ろには同じく、見慣れた顔の女子達が固まっている。
「なにしやがるバカ女子!! もう少しだったのにっ!!」
「えぇー、ちょっとぉ、私達のせいにしないでよぉー」
「くそぅ、学校の保健室で蜜月などという、素晴らしく卑猥な理想郷を見逃してしまったではないかぁー! せっかく保健室の先公を遠ざけておいたというのに……っ!!」
「目ぇ瞑った時の優花、すっごく艶っぽかったぁー」
「だよね、だよね。私、まだドキドキしてるよぅ~!」
「くぅ~! 俺も女とあんなことやこんなことしたいぜっっ!」
なんだこれ。
当人である俺達を置いて、入口付近で、勝手に盛り上がるクラスの連中。完全に強張って身体が動かない俺に対して、すぅっと、立ち上がる穴吹。
「……どこから、見てたの?」
ぴたり、と騒がしい空気が一瞬で制止。
穴吹の横顔。微塵も熱を感じさせない笑顔。
生命級の危機を察した男女一同。目線だけを交わらせて瞬時に判断。
「い、いやぁ、ほら、なぁっ!?」
「う、うんっ! 私達もっ! 猪口君のこと心配だったんだよぅっ!」
「そうそう! 赤ずきんに食べられる子羊的な意味でっ!!」
「ウチの赤ずきんちゃん、最強だもんねー!?」
「そうそう! 肉食獣もビックリだぜ!」
『ねー!』『なー!』
「ふーん、そうなんだぁ。なに言ってるかよくわかんないけど。ふふ」
くすくす、笑う。
「猪口、ちょっと煩くするけど、ごめんね?」
「……あー、ほどほどに、な?」
「うん」
飛びきりの笑顔が返ってくる。
部活用の竹刀が姿を現す。どこから? いつの間に?
思わず背筋が寒くなる。次の瞬間。残像だけが見えていた。
「ひいいいいいいいぃぃぃ!?!?」
最初の犠牲者の悲鳴がたちあがり、そこから連鎖する地獄絵図。
一閃。瞬きすら許さぬ多段斬撃。
骨を絶ち、肉も絶つ。ついでに命もそこそこに絶つ。
一連の動作たるや、正に神業。
耳を塞いで阿鼻叫喚をやり過ごした。
改めて、穴吹優花という彼女の強さを、再認識した。
帰り道。まだ少し頭痛は残っているものの、家を出た時と比べると、体調はずっとマシだった。それよりも、学校をでてからずっと、一つの想いが胸中を占めていた。
(……俺って、まだガキなのかな……)
今更ながら、自分が十六歳なのだと考えた。周りの二倍、三倍生きた大人達は、揃って俺達のことを、まだまだ子供だと評価する。けれど俺自身は、十年の間に変わった、少しは強くなれたのだと信じていた。
『十年』
その単語がひたすらに、頭の中を巡っている。そして、十年間を共にすごしてきた存在も。
(クロ……)
弱い自分を思いだす。一人で黒電話を回し続けていた。大きな喪失感に耐えられず、世界を忌避していた。現実から逃げ続けていた。前に踏みだすことを諦めていた。
一度途切れてしまったこの世界。それを再び繋ぎあわせてくれたのは、やっぱりクロだったと思う。けれど今はもう、クロがいなくとも歩いて行ける。でもあいつはそうじゃなかった。
『……私には、貴方しかいないのです……』
クロのしたことは許せない。不当な力を使って、穴吹を脅したのもそうだし、じーちゃんを電話で騙したのもクロだろう。それでも、もう二度と、あんな力を使わないと約束すれば、また一緒に暮らすことが出来るだろうか。
(……無理だろ。俺から、切ったんだから)
クロはいらないと、あいつにそう言った。もう二度と十年前には戻りたくないのだと、不必要な物は捨てていくのだと、言い切った。
(俺は、この先もそうやって生きていくのか……?)
今は大切に思っている友人や、彼女や、家族を斬り捨てるのか。十年先には不要だと割り切って、追い求めるものを手にするために、今ある大切な物を手放していく。それは正しいのだろうか。
(……わかんねぇ……)
得るために捨てる。間違っていると思う明確な理由が浮かばない。俺達は日々、なにかを犠牲にして生きていることは、事実なのだから。
長々と自分の考えに浸っていた。気がつけば家のすぐ側だった。薄暗くなった狭い路地を曲がり、ぽつぽつ立ち並ぶ街灯の下。家の屋根が目に留まる。昨日と違って、窓には電気が点いていた。
「じーちゃん、帰ってんな」
自転車から降り、車のない車庫に自転車を停めて、鍵をかけた。鞄を持って、玄関へ向かった時だった。
「……あ、あの……」
家の前に誰かいた。視線が合う。見覚えのない、細身の、二十代ぐらいの女性だ。
「えっと……」
誰だろう。思いだそうとしてみるが、浮かんでこない。少なくとも自分の知り合いではないのか、尋ねてみる。
「祖父のお客様ですか?」
「……………………」
長い無言。俺が誰なのか確かめるように、じっと見つめてきた。その後に、黙って両手を胸元に添える。小さく頷いた。
「……猪口、信也さん……ですよね?」
どこか怯えたような眼差し。
不意に、なにかを思い出しかけた。
『――――嫌だ――――』
思いだすことを、拒否する。
単なる直感に過ぎないのに。明確に理解した。
頭のなかで警笛が鳴り響く。
『――――こっちを見るな――――』
一刻も早くこの場を離れたかった。なにもかも忘れて、家の中に逃げ帰りたい。だが両足が動かない。
「……私は……」
青ざめて、身体を震える。相手も同じだった。今にも泣きだしそうな表情で、懸命に唇を動かしていた。
キュルルルルル…………
脳裏に浮かぶ、黒電話。
小さなガキが回している。一心に、ダイヤルを回している。
あの一日を、忘れてしまいたくて。もう二度と思いだしたくない。
「わたくし、蒼野……失礼しました……旧名、須宮、美緒(すみや みお)と申します……」
「……ぁ」
彼女の口にした名前――正確には名字の方が、記憶のどこかにひっかかった。そうだった。俺は、この人を知っている。
忘れられる、はずがない。
心が悲鳴をあげる。逃げろ、逃げろ、逃げろと、鋭く叫ぶ。
耳を塞げ。今すぐにこの場を離れろ。これ以上、相手がなにかを口にする前に。あぁ、でも、ダメなんだ。もう、黒電話は壊れている。この世界から逃げる術はないんだよ。
「……私、私は、……」
言葉が詰まる。ひどく身体が震えている。
この人は、違う。十年前、違う。誰もが怒りの眼差しを向ける中、
やめろ。一人だけ、思い出すな。その男の側に縋りつき、よせ、
嫌だ。泣いて。終わらせて。叫んでいた。記憶。助けて。
『――――やめて、やめて、やめてっ!!!!』
血だまり。じーちゃんの拳も真っ赤に染まっていた。
『やめて!!! お父さんを殺さないで!!!!』
そうだ。またもう一人、死んでしまうのだと思っていた。
殴られ、殴られ、殴られまくっていた。
一切の感情を殺した、能面のような、無表情。
男を見下ろすその顔は、見慣れた祖父の顔。
殺してもいい、お前を殺したいのだと、無言で訴えていた。
「……貴方のご両親を殺した、父の、娘です……」
泣き腫らしている、お姉さん。
膨れ上がった血の塊のような顔の、おじさん。
葬儀の間中、頭を上げることはなかった。
なにが正しくて、なにが間違っているのか。
正義のヒーローは何処にいるんだろう。
本当に悪い奴は、誰だったんだろう。
答えが分からず、あの時、俺はこの世界から逃げだした。