Neetel Inside ニートノベル
表紙

外に出たらヒーローに任命された件
まとめて読む

見開き   最大化      

第一話 藤木幸助の備蓄 

 入学式から1ヶ月は経っただろうか。
「幸助ぇ、朝だよ。今日も高校に行かないのかい?降りておいで」
 俺の母である藤木良子の心配そうな声が、2階の鍵をかけた部屋の中で布団を被って虚空
を見つめている俺の鼓膜に響く。
「うるせぇババア!俺の勝手だろ!」
 虚空を睨みつけて俺は階段の下にいるであろう母に罵声を浴びせた。
 朝7時。普通の高校生ならば今頃高校に行くための支度をし、その30分後には家を出て学校
へ向かっていただろう。でも俺は一ヶ月間それをしていなかった。
 高校に登校するどころか水と菓子を大量に自分の部屋に「備蓄」し、部屋からは用を足す時
以外は出ていなかった。そう、俺は中学を卒業して以来誰が見ても立派な「ヒキコモリ」と化
していたのだ。
 
 中学時代には寝る間も惜しんで一心不乱に受験勉強に励んでいた。成績はいつも上位に位置
しており、俺が県内一の難関である公立光星高校に合格する事は家族や学校の皆に規定路線の
ように思われていた。しかしあろう事か見事に落第し、滑り止めの馬鹿でも入れる事で有名な
私立黄昏時(たそがれどき)高校に入学する破目になった。それは俺にとって耐え難い屈辱だ
った。
「畜生、畜生…!!」
 俺は喉から捻り出すように嗚咽を漏らした。あんな馬鹿ばかりが集まる高校に行くことなど
俺のプライドが許さない。だから俺のヒキコモリ生活は黄昏時高校の入学式の日から始まった。
誰とも会いたくないし、誰とも喋りたくなかった。
 
 外からは無邪気にはしゃぐ元気な子供の声が聞こえた。まるで今の鍵をかけた暗い部屋の中
で布団にくるまっている自分が馬鹿にされているような感覚を覚えた。
「黙れよ!」
 俺は憎しみを込めて怒鳴った。外ではしゃいでいた子供の声がピタリと止んだ。多分壁を通
じて俺の怒声が外に聞こえたのだろう。

 俺はふと被っていた掛け布団を放り投げ、上体を起こし、部屋をおもむろに見回した。ベッ
ドの横の四足の木の台の上には、CDプレイヤーがいつでも聞けるように設置されている。
 朝の日差しが差し込んでくるであろう窓は薄いグレーのカーテンによって遮られ、そこから
淡い光がこぼれている。
 その光が向かいの壁の前に設置された縦長の鏡に反射し、体を捻ってその鏡を覗き込むと、
フケだらけのボサボサの長髪で、無精ひげの生えた顔をした、中肉中背の青いパジャマの上下
を着た男を写し出した。
 俺は嫌になってすぐに目を逸らした。逸らした先の壁にはスタイルのいい黒人女性歌手のポ
スターが貼られている。好きな洋楽の歌手のものだった。
 そしてその横には黄昏時高校の黒い制服が掛けてあった。俺が用を足していた時に母が掛け
たのだろう。相変わらず余計なことをする。
 ゴミ箱にはティッシュや菓子袋がこれ以上は入らないというほど詰め込まれ、溢れる寸前だ
った。カーペットが敷かれた床には食い散らかした菓子のクズや空きペットボトル、脱ぎ散ら
かした下着が散乱していた。
 今この部屋には食い物の腐臭と俺の体臭が立ち込めており、誰かが俺の部屋に入ったならそ
いつは顔をしかめて鼻をつまむであろう事は容易に想像できた。
 机はというと、勉強などする気分にはとてもなれないので、教科書等の学習用具は全て一ヶ
月前にダンボールに詰め込んで部屋の隅に放置したままだ。
 今は教科書の代わりにノートパソコンを開けたまま配置してある。毎晩電源を切らずに寝る
せいで、一時停止を示す小さいオレンジ色のランプがキーボードの左上でちまちまと点滅して
いた。
 引きこもってからというもの、外との接点はこのコンピューターだけだ。
 俺と仲良くしていた中学の友達も、俺が光星高校に落ちた途端に疎遠になった。人間関係な
んて脆いものだ。調子の良い時には笑顔で近づいてくるくせに落ち目になるとあっさり見捨て
る。そういう人の醜さも、俺が引きこもる原因の一つとなっていた。
「裏切られるのはもうごめんだ」
 俺は呟いた。
 中学時代には少しの埃も許さずに部屋を整理整頓していたのが嘘に思えるくらい、俺の部屋
と俺という人間は大きく様変わりしていた。

「腹が減ったな」
 俺はスチール製の机の一番下の大きな引き出しに大量に「備蓄」してあるポテトチップスの
中の一つを取り出そうと、ベッドから重い尻を持ち上げた。一歩床を踏みしめるたびに、床に
捨ててある菓子袋が潰れる音がカビ臭い空気が充満している部屋に響いた。
 引き出しを開けると、袋詰めのポテトチップス三つが俺の視界に飛び込んだ。一ヶ月もの間
この引き出しの「備蓄」に頼っていたこともあって、「備蓄」はもはやこの三袋のポテトチッ
プスを残すのみとなっていた。
 これでは今日でヒキコモリ生活が出来なくなってしまう。何故今まで気が付かなかったのだ
ろう。
「ちっ、どうせならケチらずに全貯金はたいて大量に買い込めばよかった。外になんか出たく
 ないのに…」
 俺はヒキコモリになるまでお年玉や小遣いの類はほとんど使わずに貯金していた。生来のケ
チな性格と、同年代の子供が欲しがる物に興味を示さなかったことも相まって、中学卒業の時
には30万は貯まっていた。
 そしてその貯金がとうとう16年の時を経て、俺が部屋に「篭城」する為の「備蓄」をコン
ビニで買うときに初めて使われたというわけだ。
 俺はポテトチップスの袋を手に取ると両手で包装を開いた。ビリリと袋が開く音がすると同
時に香ばしいジャガイモの香りが鼻の奥を刺激する。俺は朝飯代わりのポテチに噛り付いた。
 噛む度に砕けるポテチの心地良い食感が寝惚けている脳に響いた。齧る度にボロボロ床に落
ちる屑を気にも留めず、俺は袋を片手に、油にまみれた指でコンピューターの電源を入れた。
 巨大掲示板のニュース速報に載せられたニュース記事を確かめ、気になる記事にはコメント
を書き込むことがここ一ヶ月の俺の日課だった。

「はあ?また俺の近所で行方不明事件かよ」
 俺はあきれた声を出した。
 今日のニュース速報では巷を騒がせている「雪白市連続神隠し事件」が再びトップに来てい
た。俺の住む人口10万人に満たないこの雪白市ではここ一週間で4人が連続して行方不明に
なるという怪事件が起こっていた。この神隠しが怪事件といわれる所以は、本当に「消えてし
まう」ところにあった。
 例えば今回の事件に巻き込まれたとされる二人の大学生の男女は、消える直前まで雪白市の
とあるホテルに宿泊していた。ホテルの従業員が朝にシーツ交換に行ってもずっと鍵を掛けた
ままで応答がなく、フロントが彼らの部屋に電話を掛けても応答もしないので不審に思った従
業員がマスターキーで開けてみたところ、居るはずの男女は居らず、テレビは付けたままにな
っており、風呂のお湯も出したままになって溢れていたという。それ以降、その男女を見たも
のはいない。
 他の2人の神隠しにあった被害者も同じような消え方をしていた。最初は単なる行方不明事
件として扱っていた警察も、この行方不明事件の連続性に鑑み、何者かによる犯行と見て捜査
を開始した。それが2日前。
 
 雪白市内のみという局地的な犯行のため、犯人も同じく雪白市の人間の可能性が高いと動画
投稿サイトに上げられたニュースでアナウンサーが報道していた。
 被害者は今のところ幼い女児、中年の会社員、そして今日の20代の大学生の男女の四人で、
特に人から恨まれることの無い普通の人達だったらしい。
 犯人が残すはずの髪の毛等の物的証拠も皆無な上に、被害者が犯人に抵抗した跡もなく、被
害者全員が恨まれるいわれの無い一般人だったので警察の捜査は難航しているらしかった。
 だから今現在、雪白市民は意味不明の犯行を繰り返す犯人、もしくは犯人達に恐怖していた。
何せ「無差別」だ。普通の感覚だったら恐怖を感じるのが当たり前なのだろう。
 
 しかし、意外なことに俺はこの事件を一週間前に初めて知った時にはさして恐れも驚きもし
なかった。別に特段腹が据わっていたわけでもないし、俺が犯人なわけでもない。
 単に自殺者や精神病患者や失業者などの「負け組」が溢れるこの時代、気が狂った人間が量
産されることに違和感を感じなかっただけだ。
 気が狂った「負け組」が「負け組」を蹴落としていい気になっている「勝ち組」や、「勝ち
組」ではなくとも普通に暮らしている人間を逆恨みして襲う。至極明快な論理に思えた。
 何より、今の俺はその「負け組」に属しているのだ。被害者に対して同情の念が湧くどころ
か、加害者に感情移入する方が容易かった。
 それに、仮に今回の事件に犯人が存在したとしても、10万人の中の5人目の獲物に俺や俺
の家族が選ばれる確立なんて0に等しい。俺は単なる傍観者でいればいいと高をくくっていれ
た。
「最低だな。俺って」
 乾いた笑みを浮かべながら俺は最後のポテチの欠片を口の中に放り込んだ。そして口を動か
しつつ、パジャマに油まみれの指をこすり付けてから掲示板のコメントをマウスでスクロール
しながら閲覧した。

>犯人はこの中にいる(AA略
>雪白市いったことあるけど、陰気くさいところだった。
>天狗じゃ、天狗の仕業じゃ
>雪白市なんて消えてくれても何も困らない
>犯人は精神異常者だろJK
>おらぁ、犯人、もっとさらえや!本気出せ!

 都心に住んでいる奴らが多いのだろう。彼らにとって辺境扱いのこの県で起こった怪事件は、
単なる娯楽扱いだった。自分達の近所で同じような事件が起こったら、俺と違って大騒ぎする
くせに。所詮他人の不幸はそのまた別の他人の娯楽でしかないのだ。
 俺は無責任な書き込みばかりがゴミのように散乱している掲示板にブラインドタッチで書き
込んだ。

>お前らだって俺みたいに近所に住んでれば少しは気持ちが分かるさ。

「全然怖くなんかないんだけどね」
 俺は笑いながら画面を更新した。案の定くだらないコメントが俺の書き込みの下に連なった。

>地元民乙。死ねwwww
>特定したよw言い触らしてやろうか?ww
>雪白市は化外の地。書くでも落とされて消えろ
>ま~た工作員の分断工作かよいい加減に白や
>今雪白市の様子はどう?

 特定だって?笑わせるな。ネットの個人情報は警察や裁判所の命令以外では漏れる事は無い。
こういう悪質な奴が一番嫌いだ。

>特定?出来るモンならやってみろやヴォけwww

 俺は煽った。ムカつく奴は煽りまくって徹底的に論破するのがネット上での俺の流儀だ。俺
が一番ネットで面白いと思うのは、こういう馬鹿が論破された時に幼稚な本性をさらけ出すの
を見るときだ。そして論破した後も無様に自分の稚拙な自己弁護を書き込み続けるのを閲覧し
続けるのもネットの魅力の一つだと思う。
 俺は更新キーを押した。そして「特定した」とうそぶく奴のコメントが現れた。

>今日で備蓄が終わるんだろ?

 血の気が一気に引いた。何故こいつが「備蓄」のことを知っている?こ
いつは俺のコメントにアンカーを付けていることから、俺に対して返答しているのは明らかだ。
 急いで奴の初めのコメントのIDを確認した。同じIDだった。この家の近くに住んでいる人間
の嫌がらせか?いや違う!最初の俺のコメントがここに住んでいる俺のものであると証明でき
るものは何も無い。
 仮に俺のコメントだと分かったとして、どうして今朝まで俺ですら知らなかった机の引き出し
の「備蓄」が底をつく事を知っているんだ?そもそも自室に溜め込んだ菓子を「備蓄」と定義し
たのは俺であって、他人が知っているはずが無い。
 監視カメラ?馬鹿な!一介の男子高校生の部屋に監視カメラを設置するメリットなど無い。ス
トーカーされるほどもてる容姿でもない!
 中学の時の俺は成績優秀の人気者で、いじめられている奴にも優しくしていたし、不良連中と
も要領よく付き合っていた。だから中学時代の同級生の怨恨も考えられない!
 警察にお世話になるようなことも産まれて此の方やったことなど無い。俺は混乱していた。

 しかし混乱しつつも何もせずにジッとしているわけにもいかず、新着の書き込みを確認すべく
更新キーを押した。

>雪白のカッペは米を備蓄しているらしいぞおまいらwww
>米を備蓄しているニート=最強
>今夜公園で待ってる。
>そんなことより消えた4人は本当に恨まれてなかったの?
>幼女が大人から恨まれるはずねーだろwwww
>おじちゃんはどうしてはたらかないの?
>そ れ だ !!

 今夜公園で待ってる。俺の「備蓄」を特定したIDはそう書き込んでいた。ここいらで公園とい
ったら東雪白公園しかない。今夜奴はそこで待っているというのだろうか?
 それ以降はいくら画面を更新してもそのIDの書き込みは出てこなかった。それが更に俺の中で
奴の不気味さを増大させた。
 勿論それ以上掲示板には書き込めなかった。これ以上こいつと関わるとやばいと直感的に思っ
たからだ。
 それから十分ほど、俺は心ここにあらずの状態でただ茫然と木製の椅子に座っていた。しかし
段々意識がハッキリしてくると、途端に心に余裕がなくなり、焦り始めた。
「何なんだあいつは…今夜コンビニに行かなきゃいけないっていうのに何でだよ!畜生!」
 俺は握った拳の小指側を机に叩きつけた。ノートパソコンが振動で少し動いた。
 昼間は人目が多すぎて外に出る事は出来ない。しかも黄昏時高校は俺の近所だ。中学の時の同
級生が偶然俺を見つける可能性だってある。だから誰もいない深夜にコンビニで警察の職質をか
いくぐって「備蓄」を買う以外俺には方法が無いのだ。
 
 大体、得体の知れない人間が今夜公園で俺に何の話があるというんだ?まさかあいつは雪白市神
隠し事件の犯人なのか?背筋が凍るような感覚を覚えた俺は、気分を落ち着かせるために深呼吸
した。腹式呼吸は俺が混乱した時に冷静さを取り戻してくれる魔法の呼吸法だ。
 10回ほど深呼吸したところでやっと頭が冷静に働くようになった。

 何故奴が俺の「備蓄」について知っていたのかは謎だ。しかし公園に呼び出そうとしている事
を考えると奴は俺の家の場所は知らない、もしくは俺の家には来れない事情があるんだ。
 つまり、奴が何を考えていようが近所の公園にさえ近づかなければどうと言う事はない。
それに、そもそも備蓄の話だって他の奴と同じで単に田舎には米があるというステレオタイプを
煽ってきただけなのかもしれない。けど、やはり無視は出来ない。
「なんて皮肉だ。他人事のはずだった神隠し事件のために俺がこんなに悩まなきゃいけなくなるなんて…」
 俺は深く溜息をついた。




















     

第2話 血とエゴにまみれた強者
 
 机の右上の角に設置してある目覚まし時計の針が午後十時を回った。
 後一時間したら、コンビニ「モアザンエブリシング」に向かって備蓄を買いに行く為、
俺はベッドの上で足を組んで寝転がっていた。あの不気味な書き込みの後、眠りに付い
た俺が起床したのは午後八時だった。他のヒキコモリ達の例に漏れず、俺も昼夜が逆転
してしまっていた。寝るのは朝で、起きるのはいつも夕食時だ。

 木の台の上のCDプレーヤーにはラジオが備えられており、そこからは偽善的な内容の
ラジオ番組が流れていた。俺は外出の時間までの暇潰しにそれを聞いていた。
「人はいついかなる時でも強くなくてもいいと思うんですよぉ」
「そうですよね。最近弱肉強食、勝てば官軍の論理を振りかざす人が増えているけども、
 弱くたっていいじゃないねぇ?弱いから人は人に優しくなれると思うんですよ。僕はね」
「そうですよぉ、時には弱さがその人の魅力になる事だってありますよぉ。強い人にはそ
 れが分からないんですよね」
「もしも強い人ばかりの世の中だったら、人間社会はこれだけ発展していなかったと思う
 んです。僕はね、つまり、弱さこそが人間の最大の強みなんじゃないかと、そう思うの
 です」
「えぇ?つまりどういう事ですかぁ?えっと、その」
「弱い部分を弱い人達が補い合うことこそ人間社会の本質だと思うんです。僕はね。考え
 てみればいい。仮に、俗にいう強い人ばかりの社会があったとして、社会福祉はこれだ
 け発展したでしょうか?」
「ああ、介護とかバリアフリーっぽいののことですね。わかりますぅ。」
「そういう観点から見ると、弱い人を排除しようとしたり、模範的でない、社会の枠に当
 てはまらないという理由だけでその人達を叩くような事をするのは逆に人類の発展の妨
 げになると思うんですよ。僕はね。むしろ、そういう人達が住みよい社会を目指せば、
 強い人にとってもその社会は住みよい社会である筈なんです」
「その通りですよねぇ。強い人だって最後にはお爺ちゃんお婆ちゃんになるんだから、投
 資だと思って弱い人を助けてあげればいいと思うんですよぉ」
 
 俺は寝ながら手の甲で叩きつけるようにラジオの電源を切った。
 内容が下らな過ぎたからだ。
 馬鹿な女パーソナリティーと、自己主張が強い偽善者の反吐が出るような掛け合いだった。

「弱くて良いはずが無いじゃないか。勝てば良いに決まってるじゃないか。模範的に行動で
 きない事が良いわけが無いじゃないか。馬鹿じゃねーの?」
 この世では常に強いものや勝者が得をする。そして彼らが作ったルールから一端外れたら
最後。負け犬としての惨めな人生が待っている。強者の機嫌を損ねるような出る杭も、打た
れて当然だ。打たれる奴が悪いんだ。打たれたくなければ、強者の側に付き、強者の機嫌を
損ねない範囲内で模範的な行動を取るしかない。その能力が欠如している弱者を何故強者が
助けなければいけないんだ?

 弱者は勝手に傷を舐めあっていればいい。強者がわざわざその手助けをするなんて馬鹿げ
ている。老人ホームの中ですら人間関係の優劣は存在するはずだ。
 そう思いつつ、今の自分が置かれている状況が明らかに弱者や負け組みのそれであること
に俺は自己嫌悪と自己矛盾を感じていた。それと同時に、父に対する憎悪を募らせた。 

 俺は小学校中学校を通じていつも模範的な生徒だった。そして親の前ではいつも模範的
な息子でいた。少しでも模範の基準から外れようものなら、地方公務員の父は容赦なく俺
に体罰を加えた。いつもは世話焼きの母もその時だけは止めることなく、ただそれを見て
いるだけだった。

 父は俺が良い成績を取れば遊園地に連れて行き、旨い飯を食わせに高いレストランに連
れて行った。逆に悪い成績を取れば殴られ、ぶたれ、蹴られた。寒空の下、長時間外に放
置された事もあった。

 俺は自発的に優秀な生徒や息子であろうとしたのではない。いつも父の目や体罰に脅え
ながら、優秀であろうと努力していたに過ぎなかった。
 しかしその時の俺はそんな父や母を恨むことなく、体罰を加えられるのは自分が結果を
残せないからだと自らを奮起させた。父と母は俺の為を思って試練を与えているだけなの
だ。そう思っていた。俺は父を尊敬し、黙っている母を憎まなかった。
 
 そんな俺が両親に対する考え方を変えたのは光星に落ちた3月の初め。中学の担任の栗
松只重から不合格通知を受け、東雪白公園のブランコの上でしばしの間茫然としつつ、重
い足で家に帰った夕方のことだった。また父に殴られるなぁ。けれど、俺が寝る間も惜し
んで受験勉強に勤しんでいたことは、父が一番知っている筈だ。そんなことを考えていた。

 玄関のドアには鍵が掛かっていた。俺は合鍵でドアを開けると、靴を丁寧に揃え、玄関
のカーペットの上に揃えてあった3足のスリッパの内の一足を履いてリビングに向かった。
 リビングの戸を開けると、椅子に座っていた母が無言で悲しげな視線を俺に送った。俺
が遅く帰ったことで、全て悟っていたのだろう。だから玄関がわざと施錠されていた。い
つもの事だ。座高が低い父は大きなテーブルを挟んで母の向かいに座っており、腕を組ん
だまま無言で俺に背を向けていた。

俺は俯いたまま父にゆっくりと近づき、言った。
「父さん、ごめん。光星に落ちた」
 沈黙が訪れた。短い時間だったのだろうが、俺にはそれが永遠のように長く感じられた。
「幸助」
 父は静かに、ゆっくりと俺の名を口にした。父さん、俺はちゃんと…
「父さん、ちゃんと頑張ったんだ。俺、努力したんだ、だから・・・」 
 言い終わらない内に父は椅子から立ち上がり、振り向きざまに俺の左頬を殴り付けた。
俺は衝撃で床に倒れた。母は黙ってそれを見ていた。血の味が口の内に広がった。
仁王立ちした父の長い足が、床に這いつくばった俺の視界に入る。俺は恐る恐る父を見上
げた。父が鬼のような形相で俺を睨みつけていた。

 父の堅く握られた二つの大きな拳は、浮き出た骨に皮が引っ張られ、さながら巌のよう
だった。
 俺は震えた。
「この世にはな、二種類しかいないんだよ!強者と弱者、これだけだ!」
 父は目を剥き、顔を紅潮させて怒鳴りつけた。そして俺の胸倉を掴み、顔を引き寄せた。
父の顔と俺の顔の間隔は数センチもない。父の熱気が俺の顔に伝わってきた。
「俺は選ばれた公務員という名の強者だが、お前はどっちだ?」
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
 俺は泣いていた。これだけの剣幕の父は見たことがなかった。光星に落ちた俺が余程許
せなかったのだろう。

「ただの落ちこぼれじゃないか!歯牙にもかけられない弱者じゃないか!」
 父は再び俺を床に叩き付け、恐怖で丸まった俺を蹴り始めた。数えていたわけではない
が、20回以上は確実に蹴っていた。
 父は最後の一撃を俺の背中に捻り込み、やっと足を止めた。そして吐き捨てる様に言っ
た。
「お前がどんなに努力しようが知ったことか!俺が欲しかったのは結果だ!お前は俺の顔
 に泥を塗ったんだ!俺が受かった光星に受からなかったお前に価値など無い!お前が光
 星に入ると信じきっていた親戚や知り合いにどう説明したらいいんだ?ええ?あれだけ
 塾や家庭教師に金をかけてこの様か!死んでしまえ!」 

 頭が真っ白になった。今まで俺が受けてきた責め苦は試練などではなかった。父は最初
から俺の努力など何も見ていなかった。成長も望んでいなかった。父の望む結果を出せば
殴られずに済み、結果を出せなければ殴られるだけ。生まれてから15年、それだけだった
のだ。価値が高いか低いか、それだけだったのだ。

 そして悟った。俺は父の息子などではなく、父が他人に優位を示すための飾りでしかな
かったのだと。そして母はそんな父の暴力をただ怖くて止められなかっただけの臆病な家
政婦だったのだと。こいつらは自分のエゴで俺を苦しめていただけだったんだ。

 俺の中で何かが切れた。
 
 俺は絶叫して立ち上がり、父のみぞおちを右足で思い切り蹴った。父は呻き、腹を抱え
て床に倒れこんだ。一瞬口に手を当てていた母が視界に入ったが、案の定何も言わずにそ
れを見ているだけだった。俺は親父が座っていた木製の椅子を手に取ると、それで父を殴
打し始めた。
 両手で背もたれを掴んで持ち上げた椅子の脚の部分を、一気に父の頭に振り下ろす。
俺はそれを機械のように何度も繰り返した。重いはずの椅子が、とても軽かった。

「止めろ、止めてくれ・・・」
父は震えた声で哀願した。まさか息子の力がこんなに発達していたとは思いもよらなかっ
たのだろう。でも俺は止めずに続けた。半ば機械的に作業を続けていた俺の両手は止まら
なかった。まるで、父をそのまま殴り殺せと命令されているように。

「止めてぇっ!」 
 母の遅すぎる悲鳴が聞こえ、俺の両手がやっと止まった。椅子の脚を天井に向けたまま、
俺は父を見下ろしている。
 父の顔は血にまみれており、切れた目蓋から血を流していた。そして震えていた。下半
身は内股になり、白いズボンの局部の部位が湿っていた。そして三十度程顔をこちらに向
けて、恐る恐る俺を見上げている。俺を凝視しているその目には明らかに恐怖の色が浮か
んでいた。父は俺に脅えていた。
 
 威厳に満ちていた、俺を叱っっていた、殴っていたあの父が脅え、失禁していた。
 目の前で血まみれで震えている「それ」はもはや俺の父親ではなかった。
 俺は急に全てに白けた気分になり、脚に血の付いた椅子をゴトリと床に落とすと、その
まま蹴るようにスリッパを履き捨ててリビングを後にした。

 そして裸足で2階に上がり、部屋のドアを施錠し、椅子に座った。
 両肘を無造作に置かれたノートと教科書の上に乗せ、頬杖を突いた。
そして虚空をぼんやりと見つめ、数分前の事件を振り返った。下からは何も聞こえない。
静寂が家の中を覆っていた。
 俺は間違ったことをしたのだろうか?
 息子が父を殴ることは道徳的に許されるのだろうか?
 けど父は、この世には強者と弱者しかいないと言った。じゃあ今下で俺に脅えきっって
いるリビングのあいつらは何だ?
「弱者じゃないか」
 嗚咽に似た笑い声が漏れた。直後、急に怒りが湧いた。俺は力任せに机の上を手で払っ
た。床に教科書や辞書やノートが音を立てて散乱した。左脇のコンピューターを意識的に
避けている自分が情けなかった。
「あいつらは弱者じゃないか。俺に脅えて、震えて、何も言えない見掛け倒しの弱者じゃ
 ねぇか。なぁ?」
 再び腹の底から笑いが込み上げてきた。嬉しくもないのに笑いがこみ上げるのを初めて
知った。それから一時間程、俺の部屋から笑い声が途絶える事はなかった。

 笑い疲れた俺は、吸い込まれるようにベッドに潜り込むと、そのまま眠りについた。
 首を絞められる悪夢を見た。
 背中に冷や汗を掻いて眠りから覚めたのは午後10時頃。俺は汗を吸った下着と中学の
学生服を床に脱ぎ捨て、机の反対側に設置されたタンスから新しい下着と黒いジャージの
上下を取り出し、それに着替えた。
 そして机の左脇のクローゼットに押し込んであった登山用のリュックサックを背負い、
同じくその隅に丸まっていた黒いキャップを被った。それから外出用の黒のミリタリージ
ャケットを羽織ると、俺はベッドの下に隠していた貯金の封筒を右ポケットに無造作に押
し込み、外出した。

 そのまま食料を買い漁ってリュックに詰めて家出をしようと思ったが、すぐに思い直し
た。
 何故ならば、このまま遠くへ行っても、母はともかくとしてあの父は自分の罪の重大さ
を自覚することなど無いと確信していたからだ。
 奴らには今まで自らのエゴで俺を苦しめてきた罪を償う義務があるのだ。二人は同時に
罪を償うべきなのだ。
 だから俺はこの家の中で強者として君臨し、奴らに俺の今まで受けてきた苦しみをジワ
ジワと味あわせてやろうと決めた。弱肉強食の論理を血まみれのアレと家政婦に思い知ら
せてやらねば。そう思った。

 俺は東雪白公園前を経由して辿りついたコンビニ、「モアザンエブリシング」で備蓄をあり
ったけ買い込んだ。女店員は怪訝そうな顔で俺を見ていた。
 そしてすぐに家に戻り、階段を上って部屋に入ると施錠し、今まで机の左脇に据えていたノ
ートパソコンを中央に据えた。
 俺のヒキコモリ生活はこうして幕を開けた。
 
 ジリリリ…と目覚まし時計が鳴る、俺は我に返った。時計は午後十一時を指していた。俺は
時計を鳴り止ませ、外出の支度を始めた。  

       

表紙

ディセイブルヘッド 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha