「大丈夫でしたか?」
時を遡ること数時間、午後五時過ぎ。
診療室へ「ありがとうございました」と一礼して踵を返す胡桃に、長椅子に座る登坂は声をかけた。
「あ、うん。一応明日も来てくださいって言われちゃったけど、怪我自体は大したことないみたい」
病院の廊下の蛍光灯に照らされながら朗らかに微笑む胡桃を見て、登坂は表情を緩める。
「そうですか、それはよかった。それでは」
言いつつ、彼は自分の脇に置かれたビニール袋から缶ジュースを二本取り出した。
「一本いかがですか? 俺様なりのお詫びです」
「お、お詫びってそんな……」
「まあ、そう言わずに」
面食らう彼女にニコリと他意なく笑いかけ、登坂は空いた左手で自分の右隣を指差した。
「ほら、腰かけて」
「……う、うん」
曖昧な返事で胡桃は頷いた。ともかくも、百二十円の好意である。受け取らないというのもまたバツが悪いだろう。彼女はボブカットを揺らして、好意に流されるまま登坂の隣に腰を下ろすと、缶ジュースを受け取った。
蜜柑おしるこサイダー。
「……」
ひょっとすると嫌がらせなのか。彼女がそう思っても全くおかしくはないこのラベル。
隣を見れば、茶髪クセ毛の男はニコニコしている。
「……、ええっと、その。ありがとう」
顔が引きつるのをなんとか押さえて、胡桃はその台詞を絞りだした。
「大したものではありませんから、気にしないでください」
「そ、そうだね! 気にしないことにするよ!」
一体どれほど哲学的な味がするのだろう、と考えを巡らせつつも、胡桃はその衝撃的かつ不気味な缶ジュースをそっと脇に置く。
「……でも、本当ありがとう。まさか幻界まで、その、ついてきてくれるとは思わなかったよ」
というよりも、病院まで背負われたのである。撃たれたショックで放心していた彼女であるが、今思い返すと赤面ものであった。
「とんでもない、全て俺様の責任ですから。それに幻界とはいえ、ほとんど鏡界みたいなものでしょう、この病院は。その点、強盗が選んだのがあのコンビニで実に幸いでした」
登坂はアルミ缶に口をつけて、謎の宇宙物質X、蜜柑おしるこサイダーを啜る。
「……」
驚愕の光景に敢えてツッコミを入れないまま、胡桃は話題を切り替えた。
「それにしても、とっとり君があんなことするとは思わなかったな」
「教室では影の薄いキャラなのにいきなりあんな思い切った行動にでやがってこのクソ野郎こちとらそのせいで迷惑してんだとっとと失せろ、と解釈しましたが、よろしいですか」
「よろしくない! 曲解すぎるよ!」
「そうですか? しかし実際、俺様のあのような軽率な行動が貴様に迷惑をかけたのは明白ですから。被害が少なく済んだのは幸運でしたが、人の命にかかわるようなことを結果論で語れるほど俺様は人間ができていませんので」
登坂は続ける。
「貴様も止めていたというのに、突っ走りすぎました。申し訳ないというのもありますが、情けなく思います。そもそも電磁銃など、自分の力でもないのに――」
「すとっぷ」
穏やかな口調で胡桃が止めに入った。
「いいの。深く考えすぎだよ。私も気にしてない」
「貴様がそうでも俺様は気にするんです」
「じゃあ、気にしちゃだめ」
「!」
強い言い切りの語尾に、登坂は驚いて彼女を見る。
「私に迷惑かけたっていうなら、一つくらい私の頼みを聞いてくれてもいいでしょ?」
そこにあったのは柔和な微笑み。
「だから、気にしちゃだめ」
「……そうですか」
観念したように目を閉じて、登坂はもう一口ジュースを啜った。
「貴様がそういうのなら仕方ありませんね」
「……ねえそれ、おいしいの?」
とうとうその疑問が胡桃の口を突く。
「ええ、とてもおいしいですよ、貴様も騙されたと思って飲んでみてください」
「へ、へえ」
どうやら地雷を踏んだようだ。
「そう、うん、後で飲むよ、是非」
声を上ずらせながら、彼女は笑ってごまかした。こんなゲテ物、どこで買ってきたの? と口にするとさらに墓穴を掘りかねないので自重する胡桃である。
「……というかね、どっちかというと私、とっとり君のしたことが間違いだったとは思わない、かな」
どこか閑散とする廊下に、彼女の声は静かに響く。
「恰好よかったしね」
「……ありがとうございます。ただ、初対面の男子に言うべき言葉ではないですね」
「どうして? 素直な感想なんだけど」
「それこそ逆にどうして、ですよ。もっと水火大封君にその手の賛辞を呈してさし上げればよろしいのでは? 人間としても男としても、貴様のような可愛らしいお嬢さんに言われるのなら決して悪い気はしませんよ」
「どどど、どうしてすいか君が出てくるのっ! それにかかかか、可愛らしいって……!」
「一応ここは病院ですので、お静かに願います」
両手を頬っぺたに当てて茹で上がる胡桃を、登坂は微笑交じりに眺めた。
これを素でやっているのだから、憎いというものである。人の心理を見抜いた上での打算だらけの行動ではない、小動物の可愛らしさ。彼女が密かに同性の生徒からも人気がある所以は、ここにあるのかもしれない。
「……」
その大きな瞳の温度が下がる。
「……私ね、自分があんまり好きじゃないんだ」
そして、語りだす。
「いつも逃げてばっかりで。今日もそう。本当はとっとり君がしたみたいに、犯人を捕まえようとするべきだったんだ。ううん、勿論正しさの形なんてたくさんある。でも、例えそれが正解じゃなかったとしても、すぐに逃げようって考えはよくないよね。私は守護者見習いなんだもん」
「……」
「正義が大切だって、心では思っても、口では語っても、結局行動には移せない。いくじなしなの。だから私は私が嫌い」
「……正義、ですか。これまた大仰ですね」
「私は大仰だとは思わないけどな」
ふるふると首を振って、胡桃はぼんやり天井を見上げる。
「大切じゃない? 正義って」
「俺様には難しい話です」
「そんなこと言って、本当は心の底から正義の味方、って顔してるよね、とっとり君」
「……そんな顔をしていますか、俺様は」
登坂は肩をすくめた。
「俺様はただ、俺様のしたいことをしているだけ。言ってみれば自己満足の塊ですよ。正義だなんて言葉は割に合わない」
その言葉に、胡桃は色素の薄い髪を揺らして登坂を見る。一ミリもそらさずまっすぐに、登坂の目を見る。そして、無邪気に笑う。
「それが正義の本質じゃないかな」
さも当然であるかのように、胡桃は言い切った。登坂は、混じり気のない澄んだ瞳から逃げるように顔を逸らす。
「……貴様とは考え方に相違があるのかもしれませんね」
「そうかもしれないね。でも私から見ると君たちは羨ましいよ、私にできないことをやってるから」
「君、たち?」
「あっ! き、気にしないで!」
「水火大封君ですか」
「う……」
「それこそ、顔を見ればわかりますよ」
彼は小さく笑う。
「ドラマとか映画とか、漫画とかアニメとかで、『正義』なんて言葉、見るたびに陳腐だなって思っちゃうよね。だけど実際、自分が正しいと思ってることなんて、なかなかできるものじゃない」
「……」
「普通の人間はね、どれだけ『正しさ』の保障があっても『安全』なほうに流れちゃうんだ。確実に、絶対に、何があっても自分だけは大丈夫なんだって、そういう保証があるほうを選んじゃうの。皆平等に勇気がない。だけど君やすいか君はそうじゃない風に見える――って」
急に頬を紅潮させて、胡桃はにへらと笑ってみせた。
「私なにぺらぺらとしゃべっちゃってるんだろ! なんか恥ずかしい……君に会ったのだって今日が初めてなのに」
「いいえ、興味深いお話ですよ。それにとてもありがたい」
穏やかな表情で耳を傾けていた登坂も彼女の方に向き直る。
「俺様からみれば、貴様も十分正義の味方という面構えですけどね」
「……そ、そうかな?」
目を見開く胡桃を横目に、彼は立ち上がる。
「お話はこの辺にしておきましょう。ジュースも飲み終えてしまいましたし、俺様はこれからバベルタワーに用事がありますので」
「あ、そ、そうなんだ?」
つられて彼女も全く口をつけていない缶ジュースを手にあたふたと立ち上がった。フリルのついたワンピースがふわりと揺れる。
登坂はその立ち姿を上から下までじろりと眺めて、腕を組んだ。
「ふむ」
「……な、何?」
「いいえ、スレンダーな体型だなと」
「い、いきなり何を言い出すの!」
「彼女――東条りんごさんはあんなに胸が大きかったですかね。少し発育が過ぎるのでは」
「ちょ、セクハラは禁止だよっ!」
「冗談です」
「今の発言のどこがどういう風に冗談なのかなっ!?」
数分後、二人は通りすがりの看護婦に「お静かに」と注意された。
携帯から響くこの世のものとは思えない轟音がりんごの耳をつんざく。彼女は思わず電話を耳から少し離して、恐る恐る声を発した。
「……大封君?」
片膝立ての状態で、数秒待つ。
しかし返事はない。
「もしもーし、大封くーん」
その呼びかけに応じるのは、闇夜を舞う蝙蝠の鳴き声だけ。
「……」
りんごの目前のPCには、確かに「解除完了」の四文字と「メールを受信しました」という文章が表示されている。あの忌々しいタイマーも、今では画面から消えていた。
「だけど大封君からの返事はない、と。カッコ虚しいカッコ閉じ」
グリーングレーの目は、あくまでも無感動に携帯電話の画面をただ見つめている。しかし、通話は終了していた。リダイヤルを数回試してみたものの、彼の電話に繋がる気配はない。
りんごは一人だった。
「……間に合わなかったってことなの?」
独り言に答える人間はいない。
それが答え。
大封から電話がかかってくるかもしれない。そんな微かな望みにかけて、しばらく携帯電話を手に持ったまま、りんごは固まっていた。しかし、待ったところで彼女の携帯電話が震えることは、ない。
りんごはそっと携帯電話を閉じた。
「しょうがない、か」
目の前のパソコンを操作して、監視カメラを再び作動させる。
「……」
それだけの操作を終えて、りんごは俯き、そして口を動かした。
「……しょうがないで済むわけないじゃん」
小声で、早口で、起伏のない平坦な台詞を読み上げた。
「済むわけない」
全くの無表情で、彼女は言う。何かを隠すようなポーカーフェイス。今の彼女の顔は、仮面なのかもしれない。
「死んじゃったの? 大封君」
「勝手に殺してんじゃねえよ阿呆」
彼女の上から、唐突に声が降ってくる。
聞き覚えのある男の声が。
「っ!」
見上げると、そこには見覚えのある男の顔があった。
「……生きてんじゃん」
りんごは真顔で大封を指差した。
「人を指差すな、失礼だろ」
言って彼はニッと笑う。その笑顔に、りんごはつられて笑いながら言った。
「あっはっは、生きてるじゃん! なんで携帯にでなかったのさ! どんだけ人が心配したと思ってんの? 生きてるならさっさと帰ってきちゃってよ! カッコ笑いカッコ閉じ!」
最後のほうは少し怒りも混じりながら。
「悪いな、爆弾らしきものと一緒に携帯も谷に落しちまったんだよ。それに爆発はしなかった。多分テメエのおかげだ、ありがとうよ」
誠実な眼差しに、りんごは目を逸らす。
「うっ……お、お礼なんて言ったところで私のこの怒りが収まるとでも思ってるの? カッコ怒りカッコ閉じ!」
「一応ダッシュで帰って来たんだが、少し時間がかかっちまったかもな、すまん」
「……まあ」
二人は一瞬見つめ合って。
「許してあげる」
そしてりんごはまた笑った。
よかった。
それを太陽の笑顔で大封に伝えて、彼女はノートパソコンをパチンと閉じると、立ち上がる。
「次死んだら、死刑だからね」
「……あいよ」
汗を制服の袖で拭いながら、大封は理不尽な言葉に頷いておいた。
「それじゃさっそくだけど、次の目的地が届いてるよ」
「……」
先程の陰鬱な状態から驚くべきスピードで回復したりんごは、もうフルスロットルで走り出しているらしい。
「待て待て、その予想はついてたが、今日はもう勘弁してくれ」
「む……」
「いろいろ考えなきゃならんこともある。とりあえずは明後日にしようぜ」
両手で彼女を制しながら、大封は言った。その言葉に、りんごの眉がピクリと反応する。
「明後日? どうしてさ! 明日は日曜日だよ、サンデーだよ、人生に疲れたニホン国民唯一のオアシスなんだよ!? どうしてそのハッピーサンデーに君は動かないのさ! ニートはだめだよニートは。第一、犯行予告が明後日なんだよ? そんなんじゃ間に合わないさ!」
「悪いが明日はパスだな」
「むぅっ! 理由を言いたまえ!」
「どうしてもだ」
どうしても。その言葉に、決定的な拒絶を孕ませていることを、りんごは感じ取る。
「……」
「悪い。だが何といわれても明日は無理なんだ。調査するなら一人でやってくれ」
「……」
無言で、腰に手を当ててりんごは大封を睨む。
穴があきそうなほどに、目を細めて大封を睨み続ける。そしてそのままの姿勢でりんごは口を開いた。
「……りんごちゃんも鬼じゃないからね。それならそれでいいよ、ただし!」
「ただし、なんだ」
「宿題。合成ドラッグ画像の意味をきちんと考えときなさい」
一歩下がってくるりと一回転、クワッドテールをなびかせて、りんごは大封を指差す。
「どうしてうちの学校の校章、「雷鳥」が浮かび上がったかってことをね!」