『こちら留守番サービスセンターです。って、ありゃ、大封君?』
少年は、両親の顔を知らない。
物心がついた時には、孤児院にいた。
『何さ、携帯電話ぶっ壊れたんじゃなかったっけ? ああ、公衆電話、はいはい』
彼の家族は、六つ歳の離れた姉一人だけ。
彼は、姉を心から慕っていた。尊敬していた。
『で、何? わざわざそんなとこからかけてくるなんて、急ぎの用事でもあるんでしょ?』
彼はいつも、姉の後姿を追っていた。
しかし彼は、決して勇敢な少年ではなかった。
『さあさあ、なんでも言うがいいよ、りんごちゃんに出来ることならなんでもね! さあ、何をお求めかな! 千円コース? それとも五千円コース? それともまさかの二万円コースかなっ? ……はい、ごめんなさい。はい。もうふざけません』
ケンカなど、したこともなかった。
それでも、自分は自分なりに、姉に近付けていると思っていた。
彼の武器は拳ではなく、頭だった。
『はい、はい。本当すいません。だからお願い切らないで? カッコ懇願カッコ閉じ』
正論は、正論が正論足りえるところでしか使わない。
正義を貫くその役回りは、常に姉のものだった。
相手の怒りを買う方法も、相手に先に手を出させる方法も、そんな奴らを一瞬で黙らせてしまうような術も、彼は身につけていた。
自分の手は汚さずに、気に入らない輩を駆逐する術を、彼は身につけてしまっていた。
少年は、卑怯者だった。自分ではそう思っていた。
だが、それでもよかった。
『何? うんうん、調べ物? おっ、りんごちゃんの得意分野じゃん』
やり方は違えど、得る結果が同じならば、それは彼にとって、同じことなのだった。
『ん、了解。さすがに今回はすぐに、とはいかないだろうけど、期待はしてくれていいよ。ん、当然だね。じゃあ、また明日ねっ』
だから、それでよかった。
その時までは。
五月三十日。
いよいよ、鼠小僧の指定した犯行予告時間が今夜に迫っている。完全に電子化されたブラックボードに表示されたテキストを意識半分片手間にノートへ書き写しながら、五時間目の彼はぼんやりと空を眺めていた。晴れているような、曇っているような、青色と灰色を混ぜ合わせたような、何とも言い難い中途半端な空だった。
今日くらい、学校をさぼってしまってもよかった気はする。しかし、それは彼の姉と彼自身が許さない。それに、休む必要もない。大封がそう判断した。とはいえ、結局授業に身は入らなかったのだが。
キーンコーン。
待ちに待ったその電子音で、他の生徒よりも一足早く、彼は立ち上がる。この学校に、帰り際のホームルームは存在しない。
「あれ?」
隣で教材を机の中にしまう胡桃が、それを不審に思い、声をかけた。
「すいか君、もう帰っちゃうの?」
「ああ、今日は急ぎの用事があるんだ」
「病院? なら私も一緒に……」
「や、病院じゃねえんだ。とにかく、急ぐんだよ。悪いな」
脇を通り過ぎようとする大封の顔を見上げて、胡桃は思い出したように声を出した。
「……あ」
「ん? どうした」
「とうじょうさんとデート?」
「はあっ?」
教室中に響き渡る大声。生徒たちの視線が一挙に集まる。そんな唐突過ぎる左ストレートに、大封は眩暈を覚えた。そして質問の意味を理解できないまま、彼は棒立ちになる。
「……いや、待て。待てよ、何言ってんだテメエは」
「違うの?」
無垢な瞳には、しかし有無を言わせぬ迫力が、強い光と共に宿っている。
「その東条って奴は、誰だ」
苦し紛れの言い訳に、彼の目は泳いだ。帰る生徒も散見されたが、周囲の目は、変わらず二人に釘付けだ。
「……そっか、そうだよね」
「……?」
胡桃の不自然な笑顔に、大封の思考は余計絡まる。
「付き合ってるの?」
そして、彼女はまたしても唐突に、しかしはっきりと、明瞭に問いただした。声も意味も、全てが確実に伝わるように。
「……」
彼女のこんなにも真剣な顔を見るのは、彼にとって初めてかもしれない。二つの意味で、大封は驚いた。一つは、前述の通り。もう一つは、彼女がそんな言葉を口にしたことだった。今まで彼は、胡桃をそういう話題には無縁の少女だと捉えていただけに、虚を突かれたのである。
付き合ってるの?
どこか気恥しい台詞を反芻してから、大封は観念したように嘆息した。
「見てたのか、一昨日のあれ」
「……うん。ごめんなさい」
「なんでテメエが謝る」
謝るべきはどう考えても東条だ。内心毒づいて、彼は首を振った。
「あー、別に俺とあいつはそういう関係じゃねえよ」
「本当? あやなさんに聞いても大丈夫?」
「なんだ、俺はそんなに信用がねえのか」
「……ううん、そういうわけじゃないんだけど」
彼女は、少し俯いて大封から目を逸らしていた。
目を逸らして、頬を朱に染めて、小さく「よかった」と呟いたのは、大封には聞こえない。
野次馬の視線が散り始めたのを機に、大封は鞄を肩に担ぎ直す。
「俺は行くぞ」
「あ、ごめんなさい! 急いでたんだよね!」
「気にすんな。様々な点において俺にも責任はあった気がするからな。じゃな」
「うん、バイバイ……大封君!」
既に教室を出かけた彼の背中に、その声は届いただろうか。届いたとして、彼は振り返らなかった。それは結果オーライだっただろう。
胡桃の顔は、今までにないくらい赤く、火照っていたのだから。
「名前で呼んじゃった……」
「素晴らしい心がけですね」
「ひゃあああっ!」
余韻に浸って夢見る少女をする暇もなく、教室の中程から歩いてきた登坂が胡桃をからかう。
「も、もう! そうやって気配を消すのやめてよ!」
文句を叩く口も、どこか柔らかい。そんな彼女に、登坂は微笑みかけた。しかし、気分上向きの彼女に、彼は酷く平坦な声を作る。
「少しよろしいですか。貴様に渡したいものがある」
「な、なに?」
「集団静電気事件――そう名付けられた現象について調べた結果と、おまけです。貴様の意見が聞きたい」
そう言いつつ彼が鞄から取り出したのは、大きめの茶封筒。
「へ? それなら今ここで」
胡桃はそれを受け取りつつ――その予想外の重量感に体勢を崩しかけたが――頭上にハテナを浮かべる。
「いえ、俺様はこれから行かなければならないところがあるので、その意見は申し訳ありませんが、次会ったときにでも聞かせてください」
「うん、いいけど……」
「それでは、失礼します」
教室の出口から出ていく男子生徒の背中を再び見送りながら、胡桃は何とも言えない気分になっていた。同じく不思議な手元の封筒をしばらく眺めてから綺麗に鞄のファイルにはさみこみ、胡桃も帰り支度を始める。
少なくとも今日、自分は一歩前に進めた。そんな気がしていた。
「で、付き合ってないって言っちゃったわけ?」
「紛うことなき事実だ」
「虚偽はよくないよ大封君、私たちもうイくところまでイっちゃった関係じゃない」
「死ね」
「ぶー、なんか昨日からちょっと冷たいよ大封君。カッコ不満カッコ閉じ」
「悪いがストーカーと仲良くできるような人間じゃねえんだよ俺は」
「むむむ」
タコのように口をとがらせるりんごは、制服のまま大封と二人並んで都内を走る電車に揺られていた。目的地は、銀界。白界の北、鏡界の隣接区画。三日前、鼠小僧による強盗事件が発生した場所だ。
「……それにしてもよくわかるよね、あの画像だけで」
りんごは思い切って話題を切り替えた。
「正しいかどうかは保証できんぞ。今はAMSSも使えねえからな」
「んにゃ、今回は私もなんとなくわかったよ。あの無人コインランドリーの派手な看板は結構目立つからさ。洗濯機、なんて見たらまずはあそこが思い浮かぶよね。というか都内でコインランドリーなんてあそこしか知らないし」
「まあ、そうだな。だからだろう」
「ん? 何がさ?」
大封は敢えて間を取る。
「雷鳥のマークってのは、正確にはウチの校章じゃねえ」
「何の話?」
「合成ドラッグとやらのお話だ」
「ああ!」
りんごはぽんと手を打つ。
「わかったの? あれ」
「まあ、話を聞けよ」
隣で目を輝かせるりんごをちらりとも見ず、大封は口を開いた。
「あんなにでけえ建築物でも、一応オーナーがいる。まあ、半分は守護者のもん、ひいては国のもんみたいなもんだがよ。とにかく、雷鳥をトレードマークにしてるのはそのオーナーなんだよ。確か鳥取雷鳥、とかいうふざけた名前だったな。うちの学校はそいつからの出資を受けてたりするから、まあ、あんな校章になってるわけだ。もっとも、そいつがバベルタワーのオーナーだ、なんてことは一般的には知られてなかったがな」
彼は一つ息をついて、再会する。
「奴は鼠小僧に狙われた、ってことで図らずも有名になっちまったわけだ。テメエも知っての通り、バベルタワーの最上三フロアには、ニホン最大規模の美術館がある。ま、本当に美術館かどうかは怪しいところだぜ。何せ宝石を展示してるような階があるんだからな。盗んでくれって言ってるようなもんだ。要は自慢好きのおっさんが過ぎた玩具を見せびらかした、って話だろうよ」
「それが明滅する赤ダイヤモンド、通称モニカチミの炎、だっけ」
大封は頷いた。
「で、おっさんは懲りずにまた美術館を再開させてやがる。しかも臆面もなく、モニカチミの炎のレプリカを展示してな。馬鹿げてやがるぜ」
「ふうん?」
「……ま、続きは後だ。今はコインランドリーに行くぞ」
言って大封が立ちあがったので、りんごは慌てて後に続く。
「ちょ、ちょっと! じゃあ昨日私に調べさせたのはなんだったのさ!」
「それももうじき分かる話だ。今は鼠小僧の指示に従ってやればいい」
頬を膨らませながらも、彼女はもうノートパソコンを脇に抱えていた。
「またハッキングすればいいの?」
「それしかねえからな。とっととやっちまうぞ」
改札を通り駅から一歩外に出れば、夕方の銀界は人であふれていた。コインランドリーはほぼ駅前と言っていい立地に存在している。何故こんなところに洗濯機が並べてあるだけの建物が平然と存在しているのかは、大封もりんごも理解に苦しむところであった。
「んー、じゃ、さっそく」
りんごは石造りの地面に座り込んで、ワインレッドのPCを開く。今回は既に周辺機器も装着済みである。
「おい、本当に大丈夫なんだろうな? こんなところで爆弾騒動なんてことなっちまったら、ただ事ですまねえぞ」
「女に二言はないさ。りんごちゃんに一度見た攻撃は通用しないってことを教えてあげるよ」
それでもなお不安げな色を目に浮かべて、大封は傍らのクワッドテールを見下ろしていた。そんな心配をよそに、何の躊躇もなく彼女はキーを打鍵し始める。
「お、来たよ。プログラムのノイズ」
初めて十秒もたたないうちに、りんごはそんな台詞を口にした。
「でもまた全体の構造が似てるなー、これ。コインランドリーの制御、ってこんなに難しいプログラムがいるのかな?」
勿論、指は止まらない。
「ほい、今回は鼠小僧が仕組んだと思われる起動プログラムごと解体してあげました。カッコ笑いカッコ閉じ」
「……はやいな」
「ふふん、ようやくりんごちゃんのすごさに気づいたみたいだね」
脇を通り過ぎる人のなか、大封もりんごのパソコンを覗き込む。
「解除完了、ね」
「どうよ?」
「いや、問題ない。メールはきてるのか?」
「あ、今きたみたい」
りんごが幾つかキーを押すと、画面に受信ボックスが表示される。
「ここは見覚えがあるな。黒界の図書館だ」
添付された画像を見て、大封は即座に場所を特定した。
「うん、私もそう思う」
「行くぞ。もう六時になる、無駄にできる時間はねえ」