あの後――春真と名乗る老人と話をした後の事はよく覚えていない。
幾つか質問をされたり、書類に何事かを記入したような気はするものの、『彼』は詳細を思い出せなかった。
気がついたら、自宅の門の前に突っ立っていたという状態だった。
あれは夢か何かだったのだろうか。
一瞬そんな事まで考えたが、あの時聞かされた話だけはとても鮮明に覚えている。
やはり夢じゃなかった、そんな気がしてならない。
浅い眠りと目覚めを繰り返している内に次の朝を迎えた。
少し頭痛がするものの、さすがに2日続けて学校を休むのは気が引ける。
仕方なく『彼』は学校へ行く事にした。
「よっ」
門を出たところで、ちょうど通りかかった新山が声をかけてきた。
「昨日は大丈夫だったか?」
そう尋ねる彼に、『彼』は曖昧な返事を返した。
「まあ、何とか」
「んにゃ、それならいいんだ。
まさか車に乗せられて何処かへ連れ去られるとは思わなかったぜ」
そう言って、彼は安心したようにため息をついた。
「見てたのか」
『彼』が訊いた。
新山は、おうよ、と言って頷いた。
「話の邪魔しちゃいけないよなァって思って店先に出て待ってたんだよ。
そしたら、お前と話してたお姉さんが店から出てきて、携帯で話し始めた。
で、顔色変えて店の中に引き返していったと思ったら、お前を引きずってやって来た車に放り込んで行っちまったって訳だ」
「何で助けなかったんだよ」
『彼』が尋ねると、新山はため息をついた。
「いや、どうも逆らっちゃいけない気がしたんだよなァ。
車の前の席にいたおっさんとお兄さんがカタギじゃない感じだったし」
「確かにそうだったかもしれないけどな――」
『彼』が言い返そうとしたとき、すぐ先の角から、彼らと同じブレザーの制服を着た少女が出てきた。
彼女はこちらを振り返ると、『彼』に向かって意味ありげな笑顔を見せた。
「ん?」
「どうしたよ?」
首を傾げた『彼』に新山が尋ねる。
「いや、さっき……」
『彼』がもう一度前を見ると、少女はこちらに背を向けて歩き始めていた。
気のせい――だったのかもしれない。
『彼』は少女の方を指差し、新山に訊いた。
「あの子、うちの学校の子だよな」
「んなもん見りゃ判る。
確か名前は……犬飼だったな」
「へぇ。
――で、どうして知ってるんだよ」
『彼』が怪訝そうな表情を向ける。
その反応に、新山は少し驚いたようだった。
「お前がそこまで世間知らずだったとは思わなかったぜ……。
犬飼っていや、この辺じゃかなり有名な変人じゃねェか」
「変人?」
首を傾げる『彼』に、新山は言った。
「ウチの学校でもトップクラスの成績なんだが、あまり授業に出てこない。
持病でもあるのかと思えば、健康そのものだって話だからサボり確定らしい。
かといって、俺やお前みたいにゲーセンなんかで暇を潰してる訳じゃないんだとよ。
怪しい連中と付き合ってるとかで、あまりいい噂は聞かない――おい、聞いてンのか?」
「ああ、一応聞いてる」
そう答えると、『彼』は大きな欠伸をした。
どうやら、今になって眠気がやってきたらしい。
授業中に一眠りするか、と考えながら、『彼』は少女の歩き去った方向に向けて歩き始めた。
「――おい。
いい加減起きたらどうだ?」
耳元で新山の声が聞こえる。
『彼』は、机に突っ伏していた上体をゆっくりと起こし、辺りを見回した。
いつの間にか午前の授業は終わったらしい。
女子が所々に集まって弁当を食べている姿を見つけ、『彼』は昼休憩中だという事にようやく気がついた。
「――もうこんな時間か。
俺も購買に行ってくるとするかな」
暢気な口調で呟く『彼』に対し、新山はドアの方を示しながら言った。
「その前に、お前を呼んでる奴がいるぜ。
――よりにもよって、あの犬飼が呼んでる」
嫌悪感を含んだ彼の言葉には触れず、『彼』は立ち上がるとドアの方へ歩いていった。
ドアの傍の壁に背中をもたれるようにして、少女が待ち構えていた。
彼女は、『彼』の姿を認めるや否や、ニコッと笑いかけてきた。
「待ってたわ。
突然だけど、一緒に来て」
「え、ちょっ」
言葉の意味を理解する前に、『彼』は片手を掴まれて廊下を引き摺られ始めた。
これじゃあ昨日と大して変わりないなぁ、という思いが頭を過ぎる。
あれよあれよという間に、『彼』は昇降口の前まで連れて行かれてしまった。
「ちょっと待てよ!」
彼女の手を無理矢理振り払い、『彼』は彼女に向かって問いかけた。
「一体何処まで行く気だよ。
午後から授業があるって事くらい分かってるだろ」
「そんな事心配しなくてもいいと思うな」
「どうしてそう断言できるんだよ?」
『彼』が問い詰めると、彼女は平然と答えた。
「だって、私達は大事な仕事があるんだもの。
それこそ、学校の授業よりもっと大切な仕事がね。
その為にサボるんだから、教育機関程度がどうこう言える事じゃないわよ」
突拍子もない発言に、『彼』は戸惑いを隠しきれなかった。
「何言って……」
言い返そうとしたが、その言葉は彼女の言葉によって遮られる。
「貴方は決めた筈よ。
この国を守る為の戦いに参加する事を。
この世界の現実と向き合う事を」
それを聞いた瞬間、『彼』の頭の中に昨日の出来事が鮮明な形で映し出された。
自分達が知らない場所で行われている『戦争』と、存在しない筈の省庁や軍事組織。
それを知った上で、自分は彼らに協力する事を――戦うという事を決めた。
「だから、貴方はその事だけ考えていればいいの。
――そう、私みたいにね」
彼女はそう言うと、『彼』の目をじっと見つめてきた。
『彼』は、こちらをまっすぐ見つめている目が昨日の女性のそれと似ているような気がした。
冷静な、しかし情熱と決意に満ち溢れた強い眼差しだ。
「何なんだよ……お前は」
『彼』の問いかけに対し、彼女は笑顔で答えた。
「私も貴方と同じ。
貴方と同じ道を選んだ1人。
そして――貴方の上官よ」
それから少し経って、『彼』と犬飼の2人は人気のない通りを歩いていた。
今から学校に戻ったとしても、おそらく授業開始には間に合わないだろう。
どこか後ろめたい気がしながらも、『彼』は黙って彼女を追うような形で歩いていた。
そのうち、彼女はとある飲食店の前で立ち止まった。
「ここよ」
そう言って看板を指差す。
そこには、丸っこい字体で何かの単語らしい記号の羅列が彫られていた。
彼女は『ただいま準備中』という札が掛かっているにもかかわらず扉を開けた。
扉に取り付けてある鐘がカランカランと鳴り、カウンターにいたポニーテールの女性がこちらに視線を向ける。
「今は準備中……なんだ、犬飼か」
女性は、彼女だと気づくなり口調をがらりと変えた。
「予定の時間を過ぎているぞ。
早く準備をしろ」
彼女にそう言われ、犬飼はまっすぐ店の奥へと歩いていく。
「どうした。
お前も早く行け」
『彼』もまた、女性の声に急き立てられるようにして奥の方へと足を踏み入れた。
犬飼は厨房の傍の通路を通り過ぎると、その奥にある扉に手を触れた。
『取得データと既存データベースとの合致を確認。
ロックを解除します』
機械的な音声が響き、扉が左にスライドする。
その先に現れた空間に、彼女は足を踏み入れた。
『彼』も、その後姿を追って部屋に飛び込む。
直後、『彼』の背後で扉が閉まった。
内部は、昨日見たあの場所と大して変わらない風景だった。
ただし、部屋の大きさに合わせて設備の数が大きく減らされているらしく、あの卵形の装置も5つほどしか並んでいない。
他のの部屋に分散して置いてあるとしても、あそこにあった台数には遠く及ばないだろうと彼は思った。
彼女が部屋の一角にある扉を指差して言った。
「男子更衣室はあそこよ。
制服やNLSS(NerveLinkSystemSuits、神経接続システムスーツ)に着替える時はあの部屋を使って。
医務室はその隣、更に隣が女子更衣室よ。
ブリーフィングルームとサーバールームは地下にあるから、また折を見て案内――」
「随分のんびりとした案内だな」
どこからか少年の声が割って入ってきた。
『彼』は部屋を見回し、地下へと続いているらしい階段の傍に声の主を見つけた。
『彼』と同じ位の年齢に見える少年は、肩に階級章らしきバッジをつけた深緑色の制服に身を包んでいた。
「うちの部隊顧問(マネージャー)が怒鳴ってた筈だけど、気のせいだったかな。
待たされた俺までとばっちりを受けるのは嫌だからな」
不機嫌そうな彼に、犬飼は笑顔で答えた。
「大丈夫、すぐに準備するから。
――じゃあ、さっそくNLSSに着替えてきて」
「着替えてきてって――」
『彼』は突然そんな事を言われて戸惑った。
彼女はその背後に回ると、彼の背中を押して無理矢理更衣室の前まで連れて行く。
扉を開けると、彼女は『彼』を部屋へと押し込み、
「できるだけ早く着替えてきてね」
と言って、一方的に扉を閉めてしまった。
取り残された『彼』は、オロオロと周囲を見回し、手当たり次第に服を探し始めた。
ロッカーを片っ端から開けてみたものの、NLSSという衣服はどこにも見当たらない。
おそらくあの時見たダイバースーツ状のものだろうが、一体何処にあるのか。
必死に探しているうち、『彼』は意識もせず壁際に置かれた何かの装置に手を触れていた。
「あ――っ、くそ!
一体何処だよ、NL何とかって服は!」
『彼』が苛立って叫んだ時だった。
『――認証完了』
ピピッという電子音とともにそんな音声が聞こえ、装置の中に何かが落ちた。
正面の取り出し口らしき場所に手を突っ込むと、指先に軟質性の物体の感触を感じる。
『彼』は、それを掴むと手元に引きずり出してみた。
「これは――!」
取り出されて広がったそれこそ、あの時見たスーツそのものだった。
軟質で少しひんやりとした感触の素材だけに、普通の状態で保管しておけるものではないらしい。
「よし、これに着替えるんだな……?」
『彼』は自分自身に確かめるような口調で言うと、先ほどの機械に再び視線を向けた。
そこには、着用に際しての注意書きが箇条書きで記されていた。
「えーっと……。
『認識精度を高める為、他の衣類を着用した上からNLSSを着用しないでください』か。
――つまり、裸の状態でこれを着ろって事かよ」
軟体生物のようなスーツを手に持ったまま、『彼』は困惑の表情を浮かべた。
とはいえ、そんな程度の事に戸惑いを感じている場合ではない。
『彼』は腹をくくると、ブレザーのボタンに手をかけた。
数分後、スーツに着替えた彼は扉を開けた。
首から下がゼラチンに包まれているような、不気味な感触がずっと続いている。
しかし、手や足の先までぴっちりと覆われているにもかかわらず、窮屈で息苦しい感じはなかった。
ごく自然な形で包まれている、そんな感じだ。
「待っていたわ」
『彼』と同様、NLSSに身を包んだ犬飼が目の前にいる。
『彼』の青と紺色を基調としたスーツに対し、彼女のものはピンクと白を基調としたカラーリングだ。
心なしか胸の部分が強調されているように見え、『彼』はすぐに視線をずらした。
そんな事は意に介さず、彼女は淡々と『彼』に告げた。
「さっそくだけど、貴方の腕前を拝見させてもらうわ。
やっぱりこういうのって、直接やり合ってみないとわからないでしょ?」
「やり合うって……つまり、戦えって事か」
「その通り。
詳しい話は後にするとして、まずはCocoonに搭乗して頂戴。
その卵形の装置よ」
そう言って、彼女は装置を指差した。
「側面に手を触れれば自動的に認証してくれる筈よ。
キャノピーが開いたら、乗り込んで中にあるバイザーを装着してから仰向けに寝転んで。
準備が整ったら、自動的にキャノピーが閉じるわ」
「その後は?」
『彼』が尋ねる。
彼女は装置に歩み寄りながら言った。
「まずは言った通りに行動して。
そうすれば、自ずと理解出来る筈よ」
そして、あっという間に卵形の装置の1つに乗り込んでしまった。
蓋が閉まり、『彼』だけがその場に取り残される。
「待っててもどうにもならないよな……。
やるしかないか」
『彼』はそう呟くと、彼女の隣の装置に近づいて手を触れた。
カチリ、という小さな音がしたかと思うと、上半分が開いて真上に持ち上がる。
装置の内側には、ちょうど人が納まるくらいの緩やかな窪みがあった。
その奥の方に、数本のコードで繋がれたゴーグル状の物体が見える。
『彼』は卵の縁に腰掛けると、それを引き寄せてみた。
一見、特に変わった機能がついているわけではなさそうだ。
『彼』はバイザーを頭につけると,窪みに収まるようにして寝転がった。
そのとき、持ち上がっていた部分がゆっくりと閉じ始めた。
先ほど、彼女が言っていた通りだ。
彼は仰向けになったまま、キャノピーが閉鎖される様子をじっと眺めていた。
――不意に、眠気が襲ってくる。
「あれ、どういう……」
思案を巡らす間もなく、視界がフェードアウトを始めた。
一体……どうなってしまうんだろう。
そんな考えも、次第に闇へと融けていく。
『――接続、開始』
微かに響く音声の中、彼の意識は完全に飲み込まれた。