雀奴―ゴミにもできる簡単な仕事―
06.負け犬の誇り
煙草を買うところをナガセに見られた。
だからどうというわけではないが、俺は理由のないばつの悪さに襲われ、キャスターの箱をポケットの中にねじりこんだ。
日が沈んで五分後。ナガセが帰ってくるのはいつももっと遅い。
尋ねれば、今日はもう終わった、としか言わない。茶褐色の瞳は憂鬱そうに伏せられている。
ふん、暗いやつだぜ。俺が言えたことじゃねえが。
話すことなど何もない。背を向けて歩き出すと、うしろからついてくる気配がした。当たり前だ。同じ家に住んでいるのだ。
こいつらは、と思った。ちらりと後ろを見やる。
どこの国から来たんだろう。見たところ、肌の色はこげ茶色。
人種が特定できない。世界史をもっと勉強しておけばよかった。
だが、きっと貧しい国からやってきたのだろう。
俺は貧しさを感じたことはない。
親のすねをかじって生きているからだ。毎月送られてくる学費を少しずつ食い荒らして。
俺は大学をやめた。麻雀のせいだ。しかし金がなくなったわけじゃない。
時折、雀荘に通いつめて破産しないのかと聞かれるが、点五の雀荘に週二、三通った程度では月の負けはいっても二万かそこらだろう。
俺がそうだった。そしてそれは、毎日煙草を一箱吸うやつらの支出とさして変わらないのだ。
俺は、飲まなかったし、吸わなかったし、遊ばなかった。
だから金には余裕があった。かえってそれがいけなかったのだろうな。
貧しい国には生まれなかった、その代わり、豊かな心を得られなかった。
自分の弱さに気づいた時、俺はもう、博打以外で何も感じられなくなっていた。
そこからもっと傾倒することもなく、戻ることもなく、俺はその場に留まった。
このまま死ぬのだろうと思う。それもよろしい。
ナガセを見やる。こいつはどうだろう。なぜ麻雀を打つのだろう。
いいことなんかひとつもないぜ、やめておけよ。
もし、そういうことを言わずに誘ってくるやつがいるとしたら、そいつはカモが欲しいのか、辛い思いをするほど打っていない初心者さ。
まァ勝つにしろ負けるにしろ。
俺みたいな中途半端が一番いけない。
感傷に浸ってしまったのが失敗だった。
いつもこうなのだ。自分にとって少しでも建設的な、少しでも前向きな感情が混じったことを考えるとよくないことが起きる。狙い済ましたように。
俺たちの前に、学生服を来た四人組が立ち塞がっていた。
皆一様ににやにやしている。薄気味悪い。
俺は庇うようにナガセをうしろにやった。不良どもが笑う。
こういうやつらの中にも、いいやつがいるのかもしれない。
でもよぉ、こいつらずるくねえか?。
いつもふざけているやつらが、たまにいいことをすると見直されて、いつもがんばっているやつらが不意に道を踏み外すとけしからんと責められる。
おまえら、もうイッペンよーく考えてみろ。
何も俺のことだけじゃない。
俺はただ、たった一度のミスを許されずに死んでいったやつらのことを思うと、我慢がならねー。
まったくどうしてこうなのだろう。ロクなことってやつがちいとも起こらない。
こんな路地にあるウチが悪い。こんな時間にたまたま帰ってきたナガセが悪い。煙草を買いに出た俺が悪い。
悪いやつらばかりだ。はっはっは、どいつもこいつも死にさらせ。
何笑ってるんだッ、と鼻にピアスを開けたガキの一発が俺の顎にきた。もんどりうって倒れこむ。
情けないが、自分よりも十センチ低い背をしたガキに俺はのされた。いっぺんに鼻血が吹き出る。
桐原の誘いなんかに乗らなければ流さなかった血だ。
もったいない、と俺は思った。
そしてこの血は、千点棒に換算するといくらになるだろうかと考えた。俺は今、何点に振ったんだ?
四人の手がナガセに伸びる。
意外にも、いや想像通りかな、ナガセは怯えていなかった。
何もかもどうでもいい、そんな顔をして今起こっている現実を放棄している。
俺はその面構えを知っていた。
負けたやつの顔だ。
毎日毎日飽きもせずに鏡に映り続ける俺の顔だ。
絡んできた不良なんか目じゃないくらい、俺はそいつに――。
なぜそんなことをしたのか、最後までわからなかった。
俺はおもむろに立ち上がり、ナガセを張り倒した。
「てめえは二度と打つな――」
唖然としたガキどもが俺を見ている。
知ったことか。好きにしろ。殺してくれてかまわんぞ。だがその前に。
誰よりも驚いた顔をしたナガセが、しりもちをついて俺を見上げている。
「苛々するんだ、おまえみたいなやつは。
途中でわかったような顔して諦めてるんじゃねえ。
舌打ちしていい加減な打牌をするんじゃねえ。
勝負は半荘が終わるまで続くんだ。
最後まで闘えないなら、今すぐ死ね!」
この俺のようにな。
金がなくなったからじゃない。
俺は闘えなくなったから打てなくなった。
ああ、そうとも、金なんぞはいらなかった。千円二千円のはした金なんぞは。
俺は死んでもいいからトップが獲りたかった。
それだけよ。
そして。
そう思えるやつとだけ、俺は打ちたかったのだ。
今度は俺が張り倒された。
ナガセにやられたんじゃない。当然だが、我に返って闘牛化したガキどもにだ。どっから湧いてくるんだろう、その元気は。
俺は亀のようにうずくまり、降り注ぐ手足から必死に頭を守った。
それしかできない。他にやることがない。退屈でさえあった。
いつの間にか、ガキどもの喚き声が聞こえなくなっていた。
顔を上げると、あちこち引っかき傷だらけになったアサノがいた。浅黒いまぶたの上から、血がヘラで塗ったように流れている。
ナガセを助け起こしている。どうやら何事もされなかったらしい。
アサノが、侮蔑に満ちた視線を俺に送ってきた。
そりゃあそうだろう。男の子ってのは強いもんに憧れる。俺なんぞはやつらにとって価値がないのだ。俺だってそう思う。
「おまえは強くていいな、アサノ」
勝たなきゃいけないときに、勝ててよかったな。
俺は、オーラスでテンパイさえできなかったよ。
誰が悪かったんだろうな。
俺が悪かったのかな?
帰ってきたクリヤは仰天した。
俺は血まみれアサノも血まみれ。
ナガセは買ってきた医薬品で俺らを治療している。不思議なことになぜだかやつは手馴れていた。
何があったのかしつこく聞いてくるクリヤを俺は手を振って拒絶した。 不幸自慢も麻雀を打つ上でしてはならないと教えてあったからだ。
俺は教師じゃないが、本物よりも少しだけ教師らしくしてやろう。
教えたことを、実践するってこった。
沁みる傷をすべて塞がれた俺は、ナガセがそのまま正座していることに気づいた。
「なんだ」
「さっきの」
「あ?」
「麻雀をもう打つなって」
「ああ――」
気にしているのだろうか。もっとドライな女だと思っていたんだがな。
「べつに麻雀打つのなんか個人の自由だ。どんな打ち方をしようとそいつの自由だ。それをあれこれ言うやつのことなんか無視しろ。
だが半荘を打ち切れないなら、やめた方がいいな。損しかしないし、そいつはきっと麻雀を楽しめない」
「――――」
「俺はいろんなやつを見てきた――裏3を頻繁に乗せるやつとか、チートイツをしくじらないやつとか、鳴きが上手いやつとか。
おそらくまだまだ見たこともないやつらがウヨウヨしてやがるんだろう。
そのことについて、どう思う、おまえら」
俺はナガセだけじゃなく、不貞腐れているアサノと、しゃくりあげているクリヤにも問いかけた。
「――厄介」とナガセ。
「――知らない」とアサノ。
「――怖い」とクリヤ。
「そうか」と俺。
「正解はない。いや、おまえらのどれもが正解だ。
こんな麻雀楽しめるか、そう思うときもあるだろう。
自分を信じろ、なんて言わない。
だが、それまで打ち続けてきた自分を安く扱うな。
安く扱ってしまえるような打ち方だけはするな。
これが、たぶん、俺が言える最後のことだな」
三人の帰国は、もう目と鼻の先だった。
俺はティッシュで、鼻血をかんだ。