Neetel Inside ニートノベル
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賭博神話ゼブライト
【恋】

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 父が血を吐いていた。

 その頃の私は吐血というのは胃から戻すものだと思っていたのだけど、いま思えば、やっぱり彼も肺を患っていたのだと思う。
 終戦直後から続けてきた博打渡世を思えば、老いるまで生きていただけでも僥倖と言えるのだろう。
 徹夜、喧嘩、酒、薬、女――勝負。
 輝かしい勝利と削られていく生命。
 それまで見上げるだけだった父の背中が、とても丸く、小さなものに見えた。
 出逢ったときよりも、私の背が伸びたからかもしれない。
 危ない、と痺れるように悟った。
 このままでは間に合わなくなってしまう。
 そう思うと私まで胸が苦しくなってきて、夜中、布団に噛みついて叫びだしたくなる気持ちを抑えこんだ。
 眼を瞑っても耳を塞いでも耐え切れない――。
 父から学んだことは、私の心と身体に刻み込まれている。
 生き方、考え方、闘い方――星のように多く。
 ただ、あのひとが最後に残した言葉だけは、いくら斬りつけても浜辺の砂のように消えていくばかりだった。
 普通に、幸せに生きろ。
 やつれて痛んだ顔にやさしい眼差しを湛えて、父はそういった。
 ごめんだ、と思った。
 何が幸せで、何が不幸か、そんなものは私が決める。
 元々それが自然なんだ。みんなそうやって生きていくんだ。
 私に見えているものもわからないくせに、わかったような顔をされたくないし、私だって父の気持ちがわからないんだから、五分五分なんだ。
 人は人をわかってあげられないし、わかった気になるのは失礼だ。
 だから。
 だから、私にできることは、やりたいことは、たったひとつ。
 ――実を言うと種目は、とっくのむかしに決めていた。




 父が何度も私の名を呼んでいた。
 青白い顔で、薬を、と呟く。繰り返される懇願。
 小さな声だったのに耳元で囁かれるようだった。
 やつれた顔にダブッて見える老戦士の花冠は、ほとんど枯れてしまっている。
 しなびた花びらが、パリンと割れた。父は気づかない。見えない。
 すっかり衰えた身体にかつての漲る生気はほとんど残っていない。細く痩せた腕に着けられた腕時計は、手首の方までずり落ちていた。
 私は手元の錠剤が詰まったビンを見下ろした。軽く振ってみるとちゃらちゃらと鳴る。鈴のようだ。
 これが今の父の命か。
 薬を、と渇いた唇が動いた。
 居間には私と父しかいない。
 父は這い蹲り、許しを請うような格好だった。
 ただ、その眼だけは、私のよく知る鷹のものだった。
 このひとはもう長くない。
 長く続いた勝負の暮らしが、とうとう生命を削りきろうとしているんだ。
 だから。
 だから、今しかない。
 私は後ろ手に隠していたものを畳に散らした。
 それは私の掌にも収まってしまうほどの大きさの紙で、花や獣や短冊が描かれている。
 父はそれですべてを悟ったようだった。
 私のやりたいことも、言いたいことも。
 かすかに笑ったように見えたのは、私の錯覚だろうか。
 節くれだった父の手が、散らばった札に伸びる。
 花札は、父がもっとも好んだ博打だった。
 私が勝てば父は死に。
 父が勝てば私は死ぬ。
 そう、父の「ともだち」のように、自分の脳を吹っ飛ばして。
 その頃の私にとって拳銃とは、死のルーレットをやるためだけの存在だった。
 負けたら死ぬ。
 そう呟いて、ふいに私は、自分が生きていることを思い出した。



 一生を博打をして過ごした父と私に、血のつながりはない。
 それどころか私は、あのひとに対して家族、という実感さえ持っていない。
 父と呼ぶのも、そうしてほしいと望まれたから。それだけのこと。
 大切なひとではあったけれど、彼には彼の生き方や道があって、私もまたそうなんだ。
 だから、今は一緒にいるけれど、いつか別れるし、それでいいと思っていた。
 いや――違う。
 私は、
 父を、

 出逢ったときから、
 倒すべき敵としてしか、見ていなかったんだ。

 この人を倒したい。勝ちたい。
 それだけを考えていた。それだけを想って、一緒に暮らしてきた。
 楽しいときも。
 悲しいときも。
 辛いときも。
 嬉しいときも。
 この人との勝負の刻を想っていた。
 それだけを、切に。


 数え切れない夜と朝を繰り返した、父が最期に手にした穏やかな居場所。
 暖かい日差しを浴びて――父は瞼を閉じていた。
 座椅子に腰かけたまま、まるで何か心地いい音楽に包まれているように。
 唇の端から、一筋の血が流れる。
 花が枯れるように。
 勝負が決まったとき、拳銃自殺の必要もなく、父は死んでいた。

 正座した私の膝前に、菖蒲の札が二枚、寄り添うように重なっている。
 ああ、花札なんて簡単だよ――いつかの父の声が蘇ってくる。
 同じ花を揃えればいい――それだけなんだよ、と。
 老いた戦士の像が――父の心が陽光に溶かされていく。

 そっと私は父の亡骸に擦り寄った。
 死体を怖いと思ったことはなかった。
 父の胸元から財布を探し出し、詰まっていた札束を抜き取ると空の入れ物を彼の膝に放る。
 ゆるゆるの腕時計を外し、自分にはめる。まだゆるい。私はポケットに乱暴に戦利品を突っ込んだ。
 最後に、とうとう使われることがなかった拳銃と、その弾丸を奪った。
 獣が獲物を喰い散らかすように。
 私は父を喰い荒らした。

 どうして平和に生きられないのだろう。
 そうすることも選べたのに。
 そうすることを望まれたのに。
 それでも私は勝負の熱に冒されている。

 ああ、そうだ――
 人並みの恋をしたことなんてないけれど、
 きっと私は、ずっと昔から、
 寝ても覚めてもいつでもどこでも生きても死んでも、





 真剣勝負に、恋していたんだ。

       

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