平凡な春休みを終え、入学式当日を迎えていた。
事務的且つ機械的な口調の校長の口上も聞き流し、つつがなく入学式を終え、クラスに移動する。
まったく馴染みの無い席に着き、周りを見渡してみると、見知った顔が二つ。
中学からの馬鹿な友人と腐れ縁の幼馴染み。
他にも誰か居たような気がするが、俺は生憎付き合いの範囲も狭く(もっとも広げる気などなかったが)、一度や二度話した程度では顔と名前が一致しないのだ。
「よう、同じクラスだな!」
陽介がいつも通りの馴れ馴れしい笑顔で話かけてきた。
小野陽介(おの ようすけ)、どうしようもない馬鹿であり二年間クラスメイトだった友人である。
仲良くなったきっかけは忘れもしない、5月初頭にある林間学校で同じ班になった時だ。
狭いコテージに男が六人詰め込まれ、むさ苦しく雑魚寝になっている中、隣の誰かの寝相の悪さに夜中に起きてしまう。
静かな部屋の中で聞こえる寝息に、俺は違和感を覚えた。
耳を澄ますと小さく、この部屋にあってはならない声が聞こえてくる。
「――アン……アン、そこ、もっと……っと」
女の喘ぎ声。俺がAVでしか聞いた事のない声が部屋の中で流れていた。
当たりを見回すと、不自然な形に盛り上がり、僅かな隙間から光が漏れている布団に目が留まる。
好奇心に駆られた俺は背中に変な汗を流しつつ、そっとその布団に近づき、一気にそれを剥ぎ取った。
するとそこには正座のまま背中を丸め、ヘッドフォンを装着し、ノートパソコンを見つめる陽介が居た。
「ありゃ? 起こしちまった?」
振り返り俺を確認してヘッドフォンを外しつつ発した第一声がそれだった。
そして、親指で背後のノートパソコンを指しながらの二言目。
「どうしても続きが気になってさ、持ってきたんだよ」
パソコンの画面には裸の絵。股間部分にはモザイク。下の部分には青いテキストウインドウ。
「……なんだこれ?」
色々と呆気に取られながらも聞き返すと、陽介は右の口角を吊り上げながら答えた。
「何って、美少女ゲームだ! んー、簡単に言うと、エロゲ?」
こいつは一体何を言ってるんだろうか。
「うむ……あれだな。それにしてもなんというか、お前だけじゃなくお前の息子も起こしてしまったようだな。すまんね」
またしてもこいつが何を言ってるか分からなかったが、奴の視線は確実に俺の股間を突き刺していたのだ。
慌てて前屈みになって弁明する。
「い、いや、これは生理現象だ! い、今起きたばかりだからな!!」
しかし、俺の言い訳虚しく、更に左の口角も吊り上げた陽介はしたり顔で言葉を紡ぐ。
「まぁまぁ、そうガウォーク形態にならないでも。この絵師の絵は素晴らしいからな、勃起するのは恥ずかしい事じゃない!」
ニヤニヤしやがって気持ち悪い!
「しかしこれを持ってきたのを知られてしまっては仕方がないな。……エロゲらしくの選択肢でいこうか。好きな方を選べ!」
すっ、と二本の指を立てた手をこっちに向かって伸ばしながら、
「一、黙ってエロゲを借りてプレイする。ニ、今日からお前のあだ名は『ボッキング』」
寝息と衣擦れの音だけが聞こえる静寂。
そんな中、陽介の思惑を読み取りつつ、俺は布団を剥いだ時よりもさらに変な汗をかいて、生唾を飲み込んで答えた。
「……一、で」
そりゃあさ、選択肢から選ぶならこうなるだろう? 俺だって健全な男だし、興味はあるし。
「歓迎するぞ同士よ!」
こうしてなし崩し的に借りて帰ったエロゲは思いのほか面白かった訳で。
――孫権。いや、蓮華は俺の嫁なんだよ。
それ以来ちょいちょいエロゲを借りる仲になり、休日でも遊ぶ相手になったんだ。
「――だよなー。……それにしても野中も同じじゃねーか。これで10年連続だっけか?」
少し思考が過去に飛んでいた俺に陽介が意味有りげな顔をしながら発した言葉で、俺の意識はまた飛んだ。
野中杏子(のなか きょうこ)。
ニ歳から付き合いのあった腐れ縁の幼馴染みである。
中学の時あいつと付き合ってると困った噂が流れた事があってだな。
それは俺にとって忘れたい過去であるし、噂になっていた時も触れられたくない話題であった。
それは何故かと言われれば……好きだったからだ。
気付いたのはランドセルを背負いだしてから四年経った頃だったと思う。
俺は杏子が好きだったのだ。
でも、杏子は俺の事が好きだった訳じゃない。
家が近所なのでよく一緒に下校したが、その時期決まって杏子が話すのは俺の知らない男子の話だった。
昔から保守的な俺は勇気を出して傷つくぐらいならと、そっと心に蓋をしたのさ。
だから噂を知った後、杏子とは距離を置いた。
帰る時間をずらしたり、人助けの振りをして適当な委員会の用事を手伝ったり。
そんな事をしながら噂が静まるのを願いなら過ごし、数週間経った時の事。
「最近さ、私の事避けてない?」
放課後を告げるチャイムが鳴って三秒後、俺の机の前に立ち、座ったままの俺を見下ろしながら杏子が放った一言である。
「そりゃ……、まぁ、な。お前だってあの噂知ってるだろ?」
「はぁ? あんな噂の事気にしてんの?」
間髪入れずに発せられる言葉。
「そりゃ、俺も年頃の男だからな。あんな噂、迷惑だろ?」
僅かな沈黙。突き刺さる好奇心の目。そして、何より嫌だったのが俺を見る杏子の眼だった。
「何それ……。そんなの私は気にしないのに」
気にしないか。さっぱりしてるなぁ、昔から。
一緒によく行った駄菓子屋でも杏子はすぐ買う物を決めてたし、ケンカした次の日にはそんな事忘れてたし。
エビフライはタルタルたっぷり派の俺に対して、杏子はいつもレモン派だったな。……食べ物は関係ないか。
頭の中でグルグルと考え事をする癖のある俺がその悪癖に浸っている間に、杏子は目の前から居なくなっていた。
「――追わなくていいのか?」
陽介が柄にもなく割と真剣な顔で尋ねてきた事はよく覚えてる。
「……いいだろ。ここで追ったら噂もまたデカくなる」
あいつと距離が出来たのは、それからだろうか。
噂を気にしてる間に学年が上がり、受験勉強と陽介と遊ぶ事の忙しさでそんな事を気にしなくなった頃には、杏子とはまともに口を利かなくなっていた。
まさか同じ高校になるとはなぁ。
受験先も知らないぐらいには疎遠になっていたのだ。
「相変わらず幼馴染みキャラのフラグ、バッキバキ?」
半笑いで聞く陽介にいつも通りに返す。
「だからな、現実にフラグなんてないんだよ」
そう、フラグも選択肢もありゃしない。
もしあるなら俺にも可愛い彼女の一人も居るだろうし、陽介はハーレムの一つぐらい持ってるだろう。
「それにしてもお前さ、キャラとかフラグなんて言葉使ってると変に思われるぞ?」
いきなり専門用語を使うこいつにいつも通りの言葉を投げかけてやる。
返ってくる言葉は決まってるんだが。
「なぁに、俺はどんなキャラ付けされようとかまわん。嫁が居て、話の分かるお前が居る。それで十分。多くは求めんよ」
やっぱりか。
「お前なぁ、嫁以外に俺だけって……」
俺も人のこと言えなかったりするんだけどな。
陽介ほどオタクじゃないにしろ、普通の人から見れば中身は十分オタクだし。
友人と呼べるのもコイツ以外にはゲーム好きな奴と、何故か筋トレ好きのあいつだけだ。
「俺はな、お前さえよければいつ籍をいれてもいいと思っているんだぞ?」
「……冗談でもやめてくれ」
あぁ、高校生になってもこいつは馬鹿なんだなぁ。
そんなやりとりをしていると、担任の教師が来て何やら喋り始めた。
チャイムが鳴り、初日である今日が終わる。
「おーい、帰りメイトかあな行かね? ちと遠いがメロンでもいいけど。何冊か新刊買うの忘れててな」
こうなるよなぁ、やっぱり。新しい友達もできそうにないぞ。
「……腹減ったし、マックもついでに寄ってくか」
荷物を纏め立ち上がろうとすると、静かにドアが開き一人の少女が入ってきた。
いつもならそんな事に気付いても気にしないが……可愛い。
肩ぐらいに揃えられた品のあるこげ茶色の髪に、白い肌の小さな顔。
目は元から大きいのだろうが、睫毛がより大きく見せている。
筋の通った鼻に、化粧も何もしてないというのに綺麗な濃いピンク色の小さめの唇。
身長は俺の首辺りまでか? ここの制服を着てなかったら、今年中学生になりました、と言われても信じてしまいそうだ。
「エロゲなら結構俺のストライクだな、中身は知らんが」
俺だってストライクだよ。見た目だけならどストライクといっても過言じゃない。
彼女は辺りを見回し、こちらに近づいてくる。
真っ直ぐと、こっちに。
――こっちに?
立ち上がったまま棒立ち状態だった俺の前に彼女は立ち、肩で息をしながらこちらを見つめて小さな唇を動かす。
「……やっと、見つけた」
はい?
「前に、お会いしましたよね? ずっと昔に……」
へ?
「あの時のおまじない……ずっと覚えてます!」
おまじない?
「やっと見つけた、運命の人っ!」
抱きついてくる彼女を受け止めながら、俺の思考は止まっていた。
近くて遠いところで陽介の声が聞こえる。
「おいおい、これなんてエロゲだよっ!?」
俺はいつフラグを?
「ちょっ、ちょっと待て!」
受け止めた彼女を引き剥がて、息を整え、思考が帰ってくるのを待つ。
「はい?」
「おまじない? 運命の人って何っ!? ってか、それ本当に俺なの!?」
素直な疑問を早口で小さな彼女にぶつける。
「覚えてないんですか? ……忘れちゃったんですかっ!?」
さっきまでの、宝石を見つけた子供の様な笑顔が陰りだす。
「いや、えっと、覚えてない、とかじゃなくて。……どちらかというと、覚えがないんだけど」
「それはどっちにしても同じじゃね?」
陽介の突っ込みにチョップで突っ込み返しながら、彼女の方に向きなおす。
「とにかく、人違いだと思うよ」
「人違いじゃないですよっ! だって顔も格好も、声もあの時と一緒ですもんっ!!」
細い肢体を精一杯動かしながらの力説。
――でも、それはおかしいよね。
「ちょっと待って。それは昔の事なんだよね?」
一呼吸置き、的確であろう突っ込みを口にした。
「俺は一体何年間成長を止めて、留年してる事になるんだろうか?」
「あっ……」
彼女の表情は完全に曇った。
これで雨が降り出したら、最悪の気分だな。
「……そうですよね」
小雨はもう降りだしていた。
こんなどストライクの女の子を出会って数分で泣かすなんで、エロゲでも経験無いぜ?
「ご、ごめんなさい。入学式で貴方を見て……。それで、それで……」
こういう時どうすればいいんだろうか。異性と付き合った経験の無い俺には到底分からない。
視界を少し上げると、いつの間にか彼女の後ろに回りこんでいた陽介がノートに大きな文字を書いて掲げる。
『選択肢! 1:この場を去る 2:フォロー!』
こいつの出す選択肢は、……いつも一択である。
「あのさ」
涙を蓄えた大きな瞳をこちらに向けながら、俯いていた彼女が顔を上げる。
「顔も制服も声も、俺と同じなんだよね?」
「はい」
震えたか弱い声。
「……じゃ、じゃあこれから会うんじゃない? おまじないってのはなんの事か分からないけど」
彼女から目を逸らし、非科学的な言葉。
「い、今の俺と、過去の君が……」
俺は何を言ってるんでしょうね?
ドラ焼きの好きな青狸(黄色い猫だったっけ? )も、ましてや先祖が大発明家の眼鏡小学生とコロッケスキーも居ませんよっと。
「それは……」
言葉を選んでいる彼女の背後に居る陽介のノートに、『×』、の文字が見える。
分かってるつーの、そんな事!
「……分かりました。じゃあ私、頑張ってタイムマシンを作ります!」
この子も何を言ってるんでしょうね?
「そうすれば貴方が過去に行って私と会えますよね!」
「うそーんっ!?」
陽介の間抜けな叫び。賛同しよう。うそーんっ!?
さっきまでの曇り空が、嘘のように晴れていく。
「じゃあ、私そういう部活があるか探してきますっ! それじゃあ、また!!」
早歩きのようなスピードで細い手足を動かしながら、彼女は走り去った。
「あれが正解だったのか……」
いや、正解では無い気がするんだが。
「とりあえず、入学早々フラグおめでとう!」
「……アリガトウ」
彼女の名前もクラスも聞き忘れた事を思いながら呆然と立ち尽くす俺に突き刺さる無数の視線。
俺、これ、嫌い!
「ウッ……」
ドアの方から一際嫌な視線が刺さった。
杏子か。
俺と目が合った杏子はそっと教室を出て行った。
「バスタードの新刊はやっぱり都市伝説だな。ありゃ出ないわ」
ポテトを口に放り込みながら、新刊のチェックをしている陽介。
そんな事よりも、彼女の事が気になってしかたがない。
詳しくは聞けなかったが、小さい頃の彼女にうちの制服を着た俺(のような奴)が何やらおまじないをして、それが運命の人なのか?
「あの子の運命の人は、ロリコンでいらっしゃるのですか?」
「何言ってんの、お前。ハンコックの乳マウスパッド売り切れてたショックで脳が溶けて流れたか?」
買いそびれたけど、今はそれどころじゃない。
「いや、あの子の運命の人ってどんな人なのかなって」
「そういう事か。あのロリっ子ね」
確かに今でも十分幼い容姿だが、ロリっ子は十二歳以下。それ以外は認めない。
「あの子の運命の人はお前だろ? タイムマシン楽しみだなっ!」
あー。この笑顔を全力で殴るとすっきりするだろうなぁ。
「本気なのかな、あれ」
言い出した本人がこういうのもどうかと思うが、正気じゃない。
「あれは本気だろう、お前見えなかったかもしれないけどな。教室出る時すげー笑顔だったぜ?」
お前、言葉の後ろに、『w』、が見えてんぞ?
「明日謝るしかないよなぁ」
「謝ればフラグは次の段階に進むのかな? ルート確定はいつになるのかね?」
「……死ねばいいのに」
本当に。
「そういやさ、お前部活どうする?」
「部活?」
「あれ? お前谷井ちゃんの話聞いてなかったの?」
それ誰?
「あー、お前トリップしてただろ? 脳内で誰とイチャイチャしてたのやら」
「いや、ちょっと飛んでただけでイチャイチャはしとらん」
ちょっと過去に飛んだ事が後を引いてセンチになってただけだ。
「谷井ちゃんってのはクラスの担任ね、新任教師だってよ。で、だ」
新任教師だからちゃん付けってのはちょっと可哀想だと思います。
「うちの高校はどうやら部活に入るのは決定で、入らない場合は何かしら理由が要るんだと」
「帰宅部で」
帰宅部も部活って誰かが言ってた。と、思う。
「それ部活じゃないから。ってか、帰宅部無いから」
「あれ? ……まぁ、そうだよなぁ。とりあえず落ち着いたら見学行くか」
出来るだけ迅速に終わって帰れる部活、疲れない事が条件。
「漫研もないからなぁ、うち。文芸部とか辺りで落ち着くかね?出来れば頭に第二が付いてればいいんだけど」
それはキラ☆キラ輝かしい部活動に勤しめるでしょうね。個別ルートで鬱っても知らないけど。
「それなら軽音部だろ」
「いや、漫画やアニメでよくある部活はどうやらうちには無いらしい」
「やっぱ軽音部も実際あるとこは少ねぇよなぁ」
あるとこにはある、でも結構ない。それが軽音部らしい。
「吹奏楽部やコーラスなんかは結構あるんだけどな。うちにもあるらしいし」
部活、か。そういえば、あれ面白かったよなぁ。
「作るか」
「保守派のお前にしては珍しい意見だねぇ。で、軽音? それとも第二文芸部か? まさかSOSとは言わないと思うが」
「セクシー……」
冗談を言うつもりだったのにそう矢継ぎ早にそんな事言われたら、この冗談の面白みが薄れるでしょう?
「そりゃ無理だ。うちの校長わかめ植えてねぇし」
「……冗談ですよ」
砂糖もミルクも入ってるはずのコーヒーが苦い。
「とりあえず、明日辺り回るか」
「だな。今日のところは戦利品を携えて懐かしの故郷へ帰るとすんべ」
「あー、今日はパス。色々思うところがあって疲れた」
心が疲れるってこういう事を言うんだろうか。気も重いし体も重い。
「おい、お前の体はもうお前だけのもんじゃないんだぞっ! もっと大事にしろ!!」
とりあえず馬鹿のケツを蹴り飛ばして帰る事にした。