「私は早い音楽は苦手なの」
彼女は突然そう切り出したかと思うと、ゆっくりと窓のサッシに右足を乗せる。今思えば何故その行動に疑問を持たなかったのだろうかと強く思う。窓辺に立っていて、そして彼女は足をかけている。傍から見ていたとしたならば、その光景から読み取れるものは一つしかない筈だ。
ならば、何故僕はその彼女の動作を止めようとしないのか。
答えは至極簡単だ。
「早いと、その分焦って動かなくてはならないじゃない? 私は歩くような早さが適当だと思うのよ」
彼女に見惚れていたのだ。
その動作の全てがとても美しく見えたのだ。足をかけたことでスカートから現れる白く細い太腿の輪郭、黒髪がさらりと揺れ、そして肩を流れ落ちて行く。黒髪に隠れていた首筋と幼げな顔が窓の外の光を浴びることで更にその白さを強調している。このまま光を浴び続けていたら彼女は本当に消えてしまうのではないかと思うくらい、彼女の肌は輝いていた。
「なるほどね、君の言っていることはよく分かるよ」
僕は落ちついた風な口調を装い、そう冷静に返事を返すが、内心はけして穏やかとは言い難かった。
もしも彼女に付け込むことのできる隙間があったとしたら、すぐにでも彼女の腕を掴み、強引に抱きしめたいと、そんな衝動が僕の心の下の方で暴れ始めていた。だが僕はそいつをぎゅうと力づくで押しこむと理性を全力で支援する。
「そうかしら? 貴方は分かっているだけかもしれないわ」
「そうなのかな?」
彼女は冊子に両手をするりと置きながら一度だけ頷いた。
「ええ、だって私は貴方のことが分からないもの」
だから貴方も私のことを分かることはできない。そう言って彼女は静かに微笑んだ。その言葉が、その表情が、その一つ一つが僕の心をきつく締めていく。そして削り奪い取っていくのだ。好意という名の“興味”を。
「君が言うように僕は君の事が分からないのかもしれないね、けれどもそれを知っていくことはできないのかな?」
僕は極めて穏やかに、それでいて丁寧に彼女に返答を返した。発言の節々に彼女に対する好意が混ぜ込まれていたことは言うまでもなく、そして僕を分からないと言っている彼女も流石に感づいてはいるのだと思うのだ。
「そうね……できないことはないのかもしれないわね」
けど、それも今からできなくなってしまうわ。と彼女はにこりと微笑んだ。
「それは何故だい?」
僕は問いかけた。それに対する返答の意味を分かっているくせに……。
「出来事というのは唐突に、そう“跳ねる”ように突然起きるものだからよ」
そしてその跳ねるような出来事は一瞬のうちに終わった。
汚れ一つない白い肌が、さらりと流れた黒髪が、艶やかさを放つ首筋が、小さくてほっそりとした指が、適度に膨らんだ形のよい胸が、すらりと伸びた足が……。
彼女の微笑みが、全て消失したのだ。
―アンダンテ&スタッカート―
―第一話―
酷く懐かしい夢を見た気がする。僕は重苦しく圧し掛かる布団を跳ねのけて飛ぶように起き上がると頭を二、三度叩いた。脳の揺れる感覚がやけに重苦しい。視界も良好とは言い難く、足元もやけにふらつく。
汗にまみれた寝巻の襟をぱたりぱたりと揺らして服の中に風を入れてやる。覚束ない足取りながらなんとかキッチンまでたどり着くと隅にぽつんと設置された小型の冷蔵庫を開いてコーラのペットボトルを取り出し、キャップを開けてそのまま口に流し込んだ。
コーラはよく冷えていたし、その痛いほどに走る炭酸の刺激とその中に微かに存在する甘みを感じ取りながら僕は半分ほどコーラを飲み、そして一度大きくげっぷをしてから息を吐き出した。
大分感覚が戻ってきた気がする。視界が多少なりとも開けてきたし、まるで粘液の中にでも入っているかのようだった感覚も少し剥がすことができたようだ。
「……三年前の夢、か」
無言のまま天井を見上げ、そして先刻まで見ていた夢について考える。
やけに周囲とは違う空気を持った少女だった。そしてそれゆえに他との交流をあまり好んでしていなかったし、周囲からもあまり良い印象を持たれていなかった覚えがある。
けれども彼女はそれに大した反応も見せなかったし、いつだって凛とした姿でその世界に“滞在”していた。多分彼女に惚れた理由はその辺りだったのだろう。他に流されずにそこに佇む彼女の姿勢が、とても僕には素敵に見えたのだ。
勿論それからすぐに彼女に会話をすることはできなかった。というよりも、どう切り出すべきなのかが全く分からなかったのだ。当時、というよりも今もそうなのだが、僕はどうも奥手な性格である為、異性はおろか同性とでさえあまり多くの付き合いをすることはできていなかった。
いつか声をかけてみたいと思いつつ、そのまま日々が過ぎて行ったのだが、ある日、転機が訪れた。
――貴方っていつも音楽を聴いて一人でいるのね。
突然の出来事であまりよく分からなかった。だが混乱状態の脳内の中でたった一つのワードが全てを解決してくれた。
【彼女の方から声をかけてくれた】の一文。
そのきっかけから僕と彼女は頻繁に会話をするような仲となっていった。僕自信頑張ったことは何一つとしてないし、その頃の生活は彼女の行動によって動かされていた気がしなくもない。だがそれも悪くはなかった。
彼女は穏やかで、あまりテンポの早くない曲を好んで聴いていた。僕自身どちらかというと激しい曲よりも落ちついた曲やゆったりとした曲を聴く比率の方が高かったので、趣向の合う者同士として話も合った。
暫くして僕の感情が高まっていき、どうしようもなくなっていった。彼女が欲しい。彼女を今独り占めにしなくては、もしかしたら彼女の魅力に気付く者が出てくるのではないかという感覚に襲われたことがあった。
「今思えば、あれが全ての終わりだったんだろうな……」
僕はもう一口コーラを飲みこむと一度だけ背伸びをし、それからベッドへと戻るとそこに腰かけた。ぎしりと音が静寂だらけの部屋に一度だけ響き渡った。歯応えの良い音だなと口を閉じたまま、そう呟き、そして枕元の携帯に手を伸ばした。
【着信:二件】
珍しいものだ。と僕は少しだけ口を歪めた。滅多に携帯を利用したがらない僕にメールや電話を入れる者はそういない。というよりもそこまで知り合いが多くないからというのもあるわけであるが。
僕は着信履歴を開いてから、その二件を眺め、そしてそれが同一人物であることを確認してからその番号に電話を入れた。
――高橋ユキヒト。
一。
二。
三。
コールが止んだ。
『やあ明良(あきら)、お前から電話なんて珍しいじゃないか』
スピーカから聞こえてきたそのやけに甲高い声に僕は一度溜息を吐いた。やはり起きてすぐにあまり聴きたくはない声だ。
「お前から電話してきたんだろう。それで、何の用なんだユキヒト」
ユキヒトは一度だけ含みのある笑いを吐き出し、そして僕の名を呼んだ。
『同窓会をやろうと思うんだが、お前参加する?』
「同窓会か」僕はそのワードを口に出してからなるほどと呟く。
『一応今連絡取れる奴にどんどんかけてるんだ。折角ならクラスで集まりたいしな』
「それもそうだな。ああ、僕も久々に高校のメンバーの顔を見たいとは思うし」
その返答に彼は大分喜んだようで、甲高い声を更に甲高くさせながらまだ予定状態の日程と時間と集合場所を指定し、そして用が済むとさっさと切ってしまった。数年近く会話をしていないというのに無駄話の一つもせずに切るとは。と僕は少し切ない気持ちを抱えながら携帯を枕元に放り投げ、ごろりと寝転がって天井を見る。
高校を卒業してからもう三年が経つ。その間にも色々な事があったし、忙しさに目が回ることも多々あった。けれどもそれなりに穏やかに暮らしてきたつもりだ。
――私は歩くような早さが適当だと思うのよ。
そういえば彼女はあの時そんなことを言っていたかな。彼女の言う歩くような早さでここまでやってきているかどうかと聞かれたとして、それに対する答えは“わからない”としか言いようがない。
まず彼女の歩くような早さがどれほどの速度を示していたのか。そしてそれに対する事象の流れ方も、全て彼女にしか分からないからだ。理解しているというような言葉を吐き出しておきながら、今となって考えれば確かに僕は彼女のことを少しも分かっていなかったのだろう。
そしてそれを聞くことも今となっては不可能となった。
穏やかな音の流れの中で突然表記されたスタッカートが全ての調子を狂わせてしまったからだ。もう彼女に答えを問いかけられる機会は消え失せてしまったのだ。
がさり、と玄関の方から音がした。ベッド横の机に置かれた小さな腕時計を覗き込んでみる。時針は四、分針は六を差し、秒針は休むことなく円を歩き続けていた。
「新聞にしては早い気がするな」
僕は立ちあがるとひとまず閉じられたカーテンを開いてみる。青白い光が世界を支配していて、冷えた静寂が周囲を包み込み、まるで僕以外の人間など存在しないのではないかとさえ思う程そこは無音に満たされていた。
だがその感覚も犬の散歩を兼ねたランニングを行う女性と目が合ったことによって消え失せた。
僕はひとまず緩んだ感覚を引き締める為に洗面所で顔を冷たい水で洗い、歯を磨いて口を濯ぎ、そして紺色のジーパンと黒の長袖に着替えた。そして一息ついた後にテレビの電源を付け、キッチンに置かれたトースターに食パンを一斤投じると傍にママレードとバターを添えておく。ついでにコンロで水を入れたやかんを火にかけて紅茶の準備もしておいた。
パンが焼きあがるのとやかんが沸騰するまで多少時間があるので、僕はそこでやっと玄関へと向かった。
あの音が錯覚であった可能性も否めない。確かにあの時久方ぶりに見た夢によって感覚が混濁していた。それによって起きた幻聴を実際の音と勘違いした可能性だってある。
僕が玄関へと向かい、ポストに目を向けようとした瞬間、がこん、と新聞が投入された。あまりのタイミングの良さに驚きつつ、やはり先程の音は幻聴だったのかもしれないという考えが強くなってくる。
「まあ気のせいだったんだろうな」
僕は一度深呼吸をしてから感覚がはっきりしていることを確かめ、そうしてから新聞を手にした。
と同時に、その奥の白い封筒に目が行く。
僕は無言のままそれを手にする。やはり先程のは幻聴ではなかったらしい。ならば一体誰がこの封筒を入れたのだろうか。
そしてその疑問に対し、封筒はイタズラに笑いながらその隅に書き留められた名を答えとして提示した。
その名前を見た瞬間、僕の思考は真っ白になった。
――宮下亜希子。
三年前に僕の目の前で窓から飛び降り、この世から姿を消したあの少女の名が、はっきりとその封筒に書いてあったのだった。
――出来事は跳ねるようにして始まるものだ。
数年間忘れたままであった彼女の声が聞こえた気がした。
続く。