ふと空を見上げてから僕は思う。今ここでこうやって僕と言うものが“生存”し、いつか来るであろう“死”を待ち続けて日々心身を削っている間、彼女達は一体何をしているのだろうかと。
例えばそれが来るべくしてきた命ならば、それは巡り巡ってまた生を受けてこの世界に舞い降りるのかもしれない。別に僕自身そんな空想上の括りにカテゴライズされる思考には全くの興味はないが、果たしてその後どうなるのだろうかと考えると、自然とそんな考えが浮かぶのだ。
ならば、臨まざる死を受けた者はどうなるのだろうか。
受けるべき苦労も、感じるべき快感も、想うべき愛情も、その身体が手にするべきであったそれを感じれずに終わった者はどうなるのだろうか。
もしかしたらその望まざる死がその者の来るべきものだったのかもしれない。けれどもそのわだかまりを抱えた何かは一体その先どうなるのだろうか。
僕はなんとなく想像したそれに恐怖感を覚えた。
いる筈のない存在を信じるつもりは全くないが、それでも“もしも”という可能性を考えてしまうととても怖くなるのだ。
「明良」
はっとした。思考という沼地に潜り続けていた“僕”がそこでやっと浮上し、姿を現してはっきりと暮れかけの空を視界へと入れた。思考している間の目は何故その景色をシャットアウトしてしまったのだろう。こんな風景を見ながら思考を巡らしていたならば、妙に暗い感覚を覚える“存在”が脳裏に思い浮かぶことはなかったろうに……。
「どうした? 空なんか見上げて」
そう呟きながらユキヒトは疑惑の視線をこちらへと向ける。
当たり前だ。先程まで喋っていた相手が突然立ち止まり、空を見上げてそのままスイッチでも切ったかのように反応しなくなっていたのだ。僕だって目の前にそんな奴がいたら不審げな目を向けたくなる。
「いや、少し考えていたんだ」
不意に、彼ならこんなことを口走っても受け入れてくれるような気がした。その理由や根拠がどこから来ているかと言われれば全くの不明だが、そんな気がした。いや、“話さなければならない”気がしたのだ。
「何を?」
僕は一拍溜めてから、呻くような低い声で呟いた。
「死神の存在について、さ……」
アンダンテ&スタッカート
―第三話―
「死神、か……」
人で埋め尽くされ、ざわざわと様々な音が重なって異様な耳触りを覚える世界で彼は繰り返すように呟く。
「道中で話したこと、まだひっかかっているのか?」
僕はコーラを口に含み、その炭酸による刺激を十分に味わった後、ビールを片手にひたすらに呻く彼にそう問いかける。
暫く物思いにふけっていた時に生まれたその死神がユキヒトにはとても興味深いもののようだ。
「いやぁ、現実志向のお前の口からそんな言葉が出たものだから、な」
僕が口にした死神。
それは脳裏で次第にカタチを成し、そして今ではハッキリとした姿を持っていた。
白髪で生気のない青色の瞳に、具合の悪そうな肌と血のように真っ赤なローブを来た男。何故仮にも神と名のついている者が性別で区分けされているのか分からないが、まあ僕の考えなのだ。気にすることはない。
それだけ怪しげな空気を纏っているのにもかかわらず、顔だけはやけに整っていて街中にいたならば男女問わず、思わず目で追ってしまうのではないかという程のものなのだ。
そして彼の顔は死が近い者程ハッキリと、くっきりと見える。
そうやって彼は、死神は死期が近い者を刈り取っていくのだ。
そんな妄想を僕は道中で彼に話していた。勿論それを本気にする程彼も馬鹿ではないし、本気で話すほど僕も阿呆ではない。
それを現実に引き出せるような絵心を持ち合わせてもいないので、これは心の中に仕舞っておく。
「まあ所詮は僕の妄想だ。そこまで気にすることはないさ」
「……まあ、それもそうだな」
彼はビールをゴクリと喉を鳴らし、ジョッキ半分ほどを下すと上手そうに息を吐きだした。その高校時代とはまるで違う彼の姿を見て新鮮さを感じつつ、僕は彼の隣に座った。
高校時代といえばそれなりの付き合いもあり、さしたる年月も経っていないのだから意外と顔を覚えているものだと踏んでいたのだが、僕はどうやら大半の人間の顔を忘れてしまっていたらしい。名前を聞いてやっと思い出せる者や、酷い時は名前を聞いても頭に浮かばない顔がちらほらといて、いつの間にか周囲で思い出話をしている者たちの話を聞く役回りとなってしまっていた。
思い出せないのだ。仕様がない。
「正直な話をしてもいいか、明良」
ふと吐き出された彼の言葉が次に紡ぐ言葉が、僕には容易に理解できた。
「意外と思い出せない顔が多いものだな」
なんだ、やはり皆そんなものなのだな。僕は彼の発言でやっとつっかえていた何かが炭酸の抜けた甘ったるいコーラと一緒に下っていったのを感じた。
「そういうものさ、僕自身だってハッキリと思いだせる奴はごく少数だよ」
「さて、その中に俺の名前はあるかな?」
軽い冗談を受けて僕は思わず笑った。彼もにへらと酔いによって次第に締りの無くなってきた顔で笑う。酔った人間の笑顔というものはどこか誘うような雰囲気と、安堵感を覚える。感覚的なものだが、なんだか面白いものだ。
「まあ大体覚えてるのは印象的な出来事があった奴と、特に仲が良かった奴くらいだな」
「あ、明良君、久しぶりだね」
ユキヒトと二人で談笑していると誰かが声をかけてきた。控え目な化粧と今時な髪型、おとなしげに見える幼い顔立ちをした少女が僕に笑いかけてきていた。
「奈々ちゃん久しぶりだな」
暫く彼女について思考を巡らせていると、ユキヒトから助け舟が出る。ああ、と僕はやっと目の前の少女が誰なのかを思い出した。
三島奈々子。
図書委員か何かをやっていて、いつも隅で本を読んでいるメガネ少女だった覚えがある。誰かと一緒に行動しているかといえばそういった付き合いもそこそこのようであったし、一人でいることが好きな子であった気がする。
「随分と、変わったね」
「ええ、コンタクトにして髪型を変えてみたら、皆から印象が変わったって言われるの」
自分でも驚いた。とは言っているもののこれだけ容姿を弄れば雰囲気が変わるのは当たり前だろう。いつか見た穏やかな表情で本を読んでいた文学少女の印象はガラリと僕のイメージの浮かび上がったばかりの脳裏から崩れ落ちて消えた。
「明良君は、相変わらずね」
「ありがとう、特に何かを変えようとはしていないからね」
そういって僕はコーラのおかわりと注文した。三年という月日でそれほどがらりと変わる人間は少ない。少なくとも、変えようと意識する者以外は。
「私は思い切って大学デビュー目指してみちゃったから」
彼女は僕の隣に座るとグラスの中で踊る氷で遊び始める。くるりくるりと氷は廻り、浮き沈みを繰り返している。
「結果は?」
「全然よ」
氷が沈んだ。
ああ、そんなものなんだねと僕は当たり障りのない言葉を返すとやってきたコーラを手にし、ぐいと口に流し込む。
「私自身頑張ろうとはしたんだけれど……意外と駄目なのよ」
「何が?」
「私っていうイメージがもう沁み込んでしまっていて、変えようと思っても気づいたらそうなってしまってるの。ほら、ふとした時に我慢してたのに貧乏ゆすりが出てたりするじゃない。あんな感じで、止めようとしてもいつの間にか浮き上がってきてしまうのよ」
沈んだ氷が浮かび、そしてくるりとまた廻り始める。
「そんなものか」
「そんなものよ」
僕はコーラを飲み、彼女はカクテルを口にする。気づけば隣にいた筈のユキヒトは姿を消していた。多分他の面子に絡みに行ったのだろう。まああまり知人の少ない僕にとって動くことはただ疲れるだけの行為に等しい。
ここで座って、折角声をかけてくれた彼女といるのが孤独感を感じない一番良い選択だろうと思う。
「ねえ、明良君?」
そういえば高校時代、彼女は僕を下の名で呼んだことがあっただろうか。とふと思い立った。まあもう高校時代のことをあまりはっきりと思いだせないのだ。きっとどこかしらで馴染んでいたのかもしれないし、自然とそう呼ばれていたのかもしれない。
投げ出すように置かれていた左手に誰かの手が絡まってきた。いや、その人物はとうに分かっている。というか一人しかいないだろう。
「結局高校以上に開けた場所に行ったって、基礎的な部分が不安定な人間は何をやっても地味に終わるのよね……」
「へぇ」
この時僕は珍しく無感動さを強調した返答をした気がした。
けれども、その一種の拒絶反応を経ても彼女の手は生物のように僕の手を撫でまわす。
「どうにかしたいってもがけばもがくほど、とても寂しくなるって……なんだか難しいな」
僕は彼女をけして見ずにコーラに口を付ける。喉を通っていく炭酸がふわりとした甘い香りや意識を保ってくれている気がした。何故今僕はこの炭酸飲料を生命維持装置のように使用しているのだろうかと自問自答しながら、隣からやってくる何かよくわからない感覚を避け続ける。
次第に僕にその気が全くないことを感づいたのか、彼女は手を離し、遠くを眺めながらカクテルを飲み続けていた。
―――――
結局同窓会とは名ばかりの二人ないし三人という個人飲みは終わった。僕が動けばもっと和気藹藹とこの再開を順応できたのかもしれないが、生憎僕はそういった付き合いができるほど強くもないし協調性もない。忘れた人間のことを思い出すことでさえやっとなのだ。そんな無理な行動に出ても次第にボロが出ていただろう。
「明良、じゃあまたな」
ユキヒトはそう言うと甲高い笑い声を上げ、集団の一人として消えてしまった。
「明良君は行かないの?」
三島は少し赤色がかった顔でこちらを覗き込み、そう問いかける。僕は一度だけ頷くとポケットに手を突っ込み、携帯の存在をはっきりと確認した。
「じゃあ途中まで帰ろうか。駅までは一緒でしょう?」
そうだね。僕は簡潔なまでの四文字を吐きだすと彼女と共に歩きだす。
暫く歩いているが、飲みの時のような接触はおろか、誘惑は全くなかった。それが果たして酔った勢いだった為、少し外の風を浴びた彼女が自重してのことなのか。全く僕自身にその気がないことが分かり、すっぱりと斬り捨ててしまったからなのかは解らないが、ともかく穏便に出来事が進むのならそれでいい。
「そういえば、明良君はまだ、宮下さんのこと……」
その名を聞いて、僕は彼女をじっと見つめる。
その視線で彼女も解ったようであった。
「当たり前だよね。あんな別れ方したんじゃ……」
そういうのではないんだ。僕は彼女の言葉を遮った。
「多分想い続けているとか、死んだことを受け入れられないんじゃないんだよ。もう二度と彼女に会えないことは理解しているし、このままではいけないとは思っているんだ」
けれど、僕はふと空を見上げた。
星一つない真っ黒く深淵に染まる夜空が顔を出して僕を招いていた。僕にはそれがなんだか死神のような気がして、一度だけ震えてみた。
「区切りが欲しいんだよ。何かハッキリとした切り替え時を僕は今じっと待っているんだと思う」
そう言うと、彼女はふふ、と微笑む。
「無理に変えようとすると、癖になってしまうかもしれないからね」
そう付け加えると、彼女は少し目を開いた後、恥ずかしそうに笑った。再開してから見た顔の中で、その表情が一番綺麗だと僕は感じた。これが自然なのかな、と。
「そうね、私も、無理に変えずにどこかでがちりと組み替わるタイミングを待つべきだったのかもね……」
「人それぞれだとは思うけど、気持ちの切り替えは無理にやってはいけないもんなんだよ。それは切り替えじゃなくて、無理をしているだけなんだと思う」
勿論、気楽にと言っていられるほどの余裕があるかと聞かれれば、難しいものだが。
「私、もう少し気楽にやってみようかな」
そんな彼女の言葉に一度だけ頷き、僕は肯定の意を示した。
「私、同窓会に来て、明良君と話せてよかった。なんだか気が楽になったもの」
「こんな捻くれ者の言葉で気が楽になったなら、良かったよ」
彼女はもう一度だけ笑うと、気の緩んだ僕の懐へと潜り込むと思い切り僕の唇へと飛び込んできた。
突然の事だけれども、僕はそれをけして否定はせずに、ただ彼女のしたいように、してもらいたいように意識を動かした。
それがなんの為のキスであるのか僕には全く理解できない。けれども、彼女が欲していた区切りなのかもしれないし、もしくはただの気まぐれなのかもしれない。ただ、今僕は利用されるままとなっているべきなのだろう。
数秒して、彼女は離れるとよいとは違う朱色をした頬と笑みを僕に見せた。
僕も笑い返した。
多分これ以上先の出来事はないだろう。彼女もする気はないだろう。
そうして僕らは再び歩き出した。
「……明良君に、一つだけ言わなくちゃいけないことがあるの」
「なんだい?」
彼女の遠慮がちなその言葉に僕は問いで返事を返す。が、彼女は「なんでもない」と言うとそのままそっぽを向いてしまった。
彼女がその時何を言おうとしていたのか、僕は解らない。けれども、多分僕にとって区切りの一つとなる欠片だったのかもしれない。
―――――
駅に着いて、僕らは笑顔で別れた。
電車に乗って、珍しく空いていた座席に腰をおろし、背もたれにずるりと背をくっつけると僕は息を吐きだした。
なんだか不思議な一日だった。同窓会等日常的な出来事の一つである筈なのに、それがなんだか非日常的な何かと繋がっているような感覚がしたのだ。
「――死神」
夕方に呟いた一言を思い出す。あれは、何故あのタイミングで思い浮かんだのだろうか。
僕の気まぐれなのか、何か僕の中で何かが変わろうとしているからなのか。
いずれにせよ、あの白髪の死神は暫くは忘れられそうにない。
とにかく帰って寝よう。寝て今日のこの感覚を捨て去ってしまおう。三島との出来事も明日になればすっぱりと忘れてしまうことだろうから。
そうして帰宅してぐっすりと眠っても、結局三島奈々子の事は忘れることはできなかった。
それは何故かと聞かれれば、答えは簡単だ。
同窓会の直後から、三島奈々子の所在がつかめなくなったという話が舞い込んできたからだ。
つづく