僕がこの日記を開いたことで起こった出来事は、膨大な時間の中で言えば些細な出来事にしか過ぎないのだろう。けれども、着実に、この行動によって事象は動き、僕をゆるりと引きずり込んでいく。
彼女の辛い状況、そして衝動のままに書きなぐられた言葉の暴力はあまりにも強烈で、僕の中の彼女の存在や姿をじわりと滲むような感覚で変えていった。
――私は何故我慢をしているのだ。
――全て皆が悪いのではないか。
――恨みたいけれども、誰を恨めば気が晴れるのか……。
数々の言葉は僕の中でその一つの“答え”に確実さを与え、そしてこれだけの嘆きに全くもって気付かなかったことに僕自身腹を立てる。
――明良君の事は好きだ。
ページをめくった先に待っていた一文。
書きなぐられた文字に塗れた中でそれは珍しく丁寧に書かれていた。僕はその先を食い入るようにして読んでいく。日付を見ると、彼女が飛んだ日の一週間程前。ほとんど終わりに近いページのたった一箇所に記された唯一の僕に対する記述。
――でも彼は多分、私を助けることはできない。救いを求めたとして私のこの感情を抑えることのできる人物では確実にない。けれども、今後起こる事を最も間近で目の当たりにしていい人物であると思う。
それは、果たして喜ぶべきことであるのだろうか。
――彼は私の姿をきっと追う。だから、彼にできればたった一つ、小さな私の願いを伝えたかった。
その先に書かれていた文章が、僕の小さな世界でその全ての事象と手を繋ぎ始める。
――狂ったように一方的に愛し、ただひたすらに一方的に見続け、そして、私になりたいと執拗に追いかけてきた人を……私になりきってしまう前に――
その追跡者なる人物は、事の顛末をどれだけ知っているのだろうか。
―アンダンテ&スタッカート―
―第九話―
いつもと違う喫茶店は使うべきではないなと、僕は周囲を眺めてから顔をしかめる。妙に小奇麗で、お洒落な小物で彩られた部屋は、妙に甘ったるい空気が漂っていて慣れる気がしない。
木崎と会う約束をした時、僕は一つだけ約束を取り付けた。
けして嘘をつかない。ただその一言。
協力をし、円滑にこの失踪事件の真相を目にするには、全てを互いに明らかにしていかなければならないと思う。その旨を彼女に伝えた時、木崎はそれをすぐに了承した。だが、僕自身が動かなければ彼女はけしてその“事実”を触れようとはしないだろう。きっとその為には話を逸らす、いや嘘すらつく。
だからこそ僕から一つ、彼女に“ナイフ”を突き立てる必要がある。
「遅くなってごめんなさい」
「いや、それほどでもないさ」
彼女は挨拶と共に向かいの席に座ると紅茶を注文し、そして一息つく。
「それで、早速だけれども本題に入りたいんだ」
木崎は頷く。僕はそれを確認してから、一度紅茶を口にすると、暖まった口から冷めた体で言葉を吐きだす。
「宮下亜希子の死因についてだ」
一瞬、時が止まった。
彼女は目を白黒させながらこちらの顔色をうかがっている。
「どういうこと? 宮下さんは自殺、でしょう?」
「そうさ、宮下亜希子は自殺した。けれども一つだけ全く解明されていないことがあるだろう?」
その言葉で、彼女はやっと僕が何を言わんとしているのかを悟ったようであった。
「現在“失踪した人物”は、全て彼女、宮下亜希子を苛めていた人物である。君なら知っているのだろう?」
彼女は宙を見つめ、横に視線を移し、下に視点を移動させる。けしてこちらに目を合わせないところを見る辺り、正解と見て良いだろう。
「別に僕は彼女を苛めて殺害したことに対して、なんの恨みも持ってはいないよ」
「……どうして?」
このどうしては、果たしてどちらのどうしてなのだろうか……。
「最も止められる位置にいたからさ。僕が」
けれども僕は止めなかった。助けを求めていたのか、それともお別れであったのか、それともいつまでも助けに気付かない僕に対する報復であったのか。一体宮下亜希子の心情が如何なるものであったのか分からない。
けれども、僕にだって“罪”はあるのだろうし、この輪の中にいるということは、僕はまだ未練に塗れ、そして彼女を引きずっているようなものなのだ。
だからこそ僕は、彼女の願いをかなえることによって、彼女から脱却しなくてはならない。
その為に、この事件を終わらせる。僕が再び歩き出す為の道なのだ。“ここ”は。
「それで、苛めの内容はともかく、関わった人物を教えてほしいんだ」
「……」
「この失踪事件の首謀者も大体予測はついた。あとはそいつの尻尾を捕えることでこの事件は終わるんだよ」
無言を貫く彼女に対し、僕は追撃を与える。
「この犯人は多分宮下亜希子の亡霊として行動している。つまりは苛めた人物を一人一人復讐代行というカタチで行っている」
「どういうこと……?」
「自殺の理由として浮かび上がったもう一つの原因が、ストーカーだ」
木崎は口を一文字にしてこちらを見つめる。戸惑いと動揺と混乱を孕む瞳。だが僕は気にせずに続ける。
「ストーカーは最終的に【宮下亜希子】となろうとしていた。何故今になって動きだしたのかは分からない。けれどもそいつが宮下になりきろうとする場合、まずしなければいけないのが――」
「【私】を死に追いやった人物への復讐……?」
僕は頷く。
「宮下はきっとこう思っているだろう。なら自分がそれを代行しなければならない、とね」
「……過剰すぎるわ」
「だがそんな幻想的な人物が一人現れることで道が一本になってしまうんだよ」
気がつけばカップに並々と注がれていた紅茶は消えていた。ここまでの会話で大分口を乾かしてしまったようだ。僕は二杯目を頼むと、再び木崎に言葉をかける。
「だから、解決の為に何をしなければならないのか、分かるだろう?」
沈黙。
「……苛めの加担は私が六人目、綾瀬岬が八人目、三島奈々子が九人目なのよ」
彼女は静かに語り出す。
「つまり」
「きっと、次の次に私が狙われる……」
そう話す彼女の手は震えていた。僕はそんな彼女の手をそっと握る。
「初めは、落ち着きがあって冷静な彼女に憧れを抱いていたけど、ある時、こんな事を言った人がいたのよ……」
――彼女のあの表情が崩れるのを見てみたくない?
「それが、君の加担理由?」
木崎はこくりと頷く。
「初めはちょっと驚く姿を見て、それで彼女も同じ人間なんだなって思いたかっただけだった……でも、彼女はそんな素振りを全く見せなかった」
その筈だ。彼女は内側に溜めこむ性質だったのだから。と僕は日記の内容を思い出しながら、音のない声で呟いた。
「そしたら、突然自殺したって……。私、そんなに彼女のことを嫌っていたわけでもないのに……」
「他の人は?」
「綾瀬は単純に嫉妬だった。彼女の素振りが気に入らないって。奈々子は自分が好意をもっている男が彼女のことを好きだったらしくて……」
そこで僕はゆっくりと、肺に溜まった色々なものを溜息として深く吐き出した。
「嫉妬、か」
嫉みを孕んだ人間の行動はとてつもなく醜くて、それが集団となるととてつもなく恐ろしくなる。宮下に対する嫉妬の結果がまさにそれだ。まるで泥沼にいるような、そんな感覚が僕を引きずり込んでいく。
「それで、他に誰が苛めていたのか、そして、首謀者を言ってくれ」
「……」
「七番目で止めれば、君は助かるんだ」
その言葉で、彼女はやっと重い口を開いてくれた。
―――――
彼女から出た人物の名は、意外だった。おそらく同窓会にいた面子ではない。
ならばこれは偶然であったのだろうか。偶然に、順番の早い者が同窓会に来て、そして順々に連れ去られて行っている。もしくは同窓会の参加メンバーにも何か裏があった可能性も否めない。
もしもストーカーが表向きには、皆と仲の良いクラスメイトであったとしたなら。そんな人物が熱意をもって人を呼んだとしたら彼女たちは来るのだろうか。
偶然には見えないが、それも次で分かる筈だ。
七人目の加担者、多田紫乃を早急に追えば死神を捕えることはきっと可能だ。
幸い連絡先も手に入っているし、あとは連絡を行えばそれで自体は急速に収まる。色々とこの事件の首謀者に聞かなければならないこともある。
自宅の扉を開き、靴を乱暴に投げ捨てると僕はベッドにもたれかかる。やけに精神を使う一日であったと、ベッドの柔らかさにじんわりと身体を癒されながら僕は携帯を覗き込む。
苛めを始めた人物の名は「日吉飛鳥」という女性らしい。あまり彼女と接触をしたことがないから分からないが、やけに頭が切れるらしく、苛めの内容も細かかったらしい。それが精神的に追い込めるだけのものを秘めていたと思うと、確かにひやりとする。
さて、もしも彼女と接触した時、僕はどうしようか。
「ひとまず、殺してやろうか――」
ふと、出てきた言葉に僕は自分で驚いた。
思わず周囲を見渡すが、誰かが言った言葉ではなく、僕自身が吐きだした言葉であることをすぐに理解し、そして思わず噴き出した。
ああ、僕も一応怒りは感じていたのだと、意外と宮下に対してドライである自分に違和感を感じていたが、実際のところ、心のどこかでは未練にへばりつくようにして感情も一緒に埋まっていたようだった。
「振られて、目の前で自殺、か……」
最悪の失恋だったよ。僕はあの日から携帯に残り続ける宮下亜希子の番号を見つめながら、ぼんやりと呟き、そして小さく声を押し殺しながら少しだけ涙を流した。
明日になったらまたドライになろう。だから、今だけは感情的にさせてくれ。
果たして僕は誰に許しを請うているのだろう。視界を埋め尽くす涙と、息苦しさに、次第に思考は薄れ、途切れて行った。
――随分と眠ってしまったようだ。
目が覚めた時、目にまとわりつくようにして残っているじりりとした痛みと、息苦しさに多少の嫌悪感を抱いた。そんな感覚を捨て去る為に僕は衣服を脱ぎ捨てるとシャワーを浴び、身体や髪を洗ってから、情けなくなった顔に思い切り湯をぶちまけた。
割と意識がはっきりしてきたことを曇った鏡を手で強引に拭ってから確認すると、僕はタオル一枚で部屋へと飛び出し、冷蔵庫からコーラを取り出して思い切り煽った。
今日はやらなければならないことがある。様々な出来事が明らかになるかもしれないのだ。気合いを入れなくてはならない。
自らの頬に一発、二発と平手を入れてから呼吸をし、ベッドの上ズボンとシャツと上着を放り投げると僕はベッドに腰掛け、テレビをつける。
そこで、僕は思わず頭が真っ白になってしまった。
「川で遺体が発見。身元確認の結果、死亡したのは木崎美紀さん――」
つづく