コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。耳には落ち着いたクラシック音楽が流れ込んでくる。ユウはこの喫茶店に何ともいえぬ居心地の良さを感じながらカウンター席で新聞を読んでいた。
ページを捲り、コーヒーを一口飲もうとしたところで横から「よう」と声をかけられる。振り向くと、よれたジャケットを羽織った中年の男が隣の席に座っていた。笑みを浮かべながらユウの方を向いている。口元からヤニで汚れた歯が覗いていた。
「あんたか」
ユウは大きくため息をついた。
「そんなに嫌そうな顔をするなって兄ちゃん」
「この時間帯はあんたがいないと聞いていたんだがな」
ユウがカウンターに目を向けると奥で店のマスターが申し訳なさそうな顔を浮かべていた。
「俺がいつこの店に来ようが俺の自由じゃないか。そう邪見にしないでくれよ」
中年の男はさらにユウの傍へ近寄ると、新聞を覗きこんだ。
「若いのに新聞を読むんだねぇ兄ちゃん。感心、感心」
ユウは眉間にしわを寄せながら自分の身体を男から遠ざける。
「お、この事件の犯人捕まったのか」
男はある記事を指差す。そこに載っていたのは三十年前に起きた連続猟奇殺人事件の犯人が逮捕されたという記事だった。
「当時はかなり騒ぎになったもんだよ。殺しの手口があまりにもえげつないってさ。俺がガキの頃の事件だけど、よく覚えてるよ」
「私も覚えてますよ。やっと逮捕されたんですねえ。本当にひどい事件だった」
いつの間にかマスターもユウたちの方に近づき、話に入っていた。
男とマスターは事件当時のことを振り返って盛り上がっていたが、その事件に興味がないユウは自分からは話に入ろうとはせずに、コーヒーを啜りながら二人の話を聞いていた。
「しかし、あれだけのことをしておいて三十年間のうのうと暮らしていたわけだろう。なんだか腹が立ってくるな」
「のうのうと、ってことはないでしょう。警察におびえながらビクビクと暮らしていたんじゃないですか」
「確かにびびってたかもしれんが、それでも三十年間日常を謳歌していたはずだよ。俺には分かる」
「なんで分かるんですか……」
半ばあきれながら、マスターは男に問う。
「分かるもんは分かるんだよ。こいつみたいな頭のネジが外れた邪悪な人間は世の中にごまんといるんだよ、マスター。俺はいままでそういった人間に何度か会ったことがあるけど、みんな普通じゃなかったね」
「犯罪者と何度も会ったことがあると?」
「犯罪者とは言ってないだろ。俺が会ったのはただのイカれた人間だよ。犯罪者じゃなくとも胸糞悪くなるような人間はそこら中にいるんだ」
男は一人で興奮しながら話を続ける。
「そういったやつらが人に迷惑をかけながらも、それに対して何とも思わず、平然と暮らしてるんだ。嫌になるよ、世の中ってやつは」
男の声が店内に響き渡る。他の客の視線が一斉にカウンターに向いた。
「声抑えてくださいよ。……すみませんお客様」
マスターは慌てて他の客に頭を下げる。
「なあ、兄ちゃん」
そんなマスターを尻目に、男はユウに問いかけた。
「あんたもそう思わないか?」
ユウはコーヒーを一口飲んでから「別に」と冷たく答えた。
「ただいまぁ……っと」
酔いが回ってふらつきながら、一人の青年が自宅の玄関を開けた。
「まあ誰もいないんだけど」
機嫌良く一人で笑い声をあげながら、青年は靴を脱いで部屋に上がる。壁に手を這わせて照明のスイッチを探る。叩くようにして押すが玄関の照明は点灯しない。電球が切れているのだろう。
舌打ちをしながら玄関を閉め、真っ暗なまま居間まで進む。そしてまた手探りで照明のスイッチを探し出すと、苛立ちをぶつけるかのように強く叩く。
数回の点滅の後、暗闇が部屋から消えていった。青年の目の前に広がるのは見なれた部屋。そして中心に立っている見なれぬ何か。
汚れた白いパーカーを着た人間だった。フードを深くかぶっていて顔はよく見えないが男に違いないだろう。パーカーのポケットに手を入れて玄関の方を向きながら直立している。
「ん? 誰だよお前!」
酔いで気が大きくなっていた青年はパーカーの男に向かって怒鳴るが、反応は帰ってこなかった。
「何とか言えよ!」
青年はそのまま相手に掴みかかかり、その顔を覗く。
「お前は……」
フードの中に見えたのは見覚えのある顔だった。青年は侵入者の正体に気づくと同時に声をあげて笑った。
「なんだお前、仕返しにでもきたのか?」
「……話が早い」
初めてパーカーの男が口を開く。ぼそぼそとした小さい声だった。
「お前見たいなひょろっちいのが仕返しだなんて笑わせてくれるなァ!」
そう言って青年はふらふらしながらパーカーの男に殴りかかった。が、酔いが回った状態での攻撃は簡単に避けられてしまった。拳を振りぬいた後にバランスを崩し、そのまま数歩前進して体勢を立て直そうとする。
「痛ッ」
その際に何かを踏んだようで、青年は痛みを感じた右足を上げて足の裏を見る。切り傷ができて出血していた。青年は視線を床に移す。一面にガラスの破片が散らばっていた。
「窓ガラスを割って入らせてもらったよ」
「犯罪だぞてめェ。絶対弁償させ……」
そう言いかけて青年はあることに気付いた。この部屋はマンションの五階にあるのだということに。
「どういうことだよ……」
青年の酔いが急速に冷めていく。
「玄関は鍵がかかってたからね。さっき言った通り窓から入らせてもらった」
声が震えてきた青年に対し、パーカーの男の声は変わらずぼそぼそと小さい声だった。青年はその声に刃物のような冷たさを感じ始めていた。
「でも、弁償するつもりはないよ。その必要がなくなるからね」
パーカーの男はポケットに入れていた両手を外に出す。その指先から異様な長さの爪が伸びていた。
やらなければ……
自己防衛せねばならない。青年の脳が警告を鳴らす。
殺らなければ……
青年は大きなガラス片を手に取ると、再びパーカーの男に襲いかかった。
キィ、と軋む音が静かな部屋に響く。玄関が開き、何者かが部屋の中に土足で入ってきた。
「手遅れだったか」
部屋の惨状を見て、何者かが言った。手には銀製のナイフ、彼は吸血鬼ハンターだった。
彼の眼前に広がっているのは血だまり。そしてそこに横たわる青年の死体。衣服は血で元の色が分からないほど赤く染まっていた。
そして青年の死体の傍らにはパーカーの男。腕まくりしてある右手には大量の血。だがパーカーにはさほど返り血は付着していないようだった。
「吸血鬼ハンター……?」
パーカーの男は狩人の手で銀色に光るナイフを見てつぶやいた。
「その通り。そしてお前は吸血鬼。言わなくても分かるよな」
「まだやらなきゃいけないことが残ってるんです。それまで見逃してもらえませんか」
「人殺しか?」
狩人は青年の死体を指差しながら言った。パーカーの男はその問いに頷く。
「じゃあ無理だな。まあ、人殺しじゃなくてもここで逃がすつもりはないがね」
その言葉の直後、狩人はナイフをパーカーの男の顔面に目がけて投擲した。
致死の刃が銀色の閃光となって飛ぶ。しかし、それはパーカーの男の頬を掠めて後方の壁に突き刺さる。狙った相手への直撃には至らなかった。
「なっ」
一撃で仕留めるつもりでの投擲だったのだろう。避けられると思っていなかったため、狩人の動きが動揺により硬直する。
その隙にパーカーの男が弾丸のように狩人へと肉薄。
「ごめんなさい」
その言葉と同時に鈍い音が部屋の中に響いた。