Neetel Inside ニートノベル
表紙

失戀ジフテリア
ベッドで

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タクシーを呼んで病院へ行き、病院から会社へ連絡を入れて、スーパーでいろいろ買い込んで。
やっと家に帰ってきたのは15時過ぎだった。
「熱があっても意外と一人でなんでもできるものだな。」
帰宅してとりあえずベッドに横になって最初に思ったことだった。

1年前に静岡の実家から出てきて1ヶ月もしないうちに、別れた彼氏と付き合い始めた。
だから一人で病気にかかるのは初めてだった。
彼氏がいた時に風邪を引いたこともあったけど、病院には彼氏が車を出してくれたし、必要な物も買出しに行ってくれた。実家にいた時には親がやってくれていた。
病気になったときは看病してくれる人のされるがままになっていたから、自分で病院に行ったりちゃんと出来るか心配だったけど、意外とどうにかなるものだった。
「身体さえ動かせれば、一人でなんでもできるじゃない。」
貼ってから30分ほどですでに温くなった冷えピタを抑えながらため息をついた。

それにしても、会社に電話をした時が一番つらかった。
大学病院は紹介状があったこともあって、1時間ほどで診察が終わった。
そのあと病院を出てすぐに携帯で電話をかけた。
部長に感染症にかかったことを報告するためだ。
電話には新入社員の女の子が出て、事業部長に変わって欲しい旨をつげると「かしこまりました、しばらくお待ちくださいませ」と丁寧に答えてくれた。
イッツ・ア・スモールワールドが20秒ほど流れて「♪~世界はせまい 世界は同じ 世界はまるい ただひ」くらいで部長の声に切り替わった。
「おお、益川さん。3日も休んでいるようですが、大丈夫ですか。」
「はい、実は病院で診察を受けたところ、感染症にかかっていまして、あと数日復帰出来ないことになってしまいました」
「感染症…それは大変だ。仕事の方の引継ぎは大丈夫ですか?」
「はい、それはお休みをいただいた初日に同期の加藤さんと千川課長に伝えてありますので大丈夫だと思います。」
「そうなんですね。えーと、それでは復帰後に総務の方に諸々書類を提出することになるんですが、…そういえば、何の感染症なんですか?」
「……失恋ジフテリアです」
「ん?聞かない名前ですね。総務の疾病一覧と照会させてもらってもいいですか。」
余計なことはしないでください。と、よっぽど言いたかったがそんなことを言える立場でも無い。
"無駄紙製造機"と呼ばれるほどプリンターすら使えない機械に弱くてうだつの上がらない部長。
人の良さそうな、恰幅の良い、カーネルサンダースのような見た目のおじさんが汗をふきふき総務資料をめくる姿を想像した。
「はい。」
「えーともう一度名前を教えてくれますか、シツ…なんだっけ」
「失恋ジフテリアです」
何度も言いたくないのでなるべくはっきりと言った。
「シツ、シツレンジフテリアですね。…シ…シ………失恋?」
「……」
私に聞かれても困る。
「ははぁ……まぁ、なんだ。会社は大丈夫ですから、安静にしてゆっくり休んでくださいね」
何か空気を読んでくれたのか部長はあっさりと引き下がった。
「……ありがとうございます。大変ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。」
機械的に言って電話を切った。
何か、何かその辺のものを蹴りたいような衝動に駆られたけれどなんとか思いとどまって、病院の入口でタクシーを拾った。

そして近所のスーパーで降りて買物。
その最中に同期の加藤さんこと加藤恵子からメールが来た。
「体調どう?部長からマスのこと大丈夫なのかって聞かれたけど大丈夫なの?失恋ジフテリアとかいうのにかかったらしいね。あの大学のゼミが一緒の彼氏と別れてたなんて知らなかったよー。」
……あの部長……人のプライバシーを勝手にバラしやがって。
加藤恵子は同期で唯一同じ部署に配属された女性なのだが、歩くスピーカーと呼ばれるほど声が大きくてなんでも口に出してしまうタイプだ。
一番仲が良さそうってことで彼女に話が行ったのかもしれないけれど、一番話して欲しくなかった人でもあった。
「いろいろ仕事では迷惑かけてごめん。でも病気のことは誰にも言わないで欲しいや。復帰したらいろいろ話すね。」
釘を刺しておかないと、こいつは絶対に部署全体…もしかするとフロア全体に私の秘密をバラすかもしれない。
「わかってるって!さすがに塚間先輩にしか言ってないよ!塚間先輩にもちゃんと口止めしておいたから大丈夫!」
何が大丈夫なのか。しかしもう相手にするのも疲れるので
「ありがと。熱が辛いので休みます。お休みなさい。」
とメールを打ち切った。

     

「あ、熱をはからなきゃ…」
ベッドに入ったら安心したのか一気に睡魔が襲ってきた。
薬は病院で注射されてきたので、根本の治療は白血球に任せるしかない。
けれど熱があまりにも高い場合には、と、解熱剤を処方された。
39度を超える場合は飲んでくださいと言われている。
病院で測ったときには38度前後だった。
そのときから実感としてあまり変わっていないけれど、一応念のためと思って薬箱から体温計を取り出した。

その瞬間一気に嫌なことを思い出してしまった。
体温計を買ってきたのは別れた彼氏だった。
冬に私が少し風邪を引いたときに勝手に買ってきたのだ。
そのことでくだらない喧嘩をした。
「ちょ、風邪っていっても大したことないって。いきなりこんなに大量の薬とか栄養剤とか…体温計とか、いらないし。」
1歳上の別れた彼氏は、システム会社のSEだった。給料は正直私と大して変わらない。
薬に栄養剤に体温計に、どう考えても5000円近く掛かっていた。
思いやりはありがたいけれど、彼だって一人暮らしで生活が楽なわけではない。
ちょっと咳が出る程度の症状でそこまでしてもらうのは気が引けた。
それに、恩着せがましいと言うか押し付けがましいというか、そんなふうに感じてちょっと引いてしまった。
ところが、彼はそれを聞いて激昂したのだった。
「俺がやりたいからやったのにどうしてそういう言い方するんだよ!大体、今はただ咳が出ているだけとかかもしれないけど、弱ったままで外に出たらインフルエンザを拾ってくる可能性だってあるだろ!社会人として自己管理もできないとかありえないし。きぃちゃんはそんな責任感のない奴じゃないだろ?」
正論だけど押し付けがましいんだよ!と言いたいのをグッとこらえた。
独善的な思考なのだ。この人は。
自分の善が受け入れられないことを極度に嫌う。
「……うん、私の言い方が悪かったね。ごめん。」
彼はそれを聞いて気を良くしたのか、
「俺も怒鳴って悪かったな。それより見てよコレ。この体温計、基礎体温も測れるしそれを記録できるんだぜ」
と鼻歌交じりに説明書を読みはじめた。
いや、基礎体温とか…ちょっとキモいんだけど。
本当はいろいろ言いたかったけど、何も言えなかった。
自分の好意は絶対の善と信じている。
そんな人に、それが迷惑になることもあるということをどう伝えれば良いんだろう。
正直なことを言えば、もうその時には別れるような気はしていた。

今思えば、失恋ジフテリアがその時にでも発症してくれればそれを理由に別れられたのにと思う。
大学病院で聞いたところでは、失恋の定義は「精神的・肉体的に繋がりのある男女の関係が精神的にも肉体的にも別れること」なのだという。
肉体的繋がりは、具体的なセックスの他に、スキンシップなどでも良いらしく、数値として測定可能なんだそうだけど、精神的繋がりについては数値化出来ていないと言っていた。
基本的には、セックス、スキンシップが1ヶ月以上無い男女において、精神的繋がりも切れた場合に特定の物質が分泌されるというメカニズムなんだそうだ。

前に風邪を引いてこの体温計を買ってきた時は、ちょうどその直前まで彼が一ヶ月間出張で新潟に行っていたので肉体的繋がりは無くなっていた。精神的にも、私の気持ちは大分離れていたのに。
あの時に発症してれば、それを理由に別れられたのに。
でもその当時はまだ彼のことが好きではあったんだと思う。
独善的なところはキライでキモイと思うことさえあったけれど、やっぱり風邪を引いたときに側に誰かがいてくれるのはとても安心できた。
あれ。でもそれって、彼でなくても良かったのかもしれない。
たったそれだけの安心のために、嫌いな部分やキモイ部分を見ないようにしていたんだな。
結局彼のことが好きなんじゃなくて、自分のことを安心させたかっただけだったんだ。

体温計一つで嫌なことを思い出しすぎてそのまま薬箱に戻した。
そんなに熱が高いようにも思えないからとりあえずこのままで、寝ることにする。

       

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