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夏帆と俺の365日
夏帆と俺の365日「六月」

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 朝、雨音で目を覚ました。
 何かが絶え間なく窓を強く叩く音がし、目を開けて確かめてみれば音の主は無数の雨粒だった。

 目を覚ました時に聞く音楽として、雨音は適していない。雨はやる気さえ流し落としてしまう。
 僕は目を覚まして、程なくして本日の学校は、自主休校と決めた。

 次に目を開くと、やはりまだ雨音が窓外に鳴り響いていた。寝ぼけ眼で枕もとの目ざまし時計を見やると、時計の針は四時を示していた。はじめ、それが午前なのか午後なのかさえ分からなかったのだけれど、空が夜ほど黒くはなっていないから、夕方の四時だということはすぐに分かった。目覚まし時計のアラームは、知らない間に解除されていた。大学に行かなかったことは、少しだけ後悔と反省をした。

 布団の上で、何から始めればいいのかぼんやりと考えて、とりあえずテレビを点けることにした。数年前に放映されていたドラマの再放送が流れていた。
 テレビを点けるやいなやピン、ポンと甲高い電子音が部屋に響いた。
 ピン、の後に丁寧な間でポンと鳴らす人物は、厄介だ。新聞の押し売りやNHKの職員、宗教の勧誘だったりと、大抵はろくな人物ではない。
 僕は息をひそめ、ゆっくりと身を起こしつま先だけで音を立てないように玄関へと向かった。とにかく、家にいることがばれない様に、音を立てないように気をつけたのだが途中、乱雑に置かれた雑誌や衣服、コンビニのゴミ袋や空のペットボトルが邪魔でこけそうになり、部屋を散らかした犯人に腹が立った。もっとも、犯人は僕自身であるので怒りはどこにもぶつけようがなかった。

 玄関から覗き穴を眺めると、そこには新聞の勧誘でもNHKの職員でもなく、背筋をピンと伸ばした制服姿の少女が立っていた。少女の姿を確認すると、僕の心臓は一気に高鳴りを見せた。鍵を開け、扉もすぐに開く。
「お、おはよう……夏帆……」
「おはよう、じゃないよ? もうとっくにこんにちはの時間だよ」
 そう言って彼女は僕の髪に目をやって、目を細めて笑った。
「でも、おはようみたいだね。キミにとっては」
 髪に触れてみると、髪の毛が重力に逆らって上へと伸びているのがよく分かった。恥ずかしさは感じなかったけれど、ばつが悪く僕は苦笑いをした。
「おじゃま、してもいい?」
 首を右に少し傾けて、彼女が尋ねる。
 ここにきてようやく僕の頭は目を覚ました。
「え、あれ? 何で来たの?」
 僕の質問に彼女は困惑したような、悲しそうな表情を見せた。
「……来ちゃ、迷惑だったかな?」
 まずい、と思った。使い古された表現を用いれば、捨て犬のような瞳。彼女はそんな眼で僕を下から見てきた。
「いやいやいやいや、そうじゃなくって!」
 自分でも驚くほどの声が出た。彼女も驚いたように眼を見開いた。
「そうじゃなくって……いや、来てくれて嬉しくって」
 彼女は、にこりと笑った。

「じゃあ、入っても、い?」
 だが。だが、まだ彼女を部屋に入れるわけにはいかなかった。
 僕が思い起こしたのは、部屋のことだった。先ほど、玄関に来るまでに乗り越えてきた障害物のこと。散らかりに散らかった、部屋のことだ。
 まず床に散らかったゴミ、洗濯物、雑誌を片づけなくてはならない。だがなによりも、見られてはいけない、見られるわけにはいかない本やDVDの類を隠すことも急務の一つであるのは間違いがなかった。見られてはいけない本やDVD。平たく言えば、エロ本とAVのことだ。
「いや! ちょ、ちょっと待って」
 彼女の返事を待たずに言葉を続ける。
「部屋が、部屋がさ、散らかってるから! 十分、いや、五分でいいから待って!」
 焦る僕とは対照的に、彼女は落ち着いた静かな声を発した。雨の音がはっきりと聞こえるほどだった。
「もう、分かったから。早く、ね?」

 急いで部屋に戻り、まず冷たい水で顔を流し、乱暴に歯を磨いた。
 雑誌類を本棚へしまい、衣服を丸めてたんすにねじ込み、ゴミを全てまとめてゴミ箱に投げ込んだ。だがどうしても猥褻なDVDと本の隠し場所だけは、思いつくことができなかった。
 独り暮らしになると親や兄弟から隠す必要がないので、隠し場所が思いつかないのも当然だった。
 そうするうちに、ピンポンと、今度は早いテンポでチャイムが鳴らされた。かちゃり、とドアの開く音が聞こえ「ねえ、もうとっくに五分経ったよー。入ってもいーい?」と夏帆の声がした。
 慌てて、僕は本とDVDを、冷蔵庫に放り込んだ。目についた場所が、そこしかなかったのだ。
「う、うん。いいよ!」
「おじゃましまーす」
 
「何というか、やっぱ散らかってるねー」
「え、嘘?」
 部屋をぐるりと見渡してみる。見たところ、散らかっているようには思えなかった。
「これ、片付いてない? きれいでしょ」
「えー。汚いよー。机の上に本とか漫画とか出しっぱなしだし、ソファに服が脱ぎ捨てられてるし、埃もたまってるし」
 彼女はぽん、と腰かけているソファを軽く叩いた。太鼓のような音が鳴り、埃が風に乗って舞い上がった。
「私、掃除しようか?」
 正直、困惑した。彼女の提案自体はもちろん嬉しかったのだが、慌てて取り繕った部屋の、本当の姿を見られるわけにはいかない、そんな思いの方が強かった。
「いや! いや、大丈夫、大丈夫だから」
 彼女は口を尖がらせた後、意地悪な顔を見せた。
「もしかして、見られちゃまずいものがあったりして!」
 ぎくり、という心臓の音が確かに聞こえた。女の勘は鋭いと言うが、こんなところで働かせなくても、と思う。
「そうじゃなくって。それより、夏帆、学校は?」
 彼女は自身の制服を指差し「もちろん、行ったよ。当たり前だよ。……キミは、行ってないの?」
 再び、ぎくり。
 彼女の言葉に僕は静かに頭を下げることしかできなかった。
「もう、ダメだよー。学校行かなきゃ」
「いや、行こうと思ったんだけど、雨がさ」
「そんなこと言って、梅雨の間中休むつもり?」
「ですよね。ちゃんと行きます。明日は、行きます」
 呆れた様子のため息が耳に入ってきた。
「明日は、土曜日。学校、休みだよ?」

 灰色だった空に、紫色が加わってより一層暗みを増した。雨はまだ、止む気配がない。
 点けっぱなしのテレビからはニュース番組が流れている。十代の若者を中心に、原因は分からないが自殺者が増えているらしい。
 僕は床に、彼女はソファに座り、何をするわけでもなくただ時間は過ぎていった。僕は彼女が部屋を探り出すのではないかと、気を回していた。
「じゃあ、私そろそろ帰るね」
 彼女はソファから勢いよく立ちあがり、カバンを肩から提げた。
 ほっ、と息を漏らすとともに、何だか心惜しい気もした。
「大丈夫? まだ雨降ってるけど。送ってこうか?」
 僕の提案に、彼女は横に首を振った。
「ううん、大丈夫」
「いや、送ってくよ」
「本当、大丈夫だから」
 ここまで拒否されると、流石にこれ以上申し出ることはできなかった。
 僕の顔を見た彼女は、慌てて様子で「ちが、違うよ、嫌なわけじゃないからね! むしろ、嬉しいよ」と胸の前で手を揺らした。
 彼女の反応に、僕は素直に安堵した。
「そっか、じゃあ、気をつけてね」
「うん、じゃあね」
 
 ぱたん、と静かに扉が閉められ、僕だけ残された部屋は妙に静かに感じた。テレビの音と雨の音がよく聞こえる。
 それよりも、彼女にばれなくて良かったと、胸を撫で下ろした。
 カバンの中にしまいこんだ、紙包み。
 この存在は、まだ彼女にばれるわけにはいかない。
 六月三十日。
 その日、二週間後、彼女の誕生日の、贈り物。
 
 気をめぐらせていたせいで、随分とのどが乾いた。
 お茶でも飲もうと、冷蔵庫を開く。
 そこには、キンキンに冷えたエロ本とエロDVDが転がっていた。
「なんだ、これ」
 エロ本を手に取り、僕は情けない笑いを漏らすことしかできなかった。

       

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