既にまったくどうしようもないことに、僕は死んでしまうらしい。
ン十年後に、というわけでなく、ほんの数分後には。
冬虫夏草を知らない人は、今ではあまりいないだろう。大雑把に言えば虫に寄生するキノコだ。
この冬虫夏草の、人に寄生するタイプがいたと思ってほしい。
冬虫夏草ならぬ冬人夏草とでも言うべき恐ろしいキノコに、僕は寄生されてしまったのだ。
1時間ほど前、僕は地下鉄のホームにいた。
特に用事があってそこにいたのではない。大学からの帰り道だったのだ。
卒論の資料でずっしり重くなったリュックを背負い、電車を待っていたときにそれは起こった。
ぱんっ
だしぬけに乾いた音がして、前に並んでいた人の頭が弾けたのだ。
奇妙なことに、血はまったく出ていなかった。代わりに何か、粉末状のものが辺りを舞っていたのを覚えている。
僕と、僕の他に電車を待っていた人々はひどく咳き込んだものだ。
今思えばあれは胞子で、もうそのときには寄生されていたのだ。
胞子の煙が引いてくると、前の人の様子が見て取れるようになってきた。
頭が弾けた瞬間は見ていたから、その人が生きているとは思わなかった。
血こそ飛ばなかったものの、きっと恐ろしくグロテスクなものに成ってしまっているだろうと、そういう風には思っていた。
僕の予想どおり、確かにグロテスクなものがそこにあった。
弾けた頭から、脳みそや頭蓋骨の『見えない』立ち姿。
代わりに傷口から『生えていた』のは、オレンジ色の傘をした巨大なキノコだった。
そのうえでさらに恐ろしかったのは、本人はまるで動じていなかったことだ。
自身の頭部が炸裂し、内部から巨大キノコが生えているにも関わらず(そして周りの人間が悲鳴を あげ逃げ出しはじめているのに)、足はしっかと床を踏みしめ、手はカバンを離さず、あまつさえ首もとを緩めさえする。
何事もなかったかのようなその振る舞いに、僕はこれが周到なドッキリや特撮映画の撮影なのではと思ってしまったほどだ。
だが単なる一般人である僕に仕掛けるドッキリにしては大掛かりすぎたし、特撮にしても突拍子がなさすぎて逆に現実味がない。だいいち怪人と呼ぶには割れた頭とキノコが生えていること以外に特徴がない。
僕の頭が混乱から現実逃避を始めた辺りで、今度は別の音が聴こえてきた。
ぷち
という音だ。
随分ささやかな音量なのにハッキリと聴こえる。
伸びきった輪ゴムがついに切れるような音。
ぷちっ…ぷつつ…
断続的に音は聴こえ続けた。
あるいは粘性の高い液体の、泡が弾ける音か。
ぷつ、ぷつ
奇妙な音は鳴り止まない。
あるいは――『苗床』を見つけた『菌類』が生長を始める音。
僕は何かを叫んで、その場から逃げ出した。
階段を駆け上がり改札を蹴飛ばし、いつの間にか無人になった構内を走った。
逃げても逃げても音は遠ざからない。一定の音量で、しかし徐々に頻度は増しながら聴こえ続ける。
当たり前だ。この音はきっと、自分の中から聴こえているのだから。
地上へ出て駅ビルに入り、さらに非常階段を上っていく。
僕は御免だった。あんな化け物になるのは。
せめても、ああなる前に死んでしまいたかった。
高所からの飛び降りが、僕がとっさに思いついた死に方だったのだ。
そして今に至る。
音はもう重なりすぎて、切れ目が分からないほどだった。
疎密によって作られる音波の高低が、とても耳障りだ。
ハメ殺しの窓を叩き壊して、僕は身を乗り出している。
あとほんの少し力をこめて床を蹴れば、僕は死んでしまうだろう。
けれども僕は動けなかった。
死への恐れがなかったと言えば嘘になるが、それとは別の問題だった。
動かそうにも身体が動いてくれなかったのだ。
緊張でもない。窓枠にかけた手は震えもしていない。脚だって同じだ。
不意に思う。
何故僕は飛び降りを選択したのか。
死にたいのなら、ホームに来る電車に飛び込めばいい。
わざわざ高所に来たのは何故なのか。
後頭部に鈍い痛みが走る。
実はそこからキノコに操られていたとしたら?
高所で僕がキノコになれば、そのときにバラまかれる胞子はどうなる?
風にのって広く遠く、飛んでいくのでは?
その前に僕が死ぬと困るから、手足の体組織にまで進入して止めている?
逃げたつもりで、キノコの思う壺だった?
そんなの、御免だ――!
文字通りに『破裂』しそうな頭を振って、僕は身体を揺すり始めた。
手足は動かなかったが、首と胴体はまだ動かせる。
揺すり続けるうち、背負ったままだったリュックが頭の方へずれてきた。
重心が前へ動き、そして――
僕は落ちた。
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リュックを背負って飛び降りたらしい、妙な死体がある。
奇怪なまでににひしゃげた身体からは、何故か血は出ていなかった。
やがて
ぱんっ
と乾いた音がすると、飛び降り死体の頭が爆ぜ、そこから巨大なキノコが生えてくる。
オレンジ色の傘をもったキノコだ。
爆ぜると同時に噴き出した胞子が、辺りにもうもうと立ちこめる。
胞子の煙が晴れたとき、リュックを背負いキノコを生やした死体がそこに立っていた。