あの日の風
―　全てに愛を　―

　――　全てに愛を　――



「あなたの価値はいったいどれくらいだと思う？」
　彼女は私に、そんな質問をして来た。
「そうですね…私の価値なんて良くて一万円くらいじゃあないですか」
　少し遠慮して答える。
「本当にそうだと思う？」
　厚みのある眼鏡のレンズは、私の心を透かしている様な、そんな視線を私に向ける。
　私の視線は少しずつ彼女の視線から外れ、彼女の指先しか見れなくなる。
「牛や豚で例えるのは失礼かもしれないけど、彼らの価値は生まれてから死ぬまでにかかった費用とそれに合わせて利益を含めて売られるの。じゃあ人間一人の価値は幾ら（いくら）位だと思う？」
　窓から涼しい初夏の風が室内を吹き抜ける。
　遠くの方から蝉の鳴き声が聞こえ、答えない私と答えを待つ彼女が居るこの部屋の中で静かに響いた。
　私の中でまだ答えは出ていないが、勇気を出して彼女の視線と合わせる。
「45年。つまり16,425日、そして今日で貴方の最後の誕生日から146日経っているから合計で16,571日。仮に一日千円で貴方が暮らしたとすると16,571,000円の価値があるわ」
　彼女の口から途方も無い額が飛び出す。
「私にそんな一千六百万もの価値が…」
「それだけじゃあないわ、そこに利益が上乗せされるの。あなたが22歳から34歳まで毎月二十五万の給料をもらっていた場合33,000,000円の価値が上乗せされるわ。総合すると49,571,000円、もちろんこれはアバウトな数字で正確な額はもっと高いと思うわ」
　困惑する私を前に、彼女は少し微笑み眼鏡を外す。
　痩せ形で長い黒髪の彼女は五十台中盤の女性とは思えないほど美しく、私には眩（まばゆ）過ぎた。
「あなたの持つ価値、五千万円の価値を持つあなたは一週間後居なくなるのよ。死んでしまうの。…今日からの一週間、あなたの中の全ての価値を理解して最期を迎えてほしいの。自暴自棄になんか成らないで、一生懸命、一秒一秒に価値を見出して生きて欲しいの。それが私の願い」
　青々とした木々の葉が一斉に鳴りだし、少し遅れて再び風が室内に迷い込む。
　彼女の髪が揺れ、少しだけ乱れた。
　私の眼からは涙が溢れた。




　私が最後の時を過ごすこの場所は、刑務所から少し離れた静かな場所にある。
　所謂（いわゆる）死刑囚隔離施設だ。
　此処に連れて来られた死刑囚は数日の内に刑が執行される。
　…だが此処へ来て始めに思ったのは刑務所内と違い”荒れていない”事だった。
　皆、本を読んだり庭園で絵を描くなど、刑務所内では考えられない程に静かで、自由だった。
「自分の価値…かぁ…」
　遠くから庭園の中央で美しく咲く向日葵畑を眺めながら私は呟く。
　私に与えられたタイムリミットは既に六日しかない。
　そう考えると体の底から寒気が這い上がり、自然と唇は緩み、ひたすらに恐怖に震えた。
　”死”が怖くない人間などいない…例え犯罪者であっても自分が死ぬのを想像するのは怖い。どれだけ心の奥でもがいても、無情にも時間は過ぎて行く。
『時間よ戻れ、時間よ止まれ、明日なんて来なくていい』
　どれだけ神仏に祈ろうが、時間は過ぎ、朝から夕方まで私は未来に絶望し…時に泣いた。

　そして日が落ち、羽虫の嫌らしい羽音に目覚めると、私はフラフラと室内へと足を進める。
（彼女に会いたい…会って話したい…）
　若かりし頃、恋をしたあの時に似た感情というものだろうか？それとも神仏に縋る（すがる）思いなのだろうか？私の足は自然と彼女が居る部屋へ靴先が向いた。





「全ての事象に感謝しなさい」
　彼女は私の隣に座り、紅茶を与えてくれた。
「この一秒一秒、全ての事に感謝しなさい。この大地に、この水に、沢山のあなたの友人に感謝しなさい。それがあなたに必要な事」
　彼女は聖書を取り出し、私に胸に押し当てる。
「あなたが求める物は、あなたがまず与えてみなさい。無償の愛ですべての物事を愛し感謝すればあなたにも神の祝福が与えられるわ」
「…あなたはクリスチャンですか？私は宗教には興味は無いのですが」
「違うわ、私は特定の宗教を信仰している訳ではないの。それに神様だって居るとは思ってないわ」
「でも先程のあなたの言葉には”神の祝福”と言う言葉がありました。神は居ないのに誰が祝福してくれるのですか？」
　少し声を荒げてしまった自分を何故か恥ずかしく感じ、私は彼女の視線から顔をそらす。
「ごめんね、少し分かりにくかったわね。簡単に言うと”全ての事に対し感謝して、愛してあげなさい”と言う事なの」
　そう言うと彼女はゆっくりと紅茶を口の中へ流し込む。
「あなたが世界を愛し感謝すれば、世界も貴方を愛し祝福してくれるわ」
「祝福とは何ですか？」
「”あなたが感じた幸福”、あなたが最後を迎えるまで全ての事象を愛すればあなたの精神は救済されるわ」
　
　ただただ、静かだった。
　雲一つ無い、美しい星空が窓から覗けて見えた。
　その日の風はとても気持ちが良かった。





　あなたにとっての一秒、一日は幸福でありますか？
　辛い事があって私と同じ様に絶望して愛を忘れていないだろうか？
　…あの日、あの時の心地良い風を私は忘れない。
　
　向日葵が昨日より大きく育った事を知り喜び、木々の下で静かに体を休めた事に感謝する。
　ありとあらゆる事に感謝する事で同時に何かを得る事が出来た。
　常識や”当たり前”で目を閉じていた私に子供の様な笑顔が戻ったのを感じた。
　
　最後の日、私に目隠しをくれたのは彼女だった。
　彼女の瞳に慈母の輝きの様な光を感じる。
「幸せ見つかった？」
　私は屈託の無い子供の様な笑顔で
「あなたと最後に話せて幸せです」
「ふふ、その笑顔五千万円の価値ね。お返し出来る様な物は持っていないけど」
　もう視線はそらさない、この一瞬と彼女との出会いに感謝したい。
「それ以上の愛を貰いました。まだ返したら無いくらいです」
　再び彼女は笑って私の頭を撫でた。
「最後まで忘れないでね、今のあなたを世界は愛しているわ」
　目を閉じ、彼女が取り付ける目隠しを受け入れる。
　
　空は青く、太陽も向日葵も全ての人々が美しかった。
　青々とした木々の葉が一斉に鳴りだし、少し遅れてあの日と同じ心地良い風が私を包む。
　風は私が流した涙を遠くへ運ぶ。
（生まれてきて良かった…）
　私は胸を張り、そして自分の足で一歩前へ進んだ。