Neetel Inside ニートノベル
表紙

天才・一ノ瀬隆志が居ない
第一話 ドア前攻防

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一.ドア前攻防


 何度も何度もたった三文字の表札を確かめて、鞄の中に入ったファイルを確認している。強気な口調とは裏腹に、人の見ていない所では小心者で用心深い性格。
 ファイルの中のプリントを一枚一枚確認してまた深呼吸。左右を確認しつつ、何かぶつぶつと言っている。声が小さすぎて盗聴器越しでは何と言っているのかはっきりとは分からないが、どうやら何かの『練習』をしているようだ。
 プリントをファイルに戻し、鞄を抱え持ち直し、髪を簡単に整えるとチャイムに指をゆっくりと近づけて行く。その指先が震えているのは、小さな画面を通してでもはっきりと分かる。そして諦め再び深呼吸。もう十分間近くもこんな調子だ。
 同級生、阿竹宮子を観察対象に選んだ俺の目にやはり狂いは無かったようだ。
 学校での阿竹は、俺のクラスの頼れる学級委員長であり、いつも厳しい目を光らせる風紀委員であり、そして『潜在的な被害願望を秘める男子生徒達、つまり性癖で言う所のいわゆるM男子』に人気のあるいち女子生徒だ。
 阿竹がいつも忙しくしている癖に妙に俺の事を気にかけるのは、言うまでもなく俺の事を好きなのだという事は周知の事実だが、本人はそれが俺どころか誰にもバレていないなどと大それた勘違いをしている。
 俺に弁当を作ってきた時の事。ただその時俺はどうしてもクリームパンとジャムパンが食べたかったので、丁重にお断りしたのだが、そんな俺の態度が阿竹は非常に気に食わなかったようだ。動揺した調子で声を震わせて、阿竹は『天才』一ノ瀬隆志ことこの俺にこう言った。
「お、女の子の手作り弁当を断るなんて信じられないわ! 一ノ瀬君って全然女の子の気持ちを分かってないのね。べ、別に私が一ノ瀬君が好きって訳じゃなくて、空気が読めなきゃ一生彼女なんて出来ないって事を言いたいんだからね。変な風に取らないでね!」
 まくし立てられたその言葉は偽りだらけだったが、態度からしてそれを悪意ある嘘と決め付けるのは浅はかに思えた。むしろ彼女の言葉を真摯に受け止め、反省の材料とし俺の今後の人生に生かすのが最良の選択肢だといえる。
「一ノ瀬君には女の子の気持ちが全然分からないみたいね」
 なら分かるまで観察してみようではないか。というのが、俺がこうしてモニターに囲まれている理由といえば理由だ。六つのモニターとそれを管理するコンピューター。部屋は灯りを落とし、暗くしてある。静音にも気を使い、徹底的に存在を隠す。俺の場所が誰からでも分かるようでは、これから俺が仕掛けようとする事は台無しになってしまうからだ。
 阿竹はまだモニターの中で悩んでいる。何をそんなに悩む事があるのだろうか。風邪で休んだ同級生の家を訪ね(仮病である)、学校のプリントを渡す。それをするにはどうしたってチャイムを鳴らさなければならない。なぜならば、もしもチャイムを鳴らさなければ中にいる人物は来客に気づかないからである。至極当然の理論であり、成績も優秀な阿竹が理解できないはずがない。
 さながら育児中のミーアキャットのような、挙動不審で悩ましげな阿竹を見るのは楽しいが、それにもそろそろ飽きてきた。そろそろ第二の登場人物が現れても良い頃なのだが、と俺はモニター上に映った別のカメラからの映像に目を走らせる。
 タイミングとしてはまさにちょうど。玄関に備え付けられた二つのカメラの片方に、その人物の姿が映った。阿竹と同じ制服を着ているものの、阿竹のような凛とした威圧感は無い。どこかおっとりというかぼんやりというか、もしかしたらこの世に存在していないんじゃないかと思わせるような、そんな独特の空気を纏った女子だ。
「み、御代さん!? どうしてここに?」
 慌てた阿竹は御代真理の事を指差して大声で問いかけた。御代はムっとした表情を一瞬見せたが、すぐにいつもの、冷静で何を考えているのか分からないような横顔に戻り、俺の家の左隣を指差し阿竹に返す。見た目とは裏腹に、御代が紡ぐ言葉はなぜか強力で、他人を屈服させるような雰囲気を作り出す。
「ここが私の家だ」
 御代は俺の幼馴染だった。といっても、向こうは俺の事を『婚約者』だと公言して回っているらしいが、断じてそのような事は無いと弁解するのが俺の日課だった時期もあった。つまりは、俺にとっては面倒くさい相手だという事なのだが本人がそれを気にかける様子はない。
 そのあまりにも毅然とした御代の態度に圧倒されたのか、阿竹はうろたえながらどんな返答をして良いのやら困っているようでもあった。一方で御代は、ずいと阿竹に近づきこう言い放つ。
「私がここに来たのは隆志の具合が心配だったからだ。今日は風邪で学校を休んだからな。むしろ家との距離でいえば、一ノ瀬隆志とはただの同級生である阿竹宮子さんがこんな所にいる事の方が、私にとっては不審だが?」
 阿竹の逆鱗に触れた音がした。
「わ、私は学級委員の責任として、たか……一ノ瀬君にプリントを持ってきただけよ! ま、別のクラスの御代さんには分からないでしょうけどね。そもそも、どうしてあなたが一ノ瀬君の具合を心配する必要がある訳? そっちの方が不審ね!」
「いや、私は不審じゃない。そっちの方こそ、わざわざ家が反対方向なのに届けにくるなんて不審だ」
「じゃあ一ノ瀬君の具合を心配する明確な理由を言ってごらんなさいよ。ほら言えない。はい、不審ね」
 どうやら不審の押し付け合いが始まったようだ。それから何度か似たような言い合いをした後、御代の方が大きく息を吸って吐き、はっきりとした口調で言った。
「私は将来隆志と結婚するんだ。未来の夫の身に何かがあったら困る。だから私が隆志の事を心配しても何の疑問も無い」
 また始まったか、と俺は思った。
 確かに、俺が御代と結婚の約束を交わした事は認めよう。だがそれは『婚約』と呼べるような代物では決してなく、強いて言うならば男の甲斐性というか、まだ自意識も芽生えてないくらいの小さな頃のただの口約束に過ぎない。うろ覚えの記憶だが、その時俺は確か砂場で遊んでいて、御代は俺に泥製の愛妻弁当をごちそうしてくれた。そしてこんな提案をしたのだ。
「あたし、たかし君の為に毎日お弁当作ってあげる! だから結婚しよ。ね?」
 俺は迂闊にもその要求を二つ返事で了承し、十年近く経った今でも約束は有効なのだそうだ。はっきり言って迷惑な話。何度か婚約解消を持ちかけた物の、御代は聞く耳を持ってはくれない。御代曰く、
「私は隆志と一生を添い遂げる覚悟がもう出来ている。だから、何か正当な理由が無ければ婚約破棄は許されない。例えば? そうだな。私の中に隆志が耐え難い欠点があって、それを私も治す事が出来ない場合などだ」
 のだそうで、このまま行けば俺は高校を卒業と同時に人生の墓場へと足を踏み入れる事になりそうだ。
 それならば何か御代の欠点を見つけ出し攻め立て、とにかく一考の猶予を与えてはくれないか、と取引を持ちかけるという手段を考え付いたのはつい最近の事だ。風邪をひいたと言えば、いつも見舞いに来るのが御代という人間だったので、今ここに御代が来たのは決して偶然ではない。こうして第三者の目線から御代を冷静に観察すれば、何か一つくらい欠点が見つかるだろう。
「……ところで阿竹、早くそのプリントとやらを隆志に届けないのか?」
「今チャイムを鳴らす所だったのよ。そこにあなたがちょうど来たんでしょ」
 時間的余裕は十分以上あったはずだが。こういう時は言ったもん勝ちだ。
「なんなら私が届けてやろうか? どの道、台所を借りておかゆを作ってやろうと思っていた所だ。もしも風邪で寝込んでいるのなら、わざわざ二階から降りてくるのも面倒だと思うしな。ほら、そのプリントをこっちに渡せ」
「お、おかゆ? ……じゃなくて、どうしてあなたにそんな事決められなきゃいけないのよ。渡さないわよ。それに、平日なんだから一ノ瀬君のお母さんがいるはずでしょ。ちゃんと挨拶しなきゃだわ。……もちろん学級委員長としてね」
 なるほど。さっき口をパクパクさせて何かを『練習』していたのは、挨拶だった訳だと納得する。
「阿竹は何も知らないんだな」
 御代がため息をつきながら、呆れた様子で続ける。
「隆志の両親は二日前から熱海へ旅行。妹は五年くらい前から海外に留学中。だから当然、今隆志は家に一人。しかも右隣の家はつい先週引越してしまったばかり。お前がどうしても隆志にプリントを渡したいと言うのなら、結局隣の家に住んでいる私に渡す他無いという事になる。つまり私はやりたいほ……いや、隆志には献身的な看病が必要だ」
「今本音がちらっと見えたわよ。ますますプリントは渡せなくなったわね」
 硬直する二人。どちらも譲る様子は無い。
「……まあいい、とにかく私はチャイムを鳴らすぞ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! まだ心の準備が……」
 阿竹は御代を止める事が出来ず、そしてチャイムは鳴らされた。
 俺からしてみれば当然の事だが、答えが返ってくる筈はない。答えを返す気も今は無い。ただじっとモニターを見つめる。果たして二人がどんな行動を取るか、目下の所興味はその一点に尽きる。
「……出ないな」
「……出ないわね」
 立ち尽くす二人は互いに顔を見合わせている。そして今度は阿竹の方がチャイムを鳴らしたが、当然これにも反応は無い。
 長い長い沈黙。それを破ったのは、御代の方だった。
「……いないみたいだぞ。帰ったらどうだ?」
「そんな訳無いでしょ。風邪で学校休んでるんだから。病人にうろうろされたらたまんないわ」
「仮病かもしれないぞ。隆志は結構そういう奴だ」
 その認識は正しい。
「何を言われても帰らないわよ。私には一ノ瀬君にプリントを渡すっていう委員長としての崇高な使命があるんだから」
「急ぎの用事という訳でも無いだろう。日を改めてまた来たら良いじゃないか。早く帰らないと両親が心配するぞ」
「まだ午後の三時じゃないの。そこまでして私を早く帰らせて、その後御代さんはどうするつもり?」
 痛いところを突かれたのか、御代は黙して俺の家の三階を見つめた。
「中で倒れてたら、事だ」
 物憂げな眼差しは、俺に向けられた物らしい。どうしてそこまでして、御代は俺にこだわるのだろう。この疑問も今日ついでに解いてやろう。阿竹は戦闘態勢をほんの少し緩め、甲冑を着たまま言葉をかける。
「救急車、呼びましょうか」
「まだそうと決まった訳じゃない」
 そう一蹴した御代は我が家の柵を開き、玄関ドアのノブに手をかけた。
「ちょっと勝手に……」
 と、当然阿竹は静止する。御代は振り向かず答えた。
「阿竹、お前は本当に素直じゃない奴だ。でもやはりここは私がこうすべきなんだろう。なぜなら私の方が、隆志から怒られ慣れてるだろうからな」
 一呼吸を置き、今度は阿竹の方に振り向いて付け加える。
「だけどもしもこれで開かなかったら、大人しく帰ってもらうぞ」
 女には女のプライドというか、本音と建前みたいな物があるようだ。そしてそれは同級生の家の前においても有効らしい。自らのどうにもならない自尊心に直面した時の反応は様々だが、差し詰め御代は本音を優先する行動タイプ。阿竹の方はは建前で動けなくなってしまう論理タイプという所だろうか。
「……開けるぞ」
 御代が珍しく緊張した面持ちでドアノブを捻ると、これっぽっちの抵抗も無くドアは開かれた。俺は玄関前に仕掛けたカメラから、家の中に仕掛けたカメラに画面を切り替え様子を伺う。
 御代は開いたドアに頭だけ突っ込み、大きな声でこう言った。
「隆志、いるか?」
 返事は無い。
「一ノ瀬君!」
 いつの間にか御代のすぐ後ろに陣取った阿竹も同じく叫んだが、これまた返事は無い。
 一度ドアを閉じ、再び顔を見合わせる二人。言葉を交わさなくとも通じ合えるのは、恋人達だけの特権ではないようだ。敵同士だからこそ分かりあえる事もある。
「……私は先にドアを開けたぞ」
「……だから何よ」
 続く沈黙はまたも重く二人にのしかかる。この世の中には「していい事」と「しちゃいけない事」と「しちゃいけないんだけどどうしてもしたい事」の三種類があって、世間一般的な常識とプライドを兼ね揃えた人物であればあるほど、三つ目の存在を否定したがる物なのだ。少なくとも自分と敵対する人物に、自分がそれをする所を見せたくはない。
 またも膠着する二人を見ていると、さながらなかなか事件の起きないミステリーのようないらだちを覚える。とはいえ、ここで俺がひょっこりと出て行って「まああがれよ」なんて言えば、それこそ元も子も無いだろう。ここは二人がどう出るかを見極めるのが一番正しい選択肢だ。俺は音を立てないようにゆっくりと、背もたれに身を預ける。
「まさか御代さん、家主がいるかどうかも分からない家に勝手にあがり込むつもりじゃないでしょうね?」
 先に仕掛けたのは阿竹の方だった。しかしその攻撃手段は良い策とは思えない。これではただハードルを上げているだけだ。
「いや、そんな気は更々無い。さて、それじゃ帰ろうか」
 それ見た事か墓穴を掘った。これでは御代の思う壷だ。何せ御代は我が家のまさに左隣。学校を挟んで反対方向に家のある阿竹と比べれば、地理的な有利不利は自明の理。阿竹は苦虫を噛み潰したような表情になったかと思うと、鼻を上向きにして視線を逸らし、お高く止まった感じで言った。
「ええ、そうね。そうするわ。あなたも、もちろん留守かもしれない家にあがるような真似はしないわよね?」
「当然だ。私は断じてそんな真似はしない」
 そして一度開いたドアは、再び閉じられた。ああ、つまらない。阿竹宮子、もう少し頭が良くてもう少し俺の事を好いてくれていると思ったのだが、どうやら俺は買いかぶりすぎのうぬぼれすぎだったようだ。
「じゃ、私は帰るわね。それじゃ」
「私も帰ろう。それじゃ」
 そして二人は元来た方角へと帰って行った。これにて実験は終了か。あとは阿竹が見えなくなったのを見計らって、御代が俺の寝室への侵入を試みるだけとなってしまった。
 俺はせっかく今日のために用意した機材一式をぼんやりと眺める。これら仰々しい物々は俺一人で用意した訳ではなく、ある人物の助力あって為し得た物だ。とはいえ、俺もそれなりの知識をつけたし、金も払った。フイになるのはとても残念な事だ。だが、まだまだそうと決まった訳ではない。俺はじっと息を潜め続ける。
 やはり、というか予想通りに、五分ほどすると御代が再び俺の玄関のドアの前に立っていた。目的は決まっている。俺はモニターのスイッチに指を近づけた。御代が一人でいる所を観察したって何も面白くは無い。二人が揃っているからこそ、そこに化学反応が起きるのだ。もしも御代が一人で俺の家への侵入を試みるようであれば、すぐにこのモニターの電源を消し御代をとっとと我が家から追い出そう。それからこれは今更になるが、俺には盗撮趣味はない。
 御代がドアノブに手をかけ、先程よりはかなり急いで捻った。
 するとその時、御代の様子が変わった。というよりは、御代の様子『も』というべきかもしれない。俺の様子が御代より先に変わったからだ。
 ドアを開き、第一歩を踏み入れた御代の真後ろには、阿竹宮子が立っていたのだ。
「あら、何をする気かしら? 御代さん」
 例えここに名うての弁護士がいたとしても、言い訳は不可能そうだ。面白くなってきた、と俺は身を乗り出し受信機のボリュームをあげる。
「……隠れていたのか」
「ええ、無用心なクラスメートの家に不審者が近寄らないように見張っていたのよ」
「……分かった」御代は観念したように続ける。「もう恥も外聞もあるものか。私は中に入らせてもらうぞ。ただ勘違いするなよ。私はお前がどこかに隠れて、私が入るのを待ってるんじゃないかというのも予想していたんだ。お前が諦めて帰るまで家で待つ事も出来た。だけどそれをしなかったのは、もしかしたら中で隆志が倒れているかもしれないと少しでも思ってしまったからだ。だから、五分以上は待てなかったんだ」
 御代は俺が思っている以上に、いたいけで純情な人間らしい。こんな一途な女の子の乙女心を観察して弄ぶ男がこの世界にいようとは。全くもって世も末だ。
「なら私もついていかなければならないわね。委員長として、風紀委員として、悪事を働くかもしれない生徒を見過ごす事は出来ないわ」
 なるほど、先程の墓穴を掘ったかに見えた発言は、この流れを早急に導き出す為の布石だったという訳か。だとしたら、やはり阿竹宮子は頭の回転が早いタイプの人間だと認めざるを得ない。なかなかあの状況で咄嗟にそこまでの事を考えられる物ではない。
「阿竹、職権濫用という言葉を知らないか?」
「それを言うならお互い様よ。あなたは家の位置を利用して、私は学校での立場を利用する。これでおあいこ」
 勝ち誇ったように言う阿竹は随分と気分が良さそうだった。
「……何を言っても無駄のようだ。それより隆志が心配だ。入るぞ」
「お邪魔しまーす」
 ドアは完全に開かれた。二人はきょろきょろと周りを見回しながら、いよいよ俺の家へと入ったのである。

       

表紙

和田 駄々 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha