Neetel Inside ニートノベル
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天才・一ノ瀬隆志が居ない
第十話 逃亡と裏切り

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十.逃亡と裏切り


 御代は一瞬驚いた表情を見せ、絵本を拾い上げた。盗聴器の設置位置の関係で、残念ながら音声は拾えないが、阿竹が御代に何かを尋ねているようだ。
 御代はそれを無視し、絵本を開いた。すると、中から一枚白い紙がはらりと落ちた。俺が挟んだ物ではない。おそらく結花が仕込んだ物だろう。カメラの角度が悪く、内容が見えない。何か文字が書いてあるというのが、様子からしてかろうじて分かる。
 それを見た途端、御代は顔を強張らせた。御代の後ろからそれを覗き込んだ二人はというと、妙な表情をしている。意味をはかりかねるといった感じ。おそらく、御代だけに効果があるように、結花が何かを書いたと見るのが正しいだろう。
 御代はその白い紙を絵本の間に閉じて、フラフラと歩き出した。それを阿竹が止め、何かを言う。全く反応しない御代。やがて阿竹は明らかに怒り始め、御代の両肩を掴んで何かを必死に説いている。
 声が全く聞こえないのが辛い。結花は一体何を仕掛けたのか。御代は一体何を見たのか。
 すると突然、声が聞こえた。
「楽しんでもらえてるかしら? お兄様」
 部屋に設置した物とは別のマイクからの、結花の声だ。
「あら御免なさい。返事は出来なかったわね。何も聞こえないんじゃ私の活躍も教えられないと思って、マイクを一つお借りしたわ。一階の階段では、今ちょうど御代さんが帰ろうとしている所かしら? そしてそれを阿竹さんが止めている。正解でしょう」
 御代に何を言った? と、問い詰めたい所だが、声さえ出ないし、両手の痺れは先ほどよりもひどくなっている。
 一方、階段を下りた所でまだ口論は続いている。口論と言っても、一方的に阿竹がまくし立てているだけで、御代はただ黙って俯いているだけ。よほどショックな事が書かれてあったのだろうか。少なくとも結花は教えてくれそうに無い。
 阿竹の静止を振り切って、御代が玄関に向かった。帰るつもりだろうか。ここでようやく、かなり小さくだが音声が拾えた。
「……本当に諦めるのね?」
 と、阿竹の声。おだやかな強さで、垣間見える弱さをかき消している。
 御代は阿竹の問いには答えず、玄関で靴を履いた。
「あなた、必ず後悔するわ」
 先ほどの戦いを経て、阿竹と御代には絆が出来ている。そしてその出来たての絆が、今まさに崩れようとしている。前の会話内容や、結花が仕掛けた攻撃に全く見当がつかなくても、それくらいは分かった。
 御代は震える唇をキッと閉めて、何かを押さえつけるように、玄関のドアノブに手をかけた。もう片方の腕には、絵本がしっかりと抱かれている。
「私、もともとあなたの事嫌いだったけど、ここであなたが逃げるなら、大嫌いになるわ」
 阿竹が拳を握り締めながら、御代の背中に向かって言った。正直な気持ちをそのまま言葉にしたそれに、結局御代は答えなかった。一言も答えず、俺の家を出て行った。
「あはははははは! 意外と弱いんですのね、あの方」
 結花の声が聞こえた。俺は生まれて始めて、怒りという感情を確かに感じていた。熱された鉄の棒が、心臓の近くで揺れているような感覚。今までは実の妹だからといって、非道な事をされても許してきた。だが、今度ばかりはやりすぎている。それと同時に、俺の不甲斐無さにも同様の怒りを覚えた。自分で仕組んだゲームを最後までコントロールしきてなかったのは、紛れもなく俺の能力不足が原因と言えるだろう。
 俺は天才なんかじゃなかった。天才・一ノ瀬隆志はもうどこにも居ない。
「まだまだ罠は仕掛けてありますのに。台無しになってしまいましたわ。本当にもったいない」
 至極残念そうに、だけど楽しそうに結花が呟いた。
 その時俺にはある疑問が浮かんだ。どうして俺のいる部屋とは別の部屋にいるはずの結花に、玄関の様子が分かるというのだろう。
 ここにある機材に何か細工をしたのだろうか。いや、そんなタイミングは無かったはずだ。絵本はまんまと盗まれてしまったし、盗聴機も一つ持っていかれたが、流石に機械自体に細工をすればいくら俺でも気づくはずだ。それにそもそも、結花は機械が苦手だったような気がする。留学中に克服したという事も考えられなくはないが、先ほどこの機材を前にした様子からして、その線は考えにくい。
 俺はモニターに目を向けた。阿竹が立ち尽くし、肩を震わせている。激しく怒っているのか、それともくやしがっているのか、あるいは、その両方か。そして阿竹の後ろには、不安げな眼差しで阿竹と扉を交互に見つめる緑谷の姿があった。
 その時、俺の中で絡まってもつれた糸が、するすると解けていった。まさか、いや、しかし考えられる可能性は一つ、それしかない。
「……宮子ちゃん、一ノ瀬さんを探そう……?」
「……ええ、そうね。私達だけでも一ノ瀬君を助け出しましょう」
 駄目だ阿竹。俺は心の中で叫ぶ。そこに俺はいないのだ。俺を見つける事は出来ないのだ、と。
「さっき御代さんが、この家には地下室があるって言ってたわね。一番可能性があるとしたらそこだとも言ってたわ。地下室を探しましょう」
 我が家の地下室は、簡単なシェルターのようになっている。分厚い壁が四方を囲み、停電してもつく明かりと、保存食料やラジオなどが置いてある。
「お兄様、期待しててね。あんな見栄っ張り女よりも、私の方が優秀なのを今すぐ証明してあげるから」
 妹はこれから一体何をしようとしているのか。
 阿竹と緑谷が一階の台所にきた。やがて流し台の前の床に、回転する取っ手を見つける。それを回し、取っ手を引っ張ると、そこに梯子が現れた。
「……ここね。私が先に下りるから、優希は後からついてきて」
「うん……」
 阿竹が梯子を降りて行く。台所に備え付けたカメラで、かろうじて映像が見える
「大丈夫よ、下りてきて」
「……」
 緑谷は黙ったまま、阿竹を見下ろしている。
「どうしたの? 優希?」
 緑谷は何も答えないまま、地下への蓋を閉めた。
 緑谷は、裏切ったのだ。
 いや、より正確に言うならば『騙していた』。
 事実関係をはっきりとさせる為、時系列順に整理して話そう。情報の欠落はややあるが、おおよその流れは合っているはずだ。
 そもそも、俺は緑谷が引きこもりになった理由は知らない。阿竹が知っているかどうかは分からないが、少なくとも教えてもらってはいないし、あえて俺も聞かなかった。もう少し仲良くなってからか、自発的に話そうとするまで待っていた。俺はそれが緑谷の性格に起因するものだとなんとなく決め付けていたが、それではなかったのかもしれない。よく考えてみれば、ストーカーするくらい俺が好きだというならば、同じ学校に通えるチャンスを無駄にはしないだろう。それに、結花が海外に旅立った時期と、緑谷が引きこもりを始めた時期が一致するのも、今考えてみればあやしい。おそらくかなりの高確率で、二人は以前から何らかの知り合いだった。そして緑谷は、結花に支配される側の人間だった。こうなると、俺をストーカーしていたというのも怪しくなってくる。俺に興味を抱いたのは、俺が結花の兄だからなのでは?
 いや、もっと踏み込んで考えよう。緑谷が俺の部屋に盗聴器を仕掛けたのは、間接的に俺に『監視』する手段のアイデアを提供したのではないか。盗聴に気づけば、このゲームを俺が思いつくという事を予想できる『何者か』の差し金で、盗聴器を仕掛けたという可能性。つまりゲームを思いついたのも、準備をしたのも俺であるが、それらは果たして俺の為だけに用意された物だったのか。『何者か』とはもちろん、俺の事を良く知り、同時に天才的な頭脳を持ち合わせる人物である。
 とにかく、緑谷と結花に繋がりがあった事は、今緑谷が取った行動からも明白だと言えるだろう。
 それを前提に考えれば、今日、緑谷が抜群のタイミングでここに現れたのも、先ほど、玄関の様子が結花に筒抜けだったのも納得できる。この日の為に信頼を積み重ねた内通者がいて、シナリオを描く指導者がいたのだ。そして、阿竹と御代を処理する手伝いを、ひっそりと緑谷はしていたという事だ。思い当たる節がいくつかある。家に入ってくる時に、チャイムを鳴らさなかった事。壊れていたのではなく、鳴らさなかったのだ。回答権があると俺が断言したにも関わらず、何も答えずぬいぐるみを持ち続けたのは時間稼ぎと考えれば説明がつく。
 画面の中の緑谷は、閉めた蓋の上に乗っかった。いくら体躯の小さな緑谷とはいえ、阿竹の力でも下からは開けられないだう。これで、阿竹は完全に閉じ込められてしまったという訳だ。
 阿竹が封じられ、御代が帰り、緑谷が裏切ったとなると、俺は正真正銘窮地に立たされてしまったという事になる。
「優希どうしたの! 開けなさい優希!」
 阿竹がそう叫び、蓋、阿竹にとっては天井をバンバン叩いている音が聞こえる。
 いや、おかしい。どうして聞こえるのだろう。地下室に盗聴器は仕掛けていないはずだし、台所に仕掛けた盗聴器は、いくらなんでも地下の声までは拾わないはずだ。
「阿竹さん、大人しくしてね。ここ、狭くて密閉されてるから、音が響くの」
 俺はその声に驚いた。結花がそこにいる。阿竹の声は、結花が持っているマイクが拾った音声だった。
 だがますますおかしい。阿竹を地下に閉じ込めるのが作戦なら、結花までそこにいたら意味を成さない。あらかじめ言っておくが、地下に秘密の抜け道などは無い。
「あ、あなたが一之瀬君の妹?」
「ご名答」
 音だけの情報でも、既に阿竹が萎縮している事が察せた。確かに、それくらい異様な事だ。敵に嵌められ、閉じ込められたと思ったら、その先に敵がいたのだから。
「もう分かっているとは思うけれど、優希ちゃんはあなたを裏切っちゃったわね。かわいそうな、阿竹さん」
「……あなた、本気で自分のお兄さんに手術をするつもりなの?」
「ええ、もちろん」
「どうかしてるわ。いいえ、よく考えれば肉親の身体を切れるはずが無いわ」
「それは逆ね。愛している肉親の身体だからこそ、他の人の手には預けられないのよ。幸い私は、天才だし」
 何を言っても通じるはずが無い。結花と言葉を交わせば交わす程、消耗させられるのは目に見えている。
「……私に一つ、提案があるんだけど」
 と、阿竹の台詞。起死回生の策を思いついたのだろうか。というのは俺の願望だ。
「なぁに?」
「あなた、姉が欲しいのよね? ならわざわざ実の兄を手術する必要は無いわ」
「ふふ、前に御代さんもそれと同じ事を言ってたわ。『私は将来あなたの姉になるはずだ』って。似たもの同士ね」
 御代の件も初耳だったが、結花の台詞に対し何も答えないあたり阿竹も同じ事を考えていたのだろう。
「でもね、私が欲しいのは血の繋がった実のお姉様なの。義理じゃ駄目。御免なさいね」
「どうしてもやるって言うの?」
「あなたがどうしても諦めないのと同じようにね」
 音声だけだと言うのに、その場の凍りついた雰囲気が伝わってきた。ふと、画面に目を向けてみると、蓋を押さえていたはずの緑谷がいない。今なら脱出は可能だが、それを阿竹に伝える術を俺持っていない。おそらく結花と緑谷は、小型のトランシーバーか何かを持っていて、緑谷は結花の指示を受けて行動していたのだろうと判断する。
「それで、あなたは私をここでどうするつもりなの?」
 阿竹が問うと、結花は一際大きな笑い声をあげた後、こう答えた。
「どうにかして欲しいのかしら」
 脳裏に結花の妖しい笑みが浮かんでくる。余裕しゃくしゃくなのはいつもの事だが、相手が初対面だろうが年上だろうが全く引かないあたりに結花らしさが出ている。抵抗を見せる阿竹は言う。
「痛いのは嫌い。だから物理的に戦いたくはないわ。希望を言えば、ここからすぐに出して欲しいけれど」
「あら奇遇ね、私も乱暴は嫌いなの。力に頼るのは、どうしてもって時だけ」
 先ほど俺にした行為を思い出してみろ、と心の中で叫ぶ。
「本当はね、少しあなたと二人きりで話をしたかっただけなの。御代さんは昔から知っているし、緑谷さんは今あなたも分かった通り私の友達だし、私はあなたの事だけ知らないのよね。未知なる物を理解したがるのは人の習性って物でしょ?」
「……そうかもしれないわね。でもあなたの事は別に私は理解したくないけれど」
「ひどぉい」
 既に結花のペースに巻きこまれ始めている。どうにか脱出に気づいてくれると良い。何せ阿竹は地下に入ってすぐの所にいるはずだから、出口を背中に立っているのは今阿竹の方だ。すぐに階段を登って脱出し、蓋を閉めれば勝ちは見える戦いなのだ。が、それに気づけというのはやはり無理難題だろう。
 それにしても、では緑谷はどこへ行ったのだろうか。二人を騙した事に対して、後悔を感じて逃亡か。いや、それなら阿竹を助けるはずだ。むしろ、狡猾な手段を使う結花に対して恐怖を感じて逃亡と考えた方が自然ですらある。が、それも確信がある訳ではない。やはり結花から新たな指示を受けて何らかの行動を取ったと見るのが一番有り得る。
 俺は各モニターを見たが、緑谷の姿はどこにも無かった。緑谷はどこへ消えた?
「ねえ、あなたの事教えて」
「あなたに教える事なんて無いわ」
「嘘ね」
「どうしてそんな事が言えるの?」
「私には知りたい事があるから」
 なんと不毛な会話だろう。そうして、時間を稼がれている事すら知らずに、阿竹は飲み込まれていく。そろそろ例の手術道具とやらが届くはずだ。阿竹が尋ねる。
「……何を知りたいの?」
「それじゃあまずは、どうしてお兄様の事を好きになったのか、あたりから」
 阿竹は決して言わないだろう。そんな予感が頭を過ぎった。だが、現実は違った。
「ひとめぼれ。……悪い?」
「いいえ、良いと思うわ。私だって似たようなものですから。それじゃ、あなたはお兄様とこれからどうなりたいの?」
 約二時間前、俺の部屋でした阿竹と御代の問答を思い出す。あの時と同じ答えを、阿竹は返すだろうか。いや今度こそ言わないだろう。俺は半分そう確信した。だが、またも現実は違った。
「私は一ノ瀬君の子供を生むの。欲を言えば幸せな家庭も作る。だから今、一ノ瀬君が女の子になったら困るのよ」
 やけにきっぱりと、澄み切ったような調子だった。俺は耳を疑う。今そこにいるのは本当に阿竹か? 声変わりした御代じゃなかろうか。いや、御代でさえここまで大胆な事は言うまい。だとしたらやはり、阿竹なんだろう。納得はできないが、スピーカーからはただの事実が流れ出している。
「あは! あははははは! お兄様ったら本当に色男なんだから」
「はぐらかさないで」
「何をかしら?」
「私は意地でも、あなたをここから出さないつもり」
「ふーん……」
 長い長い沈黙だった。物音は聞こえない。それが逆に俺を不安にさせた。
 その時、玄関の映像に人影が映った。見るとそれは、台所から消えた緑谷だった。緑谷はドアを開き、外に出て、家の前の道を左右にきょろきょろと見ていた。
 なるほど、緑谷は結花の代わりに荷物を待っているらしい。
 つまり結花の行動を順番通りに並べると、まず絵本を使って御代を家の中から排除。結花自身の発言からおそらくここまで簡単に排除できるとは思っていなかった。次に地下室へと阿竹を誘導。最善策は、阿竹も御代もまとめて地下室に閉じ込める事だが、御代のリタイアが思った以上に早かった為、別案を採用したと見るのが妥当。自らの手によって荷物を確保するのではなく、阿竹と対峙するメリットを選んで、荷物の確保は緑谷に任せた。
 という事はつまり、結花は緑谷を相当信頼していると見える。確かに、緑谷の今の立場は、やろうと思えば結花と阿竹を一緒に閉じ込めてしまえる。いや、そもそもそんな事をしても緑谷には何のメリットも無いのか。俺への告白メールが嘘で、それも結花に指示されてやった事の一部なら、緑谷はあくまでも結花の事を信奉しているのであって、俺は道具に過ぎないのだろう。
 だがそれにしても、結花が人を信頼するとは珍しい。二人の関係性にはかなり興味をひかれるが、まずは身の安全を確保してからだ。

       

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