僕は自殺することにした。
理由などない、死に理由など必要ない。ただ漠然とそう思った。あるいはそれは神の囁きであったかもしれない。キチガイじみてはいるのだが、この漠然とした感情はそうとしか言いようがなかった。
どうせ死ぬならばやりたいことを全てやろうと思う。僕の夢は、平凡だが、幸せな家庭を持つこと。妻と、子どもと、小さくてもいいから自分の家を持ち・・・あぁ、いや、家はやめよう。それでは結局自殺でなく自然な死を迎えるだろう。そう、家族だ・・・僕は携帯を開き、アドレス帳から恋人の電話番号を探した。発信しようとして、辞めた。何度も繰り返した。僕にはロマンティックな言葉を考え付く脳はなかった。「自殺する前に家族を持ちたいから結婚しよう」だなんて、馬鹿げている。だが、あるいは、彼女なら・・・・。
「急に、どうしたの?ドライブなんて全然連れてってくれないのに」
結局僕は彼女を呼びだした。山奥の、彼女が好きな温泉に車を走らせる。高速なら一、二時間だが一般道なら4時間以上はかかる。もとより車に乗っているのが好きな彼女だから、喜んでくれると知っていた。僕の考え通り、彼女はすぐ嬉しそうな声で快諾してくれた。
「この前温泉行きたいって私が言ったから?言ってみるもんだねー、うん、ありがと」
彼女が笑う。彼女はいつも心から笑っているような満面の笑みを見せてくれた。それを好きになったんだったな、とハンドルを握りながら回想する。
対向車のヘッドライトがやけにまぶしく感じる。多分、緊張のせいだろう。僕は車の中で全てを打ち明けてしまおうと考えていた。だが、いざ切りだそうとしてもなかなか言葉に表せるものではない。彼女の作った妙に不格好なおにぎりを齧りながら、ただ自分の勇気がわいてくるのを待つしかなかった
「言いたいことがあって、今日誘ったんだ」
意を決して切りだした。もう二時間は走っただろうか、緊張することにもさすがに疲れた。
「言いたいこと?」
「僕は自殺しようと思う」
ペットボトルのふたを開けようとしていた彼女の手が止まる。驚いたようにこちらを凝視しているのが横目でもわかった。
「な・・・なんで・・・?なにか、つらいことでも・・・」
声が震えている。悲しんでくれているのか、それとも・・・・。
「わからないんだ。でも、僕は自殺をする。その前に僕はささやかな夢を叶えたいと思ってる。できれば、聞いて、それで、叶えてくれたら嬉しい」
僕も少し声が震えた。ハンドルを握る手が汗ばむ。沈黙が、いやに長く感じた。
「結婚、して欲しい」
彼女は、泣いた。
僕は大学を卒業し、就職難のご時世にも関わらず仕事を得ることができた。それは運だったと思うし、僕の覚悟を知りながら受け入れて支えてくれた彼女のおかげだと思う。・・・あぁ、それと、彼女のお腹にいる子供。
死に物狂いで働いた。いずれ死ぬんだ、今を必死に生きようと思った。生まれた子は女の子で、名前は「叶」にした。
「『かな』って読むの、あなたの夢を叶える子だよ」
彼女が笑った。満面の笑みはどこか寂しげだった。理由はもちろん、わかっている。
叶はすくすく育ち、女の子なのにやんちゃだった。いつからか朝僕を起こすのは叶の仕事となったが、助走をつけて飛び乗ってくるものだからそれは苦しい目覚めだった。一応控えめにではあるのだが、叶ももうそれほど小さくないし、僕もそれ相応に年をとったから当然と思う。それでも、目を開いた先にある愛しい笑顔には骨抜きだった。親ばかかな、と少し思う。
一軒家とまではいかないが、家族三人で住むにはちょうどいいくらいのマンションを買うことができた。彼女と娘がいてくれたから、僕は必死に頑張った。僕の最終的な夢が実現した時、二人が途方にくれない様に・・・。
「じゃあ、行ってくるよ」
妻と娘が玄関まで見送ってくれる。いつもの朝と変わらぬ風景だ。僕は幸せだと思う。
「さようなら」
妻がハッと目を見開いた。それからいつもと違う笑顔で、穏やかで優しい笑顔で、目を潤ませた。
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」
「いままでありがとう」
「うん、うん、私の方こそ、ありがとう」
「僕の夢は叶ったから。二人のおかげで叶ったから。僕はとても幸せだった」
語尾が震えた。妻も、声を詰まらせている。それでも僕らは泣かなかった。
「ごめんね、あなたの夢が叶わなければいいと願ったことがあるの。このままでずっといられたらって思ったことがある。でも、幸せだったんだよね?あなたは幸せだったんだよね」
僕が泣いてはいけないのはもちろんだし、妻も僕の願いは知っていたから、ここで泣いたら叶わなくなると気付いていた。
「君は幸せじゃなかった?」
「幸せだったよ。世界一幸せだった」
「じゃあ、僕はもっと幸せだった」
妻がいつものように、花の咲いたような笑顔を見せた。目尻には朝露のように涙がにじんでいる。
「ずるいね」
「ごめん。・・・いってきます」
「いってらっしゃい」
叶が不思議そうにやりとりを見つめていた。あるいは、悲しそうに。最後に叶の頭を撫でた。細い髪の毛はふわふわと柔らかく、決意が揺らいでしまいそうだった。娘も幼心に何か感じたのか、頭を撫でる僕の手を小さな手で包み、泣いた。
いつものように玄関を出た。胸が、とても痛い。少し離れてから、振り返る。妻が廊下に座り込み、肩を震わせていた。鼻の奥がツンと痛んだ。