シェンロン・カイナ
15.麻雀2
最初、少しばかりのリードを得たミルナだったが、次の局、真向かいに座った親番の侍にマンガンを放銃した。
「大丈夫、大丈夫、まだ原点」とミルナは明るく言ったが、それから、彼女の点棒は見る見る間に嵩を減らしていった。
素人の師走が言えた口ではないが、彼女はミスを重ねているようには見えない。
けれど少しずつ、追い詰められていく。神様に嫌われているかのように。
ガチャポンで財布をすっからかんにしたやつが、千点十万円の麻雀を打っているのだ。正気なんてものはとっくのとうに吹っ飛んでいる。
刻々と激しさを増す雨が、師走の背を押した。
(殺そう。このおっさんたちを殺して、彼女を助けよう)
なぜ自分がそんなことをするのか、その答えはわかっていたので戸惑わなかった。
そうして師走が、折った足に乗せた尻を浮かしかけた時――
「麻雀ってさァ」
唐突にミルナが口を開いた。三拍ほど硬直してから、それが自分に向けられたものだと師走は悟った。
「ぜんぜん見えるものがないんだよね。相手の手牌も、牌山も、王牌も見えないじゃん。だから、何を信じて、何を信じないのか、自分で決めていくゲームなんじゃねえかと私は思うの」
「ご高説ありがたいね」黙りこむ師走に代わって答えたのは侍。
「で、おまえは何を信じるのかね。ツキか。腕か」
「んなの決まってんじゃん?」ミルナは口の端をきゅうっと吊り上げた。
「私はこの私、架々藤ミルナを信じているのだ」
「うぬぼれやがってまァ、痛々しいね」
「ふん」ミルナの笑みは揺らがない。
「枯れ果てちゃったおっさんにはわかんないだろーね」
侍が顔を上げた。
「てめぇ負けても、同じことが言えるか」
「当ッたり前。ふふん、負けないけどね。私は最ッ強だからさァ」
リーチ、とミルナは牌を横に曲げて打ち出した。タァン、と象牙の牌が卓を打つ。
次の牌を引こうとしかけた狐を手で制して、侍が手牌を倒した。ロンされたのだ。
「これでも虚勢を張るか」
「くどいってのよ、クソジジイ」
まるで勝利への布石を打っただけだ、と言うかのようにミルナは点棒を宙に放り投げた。
「ちょっとの間だけ、勝てるかもって思わせといてやるし」
後にも先にも、劣勢でありながらここまで清々しい大言を吐いた敵は侍の長い麻雀人生の中でも彼女の他にいなかったろう。
急に大声で笑い始めた侍に、狸と狐が唖然としていた。
次の局はこの半荘の最後の局。
親番は、ミルナ。
まるでもう何年も四人とも、そうやって麻雀を打っていたかのような錯覚に師走は陥っていた。
ごろごろ、と窓の外で黒雲が唸っている。
師走が振り向くと、どこか遠くで、頬を叩くような音がした。落雷だ。
「雷か」と侍が、三人で囲んでいる余裕ゆえか、太いため息と紫煙を吐き出した。
「そういや二十年前も、雷が鳴ってやがったな」
ミルナがエサを見つけた子犬のように鼻をひくつかせた。
「そういえばこの町には、吸血鬼ってのがいるんだっけ? 会ってみたいねぇ」
「さァな。いたとしても、もういねえんじゃねえか」
「どうしてさ。吸血鬼って不老不死なんじゃねえの?」
「血を吸う鬼ってだけだろ。老いない死なないとは名乗ってねえ」
「へーえ、実は、あんたが吸血鬼だったりしてね?」
「さっきから口の利き方がなってないな。俺がおまえの何倍生きてると思ってる」
「えー。もう面倒くさくね?」
「へっ……残念ながら俺は犯人じゃないよ。それに犯人はもう見つからない」
「なぜに?」
「時効だから」侍はふっと笑った。
「仮に見つけたって裁けないし、被害者は帰ってこない。博打と同じだ。虚しいだけ。……何だよ、その顔」
「いや、ずいぶんクサイこと言うんだなァと思っただけ、おおっと、ツモゥ!」
引いてきた牌を手牌の横に叩き付け、卓がびりびりと震えた。
ミルナはにっこり笑って三者から点棒を受け取った。
「おっさん、妙なこと言うから運が逃げたのだよ」
ミルナの軽口に思うところがあったのか、侍はむっつり押し黙って額を手で揉んだ。
次の局のために、四人が山を積み終わった瞬間。
ガラスをぶち破って閃光が炸裂した。
嫌がらせのように雨がひどくなってしまった。
クリスとカンナはコンビニで買った安い雨合羽を着て、証言のあった空き地を見通せる電信柱に隠れている。
「こんなひどい雨の中で、ご自慢の人形と遊びたくなるやつなんているのかよ」
「こんな雨の中だからこそ」とカンナはフードを目深に被って、キャスケット帽を雷雨から守ろうとした。
「誰にも見つからずに、好き勝手できるって考えてるのかもしれないわ」
「そうかなァ。コタツでぬくぬくしてたいと思うけどなァ」
「さっき言ったでしょ。イレギュラーは、イレギュラーであることを隠せない。知ってほしがってるのよ、心のどこかで、自分の秘密ってやつを」
「その欲求は激しいわ」とカンナは続ける。
やめろと言ったのに強引に買い込んだあんぱんは水で湿って大変まずそうだ。端っこを齧るたびに顔を歪めている。
「ああ人形使いさん、今夜ばかりは家でゆっくりしててくれよ」
「出てこなかったら徹夜で張り込むだけだけど?」
「前言撤回。とっとと来やがれ、変態野郎め!」
クリスはひゅんひゅんと鞘に収まったナイフを振り回す。
「魔刀秋雨の錆にしてくれるわい」
「ねえ、クリス、あれ」カンナが声を潜める。
クリスも口を閉ざし、彼女の指差す先を見た。
いた。
黒い傘を差した人影が、空き地の真ん中にある土管の側にしゃがみこんでいる。
距離と風雨で視認しづらいが、何か鞄のようなものをたすきがけにかけている。
カンナは桃色の唇をぎゅっと引き結んで、竹刀袋から杖を取り出した。
「あいつをとっちめて、殺人鬼のことを聞き出してやる」
「知ってるとは限らないけどな」
「今ある最大の手がかりには変わらないわ。そして、あいつは、この町の、敵ッ!」
「あっ、おい! 待てったらッ!」
引き止める間もなくカンナはあんぱんを投げ捨て、脱兎のごとく駆け出していってしまった。
あっという間に小さくなる背中を、舌打ちだけ残してクリスが追う。
人影が、こちらを見たような気配がした。
「動くな、イレギュ――」
とカンナが杖を構えて叫びかけた時、ごろごろと不機嫌そうにしていた天からとうとう空き地の隅にある古木に激怒の落雷が降り注いだ。
風景が白光の中へと溶けていく。
一瞬、クリスもカンナも人影も、手で顔を覆ってその場に釘付けになった。
やや距離があったせいか、それとも地面から土に電気が散逸したのか、誰も感電することなく、しばし三人とも滑稽なまでに硬直していた。
「カンナ!」
クリスの声にハッと我に返り、カンナは人影を探し首を巡らせた。
彼は塀をよじ登って、今にも向こう側に逃げ延びようとしていた。
その顔が一瞬、こちらを向く。怯えきった若い顔。知らない顔。
逃げられる。全身を焦りと恐怖が貫いた。
せっかく辿り着いた手がかりだというのに。
今、逃がしてしまったら、誰かが傷つくことになるかもしれない。
自分のせいで、この時を逃したがために。
守れる力があるのに何もしない。カンナはそれが、嫌だった。
気づいた時には、まるでそう動くことが運命付けられていたかのように、カンナは杖を振り上げていた。
そうともどんな時だって、正義の味方は負けられないのだ。
雨滴を切り裂き烈風が迸った。
落雷の瞬間、その光を背に受けたミルナの手元が闇に包まれた。
狸も狐も師走も、何も見えず、何もできなかった。
ただ、卓を横断して伸ばされた侍の手が、ミルナの牌山の手前で止まっていた。
物言わぬ激しい視線の衝突があり、そして沈黙を保ったまま、侍は手を引いた。
その顔からは何も読めない。ただ死体のように静かだった。
ミルナは手牌を開け、喜ぶでもなく騒ぐでもなく、そのまま静かに倒した。
「天和」
雨の音だけが、響いていた。
麻雀には一般にツバメ返しと呼ばれるイカサマがある。
自分の牌山の下の段に、アガりの形に組んだ十四枚を積み込んで置き、配られた自分の手とこっそり取り替えてしまう、という技だ。
熟達者がやると、まるで牌山を前にずらしただけに見える。
そうしてこのイカサマの弱点は、手元を注目されていてはできない、という点にあった。
核爆弾にも等しい点数の炸裂により、勝負はミルナの勝ちに辿り着いた。その宣言通りに。
麻雀牌が、蛍光灯の灯りを生き物のように照り返している。
「終わったな」と侍が言い、懐から札束を取り出した。それに釣られたように、狸と狐も渋々負け賃を卓へ放り投げる。
ミルナはその金を、手の甲でずっと押し戻した。
侍が意地を張るように、その金をまた彼女の手元に差し出す。
「終わりと言ったら終わりだ。続行はしない」
「冗談。バカなの? 一回打って終わりとかつまんないから」
「いいや、もう十分だ」
「逃げるっての?」ミルナの声が低くなった。
「こんな中途半端で? 爺さん、もうろくしたならとっとと死ねよ?」
「やつの言うとおりだぜ、たっくん!」と狸が侍に訴えかける。
誰のことかと思えば、侍のあだ名らしい。
「ここで負けを認めちまうのは臆病すぎるよ」
「これ以上やったってむしられるだけだ。俺は金を賭けるのは好きだが、捨てるのは大嫌いだ」
「でもさ」
「じゃあ聞くが、おまえ、今のイカサマが見えたかね」
狸は言葉を失った。
「ミルナとか言ったな、あんた」と侍は三白眼でミルナを睨み下ろした。
ミルナは侮蔑の表情を浮かべて、侍を睨み返す。
「おまえは強い。俺が認めよう。これで満足かね」
「ふん、この臆病者。逃げるんなら、最初から私の前に現れんなよ。興ざめだっての」
「そうとも、俺は臆病者だ。だからギャンブルをやめたんだ。今の俺はただの暇人、そして暇を潰したから、もう帰るのさ」
行くぞ、と侍、もといたっくんが号令をかけると、狸と狐が背中を守るようにして、三人は出て行った。
後にはあくびをかみ殺すミルナと、唖然としっぱなしだった師走と、積み重なった金だけが取り残された。
よっこらせ、と親父くさい掛け声と共にミルナは立ち上がり、札束を師走にひとつ放った。
「あげるよ、それ。あーあ、もっとむしれると思ったのに。なーんか損した気分」
首の骨をばきばきと鳴らすミルナは、新しい退屈しのぎを探しにいくと言って、外へと出て行ってしまった。
学生服の背を見送りつつ、ケンカでもしにいくんだろうか、と師走は彼女の乱闘姿を想像してみたが、予想以上に似合っていたので、ぶるっと身体をおののかせた。
滝のような雨に打たれて、カンナは立ち尽くしていた。
杖はぬかるんだ地面に取り落とし、不恰好な墓のように突き刺さっている。誰を悼んでいるのだろう。
落雷を受けた木は真ん中から折れて、断面を雨雲に晒していた。
そんな風に、それも倒れていたのだった。
てんでばらばらの方に折れ曲がった手足。光を失った乾いた目。
人間の死体だった。
カンナはぼんやりと冷たくなっていく肉体を見下ろした。
その首筋から、何かに切り裂かれたように血が流れ出している。
血と泥と雨が混ざっていく。螺旋を描くように。
死体の落とした鞄から、洋風人形の顔が覗いていた。
「カンナ」
名前を呼ばれて、カンナは振り返った。
いつの間にいたのか、クリスが青ざめた顔で立っていた。
二人は小さな肩を並べて、眼下に広がる惨状を見下ろした。
「殺す、つもりじゃ……」
細かく震える唇から幽かな呟きが漏れる。
「でも……でも仕方ない。仕方ないのよ。だ、だってこいつは」
責め立てるようにカンナは物言わぬ肉塊を指し示す。
「こいつはイレギュラーなんだもん。私の言うことを聞かないんだったら、それは悪いやつってことで、だ、から、だからッ!」
だから、死んだ方がいいんだ。
彼女ははっきりと、そう言った。怯えたように身をこごませながら、クリスの返事を待っている。
彼女のしたことは間違いだ。
クリスにはそれがわかっていた。
だから言った。
「うん、これは仕方ないな。誰が見たって、そう言うよ」
もっとも待ち望んでいた言葉であったろうに、カンナはびっくりして物を言えなかった。
クリスは足を持ち上げ、死体を踏みつける。カンナが目を見開いた。
柔らかくなった泥の中に、虚ろな顔がめり込む。
「おまえは悪くない。当たり前のことじゃないか」
ガッと首を蹴ると、あらぬ方向に曲がってしまったが構わない。
もう動かないものなのだ。
「こんな危険な人形使いは野放しにはできなかった」
こいつはきっと、ただ遊びたかっただけだ。
「きっとそのうち、人形にナイフとか持たせて、気に入らない誰かを暗殺してたよ」
急に襲いかかって、こいつを怯えさせたのは自分たちだ。
「カンナ、おまえはそれを未然に防いだんだ。おまえにしかできないことをやっただけさ」
こいつが誰かは知らない。まだ若い。学生か。
殺人鬼の情報なんて、持っていやしなかったろう。
そんなことは、最初からわかっていたのに。
「おまえはいいことをしたんだよ、カンナ」
「く、クリス」
「家に帰って寝るんだ、カンナ。休むことも闘いだぜ?」
だが、真実を彼女に突きつけてどうなる。
きっとカンナは壊れてしまう。死んでしまう。
そんなことは、誰にも、世界にだって、させはしない。
「で、でも、それ」
ぽん、とクリスはカンナの肩を叩いた。
「俺が片付けておくから」
「片付けるって、ど、どうやって? 死体を隠せる場所なんて」
取り乱しかけるカンナの両肩をぐっと押さえる。地面に縫い付けるように。
「いいところを知ってるんだ。おまえは何も心配しなくていい。すぐ戻るから先に家帰ってろ。な?」
まだ目を泳がせている彼女の頭を汚れを払うように撫でた。
キャスケット帽がどこかへ飛んでいってしまったらしく、頭の上から消えていた。
とにかく必死だった。
「何か飯でも作って待っててくれよ。ああそうだ、スパゲティがいいな。言ってみ、スパゲティ」
「スパ、ゲティ」
発音がどこか狂っていて、呪文じみていた。どんな効果だろう、とクリスは思った。
「オッケーオッケー。問題なし。じゃ、お願いな」
「う、ん」
スパゲティ、ともう一度繰り返し、カンナは頼りない足取りで去っていった。
その背中が見えなくなるまで、クリスはじっと動かなかった。
断罪の雨に打たれながら、クリスは考える。
生き生きとした彼女を見ていたかった。
だから、こうなることを考えなかった。考えようとしなかった。
彼女の好きにさせたくて。
好きなように生きているのが、彼女らしいのだと信じたくて。
でも、そんなことありえないのだ。
この世界は彼女のために回っているのではない。
いろんなやつのいろんな都合や気持ちが渦巻いている中で、彼女だけが聖域の中で守られている、そんな幻想は、見てはいけないものだったのだ。
だが、そんなことは関係ない。
彼女を守る。守らねばならない。
世界が助けてくれないのなら、この俺が救うしかないのだ。
だからそのために。
まずはこいつを消してやる。
<顎ノート>
この小説最大の山場(と思っていた)箇所。
一般読者に「満貫を放銃」をノリで理解しろという無茶ぶり。
この頃は海外SFを読んでて、「意味わかんない語句を自力で理解することが読者の役目なんや!」と信じなきゃSFが読めなかったので、それを他者に強要してしまったのである。チャンチャン。
いっぱい小説読む人にありがちだけど、読者にレベルを求めるという悪癖あるよね。俺含めて。
みんなリーフシールドですぐ死ぬ人を見習おう。
ただまァ、小難しい話とか展開を自分の脳みそでほぐして考えるのも小説の楽しみ方のひとつだと思うけどね。
いや俺のは失敗作だからいいけど、パッと見てわかんねー小説をわかんねーって切り捨てるのはどうかと思う。
で、本編に関しては、「主人公だと思ってたやつがラスボス」というのがこの小説の肝。
ほかの小説だと主人公としてがんばるはずのリア充二人が急にラスボスになってしまったという一種のパラレルワールド的な展開。
このテーマで書くなら、いまだったら別の書き方をするなあ。
バッドエンド確定してるけど。
テーマ絞りきれてなかったと思う、シェンロンカイナは。
書きたいことを一点に絞れば、もう少しなんとかなったはず。
二兎追うものは一兎も得ず。
あと勝った金の金額云々で「損した」というミルナの発言が、ピカロアイリスとシェンロンカイナでたぶん一番異なる箇所。
たしかシマはピカリスで「死ねばいい」みたいなひでーこと言ってたはず。
でもかわいい女の子にレイプ目で「死ねばいいのに」とか見下されたら興奮するよね。シマに軽蔑されてるFAください!ウォォォォ
二人の違いは、シマは勝負と金銭がまったく合致していないけど、ミルナは喰っていく必要と刺激を求める心がくっつきあってる。
ミルナがルビーだとするなら、シマは純度100%のエイジャの赤石。
最近ジョジョ二部読み直した。