夏の文藝ホラー企画
短編/猫隠し/黒兎玖乃
僕が茹で上がる卵を菜箸で転がしていると、来客のチャイムが鳴った。
「どうぞ」僕がそう返事するのとほぼ同時に、勝手にドアは開かれた。入ってきたのはつい二ヶ月ほど前に知り合った大学の友人だった。女性で、年齢は僕より一つ上。確か彼女は工学系のサークルに所属していて、プロジェクトか何かが成功した際の打ち上げで、僕がアルバイトをしている居酒屋へとやってきた。それがきっかけで、僕と彼女は一週間に一回か二回はこうして互いの家に行くか、どこかの喫茶店にいって話をするような仲になっていた。
「すみません。すぐに部屋片付けます」と僕は言った。
「いいのよ、気にしないで。そんなに居座るつもりはないから」と彼女は言った。
僕は卵と格闘していた手と火を止めて、あらかじめ茹でておいた卵をいくつかさらに盛って居間に戻る。机の上に皿を粗暴に置くと、僕は傍らのフルオートチェンジのレコードプレイヤーに手を伸ばす。「何か聞きますか?」と彼女に問うた。
「チャイコフスキーはあるかしら?」
「持っていません」少し前にはあったのだけれど、兄が聞きたいというので譲ってしまった。
「それじゃあマイルス・デーヴィスは?」
「それならあります」僕は棚積みにされているLPを何枚か取り出しては埃と共に弄る。一分もしないうちにサークル・イン・ザ・ラウンドが見つかったので空っぽになっていたプレイヤーに突っ込んだ。
「今日はまたどうして」と僕は訊ねた。
「あなたの家に来るのに、理由がなくてはいけないかしら?」と彼女は言った。
「それもそうですね」僕は彼女の言っていることは良く分からなかったけれども、曖昧に首肯した。
僕は彼女と向かい合う形になって机の前に座ると、器用にゆで卵の殻を剥く。彼女もゆで卵は好きなので僕を真似てティッシュを一枚机に置き、その上に殻を落とし始めた。彼女は僕よりもだいぶ器用なので僕が先に始めたにもかかわらず、彼女は僕が一つ目を剥き終る前に二つ目に手をかけていた。しかもきれいに薄い内膜もはがしていて本体は無事だ。身をはがしてしまう僕は少しこそばゆい気持ちがした。
「あなたって本当に不器用よね」彼女は言った。
「そうですかね」僕は心に嘘をついてそう返す。彼女はつるんと殻の取れた卵を指で撫でた。
「そんなんじゃあ、女性の扱いもあまりうまくなさそうね」
「逆に言えばうまそうと思ったことはないでしょう」
「当たり」彼女は人差し指を立てて僕に向けた。彼女はいつも簡単な毒舌をこうして吐く。
僕が二つ、彼女が五つ目を剥き終えた辺りで、僕らは小皿に塩を小さじ二杯ほど入れてゆで卵を食べ始めた。僕は彼女に四つ差し出したが「私を太らせる気かしら」と軽く睨まれたので、なぜか僕が五つ食べる羽目になってしまった。朝も四つ食べたので少々飽きが来ていた。それでも食べ残すというようなみっともないことはしなかった。途中で部屋の窓から猫が覗き込んでいたので、窓を開けてゆで卵の欠片を一つやった。よく見知った猫だった。
「そう言えば」彼女は思い出したように言った。「あなた、猫隠しって知ってる?」
「猫隠し?」僕はその言葉を確かめるように訊き返した。
「そうよ」彼女は言った。「江東区の友人が言っていた話なんだけど、最近江東区や文京区の辺りで猫隠しという現象が起きているらしいの」
「猫隠しというと、やはり猫を?」僕は問うた。
「そうね。直に見たことはないけど、多分そう」彼女は応答した。
それ以上この話が発展することはなく、僕と彼女は再び卵を貪り始めた。僕が三つ目を食べ終えたくらいに、彼女が二つとも完食した。僕は一つ勧めてみたけど、やはり彼女は拒否した。僕は渋々残りの二つを食べ終えると、彼女はいつの間にか寝転がって、棚に置いている小説をいくつかとって読んでいた。
「何か気に入ったものでも?」
「ええ。これ借りてもいい?」彼女がそういって差し出したのは、御伽草子だった。僕はもう何十回も読み返した作品なので、喜んで彼女に提供した。「ありがと」彼女はそれだけ言って、それ以外の本を棚に戻した。
「それじゃあそろそろ帰るわ」彼女は言った。まだ来てから十分も経っていなかった。
「次はいつぐらいに?」
「そうね。明日また顔を見せるかもしれないわ」
そう言い残して、彼女は玄関の扉を開けてさよならも言わずに出て行った。
僕は一人がらんどうになった部屋に寝転んで、天井を見上げた。ぱらぱらと小さな埃が舞い上がっては降りてくるのが、なぜかはっきりと視界に映った。僕は起き上がって備え付けの台所に向かうと、ほったらかしにしておいた卵の様子を見に行った。ぬるま湯でじわりと温められていたのか、殻を剥くと黄身は限りなく生に近い半熟になっていた。別に嫌ではなかったから、冷蔵庫からいくつかビールを取り出して卵を肴に一人で飲んだ。外が昼色から朱色に、そして夜色になるのにも気がつかずに、僕は一人で十本のビール缶を空けた。酒には強かったから大したことはなかったけど、眠気が襲ってきたのでおとなしくそれに従った。すると口の中に、卵のどろりとした食感がいまさら戻ってきた。僕は首を傾げたが、何秒か後にはそんなことも忘れて目蓋の裏の世界に落ち耽った。
翌日、僕は昼間に起きた。電話の親機の着信履歴をチェックしてみたが、彼女からの連絡はなかった。いつ彼女が訪れてくるか分からなかったから、僕は昨日よりかはましに見えるように部屋の中を気持ち片付けた。勿論のことなのだけれども、不器用の僕には簡単な作業ではなかった。そうこうしている内に、昨日と同様にチャイムが鳴った。僕は半ば諦めて、部屋に入ってくるように促した。
訪れたのは彼女ではなく、一人の若い男性だった。「どうも」彼は僕があたかも友人のように言い放つと、僕の許可も貰わずに部屋に上がりこんで、机の脇にどっかりと座った。僕は幾許か訝しんだが、ようやく彼が高校時代の友人だということに気がついた。確か今、都内で製造業か何かを営んでいたはずだ。
「久しぶりだね」僕がそう言うと、「ああ。久しぶりだね」と、彼もそう返した。
「とても悪いんだが、朝から何も食べていないんだ。何か食べるものをくれないかい?」
僕は肯いて、冷蔵庫の中からあるだけの食べ物を取り出した。と言っても酒の肴が殆どだったから、ついでにビールも十本ほど取り出した。スモーク・チーズにサラミに冷えた軟骨のから揚げと、どう見ても酒の肴しか見当たらなかった。一つだけポテトサラダがあったが、それは僕の作ったものではなく彼女が作ったものだった。
「君も飲む?」僕が問うと、もちろんだと彼は答えた。僕と彼はそれぞれスモーク・チーズと軟骨のから揚げを開けると、ビール缶のプルタブを開けて一気にあおった。「冷えているね。良いビールだ」「普通と変わらないよ」僕はスモーク・チーズを齧って答える。「そこら辺のコンビニエンスストアのビールさ」
「いや、久しぶりに飲んだビールの味は格別だよ」と彼は言った。
「久しぶり?」僕にはどうも人の言葉を訊き返す癖があるようだった。
「そうだよ」彼は言った。「最近質素な生活しかしていなかったからね。そろそろ一発稼がないといけないってものさ」
「稼がないといけないって、仕事は辞めてしまったのか?」
「辞めたと言うよりかは、潰れてしまったに近いね」彼はサラミを噛み千切って言った。
「やはりこのご時世、単独で企業を立ち上げるのは少々無謀ってものがあったみたいだ。ぽっと出の新人なんかじゃ相手にされない。たかだかそこらの大学卒業したくらいじゃ認められもしない。東京大学だとか慶應義塾大学とかを首席で卒業して、ようやく一員と認められるくらいのものなのさ。ご存知僕は地方の大学を中退してしまった。そんな僕が事業や企業立ち上げたところで、何年も持つはずがなかったのさ」
終盤はやけになったような口調で呻いて、彼は二缶目をあおる。すると、次の瞬間その表情は快楽を迎えたような表情に変わっていた。「でも、新しい仕事を見つけたんだ」
「新しい仕事…………って、一体どんな?」新しい仕事? と聞き返してしまいそうになったから、あわてて付け足す。
「偶にしか舞い込んでこないんだけどね」彼はチーズをつまんで言った。「猫隠し、って知っているかい?」
「この間、知り合いの女性に聞いた」僕は正直に話した。
「知り合いの女性?」彼は不思議そうに目を丸くした。「君の彼女?」
「いや、大学の先輩さ。つい二ヶ月ぐらい前に知り合った先輩。僕も通う東工大でプロジェクトを成功させた人さ。少しばかりニュースにも出たかもしれないね」
「そうか」彼は少しばかり残念そうに漏らして、二缶目をぐいと飲み干した。僕も負けじと二本目に手を伸ばす。三本、四本と張り合う内にストックがなくなったので、冷蔵庫から新たに十数本かを取り出して飲み交わす。僕が十二本を、彼が十本を飲んだ辺りで彼はふと言った。
「本当に時々だけど、舞い込んでくるんだ。月に二、三回程度だけど」
「猫隠しと言っても、一体どんな猫を隠すんだい?」と僕は問うた。彼は答える。
「もちろん頼まれた猫さ。飼い主の邪魔ばかりするからだとか、大体そんな理由が殆どだ。あとは、恨めしいだとか妬ましいだとか個人的な理由が多いかな」
「妬ましい?」僕は懲りずに聞き返した。
「他の猫から嫉妬されている場合だよ。何でも世の中にはそういうことが"わかる"人がいるらしくてね。妬みの対象となっている猫を隠すんだ。そうすれば、猫同士の無益な争いも防げる」
「それじゃあ、一体どこに隠すと言うんだ?」
「場合による。山の奥とかそういう辺鄙なところもあれば、ビル街の路地とかそういうところにも隠す。出来るだけ、出来ーるだけ他の人に見られないようにね」
「そうでなければ隠す意味がないしな」
「そうだね」彼はそれきり再び沈黙を貫いて、三袋目のスモーク・チーズに指を伸ばした。僕も冷蔵庫から新たにビールを持ってくると、次々と飲み干す。酒には割と強いほうだ。彼は何缶か飲んで、止めた。僕はそれに構わずぐいぐい飲んで、ついにはビールと肴で満ちていた冷蔵庫の中は空になってしまった。おそらく赤面しているだろう僕は同じく赤面している(というより、紅潮と言ったほうがいいかもしれない)彼と向き合った。
「仕事、うまくいくといいな」と、猫隠しのことを聞きたいが為に切り出した。
「そうだね。ここのところ順調だから、きっと成功するよ。そうそう、今日もこれから猫を隠しに行くんだ」
「へえ」僕は空になったビール缶を手持ち無沙汰に答えた。「ここから近いのかい?」
「とても近いかもしれないね。僕の憶測かもしれないけど」と彼は答えた。「しかもかなり個人的な用件でね。俗に言う妬ましいが故の猫隠しってやつだ。もしかしたら君の見知った猫かもしれないから、そのときのために今のうちに謝辞を述べておこう」彼はそう言って、小さく頭を下げた。
「いいよ、別に特別思い入れがあるわけでもないし」僕は彼に頭を上げるように促した。本当に猫には特別関心があるわけでもない。元より、猫は人には懐かない。僕はそんな迷信をまだ信じきっていた人間だった。
彼は立ち上がると、そろそろ帰ると言った。ビールを飲みながら世間話もしていたから、辺りはもう宵色に染まり始めていた。僕は玄関口に立った彼を見やると、一言投げた。
「猫を隠すと言うのは、どういう気持ちなんだ?」
彼は答えた。
「感情を持っていたら猫は隠せない。何も考えないようにしているよ」
彼は扉を開けて、夜の霧の中に融けるようにして消えた。
僕は緩慢な動作で立ち上がると、ベッドの上に寝転ぶ。すう、と深呼吸をして息を吐くと、ビールの匂いと少しだけ鉄の混じったような気持ちの悪い匂いがした。胃がやられたかもしれない。僕は彼女から連絡がなかったことをふと思い出すと、彼女の家に電話をかけてみた。とるる、というだけの無機質な信号音だけが続いた。彼女はいなかった。
僕は受話器を置くと、再びベッドに埋まって、そのまま寝入った。
翌日になっても、彼女から連絡は来なかったし、彼女自身も来なかった。
一週間経っても、彼女は来なかった。代わりに彼が来て、また猫隠しの話をして帰っていった。
一ヶ月経っても、彼女は来なかった。三ヶ月経っても、一年経っても。その頃にはもう連絡どころか、彼女の消息すらもつかめなくなってしまっていた。僕は心の奥底で、何かを掴み取ったような気がした。
彼女は消えてしまったのかもしれない。そうとさえ感じて、体が内側から締め上げられるような感覚がした。
僕は家の近くにある猫の溜まり場へと赴いてみた。週末の日課にしているウォーキングの際に良く見かける場所だ。今日はあまり猫がいなかった。いつもいるはずの斑が、いなかった。奴は時々僕の家の窓の辺りに来ていた猫だ。いくら猫とはいっても、見知った猫が隠されたとなるとほんの少し寂しくなる。
僕は近くの公衆電話に立ち寄って、彼女の家に電話をかけてみた。既に番号は使われていなかった。彼の家に電話をかけてみた。「もしもし」彼は電話に応じた。
「猫隠しは順調なのかい?」僕は訊ねた。
「ああ。最近はよく依頼がやってきて困るよ」と彼は言った。「特に最近の猫は"妬み"が多くて困ったものさ。今月だけで既に十匹ぐらいは隠しているかもしれない。こちらとしても猫を隠すのはいい気分ではないけれど、これも仕事だから仕方がない」そう、愚痴っぽく零した。
「そういえば、例の彼女とはうまくいっているのかい?」
彼女とは、連絡の取れなくなった先輩のことに間違いなかった。
「いや、実は音信不通なんだ。だれも行方も知らないみたいで、半ば諦めている状態だ」
「そうか」彼は感情のない声で言った。「それは残念だ」
「いや、もう気にしていないから大丈夫だ。君なんて猫を何匹も殺す――じゃなくて隠しているんだろう? 君の苦痛に比べれば僕の苦しみなんて軽いものさ」
「そうかな」
「きっとそうだよ」
「そうか」彼は幾分安心したような声で呟いた。「それじゃあ、これで」
僕と彼はほぼ同時に電話を切った。僕は他にすることもなかったので、もう一度猫の溜まり場を見てから家に帰った。あの斑がいた。奴ではなかったとしたら、一体どいつが隠されたのだろうか?
もちろんそんなことは僕に分かるはずもなく、すぐに興味の埒外にはずして帰宅した。
僕は自販機で買ったビールをあおりながら、テレビのニュース番組を見ていた。捕鯨問題とか連続殺人とか、世の中は僕の知らないうちに様々な事件を引き起こしているらしい。それに比べれば猫隠しは実に安らかな案件なんだということを、僕は意図もなく考えた。
すると、それを見透かしたようにチャイムが鳴った。
「やあ」ドア越しに彼が言った。「今、ちょっといいかな」
「中に入って話せばいいのに。急にどうしたんだい?」僕は彼に問うた。すると彼からは意外な言葉が返って来た。
「今日は、仕事で来たんだ」
猫隠し。彼はその案件で僕の元へとやって来たと言った。僕の家には猫はいないと言おうと思ったけど、僕はあえて何も言わずに玄関扉を開けた。そして、彼に笑顔で応じた。
なぜなら、猫はいたのだから。