Neetel Inside 文芸新都
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レインドッグ
第十一話 犬と猫

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第十一話 犬と猫

「拾われたんでしょ? ねえ、美貴!」
 もう一度、れいんは強く訊いた。団員が何人か、れいんの方を振り向いた。
「…れいんさん。ここではちょっと……立ち話もなんだし」

 近くのファミレス。雄一とれいんは、ありすと向かい合う形でソファーに腰を下ろ
していた。美貴はコーヒーを淹れに席を立っている。ありすは、この場で唯一の心の
拠所である彼女がいない現在、相当に落ち着かない様子でいた。
 れいんに掴まれた手は硬く握り締められていて、上を向くことなど一度としてなか
った。常に小声で何か自分を元気付けるような言葉を呟いていて、もう片方の手で閉
じた太股を人差し指でなぞっていた。
 この重苦しい空間に風穴を開けようと、雄一が口を開いた。
「今日、君の演技初めて見たんだけど……凄いね」
 ありすは雄一の言葉に反応しなかった。
「なんていうか、俺は詳しいこと分からないんだけどさ、バランス感覚が凄いよね。
演技中の顔とか、オーラみたいなのまで感じたよ」
 ありすは、ひたすらに自分の世界に入り込む作業を続けていた。
「…相沢が『この子は天才』って言ってたけど、本当だったな」
「…………」
 反応ないなぁ、と雄一は心中で呟いた。
「…お、ねえ……ちゃ、ん、が……」
「え?」
「…そう、言ってくれた、んですか……?」
 ありすは、下を向いたまま、そう呟くように言った。『おねえちゃん』とは相沢の
ことなのだろう。そう考えた雄一は、
「ああ、言ってたよ。確かに」
「…そう、ですか……おねえちゃんが……嬉しい、な……」
 相変わらず下を向いてはいたが、二人にはありすが笑顔になっているのが分かった。
「おどおどしてるけど、いい子じゃないかな?」
 雄一は、れいんの耳元で小さくそう言った。れいんはただ頷いた。
 実際のところ、れいんは雄一の話などロクに聞いてはいなかった。
 先程見た掌の痕のことを、ずっと考えていた。記憶を遡りながら――
「はい、コーヒーです」
 美貴の運んできたコーヒーの匂いを嗅いだ時、れいんは現実世界に引き戻された。

「確かに、れいんさんの言った通りです。ありすは、うちの所属アーティストがたま
たま拾った捨て子です」
 やっぱり。れいんは思った。
「いつ頃?」
「十一年くらい前ですね」
 ありすは、美貴の手を握っているときは他人を見ていられるらしかった。雄一が目
を合わせようとすると、瞬時に顔を逸らすのは変わらなかったものの。
「掌の痕は、最初から付いていたんでしょ?」
「ええ……ところで、なんで知っているんですか? れいんさんが、どうして?」
「この子……多分――いや、間違いなく、あたしの妹よ」
 れいんの口から出た言葉に、全員が驚いた。中でも、ありすの驚きようは相当で、
思わずれいんの目を見据えてしまっているほどだった。
「あなたが……私の、おねえちゃん?」
「…うん。あなたは、あたしの妹。最初に見た時から、少し気になってはいたんだけ
ど、その掌を見た時確信したわ。妹の掌には、お父さんに何度も何度も押し付けられ
た、煙草の痕があるから」
「…え?」
 美貴が言った。
「虐待じゃないですか!」
 美貴が大きな声を出した。隣のありすが、泣きそうな顔でビクンと反応した。
「そうなるよね」
「…れいんさんも?」
「…………」
 れいんは、ただ頷いた。
「…そう、なんですか……」
 美貴が、沈痛な面持ちで言った。雄一は、何も言葉を発さなかった。
「ところで……あたし、気持ち悪くなっちゃった」
 れいんが、苦笑しながら言った。
「え? 大丈夫ですか?」
 美貴が、心配そうな顔で言った。
「大丈夫大丈夫。ちょっとトイレに行って――」
「…あたしも付いて行きます」
「え? いいよ、一人で……」
「いーえ、行きます!」
 美貴はれいんの腕をがっちりと掴んで、立ち上がらせた。
「あっ」
 美貴の手からまたも離れることになったありすが、泣きそうな声で短く言った。
「ありす、ちょっと時間掛かるかもしれないから、雄一せんぱいとお話してなさい」
「お、ねえちゃん……嫌だよ、怖いよう……」
「ありす」
 美貴が、ぴしゃりと言った。
「あなたも、いつまでもそのままじゃダメよ! 雄一せんぱいはいい人だから、人と
話す練習をさせてもらいなさい!」
 本当の姉みたいだな、と雄一は美貴を横目で見ながら思った。

 女子トイレの便座に手を乗せて、れいんは大きく口を開いていた。目からは嘔吐の
際の涙が流れ出ていた。
 美貴はれいんの背中を擦りながら、苦しみを紛らわす意味も込めて語りかけた。
「れいんさん、体おかしいんですか?」
「…ん」
「生理きてます?」
「え……」
「私、鼻が利くんです」
「…鼻って……」
「なんていうか、相手の状態を感じられるというか」
「…分かるんだ」
「気持ち悪くなったのは、私が運んできたコーヒーの匂いを嗅いでから。匂いだけでそ
うなるってことは、れいんさんは今、そういう状態だってこと……」
 れいんは、何も言わなかった。
「れいんさん、せんぱいの子供がお腹の中にいるんでしょう?」

 雄一は、ぼーっと、ありすを見ていた。美貴の手を失ったありすは、やはり下を向い
ていた。
 ありすは、よく見るとれいんに似ている。性格は正反対だが、根本の雰囲気はやはり
姉妹の持つそれだった。
 れいんより背も高いし、胸もちょっと大きい。そんなありすが、妹とは。
 雄一は、そう思って少し吹いた。
「姉妹かあ……」
 雄一は、そう呟いた。

「まさか、せんぱいの子じゃないなんてことは――」
「…んなわけないじゃない」
「なら、どうしてそんな浮かない顔をしてるんですか? 好きな人の子供を産むのに、
なんでそんな顔を」
「気持ち悪いからよ。今」
「…そりゃそうですね」
「でも……確かに、あんまり嬉しくないんだ」
「え?」
「なんでだろうね……好きな人の子供を産めるのに、なんで、こんなおかしな気持ち
なんだろうね」
「…ホルモンとかの関係で、精神的に不安定になってるんじゃないですか?」
「…そうなのかなぁ……」
「…私、せんぱいが好きです」
「分かってるよ」
「れいんさんが産みたくないのなら、私が代わりに産んであげたい位。それ位、好き
なんです。せんぱいの子供なら、今すぐ出来ちゃったっていい」
「…………」
「…れいんさんは今、そこまで思えますか? 相思相愛が崩れるようなら、私が取っ
ちゃいますよ、せんぱいを」
「…実はね……」

「ありすさんは……相沢を『おねえちゃん』って呼ぶんだね」
「…は……は、い……」
 ありすは、雄一の声を拒もうとするも、美貴に言われた言葉を思い出し、必死の形
相で答えた。
「れいんのことは、どう呼ぶ? おねえちゃん、って、呼ぶ?」
「…え……と……わ、からない、です……」
「虐待って――」
 ありすがまた震えた。歯がかたかたと鳴る音が響き、見る見る汗を掻いていく。
「…俺、気付かなかった。れいんが、そういう過去を抱えていただなんて、俺はちっ
とも気付かなかったんだ。さっきは、それがショックで、何も話せなかった。そうい
うことがあったってのもそうだし、三ヶ月以上も一緒にいるのに、それに気付けなか
った自分にも、ショックだ」
 雄一は『虐待』という言葉を使わずに言った。この単語が、ありすのトラウマを呼
び起こすのだと思ったからだ。
「君は、えらいね。つらかったろうに、今は立派なアーティストになってる。本当に
凄いと思うよ。尊敬の念さえ覚える」
「…そ、そんなこと……あ、たしは、ただ、ひろ、ってもらえ、た、恩、を返すため
に……」
「…相沢、あんな顔するんだな」
「…あ、んな……か、お?」
「君を見る時、相沢の顔が凄く柔らかい感じになるんだ。あいつのあんな顔を見るの
は初めてだった。あいつは、笑顔でもどこか気が張ってる感じがあったんだけど。そ
んな顔にさせられる君は、いい子なんじゃないかなー、って、今思った」
 ありすは、いつの間にか雄一を見ていた。少し頬を紅く染め、顔も自然と緩んでい
た。雄一は笑顔で言う。
「れいんも、相沢と同じように呼んであげてよ。あいつも、ありすさんに負けないく
らい、いい奴なんだ」

「えー!」
 美貴が声を上げた。れいんはもう吐き終わって、二人は洗面場にいる。
「まだせんぱいに教えてない!?」
「そうなの」
「そうなの。って……ていうか、一緒に暮らしてるのに気付かないものなんですか?」
「鈍いんじゃないかな?」
「…いつ言うんですか?」
「…うーん……」
「踏ん切り、つかないんですか?」
「…………」
「せんぱいを、信じてないんですか?」
「…あたしの妹」
「そんなんじゃあ――」
「大事にしてあげてね」
「…分かってますよ」
 美貴は、一つ大きく息をついた。
「…れいんさんには、がっかりだな」
 れいんは、何も答えなかった。


 雄一はあの日。
 初めてのセックスをした、あの日。
 不安そうな顔をしていた。
 それを見てから。
 私は悩んだ。
 言葉では『一緒に育てよう』そう言ってくれたけど――
 ――私は、怖い。
 全てが怖くて、たまらない。


「――れいん?」
「…あ? 何?」
 席に戻ってからこれまで、ずっと考え事をしていたれいんは、雄一の言葉にすぐには
気付けなかった。
「ありすさんが、お前に何か言おうとしてるんだから、聴けよ」
「…お……おねえ……ちゃ……」
 ありすは、尋常ではないほど激しく震えていた。それは、彼女がかなりの覚悟を持っ
て何かを言おうとしているのだということの表れだった。
 れいんはそれを見て、テーブル越しに身を乗り出して、ありすの頬に手を触れた。
「昔と一緒。可愛いままだね」
 れいんは、そう言った。途端に、ありすの目から、大粒の涙がこぼれ出した。ありす
の奥底に澱のように溜まり続けていた何かが、音を立てて決壊したようだった。
「…おねえちゃん……おねえちゃん……」
「うん。つらかったね」
 れいんは、ありすの頭を両腕で強く包み込んだ。
「あの、れいんさん」
 その光景を見ながら、美貴が言った。
「ありすの本当の名前、知りませんか? この子、自分の名前を知らないんです」
「…ごめん、知らないの。あたしも、この子も、名前で呼ばれたことがないから」
「えっ!?」
 雄一と美貴が、ほぼ同時に短く叫んだ。

『相沢サーカス団』本社ビル最上階の一室『社長室』。
「社長」
「どうした?」
「先日のデータ、揃いました」
「そうか。で?」
「雄一さんの傍らにいる少女、どうやら捨て子であるということです」
「捨て子? なんだそりゃあ」
「そして、これはまだ未確認なのですが、今少女は妊娠中で、まず間違いなくそれは雄
一さんの子である、と」
「…ふうん……続けて」
「はっ」
 部下が社長室から出て行って、相沢勝は一人になった。
「妊娠、ねえ……下賤な女だな」
 相沢は、吐き出すようにそう言った。

       

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Neetsha