セミさんこちら手のなるほうへ
前編
1
筒状の白いゴミ箱には使用済みのしわくちゃになったティッシュが
大量に蓄積していた。臭いをかぐとシクラメンの香りが鼻に広がった。
「中」にしているのに弱のボタンくらいしか風を送らない緑色の扇風機
をぼんやり見ながら、僕は考えていた。予備校の夏期講習の英語の問題は
予想以上に難しかったのだ。問題があまりにも解けないので僕は憂鬱に
なった。セミのシャカシャカシャカという景気のいい鳴き声は僕の性欲を
一層高ぶらせた。シャカシャカシャカ、と同じリズムに僕は「それ」を
しごきあげ、そして果てた。こうしてまた使用済みのティッシュがひとつ
生産された。結局夏期講習の予習は全然進んではいない。今日はずっと
この繰り返しだった。時計の針をみると二時三十分を指していた。
このままじゃいけない、そう思った僕は外に出ることに決めた。
薄汚れたジーパンと、わけのわからない英字がプリントされたメロン色の
Tシャツを着て、黒い帽子をかぶって外へ出た。
しかし、外へ出たのはいいものの、行くあてがないことに気付いた。
どうしよう。このままじゃぼんやり考え事をしてしまう。そうすると僕は
決まって憂鬱な気分になってしまう。しかし、外に出なければ自室のあの
気だるいムードを一新はできやしないだろう。せっかく暑さへの覚悟を
決めて外へ出たのに、こんなのあんまりの仕打ちじゃないか。
「どうにかならねぇもんか」
僕はつぶやいた。
「どうにもならないのか。結局僕は悩むしかないのか」
僕はつぶやいた。ぼんやりとつぶやいているうちに、能天気な太陽は
段々と西に沈み、そのせいで空が朱色に変わってしまった。
「夕日か。これを見ると色々思い出してまた憂鬱になってしまう。僕は。
そう憂鬱になる僕はまだ青い。青い。夕日を見るつもりはなかった。
早く帰ればよかった」
僕はつぶやいた。どうにもならないことをどうにかできないことが僕の
唯一の能力だった。
「またこんな空見てしまうと、感傷的になってしまうなぁ」
僕はつぶやいた。街を行くカップル、子連れの母親、みんなして僕を
見下しているような気がしてきた。被害妄想だらけの感傷ワールドに
僕が突入しかけたころ、僕の携帯のバイブが振動した。
友人からのメールだった。
2
家に帰って食事を済ましたあと、いやに暑い自室で僕は黒色のうさぎの
ぬいぐるみと会話をしていた。性別がオスであろう彼の名は「みーちゃん」
といった。オスなのにちゃん付け。矛盾はあるけど僕はそんな彼の名前が
好きだった。
「ヤスタロウ君、そんなに落ち込むんじゃない」
「ありがとうみーちゃん。でも、僕あの空を見ちゃうとどうしたらいいか
わからなくなっちゃうんだ」
「何もしなければいい。そうすれば何も傷つくこともない。」
「それが一番だけど、それって逃げじゃないのかい? 」
「……」
ぬいぐるみはだんまりしてしまった。僕とみーちゃんの議論はいつも、
この話題のせいで中断されてしまう。あははは。ばかみたい。
暗い自室の隅に顔を伏せ、下に置いてあったぬいぐるみと会話する。
ぬいぐるみの思考も言葉もすべて僕のものだから、彼がしゃべることは
ない。傍からみればただただイタい男がぬいるぐみ相手につぶやいている
だけだ。気持ち悪い。
自己嫌悪で吐きそうになる。吐いてしまいたい。しかし吐けば自室が
汚れる。だから吐けない。自分はなんてダメ人間で気持ち悪い奴なんだろ
う。気持ち悪い。死ねばいいと思う。神様はきっと生かす人間を間違えて
いるんだろう。自分みたいなやつはさっさと死ねばいい。気持ち悪い。
なぜこういう思考に陥るのか。疑問に思って時計の針を見る。
午前二時。いつも午前二時以降になると僕の憂鬱が余計にひどくなるのを
僕自身がよくしっていたので、僕は畳の上で寝ることにした。布団はまだ
敷けていない、いや、敷けかけだった。
3
目が覚めてからの僕は絶好調だった。朝日は僕を祝福しているかに
思えた。昨日とはうってかわって僕は上機嫌だった。やりかけの夏期講習
の英語の問題も恐ろしく進んだ。残す問はあと二題だった。
そして僕は今日も外へ出た。相変わらず気分はよかった。感傷に浸る
ことはちっともなかった。自分でも驚きだった。家に帰って食事を済ます
と僕は自室に戻った。携帯を見ると懐かしい友人からメールが来ていた。
嬉しかった。結局その日はずっと上機嫌だった。
上機嫌と不機嫌が交互に訪れる、そんな嫌な日々の連続だった。
1
「情報弱者」「傷をなめあうラブロマンス」「制服デート」「花火」
「浴衣」「高校で青春できない奴は負け組」「スクールカースト」「女」
「MARCHはFラン」「国立なんて一年勉強すれば余裕」「はじてい」
「童貞」「鬱は甘え」「ひとりぼっち」「俺はおまえらとは違う」
……。……。
……。
世俗の情報に見事に踊らされた僕は、無事大学受験に失敗し、その
ショックから人間不信に陥り、さらに性欲が高じて、今や!立派な!
ロリコンキモオタ予備校生となってしまった!
……。……。
……。……。
受験に失敗してなお、一日十時間もパソコンに向かっている神経という
のはとても正常なものではなかった。制服を自信満々に着こなしている
十三、十四の女性の画像を見ながら、僕は果てた。一日に何度も果てるの
で流石に臭いに注意を払う必要があったが、もう近頃の僕にはどうでも
よかった。むずがゆい目をかこうと目に手をやると汗に混じって涙が
こぼれているのがわかった。
――空しいのだ。
こんな制服を着たロリ女子中高生の画像でしか僕は性欲を満たすことが
できない。同年代の奴らは彼女らの処女だって奪えるし、彼女らと性交を
することさえできるのに、僕はなにひとつできない。
恋人も居ない。空しいのだ。
――そんな日々を送っている間に桜は散り、風鈴の音が響くようになり、
また夏期講習の季節が訪れたのであった。
自分のダメさ加減にいい加減に腹が立つ。どうして、どうしてあの夏僕は
勉強しなかったんだろう。どうして自分だけは大丈夫だと思えたんだろう
か。
そして午後一時二五分。僕はテキストを持って駅へと向かった。
電車の中に入ると各々に夢中な人の群れが僕を待ちうけていた。
楽しそうに下を向いてメールを打つ者、着物に身をつつんだ中年女性、
悟りを開いたかのように窓を見つめるサラリーマン、そしてOL。
イヤホンを着けている女子高生。僕はそっと目をつぶった。
するとそこには誰も居ない、暗闇の世界があった。
どうせ今日も、またやりきれない日が始まるのだろう。
どうせ今日も。
2
「こんなことをして何の意味があるんだろう」
僕は目を覚ました。声の主を探した。主は僕のぬいぐるみだった。
「こんなことをして何の意味があるんだろう」
ぬいぐるみのみーちゃんは予備校のテキストを指差した。
確かにその通りだった。良い大学に入ったとて将来が保障されているわけ
でもない。大学に入ったとてスクールカーストが低けりゃみじめな思いを
するだけだ。それに僕は文系だから、勉強をそんなにしなくていいから
暇を持て余し、今より余計にみじめな思いをするだけだ。恋人が余計に
欲しくなるだけだ。そして大学を卒業するころにはそれが高じて今より
余計にねじ曲がった性格になっているに違いない。つまり、いくら良い
大学を出たとて、希望は……、ない。待っているのは今の予備校より
もっと辛い生活だけだ。性欲は今よりもっと増すだろう。
僕は何もできない、勉強もできない、愚かな予備校生だ。
それに今年たくさん勉強したって受かる見込みだってない。
だから勉強をする気も余計におきない。しかし勉強をしなくではいけない
というジレンマ。そのジレンマから逃れるために僕の足は僕をパソコンの
前に向かわせる。パソコンが起動するまでの少しの間にディスプレイから
映る、冴えなくてちっぽけな顔に嫌気がさした。
「もう死にたい。どうすればいいんだろう。みーちゃん。僕は、僕は、
受験勉強にムキになりすぎたせいで頭がおかしくなっちゃった」
「そんなことないよ、だって君は――」
みーちゃんが何か言おうとしたとき、向かいの女子高生が僕に嫌悪感を
示した。ぬいぐるみと何やらやっているのが気持ち悪かったのだろう。
最寄りの駅に下車したあと僕は家に向かった。今日は予備校を休むことに
したのだ。適当に、やりきれなさが増さないように暇をつぶしたあと、
僕は自宅へ向かった。夕食を食べたあと、僕はすぐに眠りにおちた。
3
午前八時二十分。不機嫌そうな女子高生や虚ろな目をした男子高校生や
いやに目をギラギラさせている男の人と僕は電車に揺られていた。
ガタンゴトンと音がする度に将来の不安はこみあげた。
でも、今日はみーちゃんがいないので相談できる人は、居ない。
「こんなことをして何の意味があるんだろう」
電車はトンネルへと突入したらしい。窓の外は真っ暗だ。