Neetel Inside ニートノベル
表紙

泡沫の剣 憧憬の天地
第一章

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 良い具合であることをマルクスに確認し、焼いてある川魚を一匹、焚き火の周りから取り一口齧る。
 焼きたてなためとても熱い魚の身を、火傷しないよう器用に口内で転がしながら、息をほうほうと出し冷やして味わう。いつもながらのことながら相当な美味だ。
「ねぇ、これどんな下ごしらえしてんの?」
 さらにもう一口齧り、またほうほうとしながらマルクスに尋ねる。
「秘密だからこそ、神秘性が増して味もおいしく感じるってね。絶対教えねぇ。……別に怪しい物は使ってねぇぞ」
 熱がりつつも疑うような目をリーナが向けたため、それに応えるようにマルクスは付け加えた。

 川岸で魚を頬張っている彼女、リーナは、3年前、14歳であった当時、自身の住む城で彼女にとって人生の転機と言える事態に遭遇する。

 グランデルーヴ頂上剣闘会。

 世界の名はグランデルーヴ。この大会は呼んで字のごとく、剣の強さを競う大会であり、世界の名を冠しているだけあって地上最も大きな行事の一つである。
 回を重ねるごとにその激しさは増していき、必ず負傷者や重傷者、大会後に後遺症を持ってしまう人、最悪の場合死者も続出するほどの、極めて危険な大会。そのため、全世界から選ばれた剣術自慢の屈強な男女が集う。
 世界中に点在する大小様々な国家の内の一つであるライファースでは、5年に一度、この大会が催される。
 きっかけとなったこの大会を通し、彼女は性格から何から、全てが変化した。

 リーナ・ヴェルカスト。
 彼女が住んでいたのは、ライファース城と呼ばれる、ライファース国の中心都市からほんの少し離れた位置にそびえ立つ由緒ある城。
 彼女はこの城で育ち、14年間を殆ど城内で過ごしてきた。ひとたび城下町へ降り立てば、街中の人々から温かな歓迎を受けるほど、とても人望の厚いお姫様。
 そう、彼女は一国一城のお姫様であったのだ。自室のテラスで紅茶を飲み、街の様子を俯瞰するような。

「ねぇ、食後の運動に一戦やろうよ。さっきのは喧嘩みたいなお遊びだったし、ちゃんとしたのを一戦」
 3匹目に手をつけながらリーナはマルクスに頼んだ。
「おう、いいぞ。ルールはいつも通り武装解除された方が負けでいいんだろ?」
 マルクスも既に5匹を食べている途中で、4匹はすでに骨だけにしていた。
「うん、それでオッケー。うーん、何か新しい戦術を生み出すべきか」
 片手に焼き魚が刺さった棒を持ち、もう片方の手は頬に置き、顎を盛んに動かし食べながら思案に暮れるリーナ。

 彼女が今のように変わった理由は、別にリーナにとって城での生活が息苦しかったからというわけではなく、変化のない生活に飽きて刺激を求めたからという訳でもない。
 先述の剣闘会は5年に一度催されるということもあり、彼女が9歳のときは幼すぎるリーナにとって危険である、野蛮であるという理由から大会の存在すら教えてもらえなかった。しかし14歳になった当時は、催されることを知ったため、ぜひこの貴重な大会を見ようと強い興味を持つ。その時に決断した理由は単に5年に一度催されるお祭りだから、というものであった。
 しかし、14歳でも年齢の壁は厚く、彼女の母親であるアンヌにどれだけお願いしようと、様々な危険が伴う、野蛮だから、等の同じ理由で断られ続ける。
 アンヌ・ヴェルカストはタダイオスの妻であり、女王でもある。旅好きな王に代わって、治世を収めてきた頼れる女王。
 対して、リーナの父親である、このライファース国の王である旅が大好きであったタダイオス・ヴェルカストは、リーナが12歳となった年、長旅から帰ってくると同時に病に襲われ、リーナが旅に出ている今も療養中である。

 最初のお祭りを楽しみたいから、という理由はすでに変わっていた。しかしそれが意地か、はたまた反発か。そのどちらでもなかったのか当時の彼女にはわからなかったが、剣闘会を見るため初めてアンヌ対し我がままを言い続けた。
 今までの彼女は、城内で勉強をしたりダンスの練習をしたりする日々だったのが、一転。これも大会を見るためと、ダンス練習は騎士団の訓練見学に代わり、勉強はそれまでの社会の常識などの基礎的な知識の吸収から戦術の知識の吸収に代わる。騎士団の訓練見学は、野蛮だと言われる大会を見ても平気だとアピールするため。知識の吸収は見学を通して興味を持ったからであった。
 その過程で、戦いだけでなく武器そのものを知る事に特に興味を持った。彼女にとっての変化はこの時から始まっていたのだ。
 様々な行動を思いつき、実行し、悩み、協力し……。色々な出来事の後、ついに決勝戦のみだが大会を拝むことを許される。
 リーナは自身の姫であるという立場から、ふとした時に孤独を感じることがあったのだが、その孤独を忘れさせてくれる存在であった使用人兼姉のような存在であったメルヤと共に協力し、母親を説得した結果がそれであった。

 ついに願いが通じ見ることができた大会。
 その大会の決勝戦は、今共に旅をしている、ライファース国で生まれ育ったマルクス・ラヴレンチと、当時世界を自身の剣の腕で騒がせていた、名前しか名乗らず、職業や年齢はおろか出身国すら明かさない謎の男と呼ばれたレルド・ルースの対戦であった。
 自国で開催される大会で、自国出身の決勝進出者。そして謎の男。国内外から観客は来ているものの、やはり大半は自国のそれが多いので、絶好の対決となった決勝戦時の盛り上がりはピークであった。
 その決勝戦の内容はもはや当時のリーナにとって形容しがたく、全てに圧倒され、言葉を失った。
 レルドの圧倒的優勢。あまりにも正確すぎるその動きはマルクスを剣を翻弄し、流れるような動きで体術をも披露する。まるで師と弟子で剣の訓練をしているかと錯覚してしまうかのような、試合にならない展開。
 その手に握られている剣に触れれば脈を打っているのではないかと錯覚してしまうほど、躍動感に満ちた剣術を、両の手に一本ずつ持った剣で披露する。

 マルクスも当時は奇才と呼ばれるほどの逸材であったが、まるで歯が立たなかった。決してマルクスは弱かったわけではない。世界各地から選ばれし120人の強豪が集まった中勝ち抜き、決勝まで駒を進めたのだ。実力は推してはかれる。
 だがしかし一方的な試合展開は覆らず、圧倒的に上回る剣術でレルドはマルクスの剣を予備さえも柄の部分から叩き割り、試合終了となる。
 大会至上初の重傷者がいない決勝。そして圧倒的な勝利。しかし、どこにも属さず何にも手を貸さないレルド。
 そして「この日、この場所で勝ったという事実がここに残っただけ」というセリフ。
 今大会最高潮の盛り上がりの中、優勝者への戴冠をまかされていたリーナは、間近で見たレルドのその雰囲気に圧倒された。

 その井出達、剣を振る姿、その言葉。全てに魅入られたリーナは、大会が終わった翌日から剣を握る。

 大会を見せてもらう過程で付き合いが出来た、ライファース城内の騎士団に協力してもらい、訓練に参加する日々となったリーナは、城内の目立つ箇所に置かれている父親の剣が両手剣だったこと、勉強でも両手剣に興味を持ったこともあり、両手剣を振るうようになる。
 初めの頃はまともに持ち上げることも敵わず、訓練にもならない日々。しかし他の兵士らに持ち方のコツなどを教えてもらいながら、少しずつ上達していく。
 当然、剣を振ることにアンヌはもちろん、よき理解者であるメルヤですら猛反対した。
 リーナ自身、剣を振る理由はもはやレルド・ルースに影響を受けたとしか言えない。しかし大会を見るまでに、既に彼女は様々な方面から戦いそのものに興味を持っていた故、止まる事はできず。
 憧れという衝動から剣を振るうち、その興味はレルドとの対戦という目標へ変わっていった。

 しかし徐々に強くなっていくとはいえ、いきなりの両手剣である。当然、扱いこなすには普通の片手剣の類より難しい。
 ある所から一向に上昇しない自身の腕に落胆しつつあった時、いつも城の正面玄関からでも見える位置にあり、リーナが両手剣を振るうきっかけにもなった父親の剣が目に入った。
 父、タダイオスは自身の持ち物をとても大事にする男であった。それゆえ、当然持ち物にも厳しく、幼い頃にこの剣に勝手に触れ、タダイオスから凄まじい剣幕で怒られた記憶がある。
 しかし、リーナは武器について興味を持ち始めた時からこの剣には惹かれていた。何の変哲もないツバイハンダー型の剣。だが幼い頃から見ていたせいと、父が大事にしている物でも特に几帳面に扱われていたこの剣がどうしても気になって頭から離れない。
 寝込む父親の部屋に入ったリーナは、剣に触れて良いか問うも、当然答えは返って来ず。いつか謝って許してもらおうと決意し、勝手に剣を抜いた。
 その剣で訓練に臨んだ日からだった。今までが嘘であったかのように体が動き、見る見る内に剣の腕は上達。訓練開始から2年で、城内で彼女に敵う者はいなくなった。
 留まることを知らないその実力は、城から出てくる3ヶ月ほど前には国内で敵う者がいなくなり、リーナは騎士団長に任命された。お姫様でありながら騎士団長という、前代未聞の存在の誕生に、国中で話題となったが、リーナの目はその頃には既に国内に在らず。

 そしてついに1ヶ月前、日々強まっていた、レルドを倒したいという気持ちが膨らみ続けた結果、城を出ることを決意。
 訓練自体から変わらず猛反発し続けたアンヌの制止を振り切る。そして姉的存在であったメルヤからは、こうなることを予想されていたのか、父親の両手剣に合うように作られた鞘を受け取り後押しされ、ついに城から、そして国から飛び出した。

「さぁて、そんじゃやりますか」
 焼き魚と、リンゴの代わりのトマトを食べ終え、房楊枝と歯磨き粉を使い歯を磨いたのち水の魔鉱石で口を濯いだリーナは、川のすぐ側から振り返りマルクスに言う。
「あー、もうちょっと待ってくれ」
 対するマルクスは、焚き火を消す作業をしていた。魔鉱石に川の水をかけて火を消す。地面に置いたままだと再び発火してしまうため、まだ熱が籠もっている薪を素早くどかし、魔鉱石を転がす。それにさらに水をかけ、持てる温度にした後、自身の鞄へ仕舞い込んだ。魔鉱石には特殊な力が宿っており、それは地面に置くと発揮されるが、反対の力を持つもの、つまりこの炎の魔鉱石には水をかけてやれば、一時的にだが能力を封じることができる。
 鞄の口を閉め、側に置いてあった剣と盾を持ち上げる。
「うん、これで準備よし」
 準備が出来たマルクスは右手に剣を、左手に盾を持ち確認する。リーナもその間に移動し、自身の鞄に水の魔鉱石を仕舞い、さっきまで座って食べていた椅子代わりの石の近くに置いていた自身の剣を取る。鞘に付いているベルトを右肩から左腰へ斜めにかけ、背中に剣を背負った。
 両者ともその場で屈伸したり腕を回したりし、軽く準備運動をする。それを終えると、どちらからともなく歩き出し、簡易の野営地から距離を置き、川からも離れた岸に位置取る。そして、向かい合った。
「確認するぞ。ルールは武装解除した方が勝ち。ただし拾い直して再度戦えるようなら継続。ともかく、戦いが継続できない状態になった時点で終了。これでいいな?」
 マルクスは両手に剣と盾それぞれを持ち、構えながらそうリーナに問う。リーナは、またか、と言いたげな表情を浮かべた。
「確認しなくてもわかってるわよ。毎度毎度律儀ねぇ」
 言いながら、リーナも鞘から剣を出す。鞘を装備しながら戦う理由は、いざと言う時に鞘は武器にも盾にもなるからだ。リーナのそれは鞘の刃先部分、鞘の口部分、刀身の途中、拳二つ分ほどがそれぞれ金属で補強されている。全体的な素材は、外側は主に硬い牛の皮でできており、内側は木製になっている。代わってマルクスの鞘は全て鉄製で、腰にベルトで装備し吊り下げ、戦いに挑む。
 リーナも剣を両手で持ち、構えに入る。刃先をマルクスに向け、先手を許さないように。対するマルクスも、盾を持っている腕を少し前に出し、無用心にかかってくれば反撃は万全という形。時刻はほぼ完全に陽も沈んでいる頃。長くは続けられない。
 開始の合図はなく、どちらかが動き出した瞬間がそれの代わりとなる。
 会話は止まり、夜に差し掛かろうとしている2人がいる川岸は、不気味な静けさと涼しさを伴う風が吹く。川岸の砂利の上をいくつもの葉が転がり、微かな音を立てる。同様に、周辺の木々も騒いだ。
 痺れを切らしたリーナが一歩、右足を出す。そしてその脚力で砂利を飛ばしながら、マルクスへ一気に駆け寄った。マルクスは目を見開き、これから来る攻撃とそれを受け止めた後の動きを頭で整理しながら盾を構え、体勢を低くした。

 マルクス・ラヴレンチがこの旅に同行している理由は、目的が一致したから、というのが一つ。
 剣闘会でレルドに辛酸を舐めさせられたマルクスもリーナと同様、その悔しさから日々訓練し続けていた。だがしかし、それだけでは終わらずさらに辛酸を舐めさせられることとなる。自国の姫と一戦交えて欲しいと、城から呼ばれた時がそれであった。
 初めはお姫様と戦うなんて、と躊躇していたが、戦いが始まればその思いは一転。マルクスは全力を出さざるをえないこととなる。その時は既に大会が終了してから2年半ほど経っており、城内の騎士団には完勝、そして国内からもほぼ敵がいなくなりつつある頃だったのだ。噂自体はそこそこ街中に広まりつつあったのだが、大会以降、両親以外の人にあまり関わることのなかったマルクスは強くなったリーナのことを知らなかった。
 姫とは思えぬ、というよりも、リーナという女の子としてのその華奢な体から繰り出されるとは思えぬ斬撃の数々を、剣と盾で受け、時に反撃しながら、そして頭は混乱しながら戦った。
 結果は、マルクスの負け。リーナの圧勝というわけでもなかったが、それでも、昔からその才を見出され、子供ながら街中の剣術大会で優勝しつつも、決して己の剣の腕に溺れることなく磨き続けたマルクスからしてみれば、女の子に膝を屈せられたという事実はレルドに負けたときの衝撃に等しい。
 その日城から落胆しつつ帰ったマルクスは、親の仕事の手伝いをしつつさらに今まで以上に剣の訓練をし、自ら願い出て城から通行許可証をもらうと、週に一度は城に通いリーナと戦うという日々を送った。
 そんな日常があったせいか、城から単身出てきたリーナと、これからまた勝負しようと城に向かっていたマルクスが街中で出会い、あからさまな旅支度の格好をしているリーナに問うた際に聞かされた、これから行こうとしている旅に同行しない理由はなかった。リーナから「アンタも来る?」と言われたマルクスは、その場で「行く」と返事をしたのであった。
 そう、マルクスにとって、目標はレルドだけでなくリーナも目標となっていたのだ。

(真面目な努力ってのが報われる日は来るのかね)
 踏み込んで来たリーナをしっかりと見据えながらそんなことを考えるも、一瞬で頭の中身を入れ替え、相手の動きを推測した。
 リーナは右腰辺りで両手で剣を持ち、刃先は後ろに向け一直線に向かって来ている。体勢からして、上から叩きつけるような斬撃か、もしくは刃先の向きを変えての突きか、先の戦いのように急停止しこちらの攻撃を無力化するか。
 予測を立てると、盾を持っている手を握りなおす。こちらから攻撃はせず、そしてリーナを十分に引き付けると、攻撃を待つ。リーナの両手が右腰から動き、刃先は後ろに向けたままリーナ自身の首辺りまで持ち上がったのをマルクスは見過ごさない。
(上からの斬撃……!)
 その瞬間新たな予測を一瞬で考え、後ろに避けるでも横に転がるでもなく、リーナに全速力で向かった。片手剣の動き易さ、振り易さに比べると、両手剣はどうしてもスピードでは勝てない。であるため、両手剣であるリーナは早めに行動を起こさざるをえない。マルクスはそのスピードと動かしやすさという点での優位性を生かすべくリーナに突っ込み、初撃として盾での殴打を試みる。
 まだ振り下ろしきれないという計算通り、マルクスは、両腕が持ち上がりがら空きになっているリーナの腹へ向けて盾を突き出す。剣を出さなかった理由は、怪我をさせるからではなく、リーナから見て若干左側から踏み込んだため、リーナの右上から来る斬撃に確実に対抗するために、右手に持っている剣を動かすより左手に持っている盾を動かす方が素早いからだ。
 マルクスは左手から伝わる確かな手応えを感じ、次の一撃をお見舞いしようと右手を握り締める。が、その手応えは腹への打撃ではなかった。リーナは飛び込んできたマルクスの盾を、左膝で受け止めていた。右足で強引に急停止した後、左足を上げて防御。その強引な技に理解と判断が遅れたマルクスの左のこめかみに、リーナの左肘が直撃。彼女の両肘は鉄製の防具で覆われているため、相当なダメージだ。両膝も同様、鉄製の防具で覆われているので、盾のダメージも入っていない。
 マルクスの視界が衝撃で歪むが、そこで次の一撃を受けてしまわないよう、マルクスは左足でリーナの右足を蹴り足払いを実行。右足一本で立っている状態だったため難なくリーナの体勢を崩すことに成功するが、先ほどのダメージは重く、こちらから仕掛けようとした瞬間視界が歪んだため、後ろに飛び距離を取る。リーナもマルクスが飛んで行った方向とは反対に転がり、すぐさま起き上がる体勢に差し掛かる。しかしその瞬間を逃がさず、今度はマルクスがリーナへ駆け寄った。
(できればこれで決めたい!)
 さっきのダメージが完全に消えていないため、ここで攻撃が外れ反撃を受けると対処しきれる自信がない。そしてリーナもその事は理解しているはずなので、確実に決める必要がある。
 リーナの片膝が上がり完全に立ち上がる前にマルクスは自身の剣が届く距離まで来た。リーナはまだ立ち上がろうと、右足を立て、そして右手だけで両手剣を握っている状態だ。あの体勢からでは剣を振るのも、さらに転がるのもマルクスが剣を振り切るのには遅れる。
 右腕に全力を込め、一気に振り降ろしにかかる。しかしリーナの目はマルクスの顔ではなく足を見ていた。そしてマルクスは判断を誤っていた。立てていた右足と剣の柄を握りながら突いていた右手を支点にし、今度はリーナが左足で足払いを放った。そう、右足と右手を使っていたのは立つためではなく、元より左足を蹴りに使うためだったのだ。そのタイミングは完璧で、マルクスのほぼ全体重をかけ踏み込んでいた左足が払われた。衝撃で左側に思いっきり傾くも、倒れずもう一度左足で踏ん張る。しかし大きく股を開き上体が傾いている体勢となってしまい、これでは何もできない。
 対するリーナはマルクスの足を払った勢いそのままに左足を動かし、立ち上がった。そして両手で剣を握ると、剣の刃ではなく面を、体勢が崩れたせいで突き出してしまった形になっているマルクスの右手に素早く叩き込む。
 手甲で覆っているとはいえ衝撃により右手は痺れ、マルクスは剣を落とした。しかし、まだ盾がある、と左手を突き出そうとした瞬間、自分の視界が強制的に明後日に行くと同時、意識も吹き飛んだ。右の頬と顎にかけて、リーナの剣の面による耐え切れない衝撃を受けたのだった。マルクスはその一撃で脳震盪を起こし気絶、右から飛んできた剣の勢いそのままに左方向へぶっ倒れた。
「はーい、アタシの勝ちぃ!」
 すでに聞こえていないのを分かりつつも、リーナは口に出して倒れ行くマルクスに告げた。
 リーナはマルクスの右手を打った瞬間勝利を確信。マルクスの剣が手から離れたのを確認するとすぐさま自身の剣の向きを変え、マルクスの右手を打った勢いで浮いた剣の力の作用を手首を使って横に変更、右腕を軸に剣の面を今度はマルクスの右頬に叩き込んだ。一歩間違えば首が飛んで行ってしまう荒業だが、訓練で戦いを気絶で終わらせるために培った経験の賜物で、正確にマルクスの右頬と、刀身の幅も加味され右顎に剣の面をぶち当て、戦いは終了した。

 城から出て現在で約一月。毎度、気絶するまでのこのような戦いが繰り広げられているわけではなかったが、2人の戦いは最後にはリーナが立っていたので、今ここで起こった事とあまり変わらない光景が繰り広げられているのだった。

 戦いの後、リーナは自身の水の魔鉱石で水を飲みゆったりしていたが、中々起き上がらないマルクスに、仕方がない、と起こそうとマルクスの頬を叩くも、返事なし。顎を触ったが、砕けているようでも外れている様子もないので一旦安堵し、マルクスの体を簡易テントまで引き摺って運ぶ。
 そして枕と掛け布団を用意してやり、鎧を脱がせインナーだけにした後、改めてテント内に寝かせた。掛け布団を掛けてやり、仕事終了。最後にもう一度マルクスの顔の前で手を振ったがやはり反応がないのを確認した。これも初めてではないので、少し慣れていた。リーナも、自身の主に革でできている鎧を脱ぎ、各部の防具も外す。インナーだけになった瞬間は、開放された気分だ。
「一戦だけど微妙な汗かいたし、体拭いとこう」
 テントを出たリーナは一人そう呟き、マルクスの鞄から炎の魔鉱石を出す。そして自身の水の魔鉱石とタオル、着替えも出し、用意ができた。金属で出来た桶もあるので、湯を作りタオルを浸し、それで体を拭くという形。
 水の魔鉱石は炎の魔鉱石と同様、地面に置き少し待つと水を生み出す。そして持ち上げてもしばらくは水を生み出し続けるので、その間に桶を水で一杯にする。止まればまた地面に置けばいい。炎の魔鉱石は、囲炉裏のように大き目の石で円を作った後、その中心に置く。薪などを置かなければ炎の魔鉱石は熱を持つだけなので、その上に少し離して桶を置き、お湯を作る。
 野営地から離れ、川岸で首尾よく準備を終え、お湯の温度を調整する。丁度いい頃合なのを確認しインナーを脱ぎ裸になる。控えめな胸、そして全体的に程よい肉付きでまとまっている。細すぎるということもないし、太めでもない。最初の頃は城でのお風呂生活に比べ、外で裸になるというあまりの無防備さに、常に周囲の様子を窺いながら体を拭いていたが、慣れとは恐ろしいもので、今はお湯の温度に気持ち良さを感じ、鼻歌を浮かべながら体を拭いていくほどだ。念のために剣は常に自身の近場に置いてはいる。
(そういえば、明日はいよいよ1つ目の挑戦場、もとい都市へ行くのよね。……マルクス無理そうだから、アタシが出るしかないか)
 体を拭きながら考える。リーナはレルドを倒すため、という名目で旅に出る決意をしたものの、具体的にどうやってレルドを見つけ出すかについては全く考えていなかった。
 それを聞いて呆れていたマルクスだったが、まずは情報収集をするしかないと、初めの頃はライファース周辺の様々な村などを回ったが、有用な情報は何一つ得られなかった。
 考えてみれば、レルドは大会の決勝戦後、どこにも属さず、何にも手を貸さないと言っていた。となれば、見つけるのは相当困難であることは容易に考え付く。
 そこで2人が出した結論は
「とりあえず強い奴と戦いまくっていけば、いつかレルドに辿り着くんじゃないかな」
 というものだった(発案はリーナ)。
 マルクスも何か言おうと思ったものの、他に思いつかない以上それに賛同せざるをえなかった。それにそこまで反対でもなかった。もしレルドに会えないとしても、一箇所で訓練しているよりは遥かに剣の腕が上がるだろうからだ。同じだけリーナも強くなってしまうが、ともかくいつか勝てればいいと考えた。だが最終的な目標は、やはりレルドであることは変わらない。
 対するリーナもレルドを見つけることに全力を尽くすと考えており、会って一戦交えるまではこの旅は終わらないと考えている。そしてできれば勝って帰りたいとも考えていた。
 それが今の2人の目標であり、「夢」であった。
 そして、方針を変えた聞き込みでその「とりあえず強い奴」がいることが判明した都市に明日着く予定だ。ゆっくりでも半日も歩けば着く予定で、少し急げばまだ短縮できる。
(夢……。夢って言えば、そういえば昔)
 リーナは唐突に夢という言葉に反応し、曖昧な記憶しか残っていない小さな頃をふと思い出した。母親、アンヌの部屋で一緒に話をしている時の様子だ。
「夢……。うーん、えーっとたしか……」
 体は拭きながらも呟き、その時の情景をなんとか記憶から呼び起こし、さらに会話の内容も思い出そうとしてみる。モヤがかかったような思考の中、やがて一つの言葉に思い当たる。

”「自らの夢に辿り着き、自らを知った者は、自らの夢を知る」”

(……思い出したはいいものの、何のことやらサッパリね。レルドと戦えたときになんか実感することでもあるのかな)
 しかし、思い出したのはいいものの微かな違和感を覚えた。こんな言葉だったっけ? そもそも本当にこんな会話したかな? というような。が、特に気には止めず、体を拭き終わり、最後に頭から湯を浴びた。今度は濡らしていないタオルで体全体の水分を拭き取る。
 頭を拭いている時というのは、髪とタオルが擦れる音で周囲の音が聞こえにくくなる。故に離れているせいもあってテントの方から発せられた音に、リーナは全く気づかなかった。周囲はもう真っ暗になっていたが、目が慣れている手前、少しなら把握できる。が、タオルが視界を隠していて、そもそもテントとは逆方向の川に体を向けているため、余計に気づかない。
 なので、寝惚けた+気絶によるはっきりしない頭を覚ますためマルクスが顔を洗いに川岸、リーナの少し離れた所までやってきたのに気づいたのは、リーナが頭を拭き終えて、ふう、とタオルを降ろした時であった。
「へっ!?」
 突然近場に現れたマルクスに驚きの声を上げてしまう。顔を洗い終えていたマルクスは声に反応し、リーナの方を向く。眠っていたマルクスは、頭が覚醒さえすれば目は暗闇に慣れていて機能する状態だ。びしょ濡れの顔は状況を理解すると一瞬で驚愕の表情へ変わった。マルクスの目線が激しく上下に移動している。リーナも驚いて固まっていた手前、隠すのが遅れた。そして怒りにわなわなと震える腕を、すぐ掴める位置に置いていた鞘に仕舞っている剣へと伸ばす。
「ちょちょちょ待って本当にこりゃ完全な事故で」
「言い訳なんて聞いてないわよ!」
 マルクスはリーナの剣で再び気絶させられるはめになった。

 翌朝、目を覚ましテントから出たリーナは、陽射しを浴びると気持ちよさに伸びをする。そのオレンジ色の髪が朝日に照らされ、美しく映える。
「んー、いい朝」
 そう呟いて少し目線を動かすと、マルクスがすでに起きており、さらに朝食の準備も進んでいた。マルクスはリーナが出てきた音に気づき、さらに目線が合うと、いきなり額を地面につけて謝った。
「昨日は本当にすいませんでした!」
 リーナは思い出し、赤くなって思わず胸を隠す仕草をするも、当然今は服を着ている。別に恥ずかしくもない。対して頭を地面に擦り付けたまま動かないマルクスを見て、はぁ、と一息吐く。
「もういいわよ……。夜目だったからそんなはっきり見えたわけでもないだろうし」
 そう言うとマルクスは顔を上げる。泣きそうな表情を浮かべているので、さすがに可哀想に思う。思い返せば昨夜は、再び気絶したマルクスをその場に放置して自分はテントで眠っただった。のでフォローを入れておくことにした。
「気絶させちゃったのはアタシなわけで、というかむしろアタシがやりすぎた。……ごめん」
 謝るのがなんだか少しだけ悔しいので、そっぽを向きながらそう言う。するとその言葉でやっとマルクスは開放されたかのごとく安堵の様相を体全体で表し、その場に伏せた。
「本当良かった……。もうついて来んなとか言われるかと」
 顔だけ横に向け、しかし体はうつ伏せでそう弱々しく発する。
「アンタの中でアタシはどんだけ冷たい性格なのよ……」
 朝から怒鳴る気にもなれず、ため息と共にそう呟く。
 顔を洗ってくる、と言い残し水の魔鉱石とタオルを持って川へ向かう。
 野営地から離れると周辺は朝の川岸そのもので、とても気分が良い。木々の間で鳥が鳴く声や、時折水から飛び跳ね出てくる魚、朝日を照り返し宝石のように輝く水面、そして川のせせらぎ。全てがとても心地よい空間を演出し、思わず顔が綻んでしまった。

 顔を洗い終え、朝食を食べるためマルクスの元へ向かう。近くまで来て今朝は何を食べるのかと見てみると、なんとリンゴがあった。
「リンゴじゃない! どうしたのこれ!? しかも結構大きい!」
 思わずはしゃいでしまい、リンゴを手にさらに気分が向上する。周辺を色々探したがリンゴは見つからなかったはずだ。さらに大きさも重さもかなりある。
「いや、そのさ……本当に今日置いていかれるんじゃないかと思ってかなり早朝から探しに出てた」
 乾いた笑いを出して、リーナの方を向かないように朝食の準備を進める。リンゴを探すついでに色々見つけたのか、魚の他に様々な山菜やキノコなんかもある。親の仕事が飲食業であったため、食材探しは得意であると言っていた。
「えーっと……なんかごめんね。アタシそこまで冷たいことしてきてた?」
 少しだけ落ち込みつつもそう言うと、マルクスは振り向いて首を振った。
「そうじゃねぇ。そんなこと思ってないさ。けど、その、なんだ」
 口ごもり、その先を言うのに戸惑っているのかなかなか言えない様子。リーナはそうじゃないならなんでだろうと、その様子に首を傾げながらリンゴを齧る。
「ああいうの見ちゃったら、その、なんていうか、どう詫びたらいいかわかんなくて、うまく謝れなかったら女の人はどんだけ傷つくのかなとか思ったりしてさ」
 そう言って目線をそらし、下ごしらえに慌てて戻る。リーナはリンゴを咀嚼する速度が10分の1くらいに遅くなった。後ろを向いていても見えるマルクスの耳が真っ赤になったのがわかる。それを見て不覚にもちょっと可愛いと思ってしまった。リーナより2つ年上であるというのに。同時に口に含んでいたリンゴを吹き出しそうになったが、堪えた。
「ど、どんだけウブなのよアンタ……真面目すぎるっていうか、さすがに面白すぎる……!」
 そう言い、堪え切れなかった息だけが口から出てきてプククッと音を立てる。その音に気づいたが、しかし振り向かないままマルクスの作業が少し荒くなった。
「んなこと言われてもわかんねぇもんはわかんねぇじゃん! しょうがないじゃん!」
 それがきっかけとなり、口の中の残りを一気に飲み込んだリーナは大声で笑い始めた。リーナだってそういう事に関してはてんで疎いのだが、この際そういうのは関係ない。ただマルクスの様子があまりにも可笑しかったのだった。
「笑うんじゃねぇよチクショウ! 朝飯抜くぞ!」
「そ、それだけは勘弁して……ブッ、アハハハッ!」
 ヒィヒィと、息をするのも苦しそうに笑うリーナ。一しきり笑い終え、ふう、と一息ついて、未だに背中を向けたままいじけるように準備しているマルクスに言った。
「一度、もういいよ、って言われたらそれでいいと思うよ。不安だったのはわかるけど、ちゃんと謝ったことはアタシに伝わったから許したわけでしょ? 伝わらなかった時に考えればいいのよ、そういうのは」
 マルクスは一瞬下ごしらえする手が止まり、またゆっくり動き始める。相変わらず視線は向けないまま短く応えた。
「そっか……」
「そうよ。逆で考えれば簡単じゃない? マルクスがアタシに自分の裸見られたらどう思うかって」
 また一瞬作業が止まり、そして動き出す。しかし今度は振り返った。
「慌てるだろうけど、結構どうでもいいな」
 そう言って、マルクスは今度は笑顔を浮かべた。
「そんなもんでしょ? ……アタシの場合、どうでもいいってことはないけどね?」
 そして一口かじっている大きめのリンゴをマルクスに向かって突き出す。
「あーもう! ややこしくすんなよ!」
「フフフッ、ごめんごめん。ともかく、この話はこれで終わり。それで良し」
 んだな、と言って、マルクスは作業に戻った。リーナもその様子を確認し、リンゴを齧りながらマルクスの向かい側へ座る。
「にしても」
 石に腰掛けると同時、マルクスが話しかけた。ん? とマルクスに少し首を傾げる。マルクスは何でもないことを喋るような表情をリーナに向けて言った。
「女でも下、薄いけど生えてるもんなんだな」
 次の瞬間リンゴがマルクスの顔面に直撃したのは言うまでもない。

 朝飯を食べ終えると、いつもより急いで片付けに入る。
 運ぶのに大変で大きなものと言えばテントだが、これはマルクスがいつも背負っている。大きな持ち物は大きめのリュックに詰め、テントは丸めてその上に縛り付けマルクスが背負い、比較的小さな、片方の肩で下げられるようなものはリーナが持つ。両手剣があるので、あまり大きなものは持てない。一度リュックに両手剣を吊り下げたが、変なバランスになり歩きにくかったため、このような分担になった。小さなものと言えば着替えやタオルなどだが、魔鉱石があるので重量はそこそこある。
 1時間ほどで片付けを終え、ゴミも残していないことを確認してリーナは地図を広げた。
「んで、どっちに向かうんだっけ?」
 左肩だけに掛けたリュックを背負い直しつつ、マルクスに問う。
「道に出たら、ずっと東の方角っす」
 目の周りには青いアザ、頬には手の平の赤い跡を綺麗に残したマルクスがそう応える。重量はそこまで重過ぎるわけではなく、マルクスの背が低いわけでもないが、背中の荷物の大きさがさらにマルクスを小さく見せてしまい、余計に憐れに見える。
「ん、了解。そんじゃ行きましょうか」
 そして歩き出す。朝飯を終えたばかりだが、下げたリュックの中からリンゴを取り出し一口齧る。これから少し歩くことになる。なるべく荷物を軽くするため、そして楽しく旅をするため。おいしそうにさらに一口、齧った。対して後ろをついて来るマルクスの歩みは色々な意味で重く見えた。

 とりあえず強い奴、が住んでいる場所は大体把握しているのだが、どのような都市でどんな施設があるかなどは2人とも調べていなかった。
 であるが故、そこそこの長時間を景色を見たり雑談しながら歩き、その都市に着いた途端唖然としてしまったのは2人共同様で、それは無理もないことだった。
 立派な門はあるが、もはや門から先は何も機能していないのではないかと思えるほど混沌とし、荒れ果て、雑然としている。
 そこら中に家屋の材料であったのだろう木材が散乱し、同様に家具の残骸や割れたガラス、食器、そして枯れた木などが無造作に生えており、ここを都市と呼んでいいのかすら疑問である。
 門番からして態度が悪かったので、怪訝に思いながらも門をくぐったのだが、中に一歩踏み入れた途端2人は言葉を失っていた。そしてどちらからともなく顔を見合わせる。
「ここで、いいのよね?」
 そうマルクスに尋ねると、同じように唖然とした表情のままマルクスが応える。
「おう、間違いないけど……こりゃあ……」
 そばに落ちていた、食器と思われる陶器の破片を広い上げ、それをリーナに見せながら言った。
「ひでぇな」
「さすがにビックリね……」
 周囲を見渡しながらリーナも答える。予定では、この後宿を探し、そこに荷物を置いてから、例のとりあえず強い奴、に会いに行くこととなっていた。が、この様子では宿があるかどうかすら怪しい。どうしようかな、と腕を組んでいたが、やがてマルクスが先導するかのように前に出た。
「とりあえず、周ろう」
 それもそうね、と答え、歩き出したマルクスにリーナも続いた。

 この都市の名前は「ハイネン」。
 ライファース国を出て比較的遠くない所に位置する、国という枠組みから外れた独立都市である。そして2人が聞きつけた、とりあえず強い奴の名前は、レアンダ・フローツ。
 この無政府状態の都市にて、最強と謳われる存在であり、そして独立都市ハイネンを取り仕切っている現状のボスでもあることを、2人はまだ知らなかった。

     

 大きく分けて3つ存在する大陸の内の、中央に位置する大陸。その大陸の東側に、リーナとマルクスの出身国であるライファースがある。
 世界に多数存在する国の中でも比較的豊かな国で、飢饉や戦争という事態には長らく陥っていない。周辺の国もそれは同様で、大陸として見ても、3つあるそれの内で最も人口が多く、そして平和な大陸。しかし、かと言ってこの大陸の全てが平和で恵まれているわけではない。
 ライファース国より出て南東に当たる場所に、リーナとマルクスの2人はいた。
 独立都市ハイネン。
 ライファース国に隣接した、国に属することを拒んだ独立都市。
 周辺に目立った自然、山や川もなく、見た目寂しい場所にハイネンはあった。
 旅人であることを門番に告げ、通された石造の巨大な門をくぐると、すぐに開けた空間が目に入る。
 しかしそれは自然が溢れていたりだとか、市民の公共の広場であるからなどという理由ではなく、門をくぐったすぐ周辺の建物は崩れ、荒れ果てているからであった。
 朽ち果てた家屋用の木材。散乱したガラス片や陶器の欠片。枯れた木。倒壊した建物。これらを見るにまるで長年手をつけられていないかのような有り様で、とてもではないが人が住んでいる気配がない。その辺に白骨化した死体があったとてなんらおかしくない。
 閑散とした雰囲気は野鳥すら寄らず、ただ風の吹く音だけが聞こえてくる。その音は薄ら寒いものを感じさせ、生命の温かみすら冷ましてしまうかのよう。
 ハイネンに辿り着いたリーナとマルクスは、街の中央に大きく伸びている一本道を、はかどらない歩みで進んでいく。その道中にも様々な残骸が散らばっており、下を見ずに歩くのは危険なほどであった。
 陽はまだ高い位置にあり、足取りの重い2人のことなど知ったことかと言わんばかりに輝いている。だが、どれだけ太陽が照りつけようと、この都市の重くて暗いような雰囲気まで明るくすることはできない。
 2人はこの都市が独立都市と名乗っているのを、まだ知らなかった。

「ねぇ、マルクス」
 たまに落ちている釘などを踏まぬよう、下を見ながら慎重に進みつつマルクスに声をかける。
 進んでいる道は砂利や瓦礫、何らかの破片などに覆われ、ほとんど道であるかすらわからない。たまに、道であることを示す埋め込まれたレンガが見えるため、かろうじてここが道であるのが確認できた。
「なんだ?」
 同じようにしているマルクスは、また同じように顔を上げずに答える。
「都市ハイネンって、たしかライファース国だったはずでしょ? どうしてこんな」
 そこで切って前を向き、変わらず続く荒れ果てた様に意気消沈し思わずため息が出る。
「荒れきってるの?」
 マルクスは一瞬リーナの顔を見るも、その表情からはいつもの元気が感じられず、落ち込んでいる様相であった。
(商売柄、昔聞いたことはあるが……ここまでになっていたとはな)
 マルクスは家が飲食業を営んでいるということもあり、昔その手伝いで行商人から食材の買出しなどの際にハイネンの名を聞いたことはある。
 その評判はどれも等しく悪いものであり、犯罪者しか住んでいないだとか、国家解体を目論んでいるだとか、風の噂なのか本当なのかわからなかったが、ハイネンの名が出ていい話が流れたことがなかった。
 商売人からは愚痴や悪い噂しか聞かず、客でハイネン出身やハイネンの事情通などもいなかったため、深くは知ることができなかった。
 その内、この聞くにも話すにも後味の悪い話は持ち出さなくなり、マルクスはハイネンの名を聞くことはなくなっていく。
 そして、全く評判を聞かなくなったのが5年前であり、すなわち情報は古いもので当てにならないとマルクスは踏んでいたが。
(現状を見るに、何も変わってないみたいだな……)
 目の前に映る光景を見て、小さなため息を一つ。
 マルクスは黙って思い出しながら考えていたため、リーナの問いに答えなかった。
 であるため、リーナはしびれを切らし、少し声を荒げて、しかし目線は下を向いたまま再び尋ねる。
「ねぇ、マルクス、聞いてるの?」
 その声で我に返ったマルクスは、リーナの問いを思い出した。
「ああ、ごめん。うーん、そうだな、この都市は昔から評判が悪かった」
「……そうなの?」
 不安そうな声で返すリーナに頷きで返し、先ほど思い出した内容を掻い摘んで教える。
 最初にこの都市にとりあえず強い奴が住んでいることを聞いたとき、マルクスはハイネンのことを完全に思い出すことができなかった。
 それは最近全く話を聞かなかったからというのもあるし、持っている情報が古いからというのもあったとマルクスは思い、故に新しい情報を仕入れるべきかとも考えた。しかし、これから途方もない旅をするのだから、一都市一都市の噂を聞いていては膨大な時間がかかると考えた。
 しかし、リーナはライファース国のお姫様。今でこそこうして荒いことをしてはいるが、城で育った姫であることは間違いないのだ。
 自国の一都市がここまで荒れ果てていると、やはり不安に感じるのだろう。複雑な気持ちを抱えながら、マルクスはリーナに昔聞いたことを選びつつ話した。
「とは言っても、5年前の情報なんだ。荒れているのはこの辺だけかもしれない」
 先ほど自分が思った気持ちは隠し、少しでもリーナを安心させようと取り繕う。
 リーナは変わらず下を向いて歩いていたが、そのマルクスの言葉を聞いて少し微笑んだ
「フフッ、そうね、そうかも。ごめんね、気を使わせた」
 それでマルクス自身も少し安心し、前を向いた。
 リーナの心中はあまり穏やかではなく、ここまで荒れ果てているのになぜ母親は援助なり何なりをしてあげていないのかと少し戸惑っていた。
 父親であり国王であるタダイオスに変わり国を仕切っているアンヌは、国王よりも政治がうまいのではないかと噂されるほどである。であるのに、なぜ放置しているのか。
 評判が悪いから切り捨てた? そんなまさか。いや、でもそれが母親が国のためにと考えた結果? そんなこと考えたくない。
 そういった思いがぐるぐると頭の中を巡っていた。
 が、その思考はマルクスの一声で一時的に飛んでいく。
「お、おい、リーナ! あれ見てみろ!」
 そう言ってリーナの肩を掴み前方を指差す。マルクスの手は甲冑で覆われているため、硬くて重い。しかも勢いをつけたままそうされたため、華奢な体であるリーナにはそこそこの衝撃だ。
「な、何よ。いきなり痛いじゃ……」
 そこで言葉が止まってしまった。

 ひたすら下を向いて道を歩いていた2人は、前方に佇む背は低いが横に大きく広がっている建物に気づかなかった。
 木造で少し造りは荒いが面積がとても広いこの建物は、リーナの住む城の一階8つ分ほどはありそうだ。リーナの歩む速度で城の一階を渡り切るのには2分ほどかかる。であるため、ここを端から端まで歩くのには相当な時間を要しそうである。決して立派な建物であるとは言えないが、先ほどまで見てきた崩れた家に比べると雲泥の差だ。
 一体どんな建物でこの中で何が行われているかは定かではないが、いくつか生えている煙突から煙が上がっており、そこに人が住んでいることがわかる。
 無人か、もしくは見かけてもすでに息絶えている者しかいないのではないかと思っていた2人であったため、これは喜ばしいことである。
 2人の表情は一気に明るくなり、顔を見合わせる。お互い、子供のような笑顔を浮かべ、今歩いている道の先に丁度ある玄関らしき扉の元へと走って向かった。
 が、マルクスは途中で急停止すると、その場で顔を見上げて立ち尽くした。
「ちょっとマルクス! どうしたの? 早く中に入りましょ!」
 が、マルクスはリーナの方を見ず、その低い屋根のあたりを見て顔をしかめている。
 動こうとしないマルクスの腕を引こうと、リーナが近づき、そしてマルクスが見ているものも気になり、その辺りを自分も見て見ることにした。そこには看板がかかっており、一つの文字が書かれている。
「『独立都市ハイネン』……?」
 先ほどの嬉しさが飛んでいき、途端に怪訝な気持ちでいっぱいになった。
(独立都市? どういうこと? 都市ハイネンは、ライファース国の一都市なはずじゃ……)
 また色々な思いが溢れそうになったが、それをまたマルクスが打ち消した。リーナの手を掴むと
「行こう。話を聞いてみるまでは何も考えない方がいい」
 と言い、そのまま先導し始める。
 突然手を握られたため、リーナはまたも混乱しそうになったが、対するマルクスはおかまいなしとばかりにそのままその手を引いて扉へと向かった。
 何か言おうと開きかけた口は閉ざされ、マルクスは前を向いているので気づかないが、リーナは1人むくれていた。しかしそれはマルクスにではなく、自分に、であった。
(マルクスなんかに少しドキッとしちゃうなんて……まだまだ精神は鍛える必要がありそうね)
 などと1人心の中で決意していたが、すでに扉の前まで到着しており、リーナが前を向くとマルクスがノックの体勢に入っているところであった。それに気づいたリーナも、気持ちを入れ替える。
 一度ためらったものの、マルクスは扉をノックする。しばしの沈黙の後、木製の扉、マルクスの丁度視線上にある場所が開いた。扉を開けずに相手の顔を確かめるためのものだろう。そこから誰かがこちらを覗いてきた。
「初めまして。俺達はこの辺りを旅している者で、その」
「ああ、門番から話は伝わっているよ。今、開ける」
 すでに情報は伝わっているようで、マルクスが挨拶と軽い自己紹介を言い切る前に相手から切り上げられた。握っている手が少し強く握り返されたため、なんだろうと後ろを向くと、リーナが口元を押さえておかしそうにしていた。
 リーナの様子を少し心配していたマルクスはそれに少し呆れ、何か一言言ってやろうと口を開きかけたとき、後ろで扉の開く軋んだ音がした。言いかけた言葉を飲み込み、恨みがましい目線でリーナを見る。そのリーナは、勝ち誇った表情を浮かべながら中へ入れと促すように空いている手をヒラヒラさせた。

 中に入ると、目に入ったその光景がすぐには理解できなかった。
 平屋の屋敷のようなものかと思っていた2人の予想は裏切られ、代わりにそこには奇妙な光景が広がっている。目の前に並んだモノを見て浮かんだ疑問と、それを感じつつも無理やり理解しようとする頭が働き、思考が追いつかない。
 建物の中は、先ほどまで2人が外で歩いていた道がそのまま地面がむき出しのまま続いており、そして両脇にいくつもの建物が立ち並んでいた。出ている看板を見るに、それは様々な種類の店があり、街にあるべき施設ならば一通り揃っている。もちろん、看板のない普通の住居も建っていた。
 そして行きかう人々も勿論いる。ほとんどが2人と同じような旅人などに見えるが、中にはこの都市の市民であろう姿も見受けられる。
 2人が疑問に思ったのは、なぜこの家屋群をこの大きな建物の中に入れなければいけないのかということ。そしてわざわざ各所に松明を設置してまで明かりを確保しているにも関わらず、太陽を遮っている点である。
 この様相を簡単に説明するならば、一つの街を巨大な箱で包んでしまっている状態だ。
 中に入ったものの、それらの考えから歩みが止まってしまっていた。動き出さない2人を見かねたのか、扉を開けた男が厚みと重みのある声で話しかけてきた。
「何を立ち止まっている、宿なら少し進めばあるぞ」
 ここに行き着く人はやはり旅人が多いのか、宿を探していることはわかるようだ。マルクスとリーナはその声で我に返り、男に礼を告げると歩き出しだ。
 行きかう人々はこちらを一瞥するとすぐに己の行動に戻るばかりで、特に関心もない様子。そして誰もがその暮らしに、様相に、疑問を持っている様子はない。ここに住んでいるのだから当然といえば当然だが、2人からしてみると奇妙なことだらけだった。
 リーナはキョロキョロと周りを見渡しながら、マルクスにだけ聞こえる声で疑問を口にする。
「ねぇ、どうなってるの? この……街っていうか建物っていうかは」
「さすがに聞かれても、俺もわかんねぇよ」
 宿を探しながらも、同様にマルクスも目が泳いでしまう。
 中の建物に窓はあるが、これらを覆っているこの巨大な建物には窓が付いておらず、外の様子を窺い知ることはできない。外からの景色を拒んでいるのか、中の様子を外へ見せることを拒んでいるのか。
 幸いながら換気はどこかで行っているようで、空気が薄いということはない。ただ、やはり外と比べると熱気がこもっている。
 全体的に薄暗く、そしてムッとする空気。
 まるでここにいる人々は丸ごと軟禁されているのではないかと錯覚してしまうほど、閉鎖的であった。
「吸血鬼でも住んでるのかな?」
 変わらず忙しそうにあちこちを見ているリーナはそう口にする。
「この状態ならいてもおかしくないかもな……いや、むしろ出てきてくれた方が納得できて安心する」
「言えてるわね」

 それほど長く歩かない内に2人は、大きくはないが宿を見つけた。
 残念ながら宿主は吸血鬼では無さそうである。主はいつもしている作業であるかのように、火の魔鉱石によるランプで手元を照らし、2人分の宿泊手続きを滞りなく進める。
 宿というものは、情報を得るための場所としてとても都合が良い。それは先ほどの手馴れた宿主の作業からもわかるように、街の外から来る者のほとんどは、泊めてくれる知り合いでもいない限り宿を求める。それは長旅の疲れを癒すためであったり、荷物を置くためであったりと理由は色々ある。
 そして、様々な人が集まる場所でもある。それは商人であったり、傭兵であったり、探検家であったり、旅行客であったりと、種類を問わない。
 大抵の客は、出掛ける時宿主に目的の場所の詳細を聞く。そこで自分の持ってきた情報とここでの情報を照らし合わせるため色々尋ねたり、また話題が盛り上がれば外の情報を宿主に与えたりもする。
 故に、宿というものは自然と話題に敏感となる施設でもあるのだ。
 マルクスはベッドが一つと簡単な鏡台がある部屋に案内されると、さっそく情報を得ようと、荷物を置いて休む間もなく部屋を出た。この街の様子もそうだが、何にせよ2人の目的はとりあえず強い奴と戦うことである。欲しい情報はどれだけ手に入るんだろうかと思いつつ、先ほど手続きを済ませたカウンターへ向かった。

 対するリーナはマルクスとは別の部屋に案内され、そして荷物を置くと、鎧を脱いでインナーだけになり、いつものように剣だけ抱えベッドに倒れこんだ。そのまま仰向けになり、大の字でグッタリする。
 せっかく辿り着いた街の様子を見て落ち込み、母親の行動に疑問を感じたと思えば、その対象は独立を名乗った都市であり、どういう意味かと思考する間もなく広がった奇妙な街の様子。身体はまだ動くにしても、心が一杯一杯であった。
 段々と考えることがめんどくさくなり、薄暗い部屋、そしてベッドの上に寝転んだこともあり、自然と睡魔に襲われる。抗うことなく、押し寄せる波に心地よく身を任せた。

 そして、夢を見る。


 ――。

 これは夢。すぐにそう気づく。
 アタシにはよくわからない光景ばかりが続いているもの。
 ひたすら歩いている。見たこともない、レンガでできているわけでもなく、木造でもない、かといって石造なのかもよくわからない巨大な建物があちこちに並んでいる。ほとんどが灰色だったり、黒に近かったりするけど、たまに違う色もある。
 行きかう人々は、これもまた見たこともない格好で歩いてる。派手なのか、地味なのか。それすらもよくわからない。ただ、整った綺麗な格好をしている人が多いかな。自分はどんな格好してるのか、確かめたいけど動かせないのよね。
 そして歩いている地面は、まるで岩を平らにしたみたいに、平たく、硬い。これだけは、住んでた城の中に似てるかも。
 でも、まだまだ奇妙な景色は続いてる。
 車輪が4つ付いたもの。馬車くらいの大きさのものが、でも馬車なんかよりもずっと速く、そして馬なしに動いてる。車輪だってあんなのは見たことがない。大きさは様々で、城で乗ってた馬車と同じくらいのものもあれば、それの4つ分位あるものまで、本当に色々ある。
 中には、馬よりも小さい、ポニーくらいの大きさで二輪が付いたものに乗った人もいる。もちろん、ポニーよりもずっと速い。
 人が乗ってるってことは、人を運ぶための物なんだろうけど、あんなものは見たことも聞いたこともない。あったら絶対話題になってる。よく見てみたいけど、視線も動かせない。
 この奇妙な世界をアタシは歩いている。何一つ疑問なんてない足取りで、勝手に、淡々と。

 ひどく、気分が悪い。
 なんでこんなわけのわからないものを夢で見てるんだろう。疑問と、居心地の悪さしか浮かばない。
 あ、なんかの建物の前で止まった。ここはなんだろう。そして、なんでここに来たんだろう。これにアタシの意思は含まれてない。できるんなら、こんな景色からは逃げ出してる。
 進み出したけど、ここに入るにしても目の前にはガラスしか……ってガラスが勝手に動いた!? 誰もいないけど、一体どうやって……?
 あれ、でもガラスが開いた途端、なんだか目の前が。うん、滲んでいってる……。
 あー、そっか、夢から覚めるんだ。よかった、もうこんな夢、二度と見たくない。
 すごくすっごく、気持ち悪かったなぁ……。

 そして再び暗闇に戻ったリーナは、別のものを夢見る。

 意識が覚醒するも、そこは現実ではなかった。何もない、本当に何一つない暗闇で、リーナは1人佇んでいる。
 目に入る光景は暗闇のみで、どこを見渡しても瞳には何も映らない。絶対的な黒。押し寄せる不安。恐怖。
 そこに、立っている。先程とは違い、身体は自分の意思で動かせるようだ。手を握ってみる。開いてみる。ちゃんと動く。そして奇妙なことに、明かりはないはずなのに自分の身体はキレイに見えている。足も、腕も。
 ふと、目の前に視線を戻すと、人の気配を感じた。そこにいるのはわかるが、見えない。暗闇の中、得体の知れない人の気配のみを感じている。
 この何もない、黒のみの無の空間に、奇妙な存在と2人。さらに深まる不安と恐怖、混乱。全身に寒気が走り、震えと同時に嘔吐感がひどくなる。そして押し寄せる、孤独。
 物心ついた頃から感じていた、リーナの「孤独」。ふと、この空間で、そういった気持ちの悪い思いに苛まれながら、一番最近、とはいえ3年前のあの日が最後だったが、その時に感じた孤独感を思い出した。それと同時に、感じていた人の気配も不思議と薄れていく。それに安堵感を覚える。
 あれは、グランデルーヴ頂上剣闘会を見るために、ライファース城で色々と作戦を考えていた一夜。

 夢の中で、思い出に身を寄せる。

 自室にて、リーナはもう夜も深いというのに眠れず、剣闘会の内容を整理する事にした。リーナの部屋にもシャンデリアはあるが、机の上に火の魔鉱石が光源のランタンを側に置いて、より一層自身の周囲を明るくする。
「いよいよ決勝ね……。残ってるのはこの2人」
 リーナが、使用人や大会の護衛を務める兵士らからまとめた情報を記している紙に、たくさんの人物の名前、そしてそこから伸びる線が書かれている。ほぼ全ての名前の横に×のマークが付いているが、それがない人物名が2つ。
 マルクス・ラヴレンチ。そして、レルド・ルース。
 マルクス・ラヴレンチという男が、街中でも城内でも噂されていた、ライファース出身のとんでもない剣の才能を持った子。2歳年上らしい。そしてレルド・ルースというのが、これまた街中でも城内でも噂されている、例の謎の男であるという情報はすでに掴んでいる。しかし、見に行きたくとも、明日の決勝もそれを許されていない。頭の中で、大会を見るための作戦を考える。
(変装系は一通りやったけれどどれも失敗。脱出系も色々試したけれど、もう失敗してあの恐怖を味わうのは勘弁してほしいから無理ね。説得も無理として、あと何が残っているかしら)
 腕を組んで考え、思いついた作戦をいくつかさらさらと書く。が、どれも失敗という文字しか浮かばない。
「あーもう! 誰か代わりに考えてくれないかしら!」
 そう言って羽根ペンをインク瓶に突っ込み、椅子にもたれ掛かる。ふと窓の方に目をやり、目を凝らして景色を見てみると、まだまだ街は賑わいの様相を覗かせていた。
(それはそうよね、明日が大会のメインイベントみたいなものだし、騒いでしまうのも無理ないわ。しかも、その決勝に出てる内の片方がこの街から。そして相手は謎の男。こんな素敵な対決の前夜じゃあ、それはそれは街は眠らないでしょうね)
 そんなことをボーッと考え街の賑わいを見る。少しだけ妬ましく感じたが、そんな考えはお門違いだ、と、自身がお姫様であるという立場に自己嫌悪に陥った。
 賑わう街の住人との間に感じた距離感と同時に、孤独感も押し寄せる。自分から積極的に触れ合うことは許されず、かといって周りからそうすることもされず。自分の立ち位置が曖昧すぎて、すぐにでも崩れ落ちそうな不安定な心。特に苦もない自分の人生の、唯一の弱み。この位置に居る限り、きっと自分は永遠に曖昧な存在なのだろうと考えてしまう。
 目を凝らしていた先に、一組の家族が映る。子供を間に挟み、両側に両親と見られる大人がいて、3人手を繋ぎ仲睦まじそうに笑いながら街を歩いていた。思わず綻んでしまいそうなその光景も、今のリーナには不安な気持ちを煽らせることしかできない。
(私も、いつかは結婚もして、そんな気分もなくなるのかもしれない。けれど、それはいつなの……?)
 歴史の勉強をしていても、姫という立場の人に普通に恋愛をして結婚している人物はそうはいない。政略結婚や王家同士の付き合いからの抱き合わせなど、想像するまでもなく孤独を消してくれそうにはない。
 贅沢すぎる悩みだ。それはリーナもわかっている。が、それ故にもどかしさが膨らみ、とどまる所を知らないほどに膨張する。ずっと心は一人ぼっちなんじゃないだろうか。ずっと孤独のまま過ごすのではないだろうか。いつしかその不安はリーナの心を覆い尽くし、気が付けば頬を濡らすものがあった。
(決して今の状況が嫌なんかじゃない。恵まれているのだもの。でも、だったらどうして)
「どうして……こんなに寂しいの……?」
 そう呟き、とうとう声を出して泣き始めてしまった。まだ歳にして14歳であった少女にとって、元々不安定だった心は、ほんの少しのきっかけでいとも簡単に崩れてしまった。
 その声に気づいてか、はたまた偶然か。扉の開く音が聞こえ、そちらに振り返ると、そこにはメルヤがいた。
 メルヤ。彼女はリーナが8歳の時から使用人となっている人間で、この時の年で22歳となる、リーナにとっては半分姉のような存在。
 時に甘え、そして時に頼ってきた。メルヤや母親であるアンヌと話している間は孤独を感じずにいられたから。そして、何より温かかったから。リーナは2人のことが大好きだった。
 メルヤは泣いているリーナの顔を見て、少し驚いた様子を見せるも、すぐに優しい笑みを浮かべる。リーナは駆け出すような勢いで椅子から降りると、メルヤにすがりつくように抱きついた。メルヤもそれを迎え入れるように、リーナを抱き寄せる。
「どうしたの、リーナ? 何か悲しいことがあった?」
 メルヤの声は囁くような音で、あやすように優しく奏で、リーナを包み込む。
「ううん、なんでもないの……。ただ、今はこうしてたい」
 嗚咽交じりの、たどたどしい言葉。掴んだメルヤの服を離さない様に、ぎゅっと力を込める。涙で段々と服が滲んでいくのもお構いなしに、メルヤは優しくリーナの頭を撫でる。
「リーナ、強がらなくていいのよ」
「うん」
「私は、あなたのお姉さんなんだから」
「うん、私もそう思ってる」
「だから、いつでも甘えていいし、いつでも側にいるわ」
「……うん、うん!」
 柔らかく、そしてこの上なく慈愛に満ちたメルヤの言葉。
 その言の葉に、先程までの感覚は薄れ、我慢することを忘れたリーナは、その胸に思い切り甘えた。

 そういえば昔はこんな口調だったっけ、と、少し照れながらも1人懐かしむ。
 が、自らの思い出に奇妙なものを感じたリーナは、そこから先を思い出すのをやめ、そしてすぐその違和感の正体に気づく。

 リーナは今、自らのこの思い出を、「客観的に見ている」のだ。メルヤに泣きつき、そして優しく抱かれている自分を、「見ている」。
 そしてそれに気づいたと同時、安堵感は吹き飛び、寒気が全身を襲う。あの妙な人の気配も帰ってきた。そして、その思い出を踏み躙るかのように、何かが、木霊する。

”これが、お前の弱さ”

 響くその何かは到底受け入れられるものではなく、酷く耳に残る。それはこの世のモノから発せられる、「声」などではない。奇妙な、音ですらない何かが、しかし耳から、そこに込められた意味をしっかりと理解させ、入ってくる。
 まるで耳から砂利を詰められていくかのように、気色の悪い痛みを伴い、そしてしつこくザラつく感触を纏わせる。見ていた自らの思い出もいつの間にかなくなって、また何もない暗闇だけが広がっていた。
「な、何!? 誰!?」
 リーナは声を上げるも、自ら発せられたそれの弱々しさにくじけそうになる。精一杯気を張ったつもりだが、この奇妙な空間では何も届きそうにないと、どこかで感じてしまっている。圧倒的無力感を。

”それは俺がすでに「食っている」。俺がいる限りお前の弱さは存在しない”

 耳から入ってくるその何かに、リーナは悲鳴を上げたくなる。全身に流れる血が、その何かになってしまったかのように、身体中を駆け巡る。
 これ以上聞き入れると、身体の隅々からおかしくなってしまいそうで、咄嗟に耳を覆い、そして身を縮めた。それが無駄だと感じつつも、そうするしかない。

”今はまだ、時期ではない”

 まだ、何かが入ってくる。耳を塞いでも、意識しないようにしても、リーナの心に侵食してくる。
 内側も外側も、得体の知れない、そして粘つくような気持ち悪さに犯され、全身の震えは止まらない。

”だが、もうすぐ来る。その時が来れば、俺の”
「ああああああああああああああああああ!!」
 とうとう堪えきれず、そのなにかを遮るように力の限り叫ぶ。縮めた身を起こし、くの字に曲げ、腹の底から叫んで、身体中を這い回るこれを、追い出そうとする。
 しかし、無駄だった。それは声ではない。音でもない。しかし耳から入ってくるそれは、何をしても、どう抗っても、リーナにその意味を伝えてくる。

”俺の全てをお前に預けよう。そしてお前も、その為に力を貸せ”

「意味が……わかんないっての、よ……なんで……」
 かろうじて搾り出した声で、それに問いかける。防ぐのが無理だとわかった今、せめて言葉としてそれに抗おうとした。

”なんで? 言っただろう? 俺はすでにお前の弱さを「食っている」と。俺はすでに、お前に力を貸しているんだ”
「……食ってるって、どういう意味よ……? 」
”そのままの意味だ。ただ、別にそれを糧として生きているわけではない。単に、俺に力を貸してもらうために過ぎない”

 答えようとして、ふと自分は一体何と会話を試みているんだろうと悟る。
 人の気配は感じたが、これは人ではないとも感じる。
 ここはリーナの夢の中のはず。そこに存在するこれは、果たして……?

「アンタ、名前は、あるの……?」

”俺の名はヴラド。お前が側に置く限り、俺は永遠にお前の味方でもある”

 疑問を口にしようとしたところで、急激に視界が眩く輝く。
 真っ暗な闇に太陽が生まれたかのように、白く、そして目を開けていられなくなるほどに、染め上げていく。
 鋭い上昇感を感じ、それに身を任せる。今度はあれではない、ちゃんとした「声」がリーナの意識を覚醒させていく――。

「おい、リーナ!」
 目を開けると、そこは泊まっていた宿だった。そして、呼びかけてきた声の主はマルクス。なにやら慌てた様子で、リーナの肩を揺さぶって起こしたようだった。
「ん……ごめん、寝ちゃってた」
 半身を起こし、目を擦る。寝覚めは、これまでの人生で味わったどの寝起きよりも最悪である。
 その一言を聞いて安心したかのようにホッとため息を吐くマルクス。
「お前、汗かきまくりでうなされてたから、どうしたんだと慌てたぞ」
「うーん、大丈夫、なんか変な夢見てただけ」
 説明しようか迷ったものの、夢の話だ。
 たしかに奇妙で気持ち悪く、到底夢だというだけでは済まないことなのだけど、それは寝ている間に見た、たしかな夢だったのだ。
 ここでその夢の話を熱く語ったところで、マルクスにどうにかできるわけではない。これはまた、別の機会に、自分1人で考えるべき事のような気がしてならない。
 そして一つの疑問に思い当たる。
「そういえば、なんでアンタここにいるの?」
 部屋は別々に取ってあるので、別段用事がなければ来る必要はない。ということはつまり、何かしらリーナに伝えなければならないことがあるということ。
「そうだった! おいリーナ、寝起きで悪いんだが、戦えるか?」
「へ?」
 いきなりの注文に、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
 対するマルクスは、先程の安堵のため息はどこへやら、リーナを起こしたときと同様の慌てた様子へ戻っている。格好をよく見れば、戦うときに纏う鎧を着ているし、腰には盾と剣もあった。
「あいや、すまん、説明なかったな。俺は色々と情報収集に当たってたんだが、住人が騒ぎ始めてな。話を聞くと、街の外になんか出たらしいんだ。で、武器持てるやつは手助けしてくれって呼びかけが始まった」
「戦うのは別にかまわないけど、なんか出たって何がよ?」
 正直、今はすぐにあの全てが気持ち悪かった夢のことを考える気にはならない。そして身体を動かせるというなら、それは万々歳だ。だが、なんか、とは何なのか。
「知ってる風な連中は『影』って呼んでたけど、よくわかんねぇ。俺もまだこの目で見てないからな」
「『影』ねぇ……」
 「夢」の次は「影」と来たか。どっちも儚いような共通点持ったのが順序良く出たもんね。などと1人考える。そして、そこで考えるのは辞め、ベッドの側に置いて脱いであった鎧を着込むと、抱えて眠っていた剣を背負い、ホルダーで留める。
「ともかく、アタシならいけるから、案内して」
「よっしゃ、俺らの腕をうまくこの街にアピールする良い機会だな!」
 そう発して、扉に向かうマルクス。そんな彼を見て小さく微笑むリーナ。
 時々子供っぽくなるマルクスを見ているのは、本当に楽しい。それこそ、昔味わっていた孤独を忘れてしまうほどに。

 マルクスの先導について行き、駆け足で外に出ると、まだ落ちていない陽の中、すでにかなりの人数がそれぞれ武器を構えていた。
 散会している中の空いたスペースに2人も陣取り、そこにいる人々と同じように得物を構える。
 すると、特に陣形もないまま、しかし一番前の突出した所にいる、かなり大柄だが体系はスマートな男が背中を向けたまま大声を上げた。
「聞けぇ! これから『影』共が来るッ! いつも通り、どこから現れるかわかんねぇ! だからッ! 油断したりして建物に指一本触れさせたりすんなッ! お前らも誰1人やられんなッ! いいかぁ!?」
 荒々しいかなり気合いの入った号令。それに答えるように、皆がそれぞれ咆哮を上げる。それに混じって、その男の名を呼ぶ者もいた。
「おうよぉ! レアンダぁ!」
 それに反応する2人。もちろん、リーナとマルクスである。
 2人は武器をかまえつつも近寄り、そしてヒソヒソと話し始めた。
「あれが、レアンダ・フローツ」
「みたいだな。武器は、ハルバードか……。こりゃ俺は苦戦しそうだ」
 ハルバード。槍を基本として、その先端、刃の部分の付け根から斧の刃にあたる部分が付いている。反対側には突起部があり、見た目にも美しい武器である。
 用途に長けた武器であり、状況に応じて様々な使い方ができるが、反面、使いこなすにはそれ相応の技術と腕力が要り、扱う者を選ぶ武器でもある。
 長柄の武器であるため、ロングソードとはいえリーチの差でマルクスには不利であることには変わらない。もっとも、どの程度レアンダが使いこなせるかにもよるが。
「アタシの出番ってわけね」
 ふふん、と鼻息を荒くするリーナ。体格差はかなりあるのだが、城で培った訓練での経験がある手前、そんなものに怖気づく彼女ではなかった。
 実際、リーナとマルクスでも、リーナは女性として少し高めであるにも関わらず身長は10cmほど違う。が、レアンダはさらにマルクスより10cmほど高そうに見える。
「まあまあ、それもとりあえずこれを切り抜けてからだなってうぉ!」
 突然、マルクスとリーナの目の前に黒いものが湧き上がった。羽虫の群れが段々と集まるかのように徐々に色濃くなるそれは、まさしく「影」だった。
 奇妙な立体感を伴っており、そして何かの形を作っていく。
 こちらの様子に気づいたか、振り返ったレアンダがまたしても叫んだ。
「ソイツだぁ! とりあえずぶった斬れぇ!」
「わかりやすい注文をどーもッ!」
 リーナはレアンダの言葉に答えながら、一歩前に出て自らの剣を横薙ぎに払い、影へ叩き込んだ。
 瞬間、影は雲散して消え失せ、まるで最初から存在しなかったのように空気へ溶け込んで消えた。全く感触のない勝利にリーナは呆気に取られる。剣を払いきると、少しボーッとしてしまうほどに。
「あれ? 終わり? 何よ、てんで大したこと……な……」
 そこで、違和感に気づいた。武器をかまえているほとんどの者の視線がリーナに集まり、そして怪訝な顔を浮かべているのだ。
 もしや、雲散していったから後ろにでも周り込まれたか!? と振り返るも、そこには武器をかまえているマルクスしかおらず、突然振り返られたせいでマルクスが驚きピクリと身体を揺らしていた。
 そしてどこからともなく話し声が聞こえ始める。
「あの女、影を一撃で殺っちまったぞ」「どうなってんだ?」「普通は一発じゃ消えないよな」「ああ、レアンダならまだしも、ありゃ……」「おいおい、何者だよあの女」
 周りの者が話す内容がどうやら不審な話ではないとわかると、リーナは胸を張って妙に勝ち誇った態度をとった。両手剣を片手で持ち、それを地面に突き刺してポーズまで決めるオマケ付き。反面、マルクスはそんな様子を見て肩を落としていた。
「オラぁ! まだ終わってねぇぞてめぇらぁ!」
 前方からレアンダの怒号が飛ぶと、話すのを止め全員武器をかまえなおした。が、その怒号を発した本人であるレアンダは、こちらに向かってきていた。ハルバードを肩に乗せ、威厳たっぷりに歩いてくる。
 そんなレアンダの様子を見て、少し気圧されたものの、リーナは剣を地面から引き抜き、かまえる。そして、レアンダはそんなリーナの様子を見て口角を上げた。リーナも応じるように笑みを作る。皆、その様子を見守っていたが、それぞれの場所で影が現れ、対応に追われ始めた。
 レアンダは、肩に乗せたハルバードを持ち上げ、頭上に掲げると、両手でそれを回転させ始める。ハルバードは通常の槍に比べ重量があるのだが、まるでそれを感じさせない。
 リーナも腕に力を込め、刃先を後ろに向け、右腰に据える。そして、レアンダが駆け出すと、同時にリーナも駆け出した。
 突如、レアンダの前に多数の影が現れたが、頭上で回していた勢いそのままに、片手でハルバードを持つと一気にその影達を薙ぎ払う。そんなレアンダの横に、隙を突いたかのように影が現れる。が、それも駆け出していたリーナが追いつき、斬り上げられ、呆気なく雲散した。
「やるな、嬢ちゃん」
 顔は向けず、ハルバードを前方に構え背中から話しかけてくる。リーナも同じく顔を向けず、ただ構えだけを取り、それに答える。挑発するニュアンスを込めて。
「どーも。でもこんなのに苦戦してるだなんて、たかが知れちゃうわよ?」
 その瞬間、実に豪快な笑いが響いた。
「ハッハッハ、そりゃすまんかったッ! まあ積もる話は後だ! 今はたっぷり手伝ってもらうぜ?」
「はいはい、さっさと終わらせるわよ、こんなのッ!」
 そして2人は真逆の方向へ駆け出した。まるで最初からコンビを組んでいたかのように、息を合わせて。
 一方のマルクスは、何度斬っても中々雲散しない影に、リーナとの違いはなんだろうと考えながら地味に黙々と戦っていた。

       

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