剣と槍。抱くは大志
第九章 暗躍
サウスが、メッサーナ軍に負けた。これは私独自の見解で、大方は引き分けた、という意見が多かった。
今回の戦はサウスが攻めだった。そして、メッサーナ軍はそのサウスを追い返したのだ。だから、サウスの負けである。少なくとも、私はそう思っていた。
メッサーナは、国にとって無視できない存在になりつつあった。戦が始まると、民達が面白がるのだ。どこまでやれるのか、本当に国をひっくり返せるのか。そういう形で面白がっている。そこには政治的な駆け引きは存在しておらず、民の間で一つの娯楽のようになっていた。
しかし、これを抜きにしても、やはり以前のように楽観視できる状態ではないだろう。何故なら、メッサーナに呼応しようと、いくつかの町が反旗を翻したのだ。予めそこには軍を駐屯させていたため、大きな騒ぎにはならなかったが、これを見てもメッサーナの存在は大きなものになっていると考えて間違いない。
そして、サウスの敗北である。サウスは戦が上手い部類の将軍で、経験も積んでいる。だから、メッサーナ軍にも勝てるだろう、と踏んでいた。だが、負けた。その敗因は兵糧を燃やされたというもので、これについてはサウスばかりに責任を追及するわけにもいかなかった。コモン関所には私の部下が居たのだ。だから、サウスが全て悪いとは言えない。しかし、結果としてサウスは負けた。
サウスで勝てないとなると、やはり大将軍しか居ない。他の地方の将軍も優秀だが、サウスと比べてどうなのか、と言うと、それほど大差はないと思えた。だが、大将軍は別格である。
大将軍はもはや伝説の男で、若い頃から老境に至る今までに、数々の異名を与えられていた。それは武神や軍神であったり、必勝将軍だったりする。最近では矍鑠翁(かくしゃくおきな)という異名を付けられて、意味で言えば丈夫で元気な老人と言った所だ。実際の所、見た目はそれほど老いてはおらず、武芸の腕も衰えてはいないらしい。
だが、大将軍は動かないだろう。今のメッサーナ軍はまだ小さすぎる。大将軍の配下は五万で、メッサーナ軍の兵力は推定で合計六万である。この程度の兵力差であれば、大将軍が腰をあげることはない。それに、サウス程度に苦戦もしているのだ。だから、大将軍にとって、今のメッサーナは敵としては未だ小粒だ。
しかし、地方将軍をまともにぶつけても、メッサーナを滅ぼす事は難しい。
「やはり、謀略かな」
呟いた。力でぶつかって勝てないのならば、知略で勝てば良い。そして、これこそが私の本分である。
今のメッサーナは、将軍や軍師の力でその存在感を際立たせていると言って良いだろう。中でも剣のロアーヌと槍のシグナスは二枚看板で、この二人の声望がメッサーナを後押ししていた。つまり、これらの将軍を消せば、メッサーナの力は衰える。もしくは、こちらに引き入れるか、である。
ウィンセが面白い情報を送って来ていた。槍のシグナスが結婚し、男児を儲けた、という情報である。これは別段、謀略には関係なさそうな情報だが、見方を変えれば話は違ってくる。
家族を持つという事は、守らなければならないものが増えるという事だ。男一人、身一つである頃とは違う足枷が出来る。これが謀略の糸口になる。
私は一人の男を北から呼び寄せていた。名はシャールで、生業は闇である。闇とはその名の通り、表ではなく裏で動く仕事で、謀略や密輸、工作行為などの事をいう。そして、時には暗殺もやる。
私はそのシャールに、戻って来るついでに、私の首を取るつもりでやって来い、という指令を出していた。これはほんのお遊びのようなものだが、実際にやるとなると難しいだろう。宰相室だけでも五十人の兵が守っており、政庁にも多くの兵が控えているのだ。さらには、宰相室に来るまでに、様々な書類も要る。
「フランツ様、入ってもよろしいでしょうか」
扉の向こうから、従者の声が聞こえた。
「よい」
私は書類に目を通しつつ言った。不意に、静かな風が頬を撫でた。
いきなり、背後から首を掴まれた。思わず、ハッとした。
「もう死んでますよ、宰相様」
私は振り返った。今頃になって、冷や汗が吹き出してくる。
「シャールか。お前、どうやって」
「色々です。変装であったりとか、身を隠す術を使ったりとかね。まぁ、どうにもならない時には当て身で眠ってもらいましたが。そこの扉の前に居るお二人さんとか」
「声すら聞こえなかった」
「当たり前でしょう。声を出させた時点で失敗です」
そう言って、シャールは二コリと笑った。シャールの目は元々細く、笑うとそれこそ糸のようになる。肌は全体的に色白で、身体も華奢だった。こうしてみると女人のようである。ただ、任務によっては肌を黒くしたり、筋骨隆々になったりする。
「しかし、お前の声、まさに従者のものだったが」
「声色を変えただけですよ」
そう言ったシャールの声は、私の声にそっくりだった。以前、いくらか同じ事をやられた記憶があるが、いつ聞いても驚いてしまう。
「で、私を呼び戻した理由は?」
「うむ」
私は動揺をかき消すように、一度、咳払いした。
「槍のシグナスを知っているか、シャール」
「表の人間ですね。と言っても、官軍時代の彼しか知りませんが。槍については天下無敵。ロアーヌの片割れ。そういう印象ですかね」
「そうだ。その槍のシグナスをどうにかして貰いたい」
「どうにか、とは大雑把な指令ですね。もっと具体的になりませんか」
「最低でも死。最上はこちらに寝返らせる。それも心の底からだ。仕方なく、という形では殺した方がマシになる」
これを聞いて、シャールの表情が引き締まった。一筋縄ではいかない。そう判断したのだろう。
「ロアーヌは?」
「放っておいて良い。今のロアーヌは心身共に隙がない。こちらは表で始末を付けた方が良いだろう」
「シグナスの近況を教えてください」
「昨年、妻を娶った。そして、最近になって男児を儲けている。つまり、幸せの絶頂という事だ」
「不幸は?」
シャールの細い目が光った。何か心を抉られるような感覚がした。
「戦で副官を亡くしたらしい。この副官については情報が不足している。必要なら、現地で集めてくれ」
「分かりました」
「他に聞く事は?」
「ありません。しかし、今回の任務は時と人が要ります。私の部隊、三百人全員を使っても良いですか?」
シャールには三百人の部下が居た。これは闇の軍とも言うべきもので、それぞれが謀略や工作行為、暗殺に長けている。今は様々な方面に放していて、シャールはそれを自分の元に戻したい、と言っていた。
「仕方あるまい」
「それほどなのですか、メッサーナは」
「今はそうでもない。だが、この先を考えると、これぐらいはやっておかなければ、という気がするのだ」
「なるほど。わかりました」
会話を終えて、私は目を閉じた。シグナスをメッサーナから引き剥がせれば、今の状況は必ず好転する。もしかしたら、ロアーヌも一緒に始末できるかもしれない。そして、ロアーヌとシグナスが消えたメッサーナなど、もはや評価するべくもないだろう。
「どれほどの時を要する?」
目を開けながら、私は言った。しかし、すでにシャールの姿は無かった。
「さて、どうなるのか」
言って、私は再び目を閉じた。
今回の戦はサウスが攻めだった。そして、メッサーナ軍はそのサウスを追い返したのだ。だから、サウスの負けである。少なくとも、私はそう思っていた。
メッサーナは、国にとって無視できない存在になりつつあった。戦が始まると、民達が面白がるのだ。どこまでやれるのか、本当に国をひっくり返せるのか。そういう形で面白がっている。そこには政治的な駆け引きは存在しておらず、民の間で一つの娯楽のようになっていた。
しかし、これを抜きにしても、やはり以前のように楽観視できる状態ではないだろう。何故なら、メッサーナに呼応しようと、いくつかの町が反旗を翻したのだ。予めそこには軍を駐屯させていたため、大きな騒ぎにはならなかったが、これを見てもメッサーナの存在は大きなものになっていると考えて間違いない。
そして、サウスの敗北である。サウスは戦が上手い部類の将軍で、経験も積んでいる。だから、メッサーナ軍にも勝てるだろう、と踏んでいた。だが、負けた。その敗因は兵糧を燃やされたというもので、これについてはサウスばかりに責任を追及するわけにもいかなかった。コモン関所には私の部下が居たのだ。だから、サウスが全て悪いとは言えない。しかし、結果としてサウスは負けた。
サウスで勝てないとなると、やはり大将軍しか居ない。他の地方の将軍も優秀だが、サウスと比べてどうなのか、と言うと、それほど大差はないと思えた。だが、大将軍は別格である。
大将軍はもはや伝説の男で、若い頃から老境に至る今までに、数々の異名を与えられていた。それは武神や軍神であったり、必勝将軍だったりする。最近では矍鑠翁(かくしゃくおきな)という異名を付けられて、意味で言えば丈夫で元気な老人と言った所だ。実際の所、見た目はそれほど老いてはおらず、武芸の腕も衰えてはいないらしい。
だが、大将軍は動かないだろう。今のメッサーナ軍はまだ小さすぎる。大将軍の配下は五万で、メッサーナ軍の兵力は推定で合計六万である。この程度の兵力差であれば、大将軍が腰をあげることはない。それに、サウス程度に苦戦もしているのだ。だから、大将軍にとって、今のメッサーナは敵としては未だ小粒だ。
しかし、地方将軍をまともにぶつけても、メッサーナを滅ぼす事は難しい。
「やはり、謀略かな」
呟いた。力でぶつかって勝てないのならば、知略で勝てば良い。そして、これこそが私の本分である。
今のメッサーナは、将軍や軍師の力でその存在感を際立たせていると言って良いだろう。中でも剣のロアーヌと槍のシグナスは二枚看板で、この二人の声望がメッサーナを後押ししていた。つまり、これらの将軍を消せば、メッサーナの力は衰える。もしくは、こちらに引き入れるか、である。
ウィンセが面白い情報を送って来ていた。槍のシグナスが結婚し、男児を儲けた、という情報である。これは別段、謀略には関係なさそうな情報だが、見方を変えれば話は違ってくる。
家族を持つという事は、守らなければならないものが増えるという事だ。男一人、身一つである頃とは違う足枷が出来る。これが謀略の糸口になる。
私は一人の男を北から呼び寄せていた。名はシャールで、生業は闇である。闇とはその名の通り、表ではなく裏で動く仕事で、謀略や密輸、工作行為などの事をいう。そして、時には暗殺もやる。
私はそのシャールに、戻って来るついでに、私の首を取るつもりでやって来い、という指令を出していた。これはほんのお遊びのようなものだが、実際にやるとなると難しいだろう。宰相室だけでも五十人の兵が守っており、政庁にも多くの兵が控えているのだ。さらには、宰相室に来るまでに、様々な書類も要る。
「フランツ様、入ってもよろしいでしょうか」
扉の向こうから、従者の声が聞こえた。
「よい」
私は書類に目を通しつつ言った。不意に、静かな風が頬を撫でた。
いきなり、背後から首を掴まれた。思わず、ハッとした。
「もう死んでますよ、宰相様」
私は振り返った。今頃になって、冷や汗が吹き出してくる。
「シャールか。お前、どうやって」
「色々です。変装であったりとか、身を隠す術を使ったりとかね。まぁ、どうにもならない時には当て身で眠ってもらいましたが。そこの扉の前に居るお二人さんとか」
「声すら聞こえなかった」
「当たり前でしょう。声を出させた時点で失敗です」
そう言って、シャールは二コリと笑った。シャールの目は元々細く、笑うとそれこそ糸のようになる。肌は全体的に色白で、身体も華奢だった。こうしてみると女人のようである。ただ、任務によっては肌を黒くしたり、筋骨隆々になったりする。
「しかし、お前の声、まさに従者のものだったが」
「声色を変えただけですよ」
そう言ったシャールの声は、私の声にそっくりだった。以前、いくらか同じ事をやられた記憶があるが、いつ聞いても驚いてしまう。
「で、私を呼び戻した理由は?」
「うむ」
私は動揺をかき消すように、一度、咳払いした。
「槍のシグナスを知っているか、シャール」
「表の人間ですね。と言っても、官軍時代の彼しか知りませんが。槍については天下無敵。ロアーヌの片割れ。そういう印象ですかね」
「そうだ。その槍のシグナスをどうにかして貰いたい」
「どうにか、とは大雑把な指令ですね。もっと具体的になりませんか」
「最低でも死。最上はこちらに寝返らせる。それも心の底からだ。仕方なく、という形では殺した方がマシになる」
これを聞いて、シャールの表情が引き締まった。一筋縄ではいかない。そう判断したのだろう。
「ロアーヌは?」
「放っておいて良い。今のロアーヌは心身共に隙がない。こちらは表で始末を付けた方が良いだろう」
「シグナスの近況を教えてください」
「昨年、妻を娶った。そして、最近になって男児を儲けている。つまり、幸せの絶頂という事だ」
「不幸は?」
シャールの細い目が光った。何か心を抉られるような感覚がした。
「戦で副官を亡くしたらしい。この副官については情報が不足している。必要なら、現地で集めてくれ」
「分かりました」
「他に聞く事は?」
「ありません。しかし、今回の任務は時と人が要ります。私の部隊、三百人全員を使っても良いですか?」
シャールには三百人の部下が居た。これは闇の軍とも言うべきもので、それぞれが謀略や工作行為、暗殺に長けている。今は様々な方面に放していて、シャールはそれを自分の元に戻したい、と言っていた。
「仕方あるまい」
「それほどなのですか、メッサーナは」
「今はそうでもない。だが、この先を考えると、これぐらいはやっておかなければ、という気がするのだ」
「なるほど。わかりました」
会話を終えて、私は目を閉じた。シグナスをメッサーナから引き剥がせれば、今の状況は必ず好転する。もしかしたら、ロアーヌも一緒に始末できるかもしれない。そして、ロアーヌとシグナスが消えたメッサーナなど、もはや評価するべくもないだろう。
「どれほどの時を要する?」
目を開けながら、私は言った。しかし、すでにシャールの姿は無かった。
「さて、どうなるのか」
言って、私は再び目を閉じた。
フランツの命令を受けた私は、すぐにメッサーナに入った。他にも十名の部下を連れてきており、残りの二百九十名は時をかけて入れる事にした。一気に三百人をメッサーナに入れれば、怪しまれる可能性があるのだ。メッサーナの姿勢は来る者拒まず、といったものだが、それは決して無防備という訳ではない。
私は幼少の頃から、フランツに仕えてきた。親の事は全く知らない。物心ついた時には、すでに闇の術を体得させられていて、親というものは側には居なかったのだ。その代わりに、師と呼べる存在が居た。だが、その師も自分の手で殺めた。フランツの命令だったのだ。師はフランツに対して、何らかの不利益となる行動をしようとしていた。だから、殺される事になった。殺す寸前、哀願するような眼差しで私を見てきたが、心は何も動かなかった。ただ息をするのと同じように、自然に殺しただけである。
心が無い、と一度だけ人に言われた事がある。これを言った人間も任務で殺す事になったが、何も思う事はなかった。
何故、自分はフランツに仕えているのか。不意にこれを思う事もあったが、理由はハッキリとしなかった。単に利害が一致しているからのような気もするし、幼少からの付き合いで惰性になっているという気もする。
どちらにしろ、フランツの命令をこなす事には強い快感があった。もしかしたら、この快感のために私はフランツに仕えているのかもしれない。そして、フランツは他の者と比べて、冷徹であり、聡明だった。人情や仁、義という言葉は、人を魅了させる。だが、それは足枷にもなり得るのだ。フランツにはそれがない。力のある者しか必要としないし、力が無ければ、何とかして引き出させようともする。つまり、実ばかりを求めるのだ。私はフランツのそういう所が好きだった。
今回の任務は、敵将であるシグナスを寝返らせる、といったものだった。もしこれが出来なければ、シグナスを死に追いやらせる。要はメッサーナからシグナスの存在を切り離すのである。
官軍時代のシグナスの声望は凄かった。これはあくまで地方での話で、都ではむしろ疎んじられていた方である。片割れのロアーヌは剣の腕のみを評価されていて、孤高すぎる、と言われていたが、シグナスは違った。これは人気という一つの枠組みの話だが、軍は人の集まりだ。だから、シグナスの声望は言ってしまえば、人当たりの良さで得たものだった。
私は正直言って、シグナスのような人間が嫌いだった。これは好悪というレベルでなく、憎しみに近い。今はどうなっているのか知らないが、官軍時代のシグナスは真っ直ぐな人間だった。人から評価され、そして自らを高めて行く。典型的な表の人間なのだ。
そのシグナスが、今回の任務の対象である。
私はシグナスに近付く方法として、メッサーナの兵になる事を選んだ。他にも妻であるサラとかいう女に近付こうかと思ったが、これは安直な手だ。サラは一途にシグナスを愛しているのだ。これの隙間に入るのは難しい。ただ、この一途な愛は利用できるだろう。
そして、戦で死んだという副官の事も調べた。これも典型的な表の人間で、上官であるシグナスや、兵からの人気もあったという事も分かった。
今日は、シグナス槍兵隊の面接日だった。シグナスは生真面目な男で、兵になる人間は自らが話をして隊に入れるかどうかを決めているようだ。
好機だった。ただの一般兵では、シグナスと直接話をする機会などそう得られるものではないだろう。まずはこの面接で、シグナスがどういう人間なのかを知る。そして、私を知って貰う。
私は営舎の外で、椅子に腰かけていた。面接の順番待ちである。シグナスの槍兵隊は、他の隊に比べても絶大な人気を誇っているようで、私の他にも、面接を希望する者たちが長蛇の列を成していた。人気で言えば、シグナスの次にはクリスとかいう将軍の隊が人気で、ロアーヌの隊は最も不人気のようである。
「次の者、入ってくれ」
シグナスの声がかかった。その瞬間、私は明るく人懐こい、真面目な兵になった。
戦で死んだという、ウィルという男である。
「はじめまして、シグナス将軍」
言って、私は二コリと笑った。眼には希望を込めた。
「おう、よく来てくれたな」
シグナスが明るい声で答える。本当に感謝している。そう言っているような表情だ。
「名は?」
「ナイツです」
「ナイツか。良い名前だ。所で、どうしてお前は兵になりたいと思ったのだ?」
「弱者を虐げ、強者が得をする。そんな国が許せないと思ったのです」
「おう、気が合うな。実は俺もだ。そして、立派な志だ」
「ありがとうございます」
「だが、志だけでは生きてはいけん。兵になりたいという者達は、単に食いつめているから、という者も少なくない。お前は見た感じ、そういう部分では満たされているように見えるが」
「満たされています」
私は意志を込めて言った。
「だから、私は国が許せないと思ったのです。シグナス将軍は、自分が満たされていればそれで良い、という人なのですか。私はそういう人間ではありません」
「もし、俺がそういう人間だと言ったら?」
「失望です。そんな人間の軍など、こちらから願い下げです」
「ほう?」
シグナスが傍に立てかけてある棒を持った。殺気はない。もう少し、試す価値はあるか。
「それで脅しますか。また私は失望しました。天下の槍使い、シグナスがこれ程小さい人間だったとは」
言って、私は腰を上げた。ウィルは正義感の強い男だった。だが、甘さがあった。私はウィルという男から、甘さを取り除いた人間になる。これはシグナスが求めている人材だろう。
「待て」
「待ちません。私は失望したのです」
「槍の腕を見てやる」
「必要ありません」
「お前は俺の軍に必要な人間だ。お前のその思いは、俺の軍の中で最も尊重すべき思いなのだ。お前は良い兵になるという気がする。だから、槍の腕を見てやる」
ここで私は顔を綻ばせた。あなたはやはり、私の求めていた上官だ。そういう眼も向ける。
「はいっ」
威勢よく返事をした自分に、反吐が出そうになった。まだ、シャールが自分の中に残っている。それを素早く追い払った。今の私はナイツだ。
シグナスが、調練用の槍を投げ渡してきた。
武器は何でも使えた。闇の仕事では、その場にあるもの全てを武器にしなければならない。それは時には砂や水であったりする。だが、一番得手としているのは徒手空拳だった。砂や水すらもない。そういう時は常に起こり得る。だから、徒手空拳を極めた。
営舎の中は広かった。もしかしたら、面接の次には槍の腕を試すのかもしれない。
私は静かに槍を構えた。ここは全力で相手をするべきだろう。相手は天下無敵の槍使いなのだ。手加減すれば、それはすぐに分かる。
シグナスの表情が変わった。
「お前、何か武術をやっていたか?」
「はい。私は昔から強くなりたかったのです」
「驚いたな。そうは見えなかった」
私は任務のためにいくらか身体を大きくしていたが、シグナスと比べると大人と子供だった。しかし、これも狙いの一つである。あまりにも立派な身体つきであれば、ウィルからかけ離れてしまう。
シグナスが棒を構えた。その瞬間、思わず一歩退いてしまった。人間じゃない。そう思ってしまったのだ。
「俺と向き合えるのは、ロアーヌただ一人だけだ。だから、退いた事は恥じゃない」
歯を食い縛った。もう、シャールは自分の中から消えていた。
シグナスが棒を引いた。次の瞬間、飛び出していた。引き込まれた。そう気付いた時にはもう遅かった。槍を撥ね飛ばされ、身体が宙に浮いていた。その刹那、自分は地面の上を転がっていた。
「良い腕だ。受け身も取れている。だが、槍を手から離すのは良くないな。戦場じゃ武器を無くした時点で死だ」
シャールは徒手空拳を一番の得手としている。だが、ここにシャールは居ない。
「シグナス将軍、私は」
「俺の隊に入れてやる。明日から出仕しろ」
そう言って、シグナスが手を差し伸べてきた。私は、その手に掴まった。
「はい」
歯を見せて、私は笑った。
棒で打たれた部分に、鈍痛が走っていた。
私は幼少の頃から、フランツに仕えてきた。親の事は全く知らない。物心ついた時には、すでに闇の術を体得させられていて、親というものは側には居なかったのだ。その代わりに、師と呼べる存在が居た。だが、その師も自分の手で殺めた。フランツの命令だったのだ。師はフランツに対して、何らかの不利益となる行動をしようとしていた。だから、殺される事になった。殺す寸前、哀願するような眼差しで私を見てきたが、心は何も動かなかった。ただ息をするのと同じように、自然に殺しただけである。
心が無い、と一度だけ人に言われた事がある。これを言った人間も任務で殺す事になったが、何も思う事はなかった。
何故、自分はフランツに仕えているのか。不意にこれを思う事もあったが、理由はハッキリとしなかった。単に利害が一致しているからのような気もするし、幼少からの付き合いで惰性になっているという気もする。
どちらにしろ、フランツの命令をこなす事には強い快感があった。もしかしたら、この快感のために私はフランツに仕えているのかもしれない。そして、フランツは他の者と比べて、冷徹であり、聡明だった。人情や仁、義という言葉は、人を魅了させる。だが、それは足枷にもなり得るのだ。フランツにはそれがない。力のある者しか必要としないし、力が無ければ、何とかして引き出させようともする。つまり、実ばかりを求めるのだ。私はフランツのそういう所が好きだった。
今回の任務は、敵将であるシグナスを寝返らせる、といったものだった。もしこれが出来なければ、シグナスを死に追いやらせる。要はメッサーナからシグナスの存在を切り離すのである。
官軍時代のシグナスの声望は凄かった。これはあくまで地方での話で、都ではむしろ疎んじられていた方である。片割れのロアーヌは剣の腕のみを評価されていて、孤高すぎる、と言われていたが、シグナスは違った。これは人気という一つの枠組みの話だが、軍は人の集まりだ。だから、シグナスの声望は言ってしまえば、人当たりの良さで得たものだった。
私は正直言って、シグナスのような人間が嫌いだった。これは好悪というレベルでなく、憎しみに近い。今はどうなっているのか知らないが、官軍時代のシグナスは真っ直ぐな人間だった。人から評価され、そして自らを高めて行く。典型的な表の人間なのだ。
そのシグナスが、今回の任務の対象である。
私はシグナスに近付く方法として、メッサーナの兵になる事を選んだ。他にも妻であるサラとかいう女に近付こうかと思ったが、これは安直な手だ。サラは一途にシグナスを愛しているのだ。これの隙間に入るのは難しい。ただ、この一途な愛は利用できるだろう。
そして、戦で死んだという副官の事も調べた。これも典型的な表の人間で、上官であるシグナスや、兵からの人気もあったという事も分かった。
今日は、シグナス槍兵隊の面接日だった。シグナスは生真面目な男で、兵になる人間は自らが話をして隊に入れるかどうかを決めているようだ。
好機だった。ただの一般兵では、シグナスと直接話をする機会などそう得られるものではないだろう。まずはこの面接で、シグナスがどういう人間なのかを知る。そして、私を知って貰う。
私は営舎の外で、椅子に腰かけていた。面接の順番待ちである。シグナスの槍兵隊は、他の隊に比べても絶大な人気を誇っているようで、私の他にも、面接を希望する者たちが長蛇の列を成していた。人気で言えば、シグナスの次にはクリスとかいう将軍の隊が人気で、ロアーヌの隊は最も不人気のようである。
「次の者、入ってくれ」
シグナスの声がかかった。その瞬間、私は明るく人懐こい、真面目な兵になった。
戦で死んだという、ウィルという男である。
「はじめまして、シグナス将軍」
言って、私は二コリと笑った。眼には希望を込めた。
「おう、よく来てくれたな」
シグナスが明るい声で答える。本当に感謝している。そう言っているような表情だ。
「名は?」
「ナイツです」
「ナイツか。良い名前だ。所で、どうしてお前は兵になりたいと思ったのだ?」
「弱者を虐げ、強者が得をする。そんな国が許せないと思ったのです」
「おう、気が合うな。実は俺もだ。そして、立派な志だ」
「ありがとうございます」
「だが、志だけでは生きてはいけん。兵になりたいという者達は、単に食いつめているから、という者も少なくない。お前は見た感じ、そういう部分では満たされているように見えるが」
「満たされています」
私は意志を込めて言った。
「だから、私は国が許せないと思ったのです。シグナス将軍は、自分が満たされていればそれで良い、という人なのですか。私はそういう人間ではありません」
「もし、俺がそういう人間だと言ったら?」
「失望です。そんな人間の軍など、こちらから願い下げです」
「ほう?」
シグナスが傍に立てかけてある棒を持った。殺気はない。もう少し、試す価値はあるか。
「それで脅しますか。また私は失望しました。天下の槍使い、シグナスがこれ程小さい人間だったとは」
言って、私は腰を上げた。ウィルは正義感の強い男だった。だが、甘さがあった。私はウィルという男から、甘さを取り除いた人間になる。これはシグナスが求めている人材だろう。
「待て」
「待ちません。私は失望したのです」
「槍の腕を見てやる」
「必要ありません」
「お前は俺の軍に必要な人間だ。お前のその思いは、俺の軍の中で最も尊重すべき思いなのだ。お前は良い兵になるという気がする。だから、槍の腕を見てやる」
ここで私は顔を綻ばせた。あなたはやはり、私の求めていた上官だ。そういう眼も向ける。
「はいっ」
威勢よく返事をした自分に、反吐が出そうになった。まだ、シャールが自分の中に残っている。それを素早く追い払った。今の私はナイツだ。
シグナスが、調練用の槍を投げ渡してきた。
武器は何でも使えた。闇の仕事では、その場にあるもの全てを武器にしなければならない。それは時には砂や水であったりする。だが、一番得手としているのは徒手空拳だった。砂や水すらもない。そういう時は常に起こり得る。だから、徒手空拳を極めた。
営舎の中は広かった。もしかしたら、面接の次には槍の腕を試すのかもしれない。
私は静かに槍を構えた。ここは全力で相手をするべきだろう。相手は天下無敵の槍使いなのだ。手加減すれば、それはすぐに分かる。
シグナスの表情が変わった。
「お前、何か武術をやっていたか?」
「はい。私は昔から強くなりたかったのです」
「驚いたな。そうは見えなかった」
私は任務のためにいくらか身体を大きくしていたが、シグナスと比べると大人と子供だった。しかし、これも狙いの一つである。あまりにも立派な身体つきであれば、ウィルからかけ離れてしまう。
シグナスが棒を構えた。その瞬間、思わず一歩退いてしまった。人間じゃない。そう思ってしまったのだ。
「俺と向き合えるのは、ロアーヌただ一人だけだ。だから、退いた事は恥じゃない」
歯を食い縛った。もう、シャールは自分の中から消えていた。
シグナスが棒を引いた。次の瞬間、飛び出していた。引き込まれた。そう気付いた時にはもう遅かった。槍を撥ね飛ばされ、身体が宙に浮いていた。その刹那、自分は地面の上を転がっていた。
「良い腕だ。受け身も取れている。だが、槍を手から離すのは良くないな。戦場じゃ武器を無くした時点で死だ」
シャールは徒手空拳を一番の得手としている。だが、ここにシャールは居ない。
「シグナス将軍、私は」
「俺の隊に入れてやる。明日から出仕しろ」
そう言って、シグナスが手を差し伸べてきた。私は、その手に掴まった。
「はい」
歯を見せて、私は笑った。
棒で打たれた部分に、鈍痛が走っていた。
私がシグナス槍兵隊に入ってから、数ヶ月が経とうとしていた。
この数ヶ月で、いくつか分かった事がある。一つは、シグナスとその周囲の人間の絆の強さだ。特にロアーヌとの絆の強さは相当なもので、これを崩す事は不可能に思えた。互いが互いを信頼し、助け合う。特に精神面でのそれは、家族以上のものかもしれない。
私には家族が居なかった。家族どころか、親しい人間さえも居ない。唯一、師だけが居たが、それも自分の手で殺めた。だから、私は絆というものを知らなかった。
だが、今の私はナイツである。ナイツはごく普通の家庭で育ち、両親からの愛情を一身に受けて育った。そして、国を倒す、という強い志を持ってメッサーナの兵になったのだ。
メッサーナからシグナスを切り離す。私は、この任務を遂行するためにここに居る。そのために、私はナイツになっている。だが、シグナスと共に過ごせば過ごすほど、メッサーナから官軍に寝返らせるのは無理だという風に思えた。ここには、シグナスにとって国に無い物が多すぎる。それは親友や戦友であったり、家族であったりする。これは何物にも代え難いだろう。私は闇の中で生きてきたために、これらとは無縁だったが、理解はできるつもりだった。
寝返らせるのが無理ならば、やはり殺すしかない。元々、そういう任務だったのだ。これは別段、難しい事ではない。今、シグナスは私の事を気に入り始めているし、このまま接し続ければやがて副官に抜擢されるだろう。あとは家族への想いを利用して、シグナスの命を奪えば良い。
筋書きは完全に出来ていた。といより、最初から殺すつもりだったのかもしれない。私はシグナスが嫌いなのだ。真っ直ぐ過ぎる。明るすぎる。これだけでも殺す価値はあるだろう。
しかし、嫌いというのは私情であり、感情だった。私は今まで、任務に感情を伴った事は無い。だから私は、これに対して微かな不安を抱いていた。感情は任務遂行の妨げになりかねない。自分では上手くやっているつもりでも、実際はそうではなかった、というのが起こり得る。だから、任務に感情を持ちだすのは一つの禁忌と言っても過言ではなかった。
だが、自覚は出来ている。ならば後は、全ての事に細心の注意を払う事だろう。そして、出来る事ならば感情を消す。そうすれば、自ずと結果もついてくるというものだ。
「シグナス、居るか」
私が軍議室の中で業務をやっていると、扉の向こうから声が聞こえてきた。
剣のロアーヌの声である。
「入るぞ」
扉が開けられた。軍議室の中に居るのは私だけで、他には誰も居ない。
「シグナスはどうした?」
毎回、思うが、この男の眼は何か違和感がある。冷たいようで、冷たくない。決して熱くはないのに、冷淡とは思わせない。話してみると、闇の人間に合いそうなのだが、眼を見ると違うな、とも思わせる。
「さぁ、わかりません」
「調練場に居なかったので、ここだろうと思ったのだがな」
「はぁ。では、家ではないでしょうか」
シグナスには息子が居て、この所は家に帰るのが早い。だが、軍務はきちんとこなしていて、調練も厳しいものだった。
「息子が風邪を引いたと言っていたからな。有り得るかもしれん」
「風邪ですか。それは大変ですね」
これで会話が終わった。話そうと思えば、いくらでも話せるが、ナイツは話したがらないだろう。ロアーヌのような人間は不得手なのだ。
「最近、シグナスからお前の名前がよく出る」
不意に、ロアーヌが言った。眼の光が強い。それに気圧されそうになった。
「お前には何か、影があるという気がする。これは俺の勘だがな」
言われて、ゾクリとした。ロアーヌの眼が私を射抜いてくる。だが、慌てなかった。こういう事は何度もあったのだ。
「誰にでも影はあると思います」
神妙な口調で、私は言った。笑って誤魔化そうとすれば、疑心を深めるだけだ。
「まぁ、それもそうだな。話は変わるが、お前は近い内に、副官に抜擢されるかもしれん」
「何を。私はそんな器ではありません」
「それを決めるのはシグナスだ」
「はい」
私がそう言うと、ロアーヌは口元だけに笑みを浮かべた。そして、部屋を出て行く。
探りを入れてきた、と私は思った。ロアーヌの真意は読めないが、そう考えた方が良い。そしてやはり、感情が任務の妨げになっている。ロアーヌがどうやって、疑心にまで辿り着いたのかは分からないが、感情がその一端を担っているというのは否めない。
気を引き締めた。そして、もう一度ナイツを自分に刻み込んだ。そうして、確実にシグナスを殺す。
ロアーヌは、私が副官に抜擢されるかもしれない、と言っていた。もしこれが本当なら、任務の成功に大きく近付く事にはなる。今はとにかく、シグナス本人と、その周囲の人間に近付く事だった。それも信頼される形で、だ。そういう意味では、ロアーヌは最も手強い相手だろう。
だが、着実に成功に近付いている。このまま順調に行けば、戦の準備が整うまでにはシグナスを殺す事が出来るはずだ。
油断はしない。言葉にはせず、心の中で言った。何故なら、扉の向こうに人の気配があったからだ。
剣のロアーヌの、気配だった。
この数ヶ月で、いくつか分かった事がある。一つは、シグナスとその周囲の人間の絆の強さだ。特にロアーヌとの絆の強さは相当なもので、これを崩す事は不可能に思えた。互いが互いを信頼し、助け合う。特に精神面でのそれは、家族以上のものかもしれない。
私には家族が居なかった。家族どころか、親しい人間さえも居ない。唯一、師だけが居たが、それも自分の手で殺めた。だから、私は絆というものを知らなかった。
だが、今の私はナイツである。ナイツはごく普通の家庭で育ち、両親からの愛情を一身に受けて育った。そして、国を倒す、という強い志を持ってメッサーナの兵になったのだ。
メッサーナからシグナスを切り離す。私は、この任務を遂行するためにここに居る。そのために、私はナイツになっている。だが、シグナスと共に過ごせば過ごすほど、メッサーナから官軍に寝返らせるのは無理だという風に思えた。ここには、シグナスにとって国に無い物が多すぎる。それは親友や戦友であったり、家族であったりする。これは何物にも代え難いだろう。私は闇の中で生きてきたために、これらとは無縁だったが、理解はできるつもりだった。
寝返らせるのが無理ならば、やはり殺すしかない。元々、そういう任務だったのだ。これは別段、難しい事ではない。今、シグナスは私の事を気に入り始めているし、このまま接し続ければやがて副官に抜擢されるだろう。あとは家族への想いを利用して、シグナスの命を奪えば良い。
筋書きは完全に出来ていた。といより、最初から殺すつもりだったのかもしれない。私はシグナスが嫌いなのだ。真っ直ぐ過ぎる。明るすぎる。これだけでも殺す価値はあるだろう。
しかし、嫌いというのは私情であり、感情だった。私は今まで、任務に感情を伴った事は無い。だから私は、これに対して微かな不安を抱いていた。感情は任務遂行の妨げになりかねない。自分では上手くやっているつもりでも、実際はそうではなかった、というのが起こり得る。だから、任務に感情を持ちだすのは一つの禁忌と言っても過言ではなかった。
だが、自覚は出来ている。ならば後は、全ての事に細心の注意を払う事だろう。そして、出来る事ならば感情を消す。そうすれば、自ずと結果もついてくるというものだ。
「シグナス、居るか」
私が軍議室の中で業務をやっていると、扉の向こうから声が聞こえてきた。
剣のロアーヌの声である。
「入るぞ」
扉が開けられた。軍議室の中に居るのは私だけで、他には誰も居ない。
「シグナスはどうした?」
毎回、思うが、この男の眼は何か違和感がある。冷たいようで、冷たくない。決して熱くはないのに、冷淡とは思わせない。話してみると、闇の人間に合いそうなのだが、眼を見ると違うな、とも思わせる。
「さぁ、わかりません」
「調練場に居なかったので、ここだろうと思ったのだがな」
「はぁ。では、家ではないでしょうか」
シグナスには息子が居て、この所は家に帰るのが早い。だが、軍務はきちんとこなしていて、調練も厳しいものだった。
「息子が風邪を引いたと言っていたからな。有り得るかもしれん」
「風邪ですか。それは大変ですね」
これで会話が終わった。話そうと思えば、いくらでも話せるが、ナイツは話したがらないだろう。ロアーヌのような人間は不得手なのだ。
「最近、シグナスからお前の名前がよく出る」
不意に、ロアーヌが言った。眼の光が強い。それに気圧されそうになった。
「お前には何か、影があるという気がする。これは俺の勘だがな」
言われて、ゾクリとした。ロアーヌの眼が私を射抜いてくる。だが、慌てなかった。こういう事は何度もあったのだ。
「誰にでも影はあると思います」
神妙な口調で、私は言った。笑って誤魔化そうとすれば、疑心を深めるだけだ。
「まぁ、それもそうだな。話は変わるが、お前は近い内に、副官に抜擢されるかもしれん」
「何を。私はそんな器ではありません」
「それを決めるのはシグナスだ」
「はい」
私がそう言うと、ロアーヌは口元だけに笑みを浮かべた。そして、部屋を出て行く。
探りを入れてきた、と私は思った。ロアーヌの真意は読めないが、そう考えた方が良い。そしてやはり、感情が任務の妨げになっている。ロアーヌがどうやって、疑心にまで辿り着いたのかは分からないが、感情がその一端を担っているというのは否めない。
気を引き締めた。そして、もう一度ナイツを自分に刻み込んだ。そうして、確実にシグナスを殺す。
ロアーヌは、私が副官に抜擢されるかもしれない、と言っていた。もしこれが本当なら、任務の成功に大きく近付く事にはなる。今はとにかく、シグナス本人と、その周囲の人間に近付く事だった。それも信頼される形で、だ。そういう意味では、ロアーヌは最も手強い相手だろう。
だが、着実に成功に近付いている。このまま順調に行けば、戦の準備が整うまでにはシグナスを殺す事が出来るはずだ。
油断はしない。言葉にはせず、心の中で言った。何故なら、扉の向こうに人の気配があったからだ。
剣のロアーヌの、気配だった。
ナイツには、何か違和感があった。上手く言えないが、どこか影を感じさせるのだ。その影はとても暗いもので、おいそれと触れるものではない。というより、触れたとしても影を深めるだけという気がした。
嫌な予感が付きまとっていた。ナイツの違和感と何か関係があるのかどうかは分からないが、闇の中で何かが動いているような感じもある。
今は戦が無い。国もメッサーナも疲弊している状態で、力を蓄えている期間である。だが、この間、国はただ単に力を蓄えるだけで終始するのだろうか。戦が無い時にこそ、出来る行動が何かあるはずだ。それを国が仕掛けてきている、という事は考えられないか。
すなわち、謀略である。俺はこういった事に対する知識は乏しく、具体的な流れなどは分からないが、過去からの例でいくつか浮上するものがあった。その中でも有名なのは、離間の計である。
離間の計とは、仲間内での絆を破壊して、敵側に寝返らせるといった計略だ。過去でも実際に行われており、有能な将軍を離間の計で引き剥がして、敵国を打破したという例も存在している。
しかし、離間の計の標的は一体、誰なのか。ナイツがその計略を仕掛けてきているとするならば、シグナスという線が最も濃いという事になる、だが、シグナスが離間の計に引っ掛かる事など有り得ない。これは理屈を超越した話で、絶対に有り得ない、と断言できる事だ。
もちろん、ナイツが計略に関わっているという証拠は何一つとしてない。それにナイツという線から離れれば、他にも様々な謀略が考えられる。
しかし、これらはあくまで可能性の話だった。そして、この可能性の話まで行き着く事になった切欠は、ただ嫌な予感がする、という、ひどく抽象的なものに過ぎない。だからこの件については、無闇やたらと人に話せる事ではないだろう。
それに、シグナスにとってナイツは大事な部下の一人だった。シグナスは息子の話もよくするが、ナイツの話もよくするのだ。それも、卓越した能力はないが、武芸の素質はあるだとか、色んな事の吸収が早いだとか、良い意味での話が多い。だからではないが、俺もナイツの事は信用したいと思っていた。
俺はシグナスの家に向かっていた。最近、あいつは帰るのが早い。息子が風邪を引いてしまい、その看病をしているのだ。妻であるサラに任せれば良いと俺は思うのだが、シグナスはそれを良しとしない。あいつも人の親になったという事なのだろう。俺はそんなシグナスの代わりに軍務をやっていて、今回はその報告をしようと思っていた。
「シグナス、居るか。ロアーヌだ」
シグナスの家についたので、俺は訪いを入れた。
「おう、ロアーヌ」
シグナスが出てきた。手には濡らした布巾を持っている。
「あがれよ」
「いや、ここで良い。息子の風邪が心配だろう」
「うむ。しかし、レンの奴、眠っていても棒を握りたがる」
シグナスの息子の名前はレンで、歳はまだ一歳前後といった所だった。レンは何かと木の棒を握りたがるらしく、一度握ったら今度は振り回したりするらしい。
「槍兵隊の調練は良い具合に仕上がっている。もう少し絞れば、俺の騎馬隊との合同調練もこなせるだろう」
「そいつは勘弁してくれ。俺の槍兵隊が死体の山になるぜ」
言われて、俺は口元を緩めた。
「ナイツの事なんだが」
シグナスが不意に言った。
「副官にしようと思ってる」
「ほう」
シグナスはこんな事は言わずに、決めたらさっとやるタイプの人間だった。わざわざ俺に言ってくるという事は、何か感じるものがあるのかもしれない。
「何か懸念があるのか?」
「いや、特には無いんだがな。お前の後押しがあれば有難いと思っただけだ」
やめておけ、という言葉が喉まで出かかったが、何とか耐えた。否定する明確な理由が無いのだ。違和感がある。嫌な予感がする。こういった抽象的な理由では、シグナスに無駄な負担をかけるだけだ。
「良いんじゃないか。ナイツは一般兵で終わる器ではない。他の兵からの人気も高いのだろう」
「あぁ。割と新参者のくせに、古参の兵からも慕われている」
「足元を掬われるなよ」
「馬鹿を言え」
互いに笑い、俺はシグナスの家を後にした。
ナイツが槍兵隊の副官になる。つまりこれは、ナイツがシグナスにかなり近付く、という事だ。シグナスが離間の計に引っ掛かるのは有り得ない事だが、他に何も起こり得ない、と断言するにはナイツは違和感を感じさせ過ぎている。
ここまで考えて、俺はナイツの事をかなり疑っている、と思った。信用したいと思うと同時に、疑ってもいる。
「ヨハンにだけは相談しておいた方が良いかもしれんな」
独り言だった。
事が大きくなる前に、何かしておいた方が良いという気がする。それにヨハンは計略に対する造詣が深い。俺よりもずっと広い視点で、物事を見る事が出来るはずだ。
空を見上げると、どんよりとした曇り空だった。この曇り空が、要らぬ心配を生み出している。俺は、そう自分に言い聞かせた。
嫌な予感が付きまとっていた。ナイツの違和感と何か関係があるのかどうかは分からないが、闇の中で何かが動いているような感じもある。
今は戦が無い。国もメッサーナも疲弊している状態で、力を蓄えている期間である。だが、この間、国はただ単に力を蓄えるだけで終始するのだろうか。戦が無い時にこそ、出来る行動が何かあるはずだ。それを国が仕掛けてきている、という事は考えられないか。
すなわち、謀略である。俺はこういった事に対する知識は乏しく、具体的な流れなどは分からないが、過去からの例でいくつか浮上するものがあった。その中でも有名なのは、離間の計である。
離間の計とは、仲間内での絆を破壊して、敵側に寝返らせるといった計略だ。過去でも実際に行われており、有能な将軍を離間の計で引き剥がして、敵国を打破したという例も存在している。
しかし、離間の計の標的は一体、誰なのか。ナイツがその計略を仕掛けてきているとするならば、シグナスという線が最も濃いという事になる、だが、シグナスが離間の計に引っ掛かる事など有り得ない。これは理屈を超越した話で、絶対に有り得ない、と断言できる事だ。
もちろん、ナイツが計略に関わっているという証拠は何一つとしてない。それにナイツという線から離れれば、他にも様々な謀略が考えられる。
しかし、これらはあくまで可能性の話だった。そして、この可能性の話まで行き着く事になった切欠は、ただ嫌な予感がする、という、ひどく抽象的なものに過ぎない。だからこの件については、無闇やたらと人に話せる事ではないだろう。
それに、シグナスにとってナイツは大事な部下の一人だった。シグナスは息子の話もよくするが、ナイツの話もよくするのだ。それも、卓越した能力はないが、武芸の素質はあるだとか、色んな事の吸収が早いだとか、良い意味での話が多い。だからではないが、俺もナイツの事は信用したいと思っていた。
俺はシグナスの家に向かっていた。最近、あいつは帰るのが早い。息子が風邪を引いてしまい、その看病をしているのだ。妻であるサラに任せれば良いと俺は思うのだが、シグナスはそれを良しとしない。あいつも人の親になったという事なのだろう。俺はそんなシグナスの代わりに軍務をやっていて、今回はその報告をしようと思っていた。
「シグナス、居るか。ロアーヌだ」
シグナスの家についたので、俺は訪いを入れた。
「おう、ロアーヌ」
シグナスが出てきた。手には濡らした布巾を持っている。
「あがれよ」
「いや、ここで良い。息子の風邪が心配だろう」
「うむ。しかし、レンの奴、眠っていても棒を握りたがる」
シグナスの息子の名前はレンで、歳はまだ一歳前後といった所だった。レンは何かと木の棒を握りたがるらしく、一度握ったら今度は振り回したりするらしい。
「槍兵隊の調練は良い具合に仕上がっている。もう少し絞れば、俺の騎馬隊との合同調練もこなせるだろう」
「そいつは勘弁してくれ。俺の槍兵隊が死体の山になるぜ」
言われて、俺は口元を緩めた。
「ナイツの事なんだが」
シグナスが不意に言った。
「副官にしようと思ってる」
「ほう」
シグナスはこんな事は言わずに、決めたらさっとやるタイプの人間だった。わざわざ俺に言ってくるという事は、何か感じるものがあるのかもしれない。
「何か懸念があるのか?」
「いや、特には無いんだがな。お前の後押しがあれば有難いと思っただけだ」
やめておけ、という言葉が喉まで出かかったが、何とか耐えた。否定する明確な理由が無いのだ。違和感がある。嫌な予感がする。こういった抽象的な理由では、シグナスに無駄な負担をかけるだけだ。
「良いんじゃないか。ナイツは一般兵で終わる器ではない。他の兵からの人気も高いのだろう」
「あぁ。割と新参者のくせに、古参の兵からも慕われている」
「足元を掬われるなよ」
「馬鹿を言え」
互いに笑い、俺はシグナスの家を後にした。
ナイツが槍兵隊の副官になる。つまりこれは、ナイツがシグナスにかなり近付く、という事だ。シグナスが離間の計に引っ掛かるのは有り得ない事だが、他に何も起こり得ない、と断言するにはナイツは違和感を感じさせ過ぎている。
ここまで考えて、俺はナイツの事をかなり疑っている、と思った。信用したいと思うと同時に、疑ってもいる。
「ヨハンにだけは相談しておいた方が良いかもしれんな」
独り言だった。
事が大きくなる前に、何かしておいた方が良いという気がする。それにヨハンは計略に対する造詣が深い。俺よりもずっと広い視点で、物事を見る事が出来るはずだ。
空を見上げると、どんよりとした曇り空だった。この曇り空が、要らぬ心配を生み出している。俺は、そう自分に言い聞かせた。