シマウマ短編集
『賭博叛逆録 ストレイ・ジョーカー』
火でも水でもいかづちでもなく。
その魔術師は、牌を操るという。
そんな噂が流れた街がどこだったのか、いまは誰も知らない。
その魔術師のルーツは、現在にいたっては完全に失われている。
ただ莫大な敗者の亡骸と、黄金のごとき伝説が残っているだけだ。
その男、エディ・ストライクには徹夜できるものが三つあった。
ひとつはペーパーバックを内容もよく吟味せずに読みふけること。
つぎにひとりでテレビ・ゲーム(横スクロールのもの限定)を一面から修行のようにやりまくること。
そして、麻雀を打つこと――。
祖国でゲーム開発、シナリオディレクターとして成功したのも束の間、あっという間に自分と同じ、そしてそれ以上の才能が嵐の中の河のごとく溢れかえり、エディは「発掘された原石」から「……によく似たやっぱりただの石」へと没落した。
ゲーム・シナリオに既存の小説などからパクリまくったのもよくなかった。
世の中にはひまなやつがいる。
そして合わせなくていい知識を併せ持つやつがひまだった場合、見過ごされてきた罪は誰も救わずに裁かれる。
エディは国を捨てた。
しかしそこでもエディはツイていた。マイナーゲームとして祖国では失笑されていた麻雀が、世界同時多発的に大ブレイクしたのだ。愛好家として他者よりも一歩ぬきんでていたエディが麻雀でラッキーストライクとバーボンを楽しむようになるまで時間はそうかからなかった。
繁華街のネオンを見上げながら、行き交う人の流れのなかでエディはこう思った。
自分には、なにかが憑いている。
なにも恐れることはない。
ただそれを尊び、畏怖し、崇めていれば、きっと自分は幸福なままでいられる。
落ち目は落ち目ではなく、新しい道の入り口が隠されているだけ。
そう信じた。
そして祖国から渡りに渡って、いま、エディは分厚いカーペットの敷かれた豪勢だが光の少ない部屋で麻雀を打っている。
四方にともされたろうそくの灯りが、ぼうっと四人の顔を照らしている。
エディはちら、っと自分と正方形を形作る三人を見やった。
上家は、もし吸血鬼になったら絶世の美女へと変貌するであろうことが窺える面影を残した老婆。
背筋はいまだに曲がっておらず、深い紫のローブのフードをかぶっている様はまさしく魔女と呼ぶにふさわしい。
しかし成績の方は奮っていない……ハリボテの魔女。
エディは点棒箱を見やった。
ちょっと目減りしているが、まだ東場の親だ。
いくらだって逆転の目はある。
下家の男はターバンを巻いた陰気な男で、顎鬚とひどい糸目のせいで表情の判別ができない。
打ち始める前に交わした簡単な挨拶によれば、この高レート雀館『天国の鏡』の常連メンバーだという。
この男は荒れた麻雀を打たない代わりに、ほとんど鳴きをいれず、また無理押しもしない。
平均的な守り麻雀で、カモよりはいくらか強いが、先制リーチになにも考えずにさっさとオリてくれるから攻めやすい。
問題は、とエディは思う。対面のジプシーだ。
この『天国の鏡』は元々は占い師の館で、奇妙な話だが麻雀も占いの一環として始めたものだという。
それがどのような経緯をへて雀士の巣窟となったのかエディは知らないし興味もない。
いまものすごく大切で理解したいのはこの半荘の制し方だ。
館の主であるジプシーは、柔らかく波打つブロンドに炎の光が滑るのを許し、水に濡れたように輝く青い瞳は、静かに卓上をなでる女神の手を射止めている――そんな空想が本当に目の前に浮かんで見えてくるほど、エディは憔悴していた。
階段を一段一段登るようにして半荘を重ねても、どれほど大切に打ちまわしても、このジプシーにだけは勝てない。
エディはしっかり覚えている。
ジプシーがエディから直撃を取った回数は二十七回。
エディがジプシーから直撃を取った回数は、
ゼロ。
ゼロ。
ゼロ。
はて。
エディは目をしばたく。
ゼロとはなんだったか。その数字は何を意味する? いまの時刻? 今日の日付? 自分の点棒、自分の金、自分の、
い、のち?
しっかりしよう。
エディはパチンと頬を叩き、閉じようとするまぶたを情熱でこじ開けた。
この半荘こそトップを取ってみせる。はい決めた。もう決めた。
ここまでこのエディ・ストライク様が本気になって、叶わなかった望みなんてないのだ。
盗作騒動が巻き起こり、結婚間近だった恋人に振られたあとも、組織から狙われて祖国を追われたときも、いつだって勝利の女神はこのエディ・ストライクに味方してきた。
今日だって。今回だって。
そうならない、理由はない。
手牌を見る。
一一三四六七八九九九 鳴き:東東東
よし、問題ない。間違うものか、二五萬の一万二千点。でも一本場だから一万二千は一万二千三百って言わなきゃ……あれ? 自分はたしか、最初に流局して千五百点をもらい、そのあと五百オールをアガったのではなかったか? 覚えている、安手だが仕方ないと思った気持ちを……。そうだ、しまった、さっき一本場を積み忘れたんだ。じゃあいまは二本場? いまから申告したらみんな三百点くれるだろうか。
落ち着け、エディ・ストライク。
なにかがおかしいぞ。
しっかりしなければならないと心を追い詰めるほどにどうでもいいことが気になってくる。この自動卓のサイコロ、さっきから五と七しか出してないぞ? 自分は狙われてるんじゃないのか? いま自分がすべきことは卓をひっくり返してでも逃げ出すことで、でもそうしたらあのビロードのカーテンの向こう、入るなと言われたカーテンから重武装の兵士が……そう! 祖国の追っ手、カスバート・ハッサムが現れてこう言うのだ。ヘイ、エディ、女と老婆とインポ野郎とボロイ麻雀ができると思ったか? やっぱりギャンブルには抑止力がなくっちゃな! ガチャリとあのデブとハゲとワキガの三重苦野郎でも取り扱えるお手ごろマイクロUZIを取り出して、カスバートはエディの眉間に構え、エディはなすすべもなくツモ牌を盲牌したりなんかして、そして――
落ち着け。
エディは繰り返す。
落ち着くんだ、エディ・ストライク。
もう自分の体力は限界に近い。たった四回戦の麻雀だというのに。
なにかがおかしい。そんなことはわかってる。
だが、逃げられないのだ。
おれはもう、熱くなってるから。ヒート、ホット、フレイム、ファイア、マグマダイバー。
タンッ!
その音がエディの意識を束の間覚醒させた。
ジプシーが親愛なるものの死を看取るような顔で(鼻から下はスカーフで隠されていたが)、自分の打った牌を見つめていた。
二萬。
「ろ、ロンッ!!」
バタリと手を倒す。エディは思わずほっと息をついた。
その息の熱さと臭さに自分でびっくらこいた。
だが、やったのだ。親マンだ。
エディは胃を痙攣させて笑う。やったぞ、ざまあみやがれ、おまえさんの初めての放銃はやはりこのエディがものにしたぜ。ここからおれさまの大逆転劇が始まるのだ!
だが、いつまで待っても点棒は降っては来なかった。
エディはおそるおそる自分の手を見下ろした。
まさかな、と思いながら。
一一二四六七八九九九 鳴き:東東東
うそだ。
エディは深呼吸する。これはない。とにかく、ない。
ありえ、ない。
自分でも驚くほど気さくな口調で、エディは言った。
「やあ、ごめん、アガリ放棄だ。誤ロンだよ、ツイてないな」
そしてジプシーにウインクしてみせる。ハワイの海岸だったらどんな美女でもいちころだ。
ほら、ゆるしてくれよ、だれいだってあるミスじゃないか?
なあ。
おれ、ちゃんと見てたんだぜ。
おかしいだろ。
これじゃ、まるで、
魔法じゃないか――。
しっとりと湿った数秒の後。
エディ・ストライクは初めて、麻雀用語以外の言葉をジプシーが口にするのを耳にした。
「誤ロンの倒牌は、チョンボだ。親の一万二千払い。
そして余の記憶違いでなければ、だが、
――ハコテンだな、ミスターストライク?」
ワオーッ! と一声高く雄たけびをあげて、エディ・ストライクは椅子の背もたれごと後方へ倒れこみ、後頭部を打ちつけて気絶した。
口元から泡をこぼしながらも、その表情は、とても安らかだったという。
これからの彼の人生がその対照に位置することを、いまは、しずかに悔やみたい。
「ふん、あっけないものよの」
古びた口調でつぶやいたのは、老婆ではなく、巫女のような絹の装束を身にまとうジプシーだった。
倒れこんだエディの身体を靴で踏みつける。
それを見た老婆が顔をしかめる。
「ミラース、およし。靴が汚れるよ」
ミラースと呼ばれたジプシーはくすっと少女らしく微笑み、
「せめてものはなむけにと思ってな。余に踏まれる栄誉を与えたまでよ」
少女らしからぬ高慢なセリフを吐いた。
その声は霊峰の頂にあった雪を春の陽光にさらしてすこしずつすこしずつ溶かした水のように澄んでいる。
「偉そうに武勇伝など酒場で語って来るから、もっと気骨のある男かと思えば、粗相をしないだけが褒めどころの駄犬であった」
老婆は呆れているような認めているような曖昧な口調でこう返した。
「おまえのお眼鏡に適う男なんぞおるまいよ、ミラース」
「ふふん、そう思うか、シャイフ(賢人)?」
そうだな、とジプシーは卓上の牌を触れたら割れてしまいそうな指でもてあそび、恍惚とした表情を浮かべる。
「ああ、そうとも。余より強い男なぞおらぬ。このストライクや、その使えぬ式のようにな」
式、と呼ばれたターバンの男は、クズ呼ばわりされたにも関わらず卓に座ったまま身動きひとつしない。
その目は虚空を見つめ、口と鼻からは透明な汁が垂れていた。
ミラースはそれを夜の空気よりも冷たく見下ろして、
「そろそろ替え時よな、これも。シャイフ、また見繕ってきてくれ」
「またか? 心変わりの烈しい孫娘よ」
「ふふん。まあ許してくれ。この式、どうも保身に走ってばかりでいかんのでな。影が薄いだけで人数合わせにしかならん」
「それでも隣国の猛者と聞こえた男だったのじゃがな、そいつも」
「余のアガリを拝見させてやる価値もない。――捨てろ」
後日、日本某所に、脳死状態の成人男性二人の身体が届いたという。
彼らがどうなったかは、またべつのお話。
シャイフがその雀荘(軽食屋としても機能している)の戸をくぐると、点在する空き卓の奥に、ひとつだけひとだかりができている卓があった。
人の環から二歩半ほど離れたところに店長がおり、シャイフが来ると目配せし、近くにいた若者に何事かささやいた。
シャイフがその卓に近づくと、入り口側に座っていた長髪の若者と、その対面の外国人の少年がなにやらもめているらしかった。
外野たちは長髪の味方らしい。真一文字に結んだ口とナイフのような視線の向かう先からわかる。
しかし、いまにも殴りかかられそうな状況だというのに、異国の少年は自分の手牌ばかり見ている。
シャイフはその格好を見て、少年が軍人だと思った。
詰め襟のピシッとした黒い制服を着用し、襟元には勲章のようなバッヂ(馬のひづめが刻印されている、おそらく市民生活およそ三ヶ月分くらいの価値あるしろもの)が輝いていたからだ。
少年兵の見つめる彼の河に捨て牌はない。
しかし少年は手を開けていた。
地和だ、とシャイフは思った。
長髪がこめかみに青い筋を立てて、深く息を吸った。
空気中のマイナスイオンから冷静さを吸収しようとしているのかもしれないが、おそらく徒労に終わるだろう。
「いいか」長髪はいまにも吐き戻しそうな緊張感たっぷりの声をだした。少年兵がちら、と目を上げる。
「おれはこう見えても犯罪をしたことはない。盗みも、殺しも、人様の迷惑になることだってしてきたつもりはないんだ、この十八年間な」
「ああ、そう。おめでとう」
長髪と違って、少年兵は喋るのが億劫そうだった。
シャイフはじっと彼のまなざしとその奥にあるものを、野次馬の隙間から目を細めて探った。
「そのおれでも許せないことが三つある。ひとつ、おれのおやじを成金呼ばわりするやつ。ふたつ、おれのお袋を金目当ての売女だと侮辱するやつ、そして三つ目が、麻雀でイカサマするやつだ」
ぱち、ぱち、ぱち。
少年兵は手を打った。顔色がひどく悪いため、嘲るような笑みも強がりのように見えてしまう。
「長いのは髪だけにしとけ。言いたいことはすぐに言え」
「おうわかった、じゃあそうする」
長髪が少年兵の胸倉を掴んだ拍子に、卓からバラバラと牌が零れ落ちた。しかし誰も拾わず、ただ二人の行く末を見守っていた。
「一日で三回も役満アガるとは、おまえ、覚えたてか。やりすぎだぜ。プロはもうちょい気を配る」
「いまの地和はイカサマじゃねえよ。ツモ牌はおまえのヤマからツモったんだ。知らなかった?」
「そんなことはどうでもいい。おまえがどうにかしたんだ、そうだろ、え、少年脱走兵さんよ? そんなところだろ? てめえみてえなやつはいつだって負け犬の逃げ馬に決まってらァ」
少年兵はため息をつくと、肩をすくめて話題を変えた。
「あのさ、おまえ、天和アガったことあるか」
「ない」
「知ってる。その腕だものな。ストリート・ジャンクは死ぬまで路傍の石ってわけ」
「こ、こンの野郎!」
「黙れっ!」
どこにそんな余力があったのか。
体内をウイルスに汚染されつくしているような禍々しさをまとった少年兵は、爪を立てて長髪の腕を掴んだ。
みるみる血と悲鳴が湧いたが少年兵はまっすぐに敵の顔のド真ん中を見据えている。
「終わったことをいつまでもほざくんじゃねえ。ことが一番きわどかったとき、てめえはなにをしてた? ただぼさっとしてただけじゃねえか。据え膳食わぬは男の恥だ」
「は、離せ! 離しやがれっ!」
長髪は一気に気勢を殺がれて掴まれた腕を振るが、万力のような力(シャイフはそれが筋力ではなく怒りによって増幅された無理のある力だと見抜いた。つまり、少年兵は明日にでも筋肉痛になるだろう)で押さえられ歯が立たない。
野次馬たちにも殺気が立ち込め始めた頃、いつの間に人の柵をすり抜けていたのか、シャイフが少年兵のそばに立っていた。
「やめな」
腕を離された長髪は涙目になって人の群れのなかへと消えていった。呻きだけが奥から聞こえてくる。
「おおシャイフ」「シャイフが来てくれた」「これであのガキも終わりだ」「ざまあみやがれ」「のろわれろ」
四方向から放たれる絶望の文句を若い兵士はさわやかに無視して問うた。
「なんだ、あんた」
「あたしはシャイフ」老婆は名乗った。
「あたしのことはいい。ただの死に損ないさ。それより、あんたのことだ。名は?」
少年兵は冗談を言う風でもなく真顔でこう答えた。
「サマー・ファルス」
「……なんだって?」
シャイフが眉間に刻まれたしわを二倍にした。
「あんたそれ、本名じゃないね」
「ああ。あだ名みたいなもんだ、気にすんな」
「父の名は」
「知らない」
異国の少年兵はぼそっと答えた。興味なさそうに。
まるで自宅に残してきた死体の腐敗具合の方が気になって仕方がなく、そんな質問に答えるひまはない、というような無関心さだった。
「おまえは孤児か?」
新たな問いには答えずに、サマー・ファルスはサイドテーブルに積み重なった紙幣と硬貨のドライフラワーを無造作に掴み、ポケットに突っ込んだ。帰るつもりなのだ。
その場にいる全員の棘のような視線を浴びながら汗ひとつかかずに、少年は背を向けた。
「待ちな」
シャイフのしわがれた静止の声に、少年の革靴がゆるやかに止まる。
肩越しに振り返る顔は暗く、痩せた頬に影ができていた。
乾ききった顔の中で黒く鋭い両目だけが妖しくきらめいている。
「勝ち逃げは許さない。そのためにあたしが呼ばれたんだからね、若いの」
「あんたが?」
サマー・ファルスはシャイフの額から爪先まであらかた検分しても顔色を変えなかった。侮りもしなかったし、笑いもしなかった。
そして、立ち去りかけた身体をほんの少し薄暗い店の中へと戻した。
「いいよ。なんだっていい。ここじゃもう、おれに打たせてはくれないみたいだから」
一方的な罵倒と共に、シャイフと少年兵はその場を後にした。が、外に出ると喧騒はぴたっと止んでしまった。
少年兵はかすかに背後を省みてから、暮れなずむ埃っぽい道をゆく老婆の背中を追った。