俺は飛び出した。飛び出して、彼女に叫んだ。
「リョーコ!」
勢いのままだった。とにかくそれで何かが進展すると思っていた。
思っていたが。
俺の声に気づいた顔を上げたリョーコは目頭を赤くして、目に涙を浮かべたまま、凄まじく不機嫌そうな顔で、「なんだお前?」とでも言いたげに俺を見返したのだった。
「あー、えーと、奇遇だな」
何が奇遇か。自分でも間が抜けてると思うが、彼女は俺が俺を間抜けと思うそれ以上に俺のことを間抜けと思ったようで、何も答えずただ睨むだけ。
ああ久しぶり、久しぶりに取り付く島もないほどに拒絶されてるってやつだ。古い付き合いの俺にはすぐにわかる。これが本来の俺達の関係だ。
彼女は今、水風船にぱんぱんにニトログリセリンが詰まっているような状況、ちょっとでも触れたら爆発する。
それがわかってるから、俺は何も言えない。
リョーコはじっと俺を睨みつけたまま、こちらの言葉を待っている。しかし何も言えない。何を言ってもきっと打ち返されるだけ。俺にはそれがわかっている。
「……なに?」
しびれを切らしたように、リョーコは吐き出すように問いかけてくる。これでもわずかの譲歩なのだ。
「……なんで怒ってるんだ」
「別に、怒ってない」
そんなこと言っても、俺にはわかるんだ、って言おうと思ってやめた。
古い付き合いだからわかる。
再び沈黙を始めた俺を睨みつけながら、リョーコはまた言葉を吐き出す。
「見てたの?」
「何を?」
とぼけてみた。
「別に」
それでまた会話が途切れてしまう。リョーコは空を見ながら長く息を吐いている。苛立たしげに。それから自分の頬を三回両手ではたいた。どうやら落ち着きを取り戻そうと努力しているようだ。えらいぞ。
落ち着きを取り戻したリョーコはこちらに振り向く。
「それで、何の用なの?」
何の用、と問われても悩む。別に用があるわけでもないのだ。何の用、何の用、と自分に問いかけてみて、必死に会話の接ぎ穂をひねり出す。その結果出てきたのが、
「えーっと、昨日、来た?」
なんて問い。気になってはいたのだ。昨日、俺がゲロ吐きながら眠りこけていた時に、もしかしたら彼女が一人で俺の部屋に来ていたのではないかって。
でも言葉が唇を離れてからすぐに、それは今する質問じゃないような気がした。
「どこに?」
案の定リョーコは唇を尖らせる。またご機嫌が御傾きの様子。
「だから、えーと、その、俺の部屋」
「なんでわたしがあんたの部屋に行くの?」
「いや、それはそうなんだけど、そうじゃなくて」
そうまでぴしゃりと否定されると、困る。まだ彼女の中で、あのメイドは俺の妄想の産物、という設定は続いているようだった。
「行くわけないじゃん、馬鹿」
なんかそこでぴんと来た。古い付き合いだからわかる。
「もしかして昨日、俺がいなくて寂しかった?」
言った直後、頬に衝撃。水風船いっぱいのニトログリセリンが、どっかん。古い付き合いなのに、言っちゃいけないってわからなかった。
「寂しい? ばっかじゃないの? ばっっっっっっっっかじゃないのっ!?」
リョーコの顔は真っ赤で、俺の頬もたぶん真っ赤。本当にビンタが得意な人だ。そんでたぶん、昨日彼女は俺の部屋に来たんだろう。
全部わかる。悲しいくらい。
「寂しいなんて、そんなこと、あるわけないでしょっ!!」
小さな体で目いっぱいに怒っている。完全にご機嫌が雪崩を起こしてしまったリョーコは、子供みたいに鼻を鳴らしながらこちらから顔を背け、また座り込む姿勢。
そしてまた沈黙が暗雲のように二人の間に立ち込める。
やってしまった。俺はいつもこうだ。リョーコのことをわかっていると勝手にひとり合点して、それで必ず裏目を引くのだ。
自分で自分が嫌になる。
その時、立ち込める沈黙を打ち払ったのは、遠くから投げかけられた言葉だった。
「あら? ケンちゃんとリョーコちゃん?」
俺達が振り返った先にいたのは、二十代前半くらいの若い女性。ポニーテールに結んだ髪を風に揺らしながら、彼女はこちらへ小走りで駆けてくる。
「あらあらお二人さん揃って~なに、けんか? 相変わらずねぇ」
なんて言いながら。
もちろんこっちも彼女のことを知っている。知っているなんてもんじゃない。
彼女の名前はシノさん。この神社の娘さんで、幼い頃の俺とリョーコの遊び相手で、東京の大学を出て、こっちへ帰ってきて、結婚して、この神社と二世帯住宅をしっかり守ってて。
そして俺の初恋の相手だった。
少し思い出話をしよう。
あの頃俺は確かまだ小学校に入ったばかり、年齢二桁にも届いていないようなマセガキで、鼻水たらしながら恋をしてた。
当時のシノさんは中学三年生だった。今の俺達と同い年だ。自分たちがなってみると、中学三年生なんてまだ子供だと思うけど、当時の俺からしてみれば、途方も無いくらい大人に見えていた。
ついでに途方もないくらい美人に見えていた。
わかるだろ。小学生の交友関係なんてせいぜい家族と、学校の友人とその家族くらいなもので、普段目にする異性といったら同い年の女児かだれかの母親くらい。
その中でシノさんの存在は、それはもう特別なものだった。
わかるだろ。
シノさんへの想いを俺が初めて打ち明けた相手は、シノさん本人ではなかった。がきんちょの俺は本人ではなく、その時もっとも頼れる親友にして全てを託せる唯一無二の相棒、つまるところ敬愛する幼馴染のリョーコへ自分の想いを打ち明けたのだった。
「そういうことはね、さっさと言っちゃうべきなのよ」
テレビ番組かマンガか何かか、どこで得た知識かは知らないけど、リョーコははっきりとそう断言した。その時彼女がイライラとした表情を見せていたのは、少し覚えている。
俺はリョーコに手を引かれながら、シノさんのところへ向かった。
そんで玉砕した。いや、玉砕とも言えない。おもちゃの戦車で自衛隊の演習に突っ込んでいったようなものだった。
「君にはまだ早いよ」
とやんわり注意され、家に帰されたのだ。
情けない思い出。
ついでにもう一つ情けない余談を。
シノさんは大学を卒業して実家へ戻り、すぐに結婚したわけだけど、その相手というのは中学の頃から付き合っていた幼馴染なんだそうだ。
いい話だね。