音楽と煙草とお隣さん
僕が上京してはや1か月になる。もう桜がすっかり散ってしまって、僕の住むアパートの前の樹は、見事な葉桜だ。
地元の進学校を卒業して、今年の春から大学生をやっているが、初めての一人暮らしで戸惑うことは多く、友達もできていない。夜になると寂しくて泣くこともあるが、家族には友達がたくさんできたとか毎晩電話している。もしかしたら、僕が一人ぼっちなことを気付いているかもしれない。
この寂しさを紛らわせるために煙草を覚えた。煙草を吸うと虚無感とかそういう、もやもやした感情がうやむやになって、食堂で昼食を一人で食べることの惨めさもどうでもよくなってくる。こうなると、こんな便利なものは手放せなくなり、すっかりニコチン中毒だ。一日2箱は吸う。こいつを吸っている間だけは、孤独じゃなくなる気がするから。
今日もいつものようにベランダで煙草をすっていると、右隣の部屋からハーモニカの少しだけ哀しい音楽が聞こえてくる。音が心に沁みたのか、それとも煙が目に沁みたのかわからないけど、なんだか涙が止まらくなってきた。おかしいな、煙草を吸っているのにこんな気持ちになるなんて。
僕はなぜだか、むかっ腹が立ってきた。文句をいってやろう。煙草を携帯灰皿に押し付けて火を消し、ベランダから部屋に入り、その勢いのままドアを開け、隣の家の前にやってきた。やってきたはいいが、インターフォンを押すことがためらわれ、熱くなっていた頭が冷えていくにつれて、なんて馬鹿なことをやる気でいたんだろうと思えてきた。
部屋に戻ろう。そう思い、踵を返そうとしてドアに背を向けた瞬間、ドアが開き、僕はドアにあたって前につんのめった。
「大丈夫?」
女の人の涼やかな声がする。後ろを振り向くと艶っぽく、胸を強調するタートルネックにGパン姿のお姉さんがいた。唇の厚い黒髪ロングでかなりの美人だ。気まずい。実に気まずい。
そこでとっさに出たひと言が、最悪だった。
「好きです。一目ぼれしました。付き合ってください」
僕の顔が急速に引きつっていくのが自覚できる。もう引き笑いしかできない。なんてことをしてしまったのだろうか。
「あら、うれしいわ。でも、お互いのことをよく知らないから、お友達から始めるのはどうかしら?」
女神はここにいた。脳内でファンファーレが再生されて、天にも昇る気持ちで僕の顔が満面の笑みに変わっていく。友達のいない僕の顔はいつも無表情だが、今日はまるで百面相。悲しんだり喜んだり忙しいみたいだ。明日は顔面筋肉痛になるかもしれない。
お姉さんの差し出した右手を握り、握手をした。しばらくぶりの人肌だった。
――この出会いが僕たちの運命を大きく変えることになるなんて、この時の僕らは知る由もなかった。もし、この時に帰れるなら僕はこの手を握っただろうか。いや、多分握るだろう。僕に救いを差し伸べてくれる人がいたなら、それが悪魔だとしても手を握らずにはいられない。ああ、今はもうない右手が疼いた。今夜は月が綺麗だ。
――続く?――