夕飯を終えて、お皿を洗っている時だった。私は今日の勤務時間は終わっていたけれど、普段一緒にしている水仕事をユミコさんだけに任せるのは躊躇われたので、お手伝いしていた。彼女は気を使わなくてもいいと言ってくれたが、ここで手伝わなかったら、却って気を使ってしまう。一週間を通してようやく気付いたのだが、ユミコさんに仕事がない日などない。仕事の合間を見て息抜きはしているようだったけど、月曜から日曜まで、いつも食事洗濯炊事掃除の家事全般を行っている。そんな人を放って部屋には戻れない。ただでさえこの家の労働者として半人前以下の私は、日頃から彼女にお世話になっているのだから。
「ジュンちゃん?」
「はい。なんでしょう?」
「少し顔色悪いわ。疲れているんじゃないかしら? 大丈夫?」
一通りの洗い物を片付けたユミコさんが、心配そうな表情で私を覗き込んだ。
「……ええ。おそらく大丈夫だと思います」
「そうかしら。私の気のせいだといんだけど。今日は早くおやすみなさいね」
「はい。お気遣いありがとうございます」
ユミコさんがとても不安そうな顔で言うものだから、私は素直に部屋に戻った。確かに睡眠時間は足りているとは言い難いし、今朝は朝から運動もしている。昼間はお仕事で忙しかった。考えてみれば一週間ずっとお仕事を休み無しでやっているのだ。いくら家事の延長のこととはいえ、慣れないことに疲れが溜まっていても、なんの不思議もない。ユミコさんの言いつけ通り、今日は早めに休むとしよう。明後日からの仕事に差し障りが出ても申し訳ない。
お風呂を早めに済ませて、部屋で一人、ぼうっとしていた。初めに来たときに比べ、大分ものが増えてきたとはいえ、それは生活用品の類に過ぎない。この部屋で私がすることといえば、睡眠を取るか、本を読むか、勉強をするか、それともただ無意味な思索に耽(ふけ)るくらいだ。見たいとは思わないが、テレビもないし、やはり欲しいとは思わないが、携帯電話もない。
確かにちょっと疲れているみたいだ。本を読む気もおきないし、かと言って勉強をする気にもなれない。こんな時は意味のないことをぐるぐると考えてしまう。私が今ここにいる理由とか、生まれてきた意味とか、そういう子供っぽいこと。
第三者が価値を認めるような、私が今在る理由なんてないし、私が生まれてきた意味なんてきっとない。世に産み落とされ、自我が芽吹くまで育てられ、それからは私は私が望んだからここにいるだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。けれど、何もする気力がおこらない時に限って、そんなものを求めてしまう。両親は私に何を望んだのか、どうして産んだのか、そういう疑問が頭を掠めていく。小泉の家の古ぼけた記憶が、朝ふっと脳裏を過ぎったからか。答えのあるはずない疑問は氷解することなく、思考の水面に浮かぶだけ。それでも私が妙に事実を達観しているのは、どの記憶にも実感を伴わないからだろう。あるいは、感情の痛覚が麻痺してしまったか。
この部屋に一人きりで考え事をしていると、何かの待合い室にいるみたいな錯覚を感じる。呼び出されれば私はふらりと消失する、その程度の存在感しかなくて。行き先はどこだろうか。刹那に、何故か小泉の家の吊されたロープが浮かんだ。私はそんなものを望んでいないはずだ。けれどそれは誘うように揺れていた。
チッチッチッと時計が時間を刻んでいる音だけが聞こえる。私はベッドに転がり、ただ天井を見つめていた。ぐるぐるとろくでもない考えが浮かんでは消え、ぼんやりとそれらを眺めていた。寝ようにも寝られそうになかった。私の意識を削ぐような時計の音が、麻痺した痛覚をじくじくと痛みつけている気がした。
それがなんだかたまらなく嫌になって、不意に身を起こした。鳩山の家はしんと静まり返り、降りた夜の帳が、息づく人を覆い隠したみたいに感じた。
部屋にいたくない。その衝動に突き動かされるまま、私は自室を後にした。ちょっと乱暴に閉めた扉が、抗議するように大きな音を立てた。逃げるように、あるいは何かを求めるように、私は三階に上がった。昨晩ユキと過ごした部屋を一瞥する。明かりはついていない。そこにユキはいない。当たり前のことだ。彼女は彼女の部屋にいる。その部屋の扉から、薄暗い廊下を照らすように煌々と光が漏れている。
私はユキの部屋の前で立ち止まった。そこから、動けなかった。もしもこの扉をノックして彼女が出てきても、私はなんて言ったらいいのだろう。
何となく不安だったから? 一人が嫌だったから? 傍にいて欲しかったから? きっとどれも正確な気持ちじゃない。私はただあの部屋にいたくないという、ただそれだけの衝動に従っただけだ。それがどうして、私はユキを訪ねてしまったのだろう?
彼女は私の雇い主でしかない。彼女と私の関係は……。
彼女と私は……どんな関係だろう。
主従の関係でもない。けれど友人でもないだろう。ましてや恋人でも。
なのに、どうして私は彼女を頼って……?
「ジュン?」
「――――っ!」
突然ユキに呼びかけられて、驚き過ぎて声が出なかった。彼女の部屋の前で突っ立っていたら、部屋を出てきたユキに出くわしてしまったようだった。
「どうしたの? 何かご用?」
「あ……え、えと……」
「……?」
ユキが怪訝な顔をして、私を覗き込む。彼女の綺麗な形の瞳が、私を吸い込みそうなくらい、まっすぐ見つめていた。
「本でも借りにきたの?」
「あ、う、うん」
「うそ」
ぴしゃりと言われたその言葉に、微かな冷気と棘があった。まるで嘘をついた子供を窘めるような。
「……ごめん」
「いいよ。それで、どうしたの?」
彼女の声に優しい調子があって、私は安心してしまった。多分そういう声音の使い方も、彼女の思い通りだと分かりながら。
「……それが、うまく言えないんだけど」
「うん」
「部屋にいたくなかった」
ぽつりと口からでた言葉は、素直な気持ちだった。
「そう。じゃあ私の部屋においで」
「良いの?」
「歓迎するわ。ほら、いらっしゃいな」
ユキが部屋の扉を大きく開いて、私を招き入れてくれた。本を借りに来たときなんかに、部屋の中をちらりと見たことはあるが、入るのは初めてだ。ちょっと緊張する。それとここに入れてもらえたことに、微かな昂揚を感じた。
私がユキのものになる時の部屋とは、当たり前だけど全然違う。上質な家具に、品の良い色遣いのカーテンやカーペット。部屋は整理整頓されていて、ユキが綺麗好きであることが一目で分かった。整然とされすぎて、女の子らしさは薄いかもしれないが、色遣いがやはり女性らしい。そのせいか大人びた印象を受ける。
「紅茶淹れてくるね」
「それなら私がお淹れしましょうか?」
「勤務時間外なのに、どうして敬語なの?」
「あ……」
しまった。部屋に二人きりでいるとつい敬語を使ってしまう。
「ふふ。うっかりさんねぇ。それとせっかくのお客さんだし、紅茶くらい私が淹れてくるよ」
「じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな。ありがとう」
「いえいえ」
しばらくユキの部屋でぼうっと待っていると、彼女がトレーに紅茶を持ってきてくれた。小さな器には飴色の液体が入っている。
「熱いから気を付けてね」
「うん、なにそれ?」
「蜂蜜、甘みが出て美味しいよ」
「ほぇー」
試しに入れてみると、砂糖とは全然違った甘みを味わうことが出来た。ミルクティーに合いそうな味だ。けれど蜂蜜にミルクティーでは、せっかくの上質な茶葉の味が味わえないかもしれない。
熱い紅茶をちびちびと火傷しないように飲んでいると、ついつい会話が途切れがちになる。少し気まずい。
「今って何時かな?」
「もう十時過ぎね」
「もうそんな時間なんだ……」
「珍しいわね。ジュンが時間を把握してないなんて」
「うん、ちょっと考え事とかしてたから」
「そう」
「うん……」
ああ、どうしよう。会話が続かないよ。仕方なく手にした紅茶を少しずつ飲んだ。これを飲み終わってしまったら、どうしようか。やはり部屋に戻るのが懸命だろうか。そうすれば、ユキに迷惑にもならないだろう。
「考え事、解決した?」
黙って紅茶の水面を見つめていたら、ユキに問いかけられた。彼女の表情には、何故だか不安が滲んでいるように見えた。
「ううん、多分答えのあるものじゃないから」
「何を考えていたの?」
「……うまく言葉にできないな。多分考えてもどうしようもないことをずっと考えていたと思うんだ。そうしたら、なんだかそれに疲れちゃって。一人で部屋にいるとずっとそういうことばっかり考えちゃうから」
「そうなの。私といると、少しは気が紛れる?」
「うん」
「それはなにより」
ユキはほっとしたように微笑んだ。その顔をみると、私も少し安心する。それにやっぱり人と話していると気は紛れる。下らないことで思い悩むより前に、色々と気を払わないといけないことが多いから。
「こういう時に走ったりすると良いの。何にも余計なこと考えられなくなるから。でも今は夜だから危ないだろうし。こんな時間に押しかけてきてごめんね」
「ううん、これからもいらっしゃいな。でも走ったりは運動苦手だからパスね」
ユキが苦笑しながら答えた。どうやら鳩山姉弟は二人とも運動は苦手のようだ。
「ジュン」
不意をつくような、真剣な眼差しと声だった。
「何?」
思わず少し気圧されてしまう。声が、震える。
「なんにも考えない方が楽?」
「そういう時もあるよ」
「今は?」
「そうかな」
「何にも考えられなくして欲しい?」
「どうやって?」
「私のことしか考えられなくしてあげる」
「なにそれ」
可笑しそうに笑って見せたら、ユキは「なんだ振られちゃったか」とおどけた。だけどそれでは、私が今晩この部屋に居座る理由がなくなってしまう。
私は一人きりの部屋が怖くて、初めて彼女に哀れみを請うような声を出した。
「……何も考えられなくして欲しいです。首輪、掛けてください。他のことなんか考えられなくしてください」
今度は私の不意打ちだ。ユキが驚いた顔をしてくれたので、それだけで満足としよう。
「そういう表情ダメ。ジュン可愛すぎ。理性飛んじゃうじゃん」
ユキが狼狽したみたいな声を出した。手を顔に当てて、表情を隠すように天井を仰ぐ。でも口元はやや釣り上がっているのが見えた。きっと彼女はあの捕食者のような笑みを浮かべているんだろう。目の前を獲物をどうしようか、そんな思案が愉快で仕方ないとばかりに。
ほんの少しだけ、身体の芯が疼いた。痛みか、期待か、もう区別なんてつかなかった。