Neetel Inside ニートノベル
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キツネの嫁入り
第四話

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   四章

「この胡瓜。どうだいハツネさんや。ええ? こういうの好きだろう? ほれ、見てみい。こんなにイボイボで、固くて、尖っておる。ぐへへへへへ、欲しくて欲しくて堪らないんだろう。正直に言うてみい」
「あの──はい。ハツネは瑞々しい胡瓜は大好きです」
 エプロンを着用したハツネが一枚一枚のお皿を必死にスポンジで擦る。その隣で、心の奥底から瘴気のような吐息を撒き散らすのはやはり厳蔵だ。ニヤニヤと気持ちの悪い笑み。
「じいちゃんさあ──俺と天国のばあちゃんが疲れるからやめてよ、もう」
「うるさい!! だってお前……ワシの身にもなってみろい! ま、まままま、孫の嫁だぞ!? もしくは新妻と夫の祖父だぞ!? これ以上ないくらい整っているシチュエーションなんだぞ!!」
 そこで言葉を区切ると、厳蔵はそわそわした挙動不審な動きで、テーブルを拭く空也の隣に忍び寄る。耳元に手製のトンネルを作り興奮した態度を隠さずそっと尋ねた。
「そ、それより……! 空也、お前、きょ、今日……やるのか!? 昨日お前動かなかったろ! 馬鹿者め、ハツネさんは明け方まで緊張しながら眠らず部屋で待っていたんだぞ!! と、とりあえず、ビデオカメラは買ってきたぞ。説明書も読んだ。録画はワシに任せろ!!」
「じいちゃん……」
「つつつ、遂に!! あの人類未踏の双子大山を登るのか!!? どうなんだ!! トンネルを開通──あ、ぐぎぎぎぎぎいいいいいいいい!!?!? 違う、ばあさん!! 違うから!! ワシばあさん大好きだからやめてやめてやめてえええええええ!!!」
 代わり映えしないパターンに疲れた溜息を落とす。
 ──が。
 厳蔵がその表情を百八十度引っ繰り返した。宿るのは底の見えない翁の素顔。齢八十とは思えないほどの力強い意志が双眸に光を灯す。顔面に刻まれた緩やかなシワは急遽引き締まり、谷川を急流する水筋を思わせた。
 空也が言葉を失っている前で、厳蔵は居間のカーテンを開き戸を勢いよくどかす。
 そこへ勢い殺さず飛び込んできたのは土の塊。──茶部だった。厳蔵の聴覚の鋭さには感心を通り越して感服たる念を抱く。
「そんなに慌ててどうしました、茶部殿」
「ご老人!! すぐに人を集めてくれ!!」
「茶部様。一体何があったのです!?」
 水を止め、手を拭いながらハツネが駆け寄る。茶部の声は危機感が渦巻いていた。只ならぬ気配。
「人間だ!! 人間が山に押し入ってきた! 数十人規模で東の小川沿いから登ってきおった! 猟銃を持っている!!」
「何だと!?」
 厳蔵が怒気を膨らませたのが隣で分かった。交通事故で両親を失って十数年、空也に山の大切さ、自然の息吹きの尊さを教えてきたのは紛れもなくこの祖父なのだ。
 火に油が注がれた。そう思わせるくらいのタイミングで山の何処から、空気で膨らませた袋を破裂させたかのような乾いた高音が闇中に響き渡った。
 空也も、過去何度が耳にしたことのあるそれは──
「一体どこの馬鹿共だ!!」
 激情が拳と共に壁に叩きつけられる。厳蔵の怒り。今のは間違いなく誰かが猟銃を放った音だ。少しの間の後、断続してそれは撃ち鳴らされた。
 空を裂く飛翔音。開いた戸からやってきた次なる来訪客は、闇空の王、シマフクロウだ。酷く慌てた羽ばたき。フクロウは篠笛のような低く太い鳴き声と共に事態を告げる。
「茶部様! 熊の家族が人間達に見つかってしまいました!! 現在交戦中です!!」
「やけに早い。まさかそれが目的か!? 何年ぶりの銃声だ。何度聞いても不快な音だ! 人間達の凶器の象徴。猿達の進化は生殺与奪を振り翳す傲慢な化け物をも生み出した……!」
「犬さん、猪さん、鹿さんに連絡して下さい! 人間は夜目が利きません。小さな明かりだけに頼っているはずです。人間達を撹乱させるように、闇夜をついて足元に牽制の攻撃をしかけて! でも決して無理をしては駄目です。相手を脅かすのが目的!」
 一枚のお皿相手に奮闘していたハツネが、岩を砕かんとするほどの強固な激を飛ばした。空也は呆気にとられる。数時間前には腰が抜けてへたり込んでしまったはずの少女が、瞳を爛と輝かせ明確なる指示を下し始めたのだ。
「フクロウさん。鳥さん達からも勇士を集めて。でも女性や子供は駄目です! 翼で敵の視界を塞いで下さい。留まり続けるのはいけません。木から木に飛び移るように、勢いをつけて攻撃して。銃弾に当たらないことを第一に心がけて下さい」
「ハツネ殿。──心得た」
「東の小川。それも人目につく場所にいる熊さん達というと──おそらく木流さんのご家族だと思うんです。きっと木流さんの性格上、二人のお子さんと奥さんを逃がすため、たった一頭で自分の命を顧みずに人間達に立ち向かうはず。家族が逃げるための時間稼ぎとして。最悪の事態を迎える前に、迅速に行動して下さい!」
 シマフクロウが嵐の中に揺れる帆船の帆のように翼をはためかせる。自らの引き起こした旋風と共に闇夜の中に消えて行った。
「厳蔵殿!」
「分かっておる茶部殿。結局人間を抑えることができるのは人間のみ! すぐに警察を呼びますが、同時にワシは街の連中に連絡してこちらも有志を募ってみます! この手の件には数が一番。空也、お前は山に行け! まさか相手も人間を撃とうとは思うまい」
 危険だから家にいろ。厳蔵はそんなことは決して口にしない。
 染野山の麓に生まれ、染野山と共に八十年近い年月を過ごした老人は、無作法に敷居を跨ぐ痴れ者達に対し、家族を汚されたに等しい憤激を宿らせる。その血は孫にも受け継がれていた。何より──空也もまったくの同じ意見を持っていたのだ。
「ハツネも参ります。明かりはいりません。私の後についてきて下さいませ、旦那様」
 不思議とハツネを止めようとする気持ちはなかった。それは彼女への侮辱に等しく思えたのだ。染野山の真なる身内は茶部やハツネである。それを感じていたからかもしれない。

 夜の山を明かりなしで歩く人間がいるとすれば、分をわきまえない愚者か無知蒙昧たる愚者のいずれかだ。月明かりの届かない木々の間に一度足を踏み入れてしまえば、そこはもはや自分が踏んでいる足場以外は存在を立証することの叶わない深淵たる闇に包まれる。一歩先に大樹が聳え立っているのか、崖が大口を開けて待ち構えているのかは人の目では到底見透かせない。
 怖かった。夜の山を、夜の森を知っている空也はその恐ろしさを身に染みて知っている。
 その気持ちを察してか、ハツネは空也の手を取ると少しだけスピードを落とし、でも決して緩めずに草木の間を駆け抜けていく。道を選んでくれているのが分かる。高低さが大きくなく、枝や茂みにぶつかることもない。家を出て五分経つ頃には恐怖がほとんど消えていることに気づいた。ハツネの手から感じるのは確かなる温もり。この手を離さなければ何一つ怖いことなどない。
 山は騒がしかった。
 不吉な空気が大樹達の間に蔓延している。至る所で鳥や獣の鳴き声が右へ左へと流れて行く。
「東だ! 敵は東から攻めてくる!!」
「おい、棒丸さん家の娘さんを誰か見なかったか!? 逃げる途中にはぐれちまったらしいぞ!」
「落ち着いて下さい。皆さん落ち着いて山を登って下さい!」
「女子供を優先しろーーー!」
 人の傲慢さを知った。
 そこは街だった。染野山には多くの生き物達がこんなにも沢山息づいていたのだ。人間は他人の玄関を堂々と跨ぎ、土足で団欒を踏み荒らす。自分達の行動がどれだけ動物達に恐怖と脅威を与えているか理解していない。直なる声を聞くことのできる空也は初めてそれを知り、戦慄し、恥じた。
 闇に混乱が渦巻き、至る所で矢継ぎ早に指示が飛び交っている。これは──そう、テレビの中で似た光景を目にしたことがある。
 戦争の光景だ。
 手を引かれ疾駆に身を任せる。流れていく風が頭を冷やしていく。
 敵は密猟者とみて間違いないだろう。そしてタイミングを考えればその相手も安易に想像がつく。
 小野寺岩鷲の子飼い達だろう。
 密猟者からすれば、熊は全身に金を纏っているようなものだ。大きければ大きいほどその価値は跳ね上がる。吹雪をも凌ぐ剛毛なる毛皮は勿論のこと、美食家達の間ではその肝は宝石のように重宝される。小さいものでは数十万。山の奥深くに住む、成熟した健康たる巨躯から取れば数百万にも化ける。海を越えた闇市場に持っていけば更にその数倍にもなる。爪も牙も、当然肉も、その全てに値段がつく。倫理を捨てた不届き者は、見渡す限りの秋山から飛び込んでくる悠然たる秋色の趣など目に入らない、黄色く染まったイチョウに愚かな金の香りを嗅ぎ取ることだろう。
 銃声が星々の間へと昇った。鳥達が一斉に羽ばたき、安穏が切り裂かれていく。
「こっちだ、急げ! ……恥知らずの猿達め!!」
 茶部が先頭を行き、ハツネと空也がその後ろを駆ける。
 山の至る所から動物達の駆け回るけたたましい足音が鳴り響いていた。草木が、梢が休む間もなく忙しなく踊る。闇の中に飛び交うのは侵略を受けた動物達の叫喚だ。天災に逃げ惑う人々のように、人災を受けた街はパニックに包まれる。
 僅かな光芒が闇夜を裂いた。
「……!」
 自然のままの夜山を駆け抜けてきたからこそ分かる。その懐中電灯の光はあまりにこの場にとって場違いな文明の機器だった。眩しすぎる。あんなもの動物達は誰も喜ばない。静寂に包まれる夜が、山と動物達にとっていかに愛されているのかを知った。とても静かな夜だったのだ。それが今や、蜂の巣を突ついたような騒ぎ。
「ちくしょう、何なんだ!!」
「ああ、くそ! 撃て、撃て撃て!!」
「ナメやがって。こいつ等、クソッ!!」
 人間の男達による罵声。酷く苛ついている。懐中電灯の明かりが四方八方に、時には頭上に翳されている真っ赤な葉木を照らし出す。酔っ払いが照明を操っているかのようだ。迷惑な眩い明かりがそこら中にぶちまけられ、大気が白と黒、交互に反転する。
 彼等の周りを飛び交うのは夜に紛れた動物達だ。存在を誇示するかのように茂みの中から物音が鳴り続ける。だが姿は現さない。その中に向けて、イラつきを隠さず猟銃を構えて引き金を絞る坊主頭の男。手応えはない。男の背後から突如として猪が突進してきた。その垂れた頭がふくらはぎに激突する。悲鳴が上がった。それを見ていた別の男が即座に猪に向けて猟銃を構えるが、そこに飛来したのは紅葉の中から現れた複数の鳥達だ。視界を塞ぎ、指を突かれ、男が乱暴に腕を振り払って射撃体勢を整えた時には、とうに猪はその姿を消している。
 動物達は暗闇を味方につけていた。その動きは紛れもなく山に住む者達の戦い方だったのだ。
「きたかい。茶部さんよぉ!」
「遅くなった、熊達はどうした!?」
「避難済みだ。安心しろ、熊の旦那も家族に合流した。傷一つありゃしねえ!」
「よし!」
 舞い降りたキツツキから受けたその報告は、茶部よりハツネを大いに安堵させたようだ。張り詰めていた糸を緩めたかのような、胸に堪っていた重い息を少女は人知れず吐き出す。
「皆、引き上げろ! 勇敢な戦士達よ、ご苦労だった。各々の帰るべき場所へ戻るのだ! 諸君達はお山の誇りだ!!」
 戦況の風向きが変わる。動物達の取った行動は、見る側とて清々しくなるかのような一糸乱れぬ逃走だ。男達を取り囲んでいた不穏なる草木の擦れが一斉に遠ざかっていく。蜘蛛の子を散らすかのように動物達は闇の中へと溶け込んでいった。その潔さ、統率のとれた動きは一級の兵士。
 ──だがアクシンデントは人間問わず動物達の間でも発生するらしい。
 逃げる途中に仲間とぶつかったのか、はたまた混乱の坩堝にその優秀なる脚を飲み込まれたのか、場にそぐわない愛らしい声と共に一頭の犬が鳴いた。幾分慣れてきたとはいえ、空也の視界は墨を塗りたくったように不明瞭だ。状況が分からない。それでも男達の懐中電灯が向けられた時に全てを理解した。
 横腹を地面に擦りつけた犬が手足をバタつかせ、必死に起き上がろうとしていた。
 そこへ向けられる真なる闇の入り口。
 怒り心頭の男達が無数の銃口が一斉集中させる。
 茶部が、ハツネが腹の底から制止を呼びかける前に──
「何をしているんだあんた達!!」
 空也は滾った灼熱を噴火させるかのようにぶつけていた。
 まさか自分達以外に人間がいると思っていなかったのだろう。男達が自警の反射反応を見せる。夕方街で見たような、弛緩しきった垂れ顔はそこにはない。彼等にとって誇りは命より重い。見くびられるなど沽券に関わることだ。多少の驚きはあろうとも、相手を射殺さんとする眼が空也にぶつけられた。
 かなりの数だ。二十人はいるだろうか。猟銃に限りがあったのか、背後にいる連中の中には懐中電灯だけ持つ者もいる。
「……あぁ? こいつは驚いた。土山んトコのか。夕方会ったばかりだってのによ」
 ざっと見る限りこの場に岩鷲はいないようだ。口を開いたのは、商店街で会った時にも見かけた舎弟達の一人だ。細身の草葉を思わせるような切り傷の跡が額に流れている。
「何しているって? あぁ? その言い草はねえだろ餓鬼が。俺達は──あれだ。染野市の自警団だ自警団。お店でお気にのナナちゃんとイチャイチャしたいのを我慢して、こんなしみったれた山まできて人間様に害をなす熊共をぶち殺しにきたんだぜ?」
 控えていた男達が笑いを爆発させる。全くもって不快になる笑い方だ。分かってはいたことだが、どうやら真面目に答える気はないらしい。
「──染野山の熊さん達は、人様に危害は加えません。ハツネが保証します。ですからもう帰って下さい。お山の子供達が、硝煙のにおいと、獣を殺して喜ぶその凶暴な心に怯えています」
 臆した様子は微塵も窺えない。か弱き声で、でも確かなる存在感を見せつけハツネが立つ。
 少女の姿を目の当たりにし、男達の笑いが止まった。
「ほ! こりゃ驚いた! な、お前等? 言った通りだろ!? とんでもねえ上玉だ!!」
「はーーー! 可愛いお嬢ちゃんだ! ……お嬢ちゃん、いくらだい?」
 下卑たる爆笑。下衆達の前に晒すには、ハツネはあまりに白すぎた。人を踏みつけ、蹂躙し、骨の髄まで貪るのを生業とする男達からすれば、穢れなきその姿は聖女にさえ映るのかもしれない。
 そして、男は誰しもが女を自分色に染め上げたいと密かに願う。
「いやいや参ったね、土山の坊主はこう見えて逞しい! 女と二人で夜の山からのご登場だ! こんなひと気のない場所で、二人で何してたのかなあ? おじさんに教えてくれよー」
「若いねーーー! おい坊主! ズボンのチャック開いてるぞ!?」
 完全に肴にされている。
 空也の怒りは空回りするばかりだ。逃げ遅れていた犬は既に退場している。自分の行動に意味があったとかろうじて納得できるが──それだけだ。一人では何もできない。厳蔵の連れてくる街の人間達がくるまで、こうして馬鹿にされ続けなくてはならないのだろうか。
「──組が資金繰りに困っているからといって、何の関係もない山の動物にまで手を出すんですか!  人としての倫理はないんですか!?」
 怒りが冷静なる仮面を溶かした。
 傷の男の声はいとも愉しげだ。自分の声色が相手を苛立たせるのをよく知っている。
「だから自警団だって言ってるだろ? 自警団。ほら、よく聞く言葉があるじゃねえか。何かあってからでは遅い! てな。俺達は市の皆様方が安全に暮らせるように、こうやって危険を顧みず、体を張って頑張っているんだよ。熊は人間の敵! それにいなくなっても別に誰も困らないだろ?」
 挑発が半分。
 だが──空也は愕然とした。
 この男は、残りの半分は本気で言っているのだ。
「あぁ、ほら。今不景気だろ? 動物君達にもご協力をお願いしようじゃないか。お金に換わってもらおう! 本音を言えば俺達だって、首に縄つけて人から金を搾り取るより、獣ぶっ殺して金稼いだ方が気が楽なんだよ。人が死ぬより獣が死んだ方がいいだろ? な?」
「何だよその傲慢さは!!」
「おお、そうだそうだ。もし何だったら、お嬢ちゃん、ウチの組にくるかい? 若頭も言ってたけど、お嬢ちゃんだったらあっという間に金稼げるぞ。そうすりゃ俺達も、夜中にこんな山を登らなくて済むってもんだ」
 なぜ誰かが犠牲になることが前提なのか。なぜ誰かに依存してお金を得ようとするのか。それも生きていく上で已む無いという理由ではない。彼等が得ようとしているのは身勝手なお金だ。
 茶部の言葉が思い出される。
 最後に犠牲になるのはいつだって弱い者。それは人に限ったことではない。
 そして動物は言葉を持たない。
 即ち──人社会において発言権はないのだ。
「何だその目は? 分かってるのか坊主。俺達は今、お前から女を取り上げて好き放題もできるんだぞ? もうちっと自分の分ってモンを弁えろ」
 ハツネを自分の背後に下がらせる。……だがそれまでだ。他に自分にできることが思い浮かばない。男達の数を見れば力の差は歴然。口惜しさに腸が煮えくり返る。
「大丈夫です、旦那様」
「うむ。安心せい婿殿。──土暦がようやくやってきた」
「え?」
 遥かなる高台から。
 大気を穿つようにしてそれは放たれた。
 空也は山全体が囁く声を聞いた。それはどこかからこの様子を窺っている動物達の声。秋の夜さえも消すことのかなわない燻った火の粉。山の何処から何処へと興奮が伝播する。
 空也達と侵入者達の間に散る火花を、その大きな影は一振りで掻き消した。
 染野山を震わず大轟音。
 眼前に降ってきたのは──
 自分の背丈の倍はあろうかという巨大な熊。ヒグマだ。
 二の足で大地を踏みつけた熊は、その存在を誇示するかのように天へと吼えた。
 あらゆる生命が跪いた。
 動物達の命を、ロウソクでも吹き消すかのように軽々しく扱っていたはずの男達が言葉を失い、阿呆のように口を開けてその荒ぶる魂の存在感に見入る。
 惰弱なる人間と比べ、そのヒグマの生命の脈動は明らかに桁外れだったのだ。
「すまんな、土暦。世話をかける」
 土煙が収まるを待って、茶部が静かに告げた。
 返されたのは飢餓を思わせるかのような獰猛なる重音だ。お守りを持たなければ、空也とて自分の心臓を鷲掴みにされたような気分を味わっていたことだろう。
 土暦と呼ばれたヒグマが後ろを振り返る。
「木流はさぞ無念な面持ちだった。我等が母の宿敵と称される人間共を前にして、熊の誇りとも言うべきこの爪痕を刻んでやれなかったことをだ。人間はお山を慈悲なく傷つける。因果応報。その報いは然るべき傷痕となって連中に返るべきだ」
 土暦が再び前方と対峙する。その仕草の途中に遥か頭上に位置する顔が一瞬自分へと向けられた。墨色の瞳。その窓の中から垣間見えたのは激昂なる炎の揺らぎだ。
 かたきを見るような一瞥が、確かに空也を貫いた。
 人が日常で思う怒りなど砂粒のように小さいことを知った。ヒグマの持つ業火に触れた空也はその熱を前にただ立ち尽くした。万物の霊長が聞いて呆れる。土暦から崇高なる魂を感じたのだ。
「今のヤツの役目は愛すべき家族と共に、あるがままに生きること。ならば……この人間共に我等が熊の怒りを教えてやるのは長たる私の役目だ」
 怒気が殺意に変貌を遂げる。
 森に住む猿であった頃と比較すれば、目に見えないほどに薄まってしまった種としての警告本能が男達の間でようやく湧き上がる。
「な……な……何なんだ! 先から何なんだよ!! 動物風情がどうしてこんな──!」
 熊が四足になる。
 狩りの時間だった。
「わ──うわぁぁぁぁァァァ!!!」
 小野寺の男達が一目散に逃走を試みた。その遅すぎた防衛行動は人間の奢りだ。人とはこの世界において最も他の動物を恐れない種族である。故にヒグマからすればそんな出遅れた人間達を料理することは容易い。十五センチ以上あるその爪で一薙ぎに脆い肌を刺身にするもよし、四百キロ以上を誇る巨躯を万遍に使い、踏みつけて骨をミンチにするもよし、頭を噛み砕いて絶命させることなど目を瞑ってでも可能だ。
「だ……ダメだ!! 殺しちゃダメです!!」
 ヒグマの豪腕は祖父から学んでいる。
 恐怖に伝染し、パニック状態のままロクな明かりも持たずに夜の山を逃げていく人間達を捕えることなど造作もないだろう。
 土暦が現れたその瞬間に彼等は敗北を喫したのだ。
「黙っていろ人間! 貴様等は人間社会の掟に乗っ取って街中に迷い込んだ我等を射殺する。ならば、我等の社会に現れた人間共は、我等の掟に乗っ取って滅ぼす。道理であろう!」
 あまりに真っ当な正論に空也は反論できない。
 でも──
「お願いです土暦様。虫のいい話なのは承知です。彼等を見逃してあげて下さい! このお山で人間が死んだとなれば、間違いなくより多くの勢力と人間の上部社会が染野山に介入してくることでしょう。山狩りで追い立てられるのは私達の方になってしまいます」
 土暦からすればあまりに不条理なその現実は、空也の口から出る前にハツネから語られた。
「うむ……。幸か不幸か、身なりからして連中はヤクザと呼ばれる者達だろう。力を振り翳し勢力を拡大する、人間社会の中からも忌み嫌われる存在だ。だがそれ故に尻尾を巻いて逃げ出すことなど本来許されない者達。殺しさえしなければ、今日ここであった出来事を、連中が自ら街中に広めるようなことはせんだろう」
「茶部。……母たるお山に恥ずかしいと思わんのか。お前も分かっているはずだ。人間共はまたくるだろう。連中は知略に富むくせに自らを省みることだけはしない」
「だったらまた逃げればいい」
「茶部!!」
「それが一番の方法だ。それに人間達が本気になれば、私達を根絶やしにすることなどそう難しいことではない。お前こそ分かっているだろう土暦。──追いかけるなよ? 連中を追い払うためにもうすぐ人がやってくる。私達の出番は終わりだ」
 蒸気を吹き出すかのような熊の鼻息。彼等の僅かな対話で、お互いがどのような展望を抱いているかが空也には伝わった。狸も熊も、意見こそは違えどお互いを嫌悪しているわけではない。
 ただ──必死なのだ。
 大切なものを守ろうと。
「……」
 足取りは乱暴に、暴走機関車が無言のまま夜の闇に消えていく。先行してスタートダッシュを切った人間達の方向へとその脚は向けられていた。
「あの──!」
「大丈夫、心配いらんよ婿殿。土暦はとても賢い熊なのだ。ただ……熊の魂であるあの爪に誇りを持ちすぎておってな。戦える者の少ないこのお山で力を持つ希少な存在。それ故にヤツは誰よりも強い責任感を持っているのじゃよ。声はきちんと伝わっておる。まったく……。人間共を追いかけて恐怖を見せに行ったのだろう。悔しいがそれくらいしか私達にはできんからな」
 どうやら空也はおろか、厳蔵が画策していた街人達ももはや必要ないようだ。結局自分は何もできなかった。染野山の平和は、染野山に住む者達の決死の働きにより守られたのだ。では人間である自分に何かできることはないのだろうか──と思い、ああ、と納得が心に落ちる。
 だからこそ彼等は嫁を嫁がせたのだ。
 人と、動物の間に生まれる子供。
 共存への架け橋。
 おそらくあの様子では土暦はそれに反対しているのだろう。現にこの騒ぎを収めたのは動物達だ。人間など不要だった。そのことを掲げて勝ち誇るような男でもないのだろうが……だからこそ逆に空也は居た堪れなくなる。安っぽい正義感と嘲笑われてもいい。偽善と誹られても構わない。
「ちょっと俺、下の方まで様子を見てきます!」
「旦那様──!」
 幾つか転がっていた懐中電灯の一つを掴むと空也は駆け出した。何かできないのだろうか。そんな悄然たる心が広がっていく。彼等が未来へ橋を架けるなら、人間として、この染野山の麓に住む者として、反対の岸からも手を伸ばしてやりたかった。

 夜の街を通り行くパトカーのサイレンはよく響く。
 だが、そこに妙な違和感を覚えてしまった自分に対し首を傾げた。雲のように掴みどころのなかったそれは、頭の中でこね回しているうちに形が浮かんでくる。
 山を荒らそうとした不届き者達が人間なら、それを取り締まろうとしているのも人間なのだ。今までそこに疑問など覚えたこともなかった。動物達と共に行動をしたからだろうか。空也の二つ持つ眼のうち、片方には別世界が映るのだ。耳も同じ、片側からは動物達の息づかいが聞こえる。
 人と動物が争うのは分かる。だがなぜ人と人が争うのか。そんな子供のようなことを真面目に考えてしまった。それはもしかしたら、茶部や土暦も常々抱いている疑問なのかもしれない。
 ──知らずして人と動物の間に身を置き始めたことに本人は気づかない。
 土暦の駆けて行った方角と、この辺りに走る県道の位置を考えれば自ずと小野寺の部下達が向かった行き先は割れる。道中、不気味なほどに辺りから生命を感じない。動物も鳥も存在しない山林は怖いくらいに物悲しい。
 眠りから叩き起こされたタイヤが急発進する音が黒の帳を切り裂いた。鮮烈なる白光が目を焦がす。落ち葉を踏みしめながら空也は車が駐輪してある場所へと駆けた。額に傷跡のあった男がこの集団のリーダーなのだろう。せめて一言二言、言葉を交わしたかった。無駄だと分かっても、今後こんな馬鹿げたことは一切やめてもらうようお願いをしたかった。自分にはそれくらいしかできない。そんな小さなことしかできない。ならばその小さなことに全力を尽くしたい。
 ようやく木々の間を抜け切った。山と人里の境界線、道路に出る。男達が次々と車に乗り込み、脇目も振り返らずに全力で車を発進させていた。その動きには全く余念がない。土暦に追い回され死への恐怖が心に巣食ったのだろうか。残っていた数台の車に、懐中電灯を消して空也は忍び寄る。だがこの混乱の最中であの男を発見するのは難題であることをすぐに思い知らされた。そもそも、既に発進した車の中にくだんの人物はもう収まっているのかもしれないのだ。
 やや離れた道の先にバンが止めてあるのが目についた。夜目では不確かだが、人影が近くに佇んでいるのが朧に月明かりに映る。車内に戻ろうとする様子はない。ただ外で立ち尽くしているのだ。しんがり、というヤツだろうか。凶暴な大熊が出たというのに、そんな混乱の最中に逃げ出さずにしっかりこの場に残っているというのも敵ながらに肝が太い。敵のリーダーかもしれないとの望みを抱きつつ空也は人影に近づいていった。
「誰だ!?」
「染野山に住む者です! 撃たないで下さい。怪しい者じゃありません」
 敵の神経もかなり過敏になっていたようだ。十メートルは開いているというのに気配を察知され凄まれる。相手を刺激する気はない。空也は即座に両手を上げて無抵抗の意を示した。
「──え?」
 相手の、どこか戸惑ったような無防備なる呟き。
 突如当てられた眩い光を前に、反射的に眼前に手を翳す。
 何とか視点を確保して懐中電灯を持つ主の顔を目の当たりにした空也は、予期していなかったその人物を前に、刹那あらゆる思考が消し飛んだ。
「……ブラザー」
「ルチアーノ……?」
 高校生らしかぬ、あまりに特徴的な一分の隙もない企業家のような髪型。その双眸が不自然な挙措を見せているのは決して光の具合だけによるものではないだろう。
 呆けた自分に叱咤を飛ばす。
 ルチアーノの父親が抱えているならず者の集団。ならばそこに、あの男の息子である以上、ルチアーノが参加していても何ら不思議なことではなかったのだ。
「よ……よう。ブラザー。俺のハートを焦がすような月明かりに誘われてな……。ニューヨークの腐ったスラムから見上げた夜空をつい思い出して……」
「ルチアーノ……お前!!」
 爪が食い込むほどの強さで空也は親友の両肩を掴んだ。荒波のような猛る心が腕を媒介してルチアーノの体にぶつかっていく。牙を掲げるかのような空也の顔は縄張りを侵された狼のようだ。
「……お前、この山が俺にとってどれだけ大切か知っているはずだよな。知ってて──知っててきたのか!?」
「ブラザー……分かってくれ」
 学校ではまず見せない諦念と憂いを含んだルチアーノは首を振る。下がった目尻は演技には見えない。我が物顔で不敵に微笑んでいた学校の顔とは対照的なる相貌。疲れた声。
「親父の命令なんだ」
 結局は──
 結局はそこに行き着いてしまうのだ。
 やるせない思いがルチアーノに渦巻いているのが伝わってくる。空也とて頭で分かってはいる。経済的観念からも、力でも、子供が父親に逆らえるはずがないのは。ましてやルチアーノの家柄を考えれば、父親は神にも等しい。下の人間の腕をへし折るのも、青痣を好きなだけ作るのも、小指を切り取るのも、全て岩鷲の意思一つで自由に行われる。
 今までルチアーノはあからさまなる犯罪行為に加担したことなどなかったと聞いている。
 ──昼間に会った岩鷲の言葉を思い出す。
 つまりは……何か。こうやって、少しずつ、経験をつませていこうとでもいうのか。
「やめろよ……やめろよルチアーノ! これからこうやって、お前色々なことをやらされて──」
「親父に逆らえるわけねえだろ。安全なところから物言うな──!」
 汚泥を食わされ、鬱屈してしまった心が滲み出す。
「ブラザー。お前は親父の怖さを知らねえんだ……。俺はもう餓鬼の頃から覚悟はしていた。これからどんな道を行くかも分かっている。俺も二十年後は親父のようになってなくちゃいけねえ」
 震えていた。
 ルチアーノは顔を背けながら、しこりを吐き出すかのように乱暴に告げる。真っ白な正当なる理屈などこの場では何の役にも立たない。だから空也はそれ以上親友にかけるべき言葉を持たない。
「HAHAHA! なに、慣れだ慣れ! キングコングはアメリカ史上最大の怪物だ! それを越えてこそBIGなる道が開けるってもんだぜ!」
 痛々しいその台詞も、数年後にはそれなりの貫禄と共に口にできるようになっているのだろうか。
 ──嫌だった。
 肩から手を離す。あれだけ昂ぶっていた熱が秋風に吹かれて呆気ないくらいに霧散していく。残ったのは晩秋の薄ら寒さだけだ。
 我が物顔で大いなるマフィア道を語っていた親友の周りに落ち葉が吹き荒れる。積もっていく。こびりついた血のように真っ赤な色で埋もれていく。アメリカ全土を支配しようと、目を輝かせて大言壮語を吐く親友の方がずっと輝いていた。商店街で出会ったチンピラ達を思い出す。ルチアーノが今後あのように化けていくことを想像すると苦痛が針となって心に刺さった。
「夢だったんじゃないのかよ……。BIGになるんだろ……」
「だからよ。まず親父を越えてからだ。日本の極道をしっかり勉強してからじゃないと海は渡れねえ。志と気合と度胸を身につけて、忠実な兵隊を従えて乗り込むんだ!」
 一人安全なところから物を言う自分の言葉には世間体という名の価値しかつかない。ルチアーノの世界において最も不要であり、唾棄すべきほど矮小なる障害。
 学友である土山空也にもはや言葉はなかった。山の代理人として目の前の男と向き合う。
「──ルチアーノ。染野山を荒らすような真似はもうやめてくれ。俺だけじゃない、山の皆が怒っている。お前達の命を奪おうとする者だって数多くいる」
「HAHAHA! 突然何言い出すんだオイ! 逃げてきた連中から聞いたぜ? 動物達に追い回されたとか何とか。──ふざけるな! そんな報告親父にできるわけねえだろ! ここはハリウッドじゃねえ。映画が観たけりゃポップコーン買ってシアターにでも行きやがれってんだ!」
「やめてくれ! 本当に怒っているんだ。あの様子じゃ、多分次は抑えられない!」
「──金が必要なんだよ金が。分かってくれブラザー。お前の家が近いのは当然知ってた。だが邪魔しなければ手出しはしねえ。次は亀のようにお家に閉じこもってろよ。俺だって親友を撃ちたくはねえんだ。お互いクールにいこうぜ」
 口から世に生まれてきたかのように日頃中途半端なジョークを飛ばすルチアーノには、取ってつけたような凄味はどうしても見る者に青臭さを与える。それが好きだったのだ。小学校入学当時から共に過ごしてきた要因はそのデタラメなホラに愛すべき愚鈍さが混じっていたからである。
 真顔で、真剣に語られるヤクザな道は、空也はこれから笑って聞き流すことはできない。
「坊っちゃん! 全員ずらかりましたぜ! 後は俺達だけで──な、何だテメェ!!」
「やめろ! そいつは関係ねえ!!」
 闇の中現れた中年ヤクザが空也を見るなり恫喝するかのような声を殺気と共に飛ばしてきた。しんがりグループの一員か。気づけば辺りの車はその姿を消していた。ルチアーノが発した戒めは、ドスの利く声とは程遠い学生レベルの怒鳴り声だ。
「──いいんですかい? ……熊はどこかへ行っちまいました。今のうちに俺達も行きましょう」
「ああ。分かった」
 背を向けたルチアーノのシャツに描かれていたのは雷神風神だ。刺青の代用のつもりなのか。
 それきり振り返ることはなかった。空也の見守る前でルチアーノは助手席に乗り込むとほどなくして車が発進する。二つ目のお化けが猛スピードで染野山から逃げ出していく。見送る空也の胸には何の感慨も湧いてこなかった。あまりに極端に別れてしまった自分達。空也は山へと、ルチアーノは人間の街へと帰っていく。今夜のできごとは一体何だったのだろう。相手は親友であるというのに、染野山はおろか自分の声など届きもしなかった。結果を見せつけられた気がした。どこかで感じていたではないか、これは戦争であると。
 人は人。動物は動物。着飾った幕など焼け落ちた。この大空の下では皆平等だ。戦争ではただ在るがままの現実が露呈されるのだと知る。
 茂みが音を立てて動いた。
「こんなところにいたのか、婿殿」
 最低だ。茶部の言葉に白々しささえ覚えてしまった。何もできなかった自分の八つ当たり。
「ふむ──?」
 背後から現れ、放心する空也の前へと回りこまれた。月明かりに照らし出された狸の愛くるしい顔には似つかわしくない厳しさが張りついていた。
「茶部さん。……婿って呼び名は……俺には合わないのかもしれません。今ここに俺の親友がいました。連中を率いていたわけじゃないですけど、それでも……密猟に加担していたんです。人と動物の架け橋にならなくちゃいけないのに、俺の言葉はまるで届きませんでした……」
「猿らしいのう。その意見。はっはっは」
 その言葉にはさすがの空也も不快をあらわに眉を寄せた。内容もさることながら、あまりに能天気な声色。更に茶部の言葉はそんな空也の心さえも見透かしているように聞こえる。
「猿は昔からとにかく悩む。あれもこれもとな。他の動物がさっさと諦めてしまうことでさえ、一時間二時間と悩み、我々が予想だにしない答えを出すものじゃ。高い所にぶら下がった果実。細い幹の奥に転がった木の実。どう取るか悩んで悩んで……気づいたら美味しそうにそれを食べている」
「……お言葉ですけど、ことはそんなに単純じゃありません」
「婿殿。ジジイの戯言ですがな。私が思うに──猿達は進化しすぎました。結果として尾を初めとし様々なものを失った。文明に依存し本能を捨てたのです。獣というのはですな、婿殿。魂でぶつかり合うものなのです。土暦がいい例だ。火や道具に頼っていくうちに、貴方達はそれを忘れてしまったように見える。ぶつかりなさい。子供でもできる。強い弱いではない。心をぶつけ合った暁には──少なくとも今の婿殿のような、消化不良な顔など残りませぬよ。はっはっは」
 まだ悩み足りないと。まだ喧嘩をし足りないと。
 その結果何かが変わるとでもいうのだろうか。
「ハツネが心配しておりましたぞ。多分今頃は、他の動物達に強引に背中を押され、祭り会場にでも向かっている頃でしょう。案内しますので婿殿も早くきなされ」
「祭り……ですか?」
「ただの馬鹿騒ぎですよ。久しぶりの戦争。それも無傷で全員過ごせたとなれば、何かと娯楽の乏しいこの山では理由をつけて祝いたくなるのは必至。あぁ、そうだ婿殿。年寄りの知恵でもう一つだけ。──不快が泥のように心にこびりついている時は、嫁の奉仕で溶かしてもらうのが一番ですぞ」
「──」
 奉仕と聞いて甘美な連想をした空也は答えを返せない。だが茶部のくぐもった笑いは、どうやら空也が真っ先に思い浮かべたものを見抜いているようだ。無論それを承知で口にしたのだろう。
 タヌキだ。
「夫の心を受け止めるのも嫁の仕事。ハツネなら献身的なる慰めを施してくれることでしょう」
 老獪なる言葉は青少年の心を巧みに操る。健全なる男子たる空也の頭にハツネの膨らんだ双丘が思い浮かび──すぐに掻き消した。
「さあさあ参りましょう! 祭りじゃ祭りじゃ。はっはっは!」
 放心した心に煩悩という名の艶美が居座る。茶部は狡猾だ。手の平で踊らされた空也。先程まで全身から生じていた刺々しい針の先に実ったのは桃の果実。
 四足で機嫌よく駆けて行く茶部に苦笑せざるを得なかった。

     

 今度の騒がしさには心躍る陽気が満ち溢れていた。
 大自然が一体となって奏でる原初の音楽。鬱蒼たる森を進むごとに動物達の笑い声が山奥から漏れてくる。
 空也には一つだけ気になっていることがあった。歩きながら茶部にそれを尋ねる。
「茶部さん。何か、地面がいやに濡れていませんか? 昨日の天気雨にしては随分──」
「ああ。先程婿殿が我々の元から離れた後に、ここら一帯だけ雨を降らせたのですよ。猟銃の火薬だけでなく、タバコを咥えている者もおりましたからな。どこに火種が眠っているか分かりませんので、念のための措置です」
「雨を降らせたって──え? あの──どうやって──?」
「異なことを。狐に狸十八番の幻術といえば雨呼びでしょう。ハツネは特に幻術の成績は優秀でしたが、他の連中でも雨を降らせることくらい容易いものです。皆で集まって、お空に協力を仰いだまで」
 確かに古くの物語では狐や狸は人を化かす。雨さえも降らす。昔話がよい例だ。
 しかしそれを心から信じている大人が、果たしてこの日本に何人いることか──
「ですが婿殿。雨呼びはさほど難しいものではありませんぞ。貴方達人間とてその力はある。昔から人間は雨乞いの儀式を行ってきました。それに、数百年前に大阪では人と狐の混血たる人間が陰陽と称した幻術を意のままに扱っていたのも有名です。──これも、道具を手にした猿達が失ってしまった遺物の一つですかな」
 ルチアーノと話している時に山の一部では雨が降っていたというのだろうか。天気予報を度外視するような、ほんの小さな一帯のみに。
 ぬかるんだ土に含まれるのは紛れもなく真新しい水だ。
 ──どうやら人間は、自分達で思っているほど動物のことを理解していないらしい。
「ああ、ほらこの先です。見えてきましたな」
 夜の宮殿を抜ける。神々の巨像の代わりに立ち並ぶは数百年間染野山を見守ってきた木々の長老達。その偉大な大樹の幅は人の比ではない。万物として存在の差がそこにはあった。彼等は皆生きていた。空を埋め尽くす真っ赤な紅葉が空也の心に応えるように揺れる。風のさす方向へと誘うようだ。年寄りは年寄りで楽しむ、子供は奥で遊んできなさい。そんなことを思っているのかもしれない。気づけば地面を踏む落ち葉から水滴は消えていた。空也は知らず足が速まる。祭りの在り方はどこも変わらない。立ち並ぶ屋台の奥にこそ本命が待ち構えているのだ。木々の先にぽっかりと開いた空間があることに気づいた。駆け出す。宮殿の深奥にあるものを見たかった。そして──見えぬ扉を開いた先に待ち構えていたのは──
「お! 旦那がきたぞ旦那が!」
「おーーーいハツネ! ……あれ? おい、ハツネはどこ行ったーーー?」
「よくきた、よくきた! 踊ってけ踊ってけ!」
 狸に連れられその先に広がっていた光景は動物の王国。
 これは何というタイトルの御伽話なのか。
 開けた空間は円形状。数える程度しか木が存在しない、芝生が敷き詰められた舞踏会場。月明かりが差し込んでいた。懐中電灯のような、他の存在を上塗りする暴力的な光ではない。闇を持て成し、共に溶け合い、協力して朧な優しさを生み出している。
 四本足の動物達が力いっぱい飛び跳ねていた。滑稽なのは同種族の組み合わせでないことだ。鹿と犬が、兎と猫が共に宙へと上がりそこで片手をタッチし合ってる。円陣は二列一組に。方や時計回りに、方や反時計周りに。渦は中心に至るまでほとんど隙間なく広がっていた。
 動物達の声を更に凌駕するのは木々の上に留まる鳥達の合唱だ。こちらは真に美しい。森の中を歩く登山者達とて、何処からか聞こえる鳥の鳴き声には耳を澄ませてその旋律に浸るものだ。ではもしその旋律に指揮があり、抑揚なる歌を奏でていたら。今まで空也は考えたこともなかった。麗しいほどに透き通ったハーモニー。彼等はオペラ歌手に似ていた。喉を震わせ、遥か遠くまで美声を余す所なく伝えるのだ。決して甲高いだけではない。わびさびを組み込み、水滴の滴りのような寂寥感をも表現する。赤葉の傘にその身を埋め、蛍のように瞳が浮かび上がる幾百幾千もの動物達が小さな歌い手達の調べに聞き惚れる。あとの動物達は元気いっぱいの踊り子達を尻目に、木々に腰かけ談笑に花を咲かせていた。
 それは正にお祭りだった。
 熱気と笑いに満ち溢れ、音楽と踊りが終わりのない輪のようにいつまでもいつまでも繰り返される。誰もが生を全力で謳歌していた。お金も屋台も必要ない。仲間が集まればそこに談笑の渦が巻き起こる。そして月見と紅葉を肴にできる機微は人も動物も同じらしい。
 一際大きなケヤキの下には家族と思われる四頭の熊が、様々な動物達から肩を叩かれ、頭を撫でられ、祝辞の言葉に忙しなく返事を返していた。今回襲われた木流という熊の家族だろう。
「浅ましい奴等だぜ! 今度きたら尻を噛み千切ってやる!」
「逃げていくあいつ等の顔見たか? 土暦様、本気で怒ってからな。お漏らしでお山が汚れていなければよいがな!」
 どこもかしこも動物だらけだ(当たり前だが)。自分はどこに座ればいいのだろう。立ち尽くす空也の頭に肩に鳥達が留まり、狐の集団が足元へと鼻先を押しつけ始めていた。
「おい、空也!」
「じいちゃん!?」
 聞き慣れた声に安心するも──その先に視線を向けた空也は思わず息を飲む。
 自分と同じに招待されたのだろう。厳蔵が茶や黒の動物達の間に埋もれていた。まるで榾木から椎茸が隙間なく生えたかのようだ。揉みくちゃにされている厳蔵は、手だけを虚空に伸ばし空也を手招きする。
「そういえば街の人達はどうしたのじいちゃん。パトカーがくるのだけは見えたけど」
「ブハァッ!!」
 顔面から狸を引っぺがし、髭を擦りながら厳蔵は忌々しげに吐き捨てた。
「街の腰抜け共はまったく集まらんかった! 今回の密猟者が小野寺の連中だったことは知ってるか? いやらしいことに、どうやら奴等事前に街中に恫喝連絡網を回していたようでな。自分から噂を垂れ流していたんじゃよ。今日明日辺り、小野寺が大きく動く、とな」
 つまり先手を打たれていたということだろう。予め恐怖を街中に伝播させていたのだ。
「商店街の若い連中など、おしゃぶりを咥えている時からワシが面倒を見てやっていたというのに! すっかり縮こまっていやがったわい! 誰が野菜のイロハを教えてやったと思っておるか。……警察も警察でどうにも動きがトロかった。寄越したのも二人だけ。臭い息がかかっていなければいいがな」
「だからよー土山の爺さん。今回のヘマは白菜で手ェうってやるってんだ」
「ニンジン! 僕はニンジンが食べたい!」
「いいや蜂蜜だな。爺さん、蜂蜜でチャラにしてやる」
 ……どうやらたかられていたらしい。
「それじゃあじいちゃん。……今後も街の人達の助けは期待できないってこと?」
「いいや、竹槍でケツを突っついてでもこさせるわ! 今日のあらましは全部聞いた。まったく情けないわ! 人の所業を人が抑えず、全部動物達にツケを払わせるなど言語道断。ワシ等はワシ等にできる範囲できっちりやることはやらねばならん。この二本の手には武器だって握れるのだ」
 どうやら一家揃って無力感を感じていたらしい。だが祖父は人生という荒波の中で、息継ぎを空也の数倍上手に扱えるようだ。次に浮かんだ表情は含みを持たせた破顔。
「はっはっは、まあそう暗い顔するな空也! 今回は綺麗に収まったんじゃ! ……それよりほれ、奥さんが迎えにきたようだぞ? そんな顔しててどうする」
 賑やかな宴の会場に口笛のような俗なる音が飛び交った。
 奥から現れたのは、兎や狐達を従者のように連れた──ハツネだ。
 この二日間で何度目か──異性を前に高鳴る青臭く歯痒い心臓の鼓動。
 薄闇の世界から抜け出すように、一歩進むごとに彼女の肌白い手首と、美しい相貌が照らし出される。いつもと異なるのはただ一点。その黒髪と溶け合っている金赤の冠だ。誰が作ったのか。傍らにいる動物達が皆で頑張って作り上げたのかもしれない。しなやかで張りのある枝が輪に。特に映えるものを精選したのだろう、芸術的なまでに色鮮やかで、なのに目を焦がさない紅色の葉。花の冠──を模した、紅葉の冠と呼べばいいのだろうか。着物の色にも馴染んでいる。初心なる思いからか、睫毛で瞳を被った紅の姫が誕生していた。
 あれだけ凛々しく、先頭を率いて戦の指揮を取ったハツネの姿はとうに消えている。
 硬い皮に覆われ、しかし開いたその中に詰められているのは甘く初々しい果肉。
「ハツネ。婿殿はどうにも鬱屈した思いがたまっているようでな。お相手をして差し上げなさい」
「は、はい! ──旦那様、お手を」
 どこからか聞こえた茶部の声。その内容を耳にしたハツネは、自らの行動を束縛しようとする恥じらいを封じ込め、頭一つ分ほど背丈の高い空也に小さな手を差し出す。
 気づけば踊りと音楽が示し合わせたかのように止まっていた。かつてないほどの数の視線を感じる。潜まった陽気は消失ではない。より大きな「爆発」のために溜め込んでいるのだ。全ての獣達が空也とハツネを見守っていた。囁き声さえも聞こえない。二人だけの主役。観客はニヤニヤ笑いながら行く末を黙って見守る。
 俳優に台詞の台本は与えられなかった。
 これは難題だ。
 女の子とロクに言葉を交わしたことのない実直なのだが無骨な少年。しかし幾千もの住民達が見守る前で言葉を違えるわけにはいかない。
 でも──
 考えるよりも早く口が動いていた。
 だってそれは至極当たり前のことだったから。
 正解か間違いかを思うことなど愚昧。
 夜空に月が浮かぶのと同じくらい世の摂理に則った現実だったのだ。
「その冠、とても似合っている。綺麗だよハツネ」
 今度こそ完全な沈黙が広間を支配した。
 頑張ってどんな未熟な言葉を出すのかを、今か今かと待ち構えていた観衆は虚をつかれたのだ。
 あ、と。
 空也は自分の言葉を振り返る。
 ──自分は今、女の子に対し何と言った?
 爆弾が弾け飛んだ。
 一斉に言葉という言葉が洪水のように空也に押し寄せた。飲み込まれる。歓喜の嵐。湧き起こった歓声は沸騰した更なる祝い言葉に掻き消される。
 獣が祭り太鼓を囃し立てた。ある者は吠え、ある者は地響きを鳴らす。
 鳥が木々を揺らした。一羽一羽ではたかが知れるその細い足も、数百羽が同時に羽ばたけば岩をも動かす。祝福の赤い落ち葉が雪のように舞い落ちる。それでは飽き足らず、草原の上に積もっていく落ち葉をフクロウ達が足でつまみ上げ二人の頭上で解き放った。お山が贈呈する花束だ。
 羽毛のように赤と黄の欠片が落ちてくる幻想世界の中心で、ハツネはこれ以上ないくらいに顔を真っ赤に変えて俯いてしまった。
 既に何度となく繰り返された奥手二人による不器用なるお見合い。
 その時、空也を突き動かしたものは何だったのだろう。
 ハツネの手を取った。
 駆け出した。
 背後から戸惑いと驚きの言葉が微かに耳に届くが──
 ──聞こえない。
 木の葉が舞い踊る空の下で、少年は少女の手を取り広場の中央へと走る。
 動物達が道を開けた。
 吸い込まれるかのように円の中心へと向かう。
 ハツネがようやく顔を上げた。
 頬の紅潮はそのままに──笑っていた。
 一歩を踏み出した空也に敵はない。あれだけ自分を戒めていた羞恥も不思議と消え去っていた。
 覚悟を決めた男とは、この世の如何なる敵よりも手強い。逃げ道がなかったというのもある。それでもハツネの手を取り駆け出したのは紛れもなく空也の意思だ。
「よし。……踊ろうか、ハツネ」
「旦那様。あの……お誘いしておきながら……申し訳ありません。ハツネは、人の姿で踊るのは初めてなのです。教えて下さいますか?」
「俺も知らない。でも別に音頭も何もないんだ。──二人で探していこう」
 肌を密着させ、空也は自らの右手で結んだハツネの左手を空に掲げる。僅かの躊躇いの後に、残った左手を少女の腰に回した。
「確かこんな感じだよ。ハツネは左足からね。一、二、三、四──一、二、三、四──。そして手を離して──二人で回転でもしてみようか」
「──はい。仰せのままに」
 音楽は再開していた。
 渦のように二人を取り囲む踊り手達も同様だ。
 祭りが再開される。恋の爆弾という、この世で最も熱く最も興奮する刺激を中心に宴の密度が高まっていく。誰もが微笑み、中央にいる二人の余波を受けていた。不恰好に、誰に教わるわけでもなく二人だけで練習し、二人だけで紡ぐワルツ。何度か転びそうになる少女の体を少年はその度に支え、焦ることなくゆっくりとリズムを刻んでいく。
 心地よく、溶かされてしまいそうな安らぎと温もりが両の手から溢れ出す。その手を離そうなどとは絶対に思わなかった。空也は自然と顔を綻ばせ、ハツネは恥ずかしげにそっと笑う。
 秋一色を散りばめたイチョウともみじの葉が柔らかな雨のように降り注ぐ。唯一の光は空から注がれる淡く控え目な射光のみ。奇しくもそれはハツネを際立たせていた。冠と着物は少女の愛溢れる生命を浴びて活き活きと舞い踊る。夜空の女王の名をほしいままに、世界を下に置く銀の月と言えどハツネの微笑みの前では引き立て役だ。ハツネは美しかった。化粧品もアクセサリーも小物も、全てを宝石のように輝かしい艶で包んだ魅せる美ではない。校内の女子達には多い。燦然と煌く異性には憧憬と畏怖を抱く。金銀輝くネックレスやピアスの光輝は、慎みあるお日様の光に比べるとあまりに眩い。
 男としての気概もある。でもそれ以上に空也の心を掴んで離さなかったのが、ハツネのあまりに透明なその悠久たる姿だった。月明かりの下で、薄暗い光の中で踊る彼女を見ているとそれがよく分かる。これが真昼間の空の下だったら自分はいつものように目を合わせられなかったかもしれない。
 何度でも何度でも思う。
 ハツネは美しい。
 だから空也はその手を握っても頬を染めることはなかった。
 腰を抱き、お互いの吐息が感じられるほど間近に顔を寄せようが、脳が震えることもない。
 頭では勿論理解している。自分が、これまで見たことのないほどの美少女と踊っていることを。
 美しすぎて助かった。まるで森の妖精や精霊と対話しているかのような錯覚さえ覚える。夜の山で、沢山の動物達に囲まれ、色眩い幻想世界の住人となったかのように。
 広場に強い北風が流れ込んだ。木々と落ち葉が一斉に踊り出す。……どうやら山もこの宴に加わりたいらしい。
 艶やかな黒髪を風にたなびかせ、ハツネは小さくステップを踏みながら言った。
「旦那様がお山を大切に思っていることは存じております。染野山は私達皆にとっては母なる存在。ですから、ハツネは二番目でも構いません。旦那様の寵愛を一身に受けるべきは私如きでは本来恐れ多いのですから」
 まさか空也の考えていることを読み取ったわけではないのだろう。それでもハツネは一点の曇りも見せずに言ってのけた。その音色は、岩陰にそっと落ち続ける清水のように滑らかだ。
「価値観は同じ。俺もハツネもこの染野山が大好きなんだ。でもさ、そんな順位をつけるとか……寂しいことはやめないかな。ずるい答えなのかもしれないけど、大切なものは幾つあってもいいと思う。そしてその理由だって、別に一つだけじゃなく色々な理由がついてても悪くないよ」
「あの──! 旦那様。ハツネのこと──大切──なのですか?」
「む?」
 今夜御伽話に迷い込んでしまった時からどうにも空也の心は軽くなっている。恥ずかしいような言葉が次々と口から出てくるのだ。でもそれは全て事実なのだから否定できるはずもない。
 ハツネが感極まったかのような面持ちで、期待に満ちた眼差しを送ってくる。
 小動物達と戯れるハツネ。お山で遊ぶことに至福を感じると明言した時の慈しみに満ちた顔。緊急時にはその柳眉をつり上げて威風凛々と立ち敵と対峙する。染野山を何よりも愛する少女。
 面食いでなければいいと思う。
 でも、ハツネが今と違う顔で現れても同じ感想を抱いたと思う。
 お互いを知るには、きっとあまりに短すぎる時間。でもあと一週間経とうが一ヶ月経とうが、空也が彼女に抱く想いにはさほど大差はなかったであろう。ハツネの心は常に透明だったのだ。彼女は最初から全てを空也に見せていたのだから。
「大切だよ。ハツネは俺にとって大切な人だ」
「~~~!!」
 出会ったばかりでよく言えたものだと空也は奇妙な感心を持つ。でも事実なのだ。そしてハツネは夫の言葉に全面的なる信頼を寄せる。前よりも、その前よりも、どんどん好きになっていく。
 空也は思う。ハツネを騙すのはきっと簡単だ。
 だから自分は彼女に嘘をついてはならない。
 ──そしてそれは、紛れもなくハツネが空也にとって特別な存在であることを意味していた。
 手が強く握られる。肌がより深く密着していく。
 芽生えた恋心は神秘なる泡に包まれる。この世の果てに広がる、狂おしいほどに雄大な緑の自然の摂理を見たらこんな気持ちになるのだろうか。
 空也にとって少女は女神だったのだ。
 滲むように広がっていったその心に全身の身を任せていたその隣で、真冬の朝のように透き通った空気で満ち溢れていたハツネの心が突如火事に包まれる。その甘美なる優しい火はハツネから体の自由を奪った。
「きゃっ」
 足がもつれ、地面に崩れ落ちる。つながれた手はそのままだ。故に、空也もバランスを崩してハツネに被さるようにして倒れこんだ。
 紅葉の絨毯がハツネをそっと抱き受ける。湧き立つ心そのままのように、二人に押しやられた赤い葉が宙へと飛び跳ねる。
 天然織り成すベッドの上で二人は見つめ合っていた。
 見上げるハツネの瞳に映るのは精悍な空也の顔。
 組み伏せるように影に覆われるのは蕩けたかのように上気するハツネの顔。
 左手はハツネの背に回されたままだ。右手は汗が滲むほどに固く結ばれている。
「旦那様……」
 夢見心地にハツネが呟いた。
 愛しげにその言葉を撫でる。空也のうなじに細い腕が回された。ハツネは香水をつけているわけでもないだろうに、相変わらずの微量なる甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。
 空也はハツネの愛らしい唇に目が吸い寄せられていた。
 未熟なる蕾のようだ。
 その無垢なる桃色の果実を存分に味わいたいと、男の本能が呼び覚まされていく。
 夫がどこにもいかないように、その顔に腕を絡めたのはハツネの意思。でもそこまでだ。彼女はそれ以上のことをしようとはしなかった。一方空也の心は足が生えてどこかに行ってしまったかのように四肢が命令を受けつけない。瞳が──少女の唇から離せない。
「ハツネの、初めの唇は──旦那様に──貰って頂きたいです──」
 小さな声で。まるで息も絶え絶えと言わんばかりに、頬を染めながら、努力の末にハツネは紡いだ。
 もぞり、と着物の中に収められている素足が動いた。現実を把握した空也の鼓動が体全身を震わせる。自分の右太腿がハツネの両足の間に差し込まれていたことに気がついたのだ。転んだ偶然とはいえ、いつの間にか自分は少女の領域に侵入を果たしていた。ハツネはそれに気づいてながらも──咎めない。
 恍惚の意を浮かべ、それ以上の侵犯を待ち焦がれる。
 腕の中の少女は、既に我が身を物として夫に捧げていたのだ。
 蜂蜜のように甘い空気が酩酊感を植えつける。静寂溢れる海原の、しかし一番深い場所に彼等はいた。脳を麻痺させるかのように深層水が雪崩れ込む。二人は一つへと溶け合う。
 魂を魅了してやまないその唇を空也が犯しそうになった時──
「ふむ。随分静かな祭りだな。何かあったのか皆?」
 地響きを思わせるような唸り声が情熱なる空間に飛び込んできた。
 だあーーー!! と二人を取り囲み、固唾を飲んで見守っていた動物達がずっこけるように地面に崩れ落ちた。
「土暦!! 母より頂いた自慢なるその鼻はお山の隅々まで届くのではなかったのか!? お前はその鼻に何のにおいを嗅いでここにきた!!!」
 怒鳴った茶部の言葉が、いつの間にか静まっていた空間に響き渡る。
 ──夢から覚めた。
 ハツネも同様らしい。
「ご、ごごご! ごめん!! ハツネ!!」
 数千の眼差しが揃うど真ん中で、自分は一人の少女を組み敷き、あまつさえ──その、唇を奪おうと──
「い、いえ! いえ! そんな、そんなことはありません!! ハツネは……平気です。ハツネは大丈夫です旦那様!」
 バネのように飛び退いた。
 全てが反動となって二人に襲いかかってきていた。ようやく気づく。音も踊りもなくなった世界の全てが、視線で穴を開けるかのように二人を一部始終見守っていたことに。先程までの勇ましき二人は何処へ。お互い顔を見れず背を向け合ってへたり込む。ハツネは着衣の乱れを直していた。
「土暦様!!」
「何やってんすか旦那!! 空気読んでくだせえな!!」
 辺り一面から湧き起こるのは動物達の大ブーイングだ。見れば、ヒグマの長である土暦には言葉だけでは飽き足らず、石が、枝が投げ込まれる。おおよその事情を察したヒグマは、言葉を失って非礼の唸りを無念そうに喉から発していた。
 知らずして祭り一番の見世物になっていた、そのクライマックスというべきところで入った茶々。人も動物も色恋に関しての野次は変わらず。更には人である空也と狐であるハツネの未熟な恋。その初々しさに身を捩じらせていた動物達からは怒りの声さえも上がっていた。
 宴もたけなわ。
 小突かれながらも土暦は堂々たる足取りで空也の元へと向かってきた。空気を壊した僅かな気まずさは感じられるものの、その雰囲気からは決して野暮用などでない、このヒグマの体躯に相応しいほどの重い何かを感じ取る。
「邪魔をしたことは詫びよう。……橋渡しの人間よ、少し話がしたい。ここでは何だ、向こうまできてくれんか」
「……はい」
 身が竦む僅かなる威圧。それは意図的に空也に向けられた。ハツネや茶部と行動を共にすることで熊への本能的な恐怖はなくなっていたが、それでも世界最大級の暴君と名高いヒグマから不穏なる眼差しを受ければ如何なる屈強な人間といえども息をすることさえ忘れてしまうだろう。
 土暦の宿す風格から何かを感じ取ったのか、野次を飛ばしていた動物達の半数が口を閉ざした。燠火となった火種を煽るのは若い子供達だけだ。
「すまんな皆。大したことではないのだ、気にせず続けてくれ」
 申し訳なさそうに出た土暦の言葉のためにも再び動物達は固まって踊りと歌に専念し始めた。空也が──ハツネが、茶部が、更には厳蔵がそれを追いかけていく。山に有る全ての陽気を一箇所に集めたかのような心躍る音色が背中に流れて行く。土暦の体毛が闇に溶けていった──

 油の切れた機械を作動するかのようにコオロギ達が濁音を歌う。時折風に乗って祭りの声が流れてくるが、それを除けば完全に染野山は眠っていた。空に被さるは枝にびっしり敷き詰められた秋色の葉。土暦は足を止めて振り返ると、喉を低く鳴らしながら空也に告げる。
「フクロウ達から報告を受けた。人間よ。お前は……此度襲撃してきた連中の一人と、言葉を交わす仲だそうだな」
「ルチ──小野寺聡のことですね。……そうです」
「どういうことだ、茶部!」
 怒りだった。
 辺りに小鳥達が羽を休めていたら、間違いなく全ての羽が空に舞っていたことだろう。牙を剥き出しに、土暦は大気を轟と震わせた。その矛先を老狸へと変える。
「お山を荒らす下衆なる人間共は昔から存在した。それは分かる。納得できるはずもないが、傲慢な人間の態度について今更論じるつもりはない。だが……!」
 巨神が震える。
「なぜ、そんな連中と知己の仲である人間を、橋渡し相手に選んだのだ!! そこにいる人間の知り合いは我等が怨敵である密猟者! お前のことだ茶部。知っていたな!!?」
「勿論じゃ」
 飄々と茶部は口にする。空也、厳蔵、ハツネさえもが怒気が渦巻く空気の中で四肢の動きを奪われている。口を開くのも一苦労だろう。だが茶部は事も無げに語った。
「ヤクザ。人間の中でも後ろ指を指される部類だ。婿殿の親友は、ここら一帯の街中を我が物顔で跋扈する芙蓉組傘下の一つ、小野寺組の一人息子。実質跡取りじゃな。だがそれがどうした。確かに真っ当な職業ではないが……友人がお天等様の影に隠れて仕事をする人間だからとて、それで婿殿の品格が変わるわけでもあるまい。そんなつまらないことで鬼の首をとったかのように振る舞いたがるのはおそらく人間だけだぞ」
「怨敵とつながっているのだぞ!? 茶部、貴様そんな男にハツネを孕ませようとしているのか! 生まれてくる子供が鬼子になる可能性がありながら、あえてそれを見過ごしているのか!!」
「土暦様!」
 聞く者の身を裂くような、ハツネの鋭い声に混ざるのは哀願と抑制だ。
「小さいぞ土暦。お山に挑戦するかのような巨漢を誇りながら、なぜ心にもそれだけの山を築けぬか。我等が婿殿の心は秋空に負けぬくらい澄み広がっておるぞ? 子は親を選べぬ。小野寺聡はその家に生まれたというだけで、昔から周りに友達がいなかったそうだ。教師とて彼の背後にいる親のことを考えると恐怖心から注意できん。学校の親御達は、小野寺に近づくなの一点張り。土暦、この広大なるお山に一人ぼっちになった自分を想像してみろ」
 何年も前の記憶を洗うかのような茶部の言葉に空也は驚きを隠せなかった。
 彼が話していることは真実だったのだ。小学校に入学し初めてルチアーノと出会った。同じクラス。だが教室で常に一人で過ごすヤクザの息子に話しかける人間は皆無だった。イジメではない。誰もが彼を認知していた。その上で腫れ物のように扱っていたことを思い出す。
「婿殿は人として大きい。下らない人間社会の楔など打ち切って、小野寺聡と話し、気が合ったからこそ現在に至る。土暦よ。どこに恥ずかしい部分がある? 大多数の人間意見に流されようとしながらも、しっかりと根を地面に張っている婿殿の何がおかしいか」
「くっく……」
 忍び笑いは厳蔵だ。何年も前に、「きょうしつでいつも一人ぼっちのやくざのむすこ」について相談を受けたのを思い出したのだ。厳蔵なりにアドバイスはしたが、行動に移したのは空也である。
「……そうか。……その心意気はよし。なるほど……橋渡しの人間よ、お前を侮辱したことは今この場で謝罪しよう。……だが茶部。お前はお山の長として最も大切なことを忘れている。縁談に目を向けすぎて至極単純なことに目を向けておらん!」
「ほう?」
「我等の仲間があやうく命を落とすところだったのだぞ!! 木流の一家が全員無事だったからこそ笑っていられるのだ! 母の定めならともかく、欲塗れの人間達によってなぜ我等が命を落とさねばならない!? そんなもの、私は運命とは認めんぞ。茶部。我等は生きている。生きているのだぞ! その命をなぜ、誰かの悦楽のためなどに失わねばならない!!?」
 その時はまた逃げればいい。
 ──それはただの結論。
 正しいが中身が抜け落ちていると言われても否定はできない。
「人間。お前はあの者を止められるのか? よしんば止められたとしても、連中の群れのボスに話をつけることはできるか? ……無理だろう。このままいけば、近い未来に我等の誰かは命を落とす。その時、親を失った子に、私は何と言ってやればいい!? そしてその子は、お前と小野寺が談笑している姿を見て果たして何と思うか!?」
 その言葉には誰もが沈黙を落とした。土暦達は決して人間を攻撃してはならない。だが相手は何度でも狩りに挑戦でき、常に安全が保障されている。馬鹿馬鹿しいほどに偏った戦いだった。
「お前に問おう、人間。……我等が染野山の民と、友人を含め街中で暮らす人間。お前はどちらの側につく?」
「──!」
 息を飲んだ。
 頭の中を探しても答えはない。自分が何も考えていなかったことに気づき、恥じた。
 人間と動物。どちらの味方をするのか?
 適当な回答は許されず──だからこそ空也の口からは吐息しか出てこない。
「そうだ。お前は人間なのだ。人間の法こそが指針となる。故に、我等の誰かが死ぬことより、人間の誰かが死ぬことの方がお前にとっては重い。無論その真逆に私は立っているわけだ」
 土暦に空也を問責する様子はない。ただありのままの事実を話していた。
 再び熊の闇色の双眸が空也から茶部に移る。
「茶部。やはり無駄だったのだ。……勘違いするな。橋渡しの人間に異を唱えているのではない。私も賢獣会議の決定に流されてしまった部分がある故責任がある。しかし今回の件で私は目が覚めた。もしこれで……あの熊の親子の誰かが殺されていたら、私は自分を一生許せなくなるところだった」
「馬鹿者! 子を宿すことはおろか、まだ始まって一日しか経っておらんぞ!」
「だからこそだ! 人と交わっていない今だからこそ引き返せるのだ! 奴等を見ただろう? 茶部! 我等のことを金としか見ていないのだ。人間とは所詮、この世で最も自惚れた種族! そんな種族と同化して生きていくなどやはり母に対する侮辱でしかない。……言い訳を作るつもりはないが、元々この案件に否定的だった我等熊達の間では、再び不信の炎が膨れ上がっている。戦って死ぬ。そのためにこの牙と爪はあるのだ!」
「混ぜっ返すでない。命を取るか、誇りを取るか。またその議論を延々と繰り返すのか……!?」
「お前は熊に対し、戦わず死ねと言っているのだぞ。お山で唯一ともいえる武器を持つ我等に、その爪を振り下ろすなと言っているのだぞ! 我等の矜持を、魂を、軽んじるな!!」
 多少なりとも頭に血が上っているのは確かだ。それでも土暦の言葉には、現代の人間社会では失われて久しい誇り高き生への叫びが切に込められていた。
 空也の横では、己の命を投げ打って他国の戦艦へと飛行機で特攻し散っていった人間を目の当たりにしたことのある厳蔵が、何とも言えぬ表情で歯を噛み締めていた。
「待って下さい!!」
 そんな厳蔵が堪らず言葉を放つよりも早く、熾烈なる意思同士をぶつけ合っている土暦と茶部の間に空也が割り込む。
「明日、明日小野寺聡と話をしてみます! 俺みたいな子供が何を言ったところでヤクザ組織の決定が動くわけないのかもしれない。でも、俺もやれるだけのことはやりたい! 土暦さん。確かに俺は人間です。でも人間の中にだって、山を大切に思っている人はいます! どうかもう少しだけ時間を下さい!」
 ここが名も知れぬ山で、自分が動物達と何の関わりもない人間だったら。
 確実に目の前の熊に頭を砕かれていただろう。
 土暦の全身から湧き立つマグマのような灼熱たる闘気は触れずして伝わってくる。まるで巨大な隕石だ。ヒグマの長の血は人間のそれと比較すればあまりに濃密だったのだ。
「奴等の狙いは熊だ! そんな悠長なことをしている間に仲間が撃たれたらどうする!?」
「貴方はきっと、俺なんかより何倍もこの山のことを知っているはずです。熊達全員を人の足では踏み入れられない場所に少しの間だけ匿えばいい。……土暦さん。お願いです。人間である俺には、武人である貴方達の気持ちが分かるなんて言葉は口が裂けても言えない。でも攻撃なんて手段、最後の最後でもできるはずです。だからもう少しだけ待って下さい」
「……そうだな。すまんが土暦殿。相手が人間である以上、ワシ等人間に責任を負わせてほしい。ワシも空也に同行する。この老いぼれの顔を立てて、ここは一つ引いてはもらえんかね」
 ただ力任せに特攻するだけならば熊の長など誰にでも務まる。土暦は賢い。単にそれ以上に血の気が多いのだ。荒れ狂うの熱波の中で頭を冷やすのはかなりの意志力が必要とされる。
「土暦様、どうか私からもお願いします。私達が渡ろうとしているのは、大雨で水嵩の増した川。そこに橋を掛けることが決して容易なことでないのは承知。でも、身を削られるほどの流れに耐え抜き、翻弄されずに一歩を踏み出すからこそ岸に辿り着けるのです。一つ橋を掛けてしまえば、土暦様の子供だって今後は岸を行き来できるようになることでしょう」
 ハツネの援護。
 土暦が人間との共存に反対であったことは熊として当然なる思想だ。だが彼とて闇雲に死を望むわけではない。ハツネの言った通り、彼自身にも、そして仲間内にも、沢山の子供がこの染野山の腕に抱きかかえられているのだ。誰も傷つかずに済むのなら、当然それに越したことはないのだ。
「……理想論だ」
 噴火する前の火山口のようだ。土暦は爆発を腹に溜め、溶岩を飲み込み必死に抑える。静かに答えるのは茶部の言葉。──その言葉は空也の脳裏にも深く刻まれる。
「だが理想を掲げて行動せねば、理想を掴むことはできん」
「……」
 沈黙は爆発の引き金だった。
 突如土暦は頭上を見据え、体内で燻る熱を全て搾り出して発散するかのような一喝を無人の山に木霊させたのだ。その振動は大気を伝って空也達の体に吸い込まれていく。見えない津波のようだ。体が痺れた。一瞬全ての意志を流され、残った裸の心に恐怖が入り込んだ。気合でそれを振り払う。土暦は鬱憤をぶちまけ多少は楽になったのか、憑き物が落ちた顔──とまではいかないが、それでも憤怒を抑えることには成功したらしい。意思の光を感じさせる声が落ちた。
「……やってみるがいい。だが言っておくぞ。あのような連中に正道を説いたところで愚の骨頂。私は愚昧が美徳であるとは思わん。だがお前達に免じてもう少しだけ様子を見よう。……おそらく無駄だ。あれだけ意気揚々たる面持ちで狩りを行おうとしていた連中だ。目の前にぶら下げられた人参。自ら目を逸らすことなどできはしまい。だが忘れるな。二度目はないぞ!」
 土暦は四本の足で木々の間へと消え行こうとする。月光の届かない場所へ。踏みしめられた落ち葉が乾いた物音を立てた。土暦が歩を進める度に、どこか物悲しい旋律がその足元から擦れる。
 空也はその姿が見えなくなるまで、声一つなく巨大なる背中を見送っていた。この山に生息するありとあらゆる生命を背負っているようにも感じる。やはり彼は山の長の一頭なのだ。
 陽気な笑い声はヒグマが向かった先とは真逆から。
 まだ宴は続いているらしい。
 自分がいつか大人になり、山の恒久的なる平和が守られ──
 土暦と肩を並べて酒を飲み交わす。
 ルチアーノもいればいい。あいつの架空武勇伝は、真の武勇伝を幾つも持っているであろう土暦に聞かせるにはうってつけの話題に違いない。
 ヤクザと、動物と、自分と。
 勿論、ハツネも茶部も厳蔵も同席だ。
 果たしてそんな光景は幻なのだろうか。
 違う。
 それを現実に置き換えることこそが自分の役目なのだ。橋渡し、と土暦は自分を呼んだ。文字通り、染野山と人間社会の間に立つ者を指しているのだろう。
 幸運だ。自分がその役を司ったことは。何と名誉ある立場だろう。
 しっかりしなくてはならない。
 ハツネがそっと空也の腕に触れた。澄んだ眼差しで見上げてくる。空也の眼差しは、心に着火したゆらめきの火影だ。彼女は何を言わずともその心を察したのだろう。
 ──そうだ。
 愛の契りを交わし子をもうける。
 それは最後の結論だ。人間の空也。狐のハツネ。双方の力を合わせてこの苦難を乗り切るのだ。きっと幾つもの試練を乗り越えた暁には、子供の一人や二人、自然とハツネに宿っているに違いない。
 予期せぬ場所から降ってきた未来予想図。その進路は決して楽な道ではない。
 袖を掴んでいたハツネの手をそっと解き、すぐにそこに自分の手を重ねた。ハツネの蕩けるようないじらしい顔が幸せを語る。
 彼女のためにも、染野山の平和をこれ以上乱してはならない。
 そう思えた空也は、もはや子供を持つことにさえ何の抵抗もなくなったのを感じていた。

       

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Neetsha