Neetel Inside ニートノベル
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キツネの嫁入り
第六話

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   六章
 
 茶部や土暦に事情を説明し、ひとまずは和平が保たれたことを告げる。両者共に渋面を見せたのが印象的だった。やはり心情的には空也に近いものがあるのだろう。金の上に成り立つ和平などいとも容易く瓦解するのではないか、誰もがそんなことを考えていたに違いない。
 厳蔵の交渉は失敗に終わっていた。
 祖父ははっきりとは語らなかったが、やはり街中の人々は小野寺の手を耳を恐れている。どこで誰が聞いているか、そして岩鷲の機嫌を損ねたらどうなるか、個々には経験はなくとも街の見聞としてそれは確固たる実例をもって過去に示されているのだ。幾人かはそれでも立ち上がり名乗りをあげようとした。だが他の誰もが尻込みする様を見て、粛とした面持ちで挙手した手を下ろす。皆で手を上げなければ意味がないのだ。幾ばくかの人間達が先導するということはただの蛮勇でしかない。的にして下さいと言っているようなもの。結果として誰もがお隣の顔を窺いながら厳蔵に対し無念の意を告げる。
 それでも厳蔵は老体に鞭を打って出歩き続けた。家事はハツネに、農作物は空也に託し。祖父は戦っていた。空也は歯痒い思いを抱えながら時を過ごす。春風のように心地よいハツネの心がその隙間を埋めていた。形式上の和平は保たれている。そして時間と共に「これでいいのでは」との思いが空也の心に囁きかけていた。あれから何も問題は起こっていないのだ。ルチアーノは学校を休み続けているが、染野山への跳梁はなくなっていた。
 怖かった。このまま宙ぶらりんで納得してしまうことが。
 厳蔵のように岩鷲の為政を疑い、糾弾し続けることが正しいと心では思っているのに。
 橋渡しとして自分が双方にできることは何なのか──
 その日の夜で親友に別れを告げてから二週間が経過しようとしていた。
 あれから心が一歩も踏み出せなかったためだろうか、既視感たるあの日が再現される。
 夕食は終えていた。最近では厳蔵も腹を痛めトイレに駆け込む回数がめっきり減った。あれだけ疎ましく感じていた祖父の行動が途端見れなくなると、理由の分からない寂寞とした感情に襲われる。
 ──最初その音に気がついたのはハツネだった。
 誰かに断りを入れるよりも早く引き戸を開く。空也と厳蔵が事態を飲み込むよりも早く外から茶部が居間に転がり込んできた。傍目にも相当体力を消耗していることが分かる。
「茶部様!?」
「婿殿、厳蔵殿!! ……ああ、まったく──! 何てことだ。また──!!」
 日頃冷静なはずの老狸が、不明瞭なる言葉を呼吸の間に吐き出すように並べ立てていく。
 その様子を見て、嫌な予感が空也の体中を撫でていった。
 そして茶部は落としたのだ。
 橋を真っ二つに砕く爆弾を。
「また人間達が山にやってきました!! しかも今度の人数は前回の三倍は見受けられます!!」
 悲鳴だった。
 耳から乱入した衝撃は視界を殺した。眩暈のように景色がぼやける。
 脳内に浮かぶ単語は「どうして」「なぜ」「どうして」「なぜ」。
 ──踏みとどまる。
 いち早くショックを抜け出し、空也は状況把握に努める。
「茶部さん、相手の手に猟銃は!?」
「あります。何人かは前回と同じ顔ぶれ。……小野寺の連中でしょう」
「どうして──!」
 この場にいる者達の共通の疑問だった。
 だが言葉で現状を推し量ろうとも、心の中では誰もが半ば納得していたのかもしれない。こうなる予感は常々あったのだから。
 約束を違え凶行へ走った理由は分からない。……だがやはり土暦の言う通りなのだろうか。
 馬の耳に念仏。あのような者達相手に道徳を説こうが、金を積もうが、そこには約束一つ取り付けることは叶わないのだろうか。
「結局──約束破るのかよ……!!」
 悔しかった。
 藁に縋るしかなかった自分が。こんな手立てしか思いつかなかった自分が。
「空也。ハツネさんと一緒に行け」
「じいちゃん……また街の皆に呼びかけに行くの?」
 まさに前回通り。
 自分はおろか、新参者のハツネにもあれだけ快く接してくれた商店街の店主達。恨んでなどいない。畑を、店を、家族を──誰もが失うわけにはいかないのだから。だからきっと、厳蔵がこの事態を告げても誰もこない。人間を抑えることができるのは人間のみ。それでも彼等は動けない。
 動ける人間は土山空也と、土山厳蔵だけ。
「当たり前じゃ。農民とて桑を一本持てば立派な兵士になる。空也、しょぼくれた顔をするな! あんな腰の入っておらん小野寺の連中なんぞより、農具で集団武装した街の連中の方がよほど怖いわ! 何度でもワシは呼びに行くぞ。これ以上、山の者達に負担はかけさせ──ッ」
 言葉の終わりに苦いものを吐き捨てる厳蔵。
 その理由はすぐに分かった。……どうやら寸分違わず前回と同じというわけではないらしい。
 居間に立て掛けてあった竹槍を厳蔵が手に取る。
「……お爺様……」
 ハツネのか細い声は、玄関から無作法に乱入してきた足音に掻き消された。五人、六人か。
「行け、空也。ここはワシが──」
「はいはいはいはい。お邪魔しますよーっと。……それにしても汚ねえ家だなぁ」
 先陣切って現れたその男の右腕にはギプスが巻かれていた。額もバンダナのように包帯で覆われているが、空也はすぐに相手が誰かを見抜くことができた。
 額の下には裂傷の跡が刻まれているはずだ。あの日、密猟グループを率いていた男である。随分と酷い怪我を負っているようだが、その憎らしい顔を空也は忘れるはずもない。
 男を先頭に、背後から続々と似た空気を纏うゴロツキ達が現れた。いずれも、正常な人間ならば生理的に受けつけられない胸糞悪い笑顔を浮かべている。
「おじいちゃんさ、ちょっとごめんね。今ね、山の方で熊が暴れ回っていて危険なんだわ。だからここから一歩も出ないでねー。逆らってもいいけど俺達もキレると何するか──」
 穿孔。
 神速たる速度で空気に風穴が開かれる。その前触れこそはかろうじて存在したものの、人の目でそれを捉えることはかなわない。裂傷の男がコの字に体を折り曲げて吹っ飛んだ。穿たれた胸部からは押し出されるようにして空気の欠片が吐き出される。ひょっとこのような滑稽なる口。その瞳孔も阿呆のように丸く固まったままだ。襖を押し倒し、男の体が床に叩きつけられ派手にバウンドした。その乱雑な物音が、一枚の絵のように身動きを停止させていた者達の意識を呼び覚ます。
 打たれた箇所から血が溢れ出す様子もないが──男は起き上がれない。
 祖父が持つ両の手に握られるのは一本の竹。
 凝固した怒気が気化したかのような、燻られた大気のように厳蔵の周りが歪んでいる。
「テ……テメ──」
「──年を食いに食って死を待つ身だ。若気なんてモンは性欲以外はとっくに消えうせたかと思ったがな。……戦争で血を浴びたこともない餓鬼共が。誰に向かって生意気な口聞いてる」
 男達の言葉は飲み込まれた。
 厳蔵が──遂に憤怒を解き放っていた。
 鬼神のように猛勇なる背。自分より身長の低い祖父が途端怪物へと変貌を遂げた。
 だが、一体なぜここまで──
「染野山の次はこの家か……? ワシと婆さんの思い出の地に、揃いも揃って間抜け面が土足で足踏み入れてんじゃねえ!!!」
 竹槍が唐竹割りに空を薙ぐ。
 男達の顔が凍りついたかのように固まった。岩鷲と同等かそれ以上の豪気を有するものが、まさかこんな山の麓の小汚い家にいるとは思っていなかったのだろう。そして彼等はその気配を持つ人物が如何なる暴君へ変身するかを骨の髄まで染み渡って知っている。
「コレが片付いたらワシは応援を呼んでくる。……空也、行け」
 壮絶なる台風のような心を見せられた。それは空也の心さえも射竦める。
「呆けるな! お前は土山家の跡取りだろうが!! ワシが死んだらこの山を守るのは誰だ!? 行け空也! ワシ等を足止めしようとするからには、きっと岩鷲自身が山にきておる。土暦殿がその姿を見たら真っ先に襲い掛かるぞ! そうなったらもう戦争は止められん!! 銃と爪で血を洗い合い、山は躯で染まる!! そんな死臭溢れる紅葉などあってたまるか!」
 ハツネと踊り合ったあの広場を思い出す。
 ──汚される。このままでは染野山は死に絶えてしまう。
 それは青い情か、それとも大局を見据えた真っ赤な情か、空也の心にかつてない焦燥感が宿る。
「じいちゃん、ごめん! 茶部さん、案内して下さい!!」
 駆け出した。
 即座に背後から厳つい制止声がかかるが、地獄の底から響いてくるような厳蔵の声に遮られる。
 こっちは心配いらないだろう。
 ハツネの手を取る。明かりは必要ない。
 もはや土暦は臨戦態勢を整えていることだろう。岩鷲は言うべきまでもない。
 どうしてこんなことが起こるのだ。何度も何度も自問したが答えは出ない。
 土暦はそこに最もシンプルな答えを出してしまったのだ。
 厳蔵の裂帛なる気合が飛び交った。直後に響くは屠られた者のくぐもった呻き。
 意識して聞き取ったのはそこまでだ。
 すぐに五感が不吉な空気を感じ取る。梅雨の日の粘ついた湿気のように、それは体中に纏わりついた。頭上では鳥達がやかましく飛び交っている。
 二人と一匹が夜山を走り抜ける。
 月に仄かに照らされた斑なる赤の道が閑々とした空気を運んでいた。

 偉大なる牙城が守り神の如く岩の上に鎮座していた。
 そのシルエットだけみればよくできた彫刻品と勘違いしてもおかしくないだろう。それくらい雄大に、しかしその風貌を誰に見せつけるでもなく巨躯を風に遊ばせていたのだ。
 空也は違和感を抱く。日頃の怒気溢れる彼の姿とあまりにかけ離れていた。
「土暦さん……」
 こちらには気づいていたのだろう。間近に迫っても視線一つ向けないその様は、既に彼が見えない敵と対峙をしているようにも受け取れる。
 やがてポツリと言葉が落ちた。
「……橋渡しの者よ。ここ最近お前がこっそりと開く昼食会とやらの場所には、育成を怠ったとしか思えないような、虫に食われた白菜が焚き木のように積み重なっているそうだな」
「……」
「あのヤクザ者達の件で私はお前を糾弾するつもりは微塵もない。欲と金、利己と恐怖に縛られる人間達の中で、お前はよくやった。ここ最近どれだけ葛藤しているのかも知っている。子供故に未来を夢想している面も多いだろうが、お前ならば大人になっても今と変わらぬ姿でいられるのだろう。──もっとも──」
 土暦が空也を向いた。
「私はその時には大地へ還っているであろうがな」
 ようやく、土暦が寡黙に徹している意味を知った。
「土暦さん!!」
「敵の数はおよそ百。確認できただけで銃は七十。先日私が連中を見逃し、その後にお前達が取引を持ちかけ了承したというのに……これだ。馬鹿に理由を聞く必要もない。どうせ取るに足らん答えが返ってくるだけだ。……これが人間の全てなどとは思っておらん。だが……これもまた人間の一片」
「待たんか土暦! 私達は人間と共存し──」
「虚しい言葉だ茶部! 言ったはずだ二度目はないとな!」
「ここで攻撃しては元も子もない! 婿殿とハツネは本当に上手くいっておるのだ。私達が人間の中に形を変えて生きていく方法はより鮮明となって見えてきておるのだ!」
「あんな下衆共の血と交わるくらいなら──」
 地の底で業火が踊っている。土暦が静寂の裏で爪を研いでいる。
「我等熊はもう抜けよう。……我等は戦って滅びる。茶部、お山が残っていたなら、我等の心をどうかあるがままに語り継いでくれ」
 闇が蠢いた。
 正体に気づき空也は絶句する。
 岩陰から一頭、二頭、三頭、草むらから一頭、二頭、木々の間からもまた一頭──
「連中を殲滅する。……百人を殺すのだ。人間社会では未来永劫記録される事件となるだろう。それで構わない。悪と誹られようがこの牙と爪の赴くままに熊は山を駆けるのだ!」
 暗闇に紛れているとはいえ、確認できるだけで既に周りには二十頭以上の熊が集まってきていた。熊達の総意。いずれも無言ながら闘志をその瞳にぎらつかせている。
 ──全員が興奮高鳴る渦の真っ只中にいた。普段冷静な茶部やハツネでさえも、土暦達が見せる死地行く階段を登る姿にかけるべき言葉を失う。
 それは偶然だったのか。
 それとも二者がぶつかる理由としては必然だったのか。
 普段なら誰もが気づいたであろうその稚拙な潜伏術は直前になるまで巧みに功を奏していた。
「土暦様!!」
 火薬が弾けた。
 刹那の攻防。
 ハツネの叫びに異変を見抜いた土暦が、巨体に似合わぬ俊敏さでその場を飛び退いた。
 空へ昇る銃声。
 外れた。
 土暦の理性が一枚剥がれ落ちる。牙の間に獰猛な雷音が充満していく。
「私腹を肥やすためだけに我等を狩るか人間! 猿以下に堕ちた下衆が!!」
 毒づくような唸りが茂みの中から漏れた。場所はかなり近い。本来ライフルという武器は使用するにあたり数十メートルの距離を保つのが一般的でありそれこそが最大の利点である。たとえ気づかれようが自らの保身は約束され、一方的に攻撃をくわえて相手を嬲り殺すことさえもできる。
 おそらくその男はロクに銃に触れる経験もなかったのだろう。無許可(であると空也は予想していた)の銃、素人射撃。そして猟師ならば誰もが知っていることを知らない。
 ヒグマは人の倍は素早く走れることを。五十メートル開いても三秒で距離を詰められる。
 てんでダメだ。
 空也にには聞こえていた。男の毒づきの内容が。
 ──日本語ではなかった。
 だが発音は適当。英語の喋れない日本人が外国語を真似する時のベタな口調。
 空也は駆けた。
 その男の全てに腹が立った。
 なぜこんなことをするのか。
 するならそれなりの覚悟があったのか。
 あまりにお粗末な狙撃。
「ルチアーノオォォ!!!」
 当然空也の存在にも気づいていたはずである。多くの熊に囲まれている空也とハツネをどう思ったのか──だがいずれもルチアーノは、熊を殺すべく発砲したのだ。向こう見ずに突進してくる空也に対し、マフィア気取りの男はあまりに戦い慣れしていなかった。手にした銃を今度は空也に向け──人間に対し銃など向けられないという葛藤──そしてタイムロス──引くも押すもできず中途半端な心構え。
 頭に血がのぼっていた。
 空也の二週間の苦悩。土暦の導火線に点火された炎。偽りの平和に真実の答えを突き出せず、誰も彼もが暗中模索に陥り、それでも何とか希望溢れる未来を心の中で描いていたというのに。
 一発の銃声が全てを台無しにした。
 遅かれ早かれ誰かが発砲していたかもしれない。だがその一発目は──ルチアーノから放たれた。
 瞳と瞳がぶつかり合う。
 喧嘩慣れしていないのは空也も同じだった。無我夢中の単純な右拳が空を唸らせる。
 それはルチアーノの頬に激突した。衝撃で猟銃が手放された。吹っ飛ぶ。藪の中に背中から突っ込み、コマのように回転しながら土の上で踊る。
 ──結局。
 ルチアーノはその心を変えることはなかったのだ。
 自分は親友を救うことはできなかったのだ。
「馬鹿野郎! ……この馬鹿野郎!!」
 馬乗りになった。口惜しそうな──しかし唖然としたような顔の入り混じったルチアーノが、夜目に慣れた双眼で下から見上げてくる。そこに一方的に拳を振り下ろした。ガードしようと翳された手をすり抜けて、次々と顔面に空也の怒りがぶつかっていく。ルチアーノは何も言わなかった。悔しい。どこまでも悔しい。
 ああ、そうか。人と動物が分かり合う以前に、人と人が分かり合えていないのだ。
 何十発暴力の嵐を浴びせたかは忘れた。肩で息を切らしていた。
 自分の下で親友が口から血を流し、何の抵抗もない顔で素顔を晒していた。
「……ホットだぜ。……ブラザー」
 単独行動をしていたのか、それとも仲間は逃げ帰ったのか、ルチアーノを助けようとする者はおらず、また空也を止めようとする者もいなかった。ハツネは茶部に止められ、泣き出しそうな顔を隠そうともせず、今にも倒れそうな華奢なる足で一幕を見守っていた。
 二人を覆い隠すかのように巨大な影が落ちる。ルチアーノはそれを見上げ──諦念の息を吐く。
 空也は振り返る。
 そこには二本足で立つ土暦の姿があったのだ。
「そこを退いてもらおうか、橋渡しの人間よ」
「なぜです?」
「その者を殺すからだ」
 審判。
 当然ルチアーノに熊の言葉が分かるはずもない。だが殺意は伝わる。彼に震えはなかった。優に三メートルを超す巨体を見ても取り乱すことはせず静かに仰臥する。
「HAHA……。よく分からねえなあ……。その熊、お前を殺すつもりはないみたいだ。銃弾掠めたからだろうな、俺だけを殺す気でいる。……お前はケツまくって逃げな」
 空也は立ち上がり親友の上から遠のく。ヒグマを前にして、彼は驚くほどに無防備な体を何の躊躇いもなく晒していた。達観さえ見え隠れする。空也の顔から疑問を読み取ったのか、ルチアーノは眠たげとも言えるような、億劫な声で告げた。
「何だよ? 俺はBIGなマフィアになる男なんだぜ。信じてなかったのか? 熊如きにビビるわけねえだろうが。たとえ空からミサイルが落ちてこようが俺はケツで受け止めてやる。……ただ、あのキングコングだけはどうにも例外だな。シットゥ、あの声を聞くと体が拒否反応起こしやがるんだ。でもそれ以外ならどうってことないぜ」
 それは小野寺聡という男の本質なのだろう。だが……それだけでは足りない。
 ここでルチアーノがケツまくって逃げ出すのなら話は分かる。だが彼はまるでそんな素振りを見せない。もはや──
「面倒臭くなっちまった」
 そして本質の上に本音が塗られた。
 空也は納得する。パズルのピースが全て埋まったかのような感覚。
 大の字になったルチアーノが傷だらけの顔で空也に語りかける。それは独白に近い。胸にたまっていたものを吐き出していくかのように、喋るごとに彼は満たされていくように見えた。
「親父にビクビクするのもよ。あんなヤツになるべく修行していくのもよ。そのためにお前と疎遠になっていくのも、手柄を取ってこいと言われて、逆らえずにこうして銃持って動物撃ちにくるのも──この先お前から哀れみを向けられるのも、助けようとしてくれるのも、でも逃げ出せないのも、考えてもキリがねえんだブラザー……」
 双眸に自身の腕が被せられた。唇が悔しそうに結ばれる。
「ちくしょう……」
 悩んでいたのだ。
 ルチアーノは何だかんだ言いながら悩み抜き、そしてそれを弱さと決め外に出さないようにした。
 噴火した空也の怒りは無駄ではなかったのだ。振るった拳が親友の脆い盾を打ち砕き、その奥に隠された心を白日の下に引っ張り出したのだから。
「人間にしてはよき潔さだ。その心に免じ、苦しまずに済むよう一撃で葬り去ろう」
「土暦さん!」
 失うわけにはいかなかった。
 空也は両手を広げ、巨岩の前に仁王立ちになる。もっともヒグマの強靭なる爪を前にはせいぜい紙の盾程度にしかならないが。
「お願いです! もうルチアーノは──!!」
「先の銃弾に誰かが当たっていたら? そして命を落としていたら? ……そこをどけ! 我等が手を出さないのをいいことに、こうまで好き勝手お山で暴れられるのは魂への侮辱!!」
 咆哮。鼓膜をぶち破るかのような嵐の怒声。大気が震え肌に張りつく。
「ダメです! 誰も死ぬ必要なんてないんです!!」
「……所詮お前は人間! 我等と人間を秤にかければ、傾く側は言うべきまでもないということか!!」
「そんなのじゃない! 俺にとっては貴方も大切だ!!」
 もし熊が人間並みにその手を器用に扱えていたなら、既に空也は横に薙ぎ倒されていただろう。土暦の一撃は、たとえ加減を加えても人を殺す殺傷能力を十二分に秘めている。だから空也を強引に退かすことができない。それを土暦も──空也も知っていた。
「俺はルチアーノを見逃します!」
「ふざけるな!! いい加減にしろ!! 我等が全滅するまで何度見逃す気だ! そこをどけ人間。お前とて容赦はせぬぞ!!」
「俺はこの山が大好きだ!! 血に染まった光景なんて見たくない!!」
「……ッ!!?」
 奇麗事。
 空也の記憶は祭りへと遡る。楽しかった。ハツネと踊った。皆がそれを祝福してくれた。輪になって、美声の下で、どんちゃん騒ぎをしながら、紅葉と月光が踊り場を絢爛たる装飾で施してくれた。
 人数さえ集めればまたできることだ。でも、血臭が草にこびりついたその隣で自分達は何を思って踊ればいい? 鎮魂歌なんて論外だ。ここは──この山は、子供のように聞き分けのない言い分を、奇麗事を押し通してでも守らなければならない聖域なのだ。当然だ。広がっているのは子供が夢見るような御伽話の世界なのだから。
「行けルチアーノ。……早く!」
「──あ? ……あ、ああ……」
 死ぬために横たわっていたルチアーノも、空也の決死の声を前に立ち上がらざるを得ない。心臓をきつく握って搾り出したかのような声を前に、考えるよりも早く従い走り出す。
 空也の単純明快なる願いを前に、染野山の番人がその足を止めた。土暦の号令を待っていた熊達が訝しげに長を見る。彼は眼を閉じて無想していた。──夢想かもしれない。その瞼の奥にこびりついて離れない景色。それは空也と全く同じものだったのだ。自ら宴会に進んで加わることはしない土暦だが、空気の読めない言葉で皆から戒められからかわれ、そんな楽しげな山の仲間達を不器用な瞳で見守り続けるのがたまらなく好きだった。
 今夜そこに血を被せる。自らの意思で。
 彼は自分の弱さを知った。あれだけ殺意を言葉にねじ込ませておきながら、空也の言葉一つで郷愁を抱いてしまうなど、あらゆる生命を無に帰す誇り高き爪を持つ熊の長として不甲斐ない。
 結局、この山を、あるがままの姿を誰よりも愛していたのは土暦だったのだ。
「皆聞け! 連中は銃を持っている。見つけてもすぐには手を出すな! 最低でも五頭集めろ! 連中は自らより弱い者しか相手にしたことのない臆病者達だ。戦い慣れているような雰囲気を出しているがその実生死をかけた戦いなどほとんど未経験の雑魚共! 取り囲み、一吠えすれば簡単にその心を崩せる。あとはその爪と牙を存分に突き立てろ!」
 熱波が秋風を吹き飛ばす。
 土暦が下した命令は他の熊達の心に伝播し、それは次々と周りへ感染していく。熊が吠えた。その隣の熊が呼応した。興奮という麻薬が各々に分泌されていく。
「行け!! 既に先の銃により狼煙はあがったぞ!!」
 唸りが染野山から放たれた。
 目を見開いた空也の横で熊達が一斉に樹林の中へと散らばっていく。もはや茶部の言葉も意味をなさない。
 遂に熊達が戒めの楔を引き千切り、野生の本能を大自然の中に解き放ったのだ。
 あちこちから枯れ木を踏み倒し、枝葉を震わせ巨躯達が四足で山を揺らす音が鳴り響く。血の滾りか、怒りか、空へ咆哮を掲げる者もいた。
 土暦が空也の横を抜けた。
 反応が遅れる。……元より間に合っても止められたはずもないが。
「土暦さん!!」
 もはや空也への返事はなかった。
 あっという間に黒の帳の奥へと身を沈ませていく。
 ──その方向はルチアーノが駆けて行った道だ。
 ようやく空也の足が動いた。ハツネも、茶部も、完全に熊達から出遅れて行動が開始される。
「土暦。あの……馬鹿者めが……」
「お山が……お山が死者で溢れます──! このままでは──!!」
 空也は肺に溜まっていた全ての空気をゆっくりと吐き出した。悲鳴をあげかけている脳と心に冷や水を浴びせ静穏なる心を形作る。
「ハツネと茶部さんは片っ端から駆け回って熊達に伝言を」
「熊さん達──? あの、それはどういう──」
「土暦さんから緊急伝達だと。人を襲うのは絶対禁止。それだけを伝えて下さい」
「むぅ! ……そうかなるほど」
 情報の錯綜。
 それは確実な混乱を生むことだろう。
 だがそれで構わない。攻撃をしないということは、防御に徹するしかないからだ。少なくとも熊達に対する危険度はかなり下がることだろう。そして、偽命令とは言えど土暦に直に連絡を取れない以上、散らばっていった彼等はそれに従わなくてはならない。
 ──だが確実ではない。熊達の熱意は確実に空也の肌を刺した。あの怒涛の激流を止めることができるのか。ましてや一度発砲が始まれば、命令に背いても彼等は戦うに違いない。
「俺はルチアーノを追いかける! ……ハツネ。俺はハツネが、皆が、染野山が大好きなんだ。土暦さんには鼻で笑われたけど、俺は最後の最後まで全力を尽くす。土暦さんは正しいし間違っているし……でも戦争なんて結論は絶対に早計だ! 激突するのだったら、全てを試して、足掻き終わった後でもいいはずだ」
「旦那様……」
 ハツネは多くを語らなかった。空也の胸に顔を埋め、雄の香りを密かに堪能する。
「やっぱり……ハツネは旦那様の下に嫁いでよかったです。旦那様は素晴らしいお人。だからこそ茶部様達が選出されたのですが、そんなの関係ありません。土山ハツネは、土山空也を愛してよかったと今改めてそう思えます。お優しい方」
 時間が惜しかった。
 愛する人を困らせるわけにもいかず、ハツネは名残惜しく空也から離れる。
「ハツネ。その──」
 貴重な時間であると分かっているのに、空也は走り出そうと一歩を踏み出した体勢のまま足を止めてしまった。ハツネに一言返したかったのだ。
「俺も──その、ハツネがきてくれて助かってる。一人だと、見失っているものがきっと多かった。だからさ……ありがとうな」
 駆け出した。
 羞恥ではない。本当ならあの場に留まり、甘酸っぱい空気に心行くまで浸っていたかったのだ。だが状況はそれを許さない。祭りの晩、ハツネと踊りに興じ、染野山ごとハツネをその手に抱きかかえた気分になった。彼女はこの山を愛している。だからこそ失うわけにはいかない。
 既に目は闇に適応していた。何より相手が人間である以上、一度誰かが山林を掻き分けた道というのは枝の折れ具合等から察することができるものだ。
 この夜を乗り越えたい。そうだ。あの夜は彼女から一歩多く踏み込んできた。
 また祭りを行い、次こそは男である自分から一歩を──

       

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