「まだこの悪魔を生かしとるのか…嘆かわしい」
呆れと怒りの交じった、かつ軽蔑するような声が聞こえる。壮年の男性の声だ。
「おいおい、さっきから散々悪魔悪魔言ってるが元々魔界で平和に暮らしていた俺達をこっちに引きずり込んだのは、お前ら人間だぜ?」
声変わりもまだなのだろう。幼い少年の声も聞こえる。
「お前らの私利私欲のために、俺達は人間に殺されたり同族で殺しあったりしてるんだぜ?俺らを縛りつける能力があるからって、こんだけ好き勝手に使われちゃあお前らを怨むなって方がおかしいだろうに。敬われ労られることはあっても、侮蔑されるとはお門違いもいいとこだ。それにお前ら人間が俺達を殺す術を開発したように、俺達がお前らを出し抜く手段を見つけるのは当然と言ってもおかしくないと俺は思うんだが。さて、どっちが悪魔かね?」
「…っ、おい!こいつをいつまで生かしておく気だ!」
「この子は、元は悪魔であったとしても今は人間です。殺すことなんてできません」
もう一人の穏やかな女性の声が聞こえた。ゆったりとしているのにどこか力強さを感じさせる声だ。
「ふざけたことを…!何をしでかすかわかったもんじゃないぞ!」
「では、逆にお聞きしますが今の話に反論できますか?」
「…」
「私は私利私欲のために霊魔をけしかけたり、命令したことはありません。その力が本当に必要な時以外、私は魔方陣の中に立ちません」
「ぐ…」
「周りのモノを争いに巻き込むのは、いつだって人間なのです。そのモノの意思も感情も関係無く、利己的に使役してしまう。人間は少し賢くなりすぎたのかも知れません」
急激な寒さで目を覚ました。瞬時に思考を切り替え、まどろみから現実へ帰還する。…いけない。こうしてる間にも標的を見逃したかも知れない。
急いで暗視用スコープを覗くが、依然として状況は変わって無いようだ。監視対象である向かいの廃墟の一室には人の気配が無い。
思わずふぅ、と安堵の溜め息を漏らす。
僕は今、とある5階建て廃墟の3階の一室にいる。毛布に包まりながら窓際に貼りつくこの姿は、なんとも言えない。ほぼ不眠不休で5日もこの状態だ。もはや体力と集中力の限界をとっくに超えている。足元に置いてある冷えたコーヒーカップを音を立てないように細心の注意を払って啜り、背中からずり落ちた毛布を引き寄せる。そろそろ動きがあってもいい頃だと思うのだが…。
監視に集中しつつもさっき見た夢の残滓が脳裏から離れない。既に内容は曖昧になっているが、確か悪魔と呼ばれた少年と壮年の男と若い女性が言い争っていた。…悪魔、ね。
自嘲気味に笑みがこぼれる。僕も悪魔と呼ばれたことは何度もある。だが面と向かって罵られたことは無い。狙撃手と言う役割上、僕の面が割れることは無いからだ。だが戦場では誰もが僕のことを悪魔と呼び、恐れ、罵った。同じ戦場に居た狙撃手はそんな風に兵士達から恐れられるのを喜んでいたが、僕は一度たりとも誇りに思ったことは無い。そんなもの、「悪魔」というレッテルを貼られた殺人鬼でしかないのだ。死角からコソコソと撃ってるだけの卑怯者。敵兵の士気を下げるために急所を外して苦しめるような撃ち方も知ってるし、戦禍に巻き込まれた子供を保護している兵の笑顔をその子供の前で吹き飛ばした事もある。こういった鬼畜のような行いを悪魔と評されて、どうして喜べるのか―――。
「!!」
一瞬、緊張で全身に力が入る。スコープ越しの視界に何かが映りこんだ!
だが、ひらひらと天から降る白いそれは只の雪だった。僕は緊張を解き、監視の態勢に戻る。まだ降り始めの粉雪だから行動に支障は無いが、このまま降り積もると厄介だ。ただでさえこのアングルは標的を狙撃できるギリギリの位置だというのに、これ以上視界が悪くなっては監視すら困難だ。
腕時計を一瞥する。現在の時刻は午前5時34分。町外れの工場地帯に位置するこの場所は、人の出入りが全く無い。車の音どころか足音さえ響く程に無音だ。
こうしてずっと気を張ってるよりは、1時間置きに仮眠を取って新雪の上に残された足跡を探した方が効率が良いだろう。雪の降り具合を見て僕はそのように判断した。
腰のホルスターから拳銃を抜き、仮眠中の襲撃に備えてから最後にもう一度スコープを覗くと…。
「はい、ストーップ!そのままの姿勢で両手をゆっくり顔の高さまで上げて」
頭上からあどけない子供の声。そして後頭部に硬い鉄の感触。
あまりに唐突だったので、僕の頭の中は雪のように真っ白になった。
「オーケー?ボクの言葉分かる?通じてる?返事をどうぞ」
「…聞こえてるよ」
「よし、言葉は通じるみたいだね。じゃあカウント行くよ、3,2、」
僕は観念して指示通りゆっくりと両手を上げた。こいつはどうやって足音も立てずに背後に立ったんだ?どうして僕の存在が分かったんだ?いくつも疑問符が浮かんだ。
「1、バーン!!」
頭上から大声で怒鳴られて、びくっと全身が強張る。続くキャハハハという愉快そうな笑い声が実に耳障りだ。
「マスター、お戯れは程々に」
更に背後から女性の声が聞こえる。複数人居るのか?後ろを振り返りたいが、ゴリゴリと後頭部に容赦なく押しつけられる銃がその考えを阻止する。
「分かってるって。でもさ、この程度でビビってるんじゃ駄目だよね。君、つまんないからバイバーイ」
キチキチ…と引き金を引く音と感触が脳にダイレクトに伝わってくる。恐怖のあまり叫び出したい衝動に駆られたところで、またもや頭上から「ぷふっ」と噴きだす声が聞こえ、これも揶揄の一環だと知る。
「マスター?」
「はいはい、分かってるよ。それじゃ本題に入ろうか。…あ、その前にお荷物チェックだね。従者A、宜しく!」
マスターと呼ばれた子供の指示に応じて、僕の背中に掛けられた毛布が取り除かれる。次に、さっきホルスターから抜いた銃が回収される気配がした。これで僕は完全に丸腰だ。膝立ちで小さくバンザイをしている今の状況は、生涯でかつてないピンチを迎えている。
「他には特にヤバそうなもんは持ってないっぽいね。でも指一本でも動かしたらバキューンするから。ボクが質問する時以外で声を出してもバキューン」
マスターとやらが「バキューン」と口にする度、銃が強く押し当てられる。重圧の掛け方から、この子供はこういった事に相当場慣れしているのだろうと推測する。
「それじゃ、質問その1。誰の指示でここへ来た?5、4、3」
「こ、個人の意思だ!誰からも指示を受けていない!」
「ふんふん。その理由は?2、1」
「え?」
勢いよく頭を叩かれたように、びくんと体が跳ねた。後頭部から頭蓋骨へと発砲音が通過する。
僕が今まで命を奪ってきた人たちは、皆こんな感じで死んだのかな。こんな風に呆気無く、味気なく、何の感慨も無く。
ごめんなさい。
それが少年が最後に浮かべた言葉。悪魔と呼ばれ悪魔として生きた彼の人生は突然の災厄に見舞われ、唐突に終わりを迎えてしまった。