Neetel Inside 文芸新都
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○ラジオ×粉末/毒/つばき


 祖母はいつも小さな音でラジオを聴いていた。
 誇らしげに祖母の部屋にたたずんでいたそのラジオは随分と古いもので、幼い美緒には御伽噺の世界の小さな機械に見えた。アーチ型でくすんだ金の縁取りが施され、つややかな飴色の木は磨きこまれてしっとり輝いている。小さなメーターの下に黒いつまみが三つ並んでいて、祖母がそのつまみを捻ると、かすかな雑音を交えながら流れる音がゆるやかに変わっていく。
 両親が言い争いを始めると、美緒はこっそり祖母の部屋に逃げ込んだ。それはいつでも突然やって来る。雨降りの前のような気配も、原因も、理由も見当たらない。大声で怒鳴りあう両親の姿を前にすると、美緒は自分がみすぼらしく汚れた生き物のように感じ、自分が知らないうちに彼らの気分を悪くしてしまったのだろうか、と罪悪感を覚えた。
 泣きながら小さな頭を混乱させている美緒に、祖母は黙ってポットからお茶を注いでくれる。美緒は湯気の立つ湯呑みを両手で包み込んで、飲めるくらいに冷めるまで待ちながら、一緒にラジオを聴いていた。
「見せてあげようか」
 唐突に祖母が言う。いつものことだ。美緒は頷く。すると祖母はラジオにいざって近づき、裏蓋のねじをゆるめて外してしまう。機械の中身があらわになる。美緒は興味しんしんで中を覗きこむ。そして毎回、どうしてこんな何かの塊と紐がつまっているだけなのに色々な音がするのかと感心する。
 装置の隙間に押し込むように、白い小さな陶器の器が隠れている。祖母は美緒にひっそりと笑いかけてからそれを取り出し、蓋を開けて、中に入っていた小さな耳かきで中身をすくい取り自分の湯呑みに入れた。そしてまた恭しい手つきで中に戻し、裏蓋を閉める。
「ねえ、それはなに?」
 美緒が尋ねる。その頬にもう涙の気配はない。
「秘密」と、祖母は何気ない感じで呟く。
「これは大人のものだから。小さな子がちょっとでも舐めてごらん、死んでしまうよ。おばあちゃんは大人の大人だから大丈夫だけどね、それでもほんの少しだけ」
「それ、おいしいの?」
「もちろん。すごくおいしい。毒だけどね。年を取るととにかく口寂しくなって、ちょっとはこういうものが必要になるんだよ」


 今まで何度、それをこっそりと舐めてしまおうと思ったか分からない。
 男の膝の間にすっぽりと収まって、大きな手で髪を撫でられながら、美緒はふとそんなことを思い出していた。男の部屋に置いてあるアンティーク風のラジオを目にしたせいだ。飽くまでアンティーク「風」でしかなく、あのラジオが持っていた風格のようなものはまったくないけれど。
「ラジオ、聴くの?」
 訊ねると、男はいったい何の話かというような顔をしてから美緒の視線の先をたどって気がつき、
「ああ、あれ。カッコいいから買ったんだけど」と言う。
 そうは言ってもチェッカー模様のベッドカバーだの、真っ赤な絨毯だの、ガラステーブルだの置いてあるこの部屋には明らかに不釣合いじゃない。美緒は思うけれど、男は別に統一感なんか気にしないのだろう。そういうタイプだ。
 そこで突然、携帯の派手な着メロが流れる。お互い無視しようと努めるけれどそれはいつまでも鳴り止まない。男はとうとう髪を撫でている手を止めて、「それ、取れば?」と無表情で言った。別に怒っているわけでもないらしい。
 携帯を見ると、実家からの着信だった。美緒は留守電が応答したのを確認してからサイレントモードにしてしまう。電源を切れば後から追及されて面倒なことになる。それから携帯を遠くのクッションに向かって投げた。
「ねぇ、ごめんね?」
 座っている男の膝の間に再び座り込む。首をかしげて男を見上げると、そのまますぐに抱きしめられた。相手の鼻先が首筋に当たってくすぐったい。その感覚に美緒は思わず笑ってしまう。そして相手の手が髪や肩、背中を撫で下ろしていくのに軽く身をよじったりしながら、男の肩口やシャツの裾に唇をつけて、ついばんだりする。落ち着きなく唇であちこちにふれるのはこういう時の美緒の癖だ。それに慣れていない男は苦笑する。
「なんだか動物みたいだな」
「そうかも」美緒もくすくす笑う。
「だって、こうしてるととにかく口寂しくなっちゃうんだもの」
 そう言ってゆったりと足を崩す。まるで写真家が細心の注意を払ってととのえたみたいに、スカートは扇情的にはだけて、そこから形のよい太ももがすらりと伸びていた。
 精巧な作り物みたい。そう考えた瞬間に、男の唇が美緒の唇をふさぐ。反射的に目を閉じると、予想通りに男の手は太ももに触れ、ゆっくりと撫で下ろしていく。
 でも仮にあの粉を舐めたところで、今の私では死ねないのだろう。
 男の唾液を飲み下しながら、美緒はそう思った。


 マンションの部屋に戻り、夕食の準備をしようとしてようやく、美緒は留守番電話のことを思い出す。携帯を開くと着信が五件あった。全て実家からだ。ざらついた嫌な予感が胸を覆う。
 一番新しい留守電を確認すると、母の硬質な声が流れてきた。
「美緒。ついさっき、おばあちゃんが亡くなりました。お通夜は明日ですが、今日帰ってきなさい。駅につく時刻を連絡して」
 おばあちゃんが亡くなりました。
 一度脳内で反芻してから、そうか、と思った。
 そして、そうか、とだけ思った自分に嫌な気分になった。でもいつか死ぬことは分かっていたのだ。

 結局、美緒が帰ったのはその翌日だった。実家では母と叔母たちがお通夜の準備で忙しく走り回り、父や叔父たちは集まって酒を飲んでいた。何もかも旧式の、田舎の家だ。葬儀も家でやる。
 祖母の遺体は奥の和室に安置されていた。大きな布団の中でドライアイスに挟まれたそれは、一人ぼっちに置き去りにされている。年下の従兄弟たちの相手も面倒だったので、美緒はずっと祖母の傍に座っていた。遺体について、恐ろしいとか気味が悪いとは思わない。寧ろここでは自分の存在が不適切なのではないかと感じて、それから思わず苦笑した。
 死人に気を遣っている。生きているときは思い出しもしなかった癖に。
 この家の誰も、祖母の死を悲しんでいなかった。お通夜も葬式も単なる儀礼に過ぎない。仮にも八十年以上生き、子どもたちを生み育て、それほどの迷惑もかけずに命を全うした人に対して、それは冷たすぎる仕打ちのように思える。
 美緒が中学生になる頃から、祖母はもう既に家中から「居ないもの」として扱われ、ほとんど置き去りにされていた。美緒自身も祖母の部屋に行くのを止めた。男の子と遊ぶようになってからは、ラジオも祖母も、古臭くてまどろっこしく退屈な存在でしかなくなってしまったのだ。そして祖母は認知症の兆候を見せ始め、老人ホームに入れられて、ほとんど何も分からないまま十年近く生き、死んだ。その死はこの家の誰にとっても重みを持たない。
 でも自分だって祖母と同じなのだ、と美緒は思う。私だって、ここでは半分「居ないもの」として扱われている。高校時代、教師にも友人にも気づかれないような形で、いつも何かしら異性との問題を起こしていた。両親は気づいていたけれど何も言わない。成績さえ優秀で表面上問題がないように見えれば、それは彼らにとって問題がないということなのだ。私が進学を機に家を出たときには、寧ろ安心したみたいだった。
 ここはそういう場所なのだ。義務と建前だけで成り立っている場所。必死で体裁をととのえているだけあって、外からは随分見映えがする。でもその内側の何もかもは、腐っていくように宿命付けられている。音もなく静かに、けれどなにひとつ漏らさず徹底的に。
 それに、自分にだって祖母を悼む資格なんかない。
 だって私は祖母が死んだその瞬間、男の子とセックスしてたんだもの。虫の知らせとかそんなものは一切なかった。それともあのラジオが目に入って記憶が蘇ったのは、虫の知らせのようなものだったのかしら。でもこの数年、おばあちゃんのことを思い出しもしなかった。たぶんこれからだって何年でも忘れていたと思う。
「私、ここに居て迷惑じゃない?」
 念のため訊いてみる。祖母からの返事はない。でも、空気は奇妙に優しい。死人にはもう本当になにもないからなのだろう。羨ましい、と美緒は思った。誰かが彼女の死を、心から悼んであげるべきなのに。そういう資格を持った何者かが。

 納骨が済んでしまうと、すぐに遺品の整理が始まる。美緒は帰ることにした。果たすべき義務は終わった。この家にいるとどうしようもなく息苦しい。そしてその息苦しさに侵食されて、どんどん無感覚になっていく気がする。ここは何も変わっていない。置き去りにしてきたつもりの何もかもが、未だそのまま維持されていることに、ひどく疲れてしまう。
「美緒」
 帰る支度をしていると、母親がやってきて生真面目な顔つきで言った。
「おばあちゃんの遺品、欲しいものがあったら持っていって。残りはこっちで処分するから」
 要らない。そう答えようとしたけれど、なんとなく面倒くさいやり取りが予想されて、美緒は黙って祖母の部屋に行った。長い間窓が締め切られていたせいだろう、むっとするようなかび臭さがたちこめている。
 机の上にはあのラジオがあった。二度だけ訪れたホームの部屋でも見たことがあるから、祖母と一緒に帰ってきたのだろう。長い間手入れをされなかったのか、すっかり艶を失っている。あるいは持ち主が他界したためにふさぎこんでいるのかもしれない。
 ラジオを引き取るべきかどうか美緒は一瞬考えて、必要ない、と思う。祖母と一緒に燃やすべきだったのだ。あれだけ大切にしていたのだから、きっと何か思い入れがあったに違いないけれど、祖母は焼かれて骨になっている今では、知る機会は永遠に失われてしまった。
 形見として引き取るには何かが重すぎる。母親が適当に処分してくれるだろう。そう思いそのまま部屋を立ち去ろうとして、美緒ははっと思い直す。
 ラジオに近寄って裏側を覗き込む。適当にネジをゆるめると、裏蓋は簡単に外れた。内部にはうっすら埃が積もっている。そして小さな陶器の器が隠されていた。
 器は汚れひとつなかった。蓋を開けてみる。そこに入っていた粉末の分量は、あの頃に比べて随分と減っているように見えた。
 いったいこれは何なのか。成長した美緒が見ても正体は分からない。砂糖や塩よりもずっと細かくて、わずかに緑がかっている。特ににおいはない。まさか本当に毒ではないだろう。ドラッグ? 祖母がそういうものを手に入れていたとは考えにくい。結局、その正体も祖母と一緒に失われてしまった。
 舐めてみれば分かるかもしれない。
 ふとそう思って、苦笑する。舐めたって分かるわけがない。なんの知識もないのに。でもその考えは消えてくれない。
 そう、分かる分からないよりも、私はただ単に、舐めてみたいだけなのだ。
 陶器の蓋を机において、小さな耳かきでそっと粉末をすくい取り手のひらに乗せる。気がつくと手は震え、呼吸は乱れている。馬鹿みたい。こんなの本当に毒であるはずがないのに。そう思っても、心臓はどきどきと高鳴っている。
 美緒は舌をそっと突き出して、先を手のひらにつけた。
 想像していたような刺激は、なかった。でもひどく苦かった。えぐみと言うべきか。舌先にその感触が強烈に残っている。
 心臓の鼓動が緩み意識が奪われる瞬間を、美緒はじっと待ってみる。でも何も起こらない。何の変化もない。やがて舌先の違和感も薄れていき、同時に緊張も緩んでいく。安心したような、残念なような。
 もう少したくさん摂れば、あるいは。
 美緒は陶器の器を手にして、一度立ち上がった。でも部屋を出る辺りで思い直し、元通りラジオの中にしまいこんで、裏蓋を閉めた。
 これこそが祖母と一緒に燃やされるべきものだったのだ、と思う。これは祖母の秘密だ。えぐく苦く、あるいは致死性を秘めた、彼女の内側に確かな位置を占めていた秘密なのだ。
 美緒は部屋に戻り手早く荷物をまとめると、そのままそっと家を抜け出した。
 歩きながら携帯で男に電話をかける。男が電話に出た。会える? と美緒は聞く。遅くなるけど、今から帰るから。
 でも、そっちは大丈夫なの? と男がらしくもなく常識的な気遣いをする。
「いいの」
 美緒は通話を切ると自嘲気味に笑った。

 静かに殺されていく人間はいつだって、とにかく口寂しくて堪らないのだ。




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