・記憶+崇拝+粉末/消えた国の王女様/猫瀬
少女は毎夜のこと、繰り返し夢をみた。
「○○様、おはようございます」
「今日も美しいことで、○○様」
「愛してるわ、○○」
みんながそう言って少女に笑いかけるが、肝心の名前が思い出せなかった。
夢の世界は温かく、眠るベッドはどこかの貴族のようだった。優しい腕に抱かれ、愛を受け、少女は笑い、何かを感じたがその感情も思い出せなかった。
すべてが遠い、儚い。
そして、いつも夢の最後には彼がこう言うのだ。
「○○様……君は僕が守るよ」
「あなたは、だあれ?」
少女がそう口にした時には、すでに現実だった。
夢の世界とは正反対で冷たく、風の入り込む地下室。入り口では雇い主が静かに少女を観察していた。
「起きたか、スノー」
「はい」
「早速仕事だ。外に出ろ」
「はい」
少女は布団代わりにしていたボロボロの外套を羽織ると、錆びた鉄の扉を開ける。
「ついてこい」
「はい」
雇い主の男は少女を見ずにそう命じ、少女も空腹を抑えてその後を追った。
外に出るとやけに寒く、朝から雪も降っていた。まだ積もってないあたり降り始めなのだろう。
(私と同じスノー。だけど、違うスノー)
少女は自分もこの白い雪のようなスノーならいいのに、と強く思った。
「夢を見ていたのか」
そんなことを考えていたところに、前を歩く雇い主がそう少女に訊ねる。
「はい……たぶん、夢です」
「ふっ、過去の栄光と崇拝にでも浸っていたか? まぁ夢の中でならお前も自由だ」
雇い主は少女の過去について何か知っているようだったが、少女は記憶がないままだった。昔の自分のことも知らされていない。少女にとっては現在がすべてだった。
「だが、現実は自由じゃない。仕事はわかっているな」
そこで雇い主は初めて少女に向き合い、そう釘をさした。
「はい」
少女は静かに頷くと、雇い主からひとつの皮袋を受け取る。中身は見なくても知っていた。白い雪のような粉末。少女は口にしたことがなかったが、これを身体に取り込むと気持ちよくなるそうだ。そして、とても高価なものだった。だから商売にもなる。
「黒いハットを被った西の国の男だ。嗅ぎつけられたらすぐ逃げろ。落ち合いは指定の場所だ」
「はい、失敗はしません」
少女の返事を聞くと雇い主はよしっと軽く背中を叩き、元来た道を帰っていた。
少女の目の前には古臭い酒呑み場。外からは営業をやっていないように見えるが、その扉を押すと軽々と開いた。
少女の仕事は粉末を指定の相手に渡し、金を受け取る。それだけ。
か弱い彼女がやるのは、取締官の目を少しでも油断させるためであった。
店内にはほとんど客がいなかったが、奥の方に黒いハットを被った長身の男がみえた。
(きっと、あの人が相手だ)
少女はそう思い、こちらへ近づいてくる男に一瞬戸惑ったが、すぐに近くの椅子に座ることにした。そして、男もすぐ少女の隣の椅子へ腰を掛ける。
「あんたが取引相手か」
「はい」
「中身を確認させてもらう」
男は思ったより少年らしい声色でそう言い、右手を差し出した。
少女は皮袋を渡す前に一度男の顔を確認した。黒いハットを被った、男の、西の国の人間?
「えっ……」
少女は思わず声をあげた。男の顔つきは西のそれではなかった。そして、顔立ちも声色と同じ少年であった。
「どうした」
「ダメですっ!」
困惑する少女へ少年が声を掛けると、少女は小さく叫び、店を出ようとした。だけど外套をしっかりと掴まれていた。
「取締官だ。一緒に来てもらおうか」
嗅ぎ付けられていた。少女は失敗したのだと確信した。
少女は両手を力強く掴まれ、身動きが取れなくなると、フードを乱暴に捲られる。
「あなたは……」
少女の顔を見た少年がひどく驚いた。少女もゆっくりと顔をあげた。
男の顔をよく見ると、それは夢の最後に出てくる彼だった。
「アリナ様……」
そうか。あぁ、そうか。
その時、少女はやっと昔の名前を思い出した。アリナという名前を。
その後、少年はアリナの手を引いてどこまでも、どこまでも逃げた。
アリナが「お腹が空いた」というと彼は懐から干し肉を取り出し、それをアリナにやった。
「いいの? 逃げたりなんかして」
「いいのさ! 取締官なんて国民に嫌われるような汚い職だし、イース国が侵略されてからあの国でいいことなんかひとつもなかった。アリナ様もそうでしょ?」
アリナは少し迷ったが、すぐに頷く代わりに繋いでる手を強く握り返した。
いいことなんてなかった。ゴミのように扱われ、薬の隠語で呼ばれ、雇い主のために働く日々。今頃雇い主は怒っているだろうか。もしかしたら捕まるかもしれないと怯えているかもしれない。
しかし、そんなことは彼の背中を見ていると、どうでもいいことのようにアリナは思えた。
まるで夢のように、そして現実は自由になった。
「アリナ様どこへ行きたいですか?」
「あったかいところがいい」
「そうですね、イースは冬も暖かい国でしたから」
楽しそうな少年の言葉に、アリナは夢の中のように笑い、少年に心の中でお願いをした。
――今度は、ちゃんと守ってよね。