◆花びら×記憶×崇拝/血色の花/山田一人
初めて“あの方”に出会ったのは小学生のときでした。
学年が変わったばかりでしたから春だったと思います。まだ寒さが残る中、私は一人で下校していました。クラス替えで仲の良かった友達がみんな違うクラスになってしまいましてね。当然下校の時間も微妙にずれてしまうのですが、友人は私を待たずに同じクラスの仲間だけで帰ってしまったのです。
当時はひどいやつらだと思ったものですが、今となってはよかったですね。ええ、一人で下校しなかったらあの方に会えなかったかもしれませんから。
少しやさぐれた気分で歩いていた私は気分を変えていつもと違う道を歩くことにしました。一応、放課後は友人と遊ぶ約束をしていたのですが、彼らに対する憤りから遊ぶ約束を無視してしまおうと思ったのです。
いつもとは違う場所で曲がり、見慣れぬ道を進みました。人気はなく、なんとなく薄暗さを感じる道でした。
不気味でしたがワクワクしながら歩きました。冒険をしているような感覚だったのだと思います。
長い一本道でした。しばらく歩いていると前方に何やら赤い物が落ちているのが見えました。完全に冒険をしているつもりになっていた私はきっと宝物に違いないと、赤い物がある場所まで駆けました。
ある程度近づくと異臭が鼻につきました。最初はそこまで気にならなかったのですが、近づけば近づくほどに異臭は増していきます。このまま引き返そうかとも思いましたが、私はハンカチで口元を押さえながら進むことにしました。
その赤い物は花でした。血のように赤い花びらがとても綺麗で私は少しの間それに見とれてしまいました。
しかし、その花が咲いている場所があまりにも異様すぎて私は我に返りました。
猫でした。正確には猫の死体でした。腹部が裂かれて周りは血が乾いた跡で染まっていました。傷口からこぼれるように垂れている内蔵は干からびつつあります。今にも飛び出してしまいそうな眼球と顎が外れんばかりに開かれた口。その口内から血色の花が咲いていたのです。
◆
刑事は自分を見下ろす男を睨みつける。強がっているが、その表情は完全に怯えきっており、男もそれを見抜いていた。
「分かったぞ……。お前は俺にも……」
「それ以上言わないでください。ただ、あなたは静かに話を聞いていればいい。すぐ終わります」
しかし刑事はわめき続け、暴れる。だが両腕と両足が縛られて思うように動けず、もぞもぞとするだけ。
「怯えると口数が多くなるのはしょうがないことですが、話を続けるのに少し支障がありますね」
男は銀色のそれを光らせた。だがそれは逆効果だった。刑事はさらにうるさくわめき散らす。
「しょうがないですね。このまま話を続けることにしましょう」
◆
すごい……。
私はその光景を見て思わず呟きました。
すると、後ろから声がかかりました。「どうだい、綺麗なお花だろう」と。
背中から私を包み込むような生温かい感触。何もないのに何かがあるような錯覚。しかしそれは錯覚などではありませんでした。なぜなら、それこそが“あの方”だったのですから。
「君が好きな花はなにかな」“あの方”は問いました。元々花に興味のなかった私は適当にバラだとかユリだとか知っている花の名前を上げました。
「では、今言った花と目の前で咲いている血色の花、どちらが綺麗だと思うかな?」
あの花です、と血色の花を指さしながら言いました。本心からの言葉です。猫の死体を含めても、あの花の美しさは筆舌に尽くしがたいほどのものでした。
「私は美しいものが好きだ。とにかく美しいものが見たい。究極に美しいものが、だ」
確かに、美しいものは素晴らしい。私はこの時すでにあの花の虜になっていたのかもしれません。ただ、“あの方”の言葉に頷き続けます。
「だから、私は醜いものは嫌いだ。だが世の中には美しいものは少なく、醜いものばかりが広がっている。そこに転がる動物もそうだ」
猫は可愛い動物だと私は思っていましたが、“あの方”は容赦なく醜いと言い切りました。
「だが、動物なんてまだいい。一番醜いのは人間だ。この世界でもっとも醜い」
私は少し怖くなりました。私も人間です。だから猫のように腹部を裂かれてしまうのではないかと考えてしまったのです。
「大丈夫だよ。君には何もしない。君のような子供はまだ穢れていない。大人のように醜くはない」
その言葉を聞いて私はほっとしました。私は、醜くない。
「話を戻そう。動物は醜いが、美しく変貌を遂げることもできる。この猫のようにね」
醜い猫も、今では見とれてしまうほど綺麗な花になっています。“あの方”の言うとおりです。
「私は美しいものが好きだが、ただ美しいだけのものがいいというわけではない。醜かったものが美しいものに変わる。それが至高だと思うのだ」
気がつくと夜のように暗くなっていました。ですが学校を出てからまだ一時間も経っていないはずです。
死んだはずの猫の目が不気味に光りました。黒いもやもやとした大きな手が優しく猫を――否、花を包み込み、持ち上げます。
私はその言葉に同意しました。すると“あの方”は嬉しそうに言いました。「理解を得られて嬉しいよ。偶然だったが、出会えたのが君でよかった」
私も、あなたと出会えて嬉しいと答えました。
辺りを包みこんでいた何かが離れていくのを感じました。“あの方”は花を持ってこの場を去ろうとしていたのです。急に不安な気持ちが私の胸に広がっていきます。
待ってください! 私は思わず叫んで“あの方”を呼びとめました。私はもっと美しいものを見たい。あの花をみたい。と思ったことを全て口に出しました。
「そんなに、この花が気に入ったのかな?」
あの方は花を私の眼前に近づけました。既に異臭は気にならなくなっていました。ただ、その花の美しさに圧倒されるのみです。
「確かに君のような子供がこのまま醜い人間に成長してしまうのは悲しい」
私は醜くなりたくない、あなたに嫌われたくないのです。そう叫びました。
「醜くなっても、美しくなれる。この猫のように」
私は醜くなりたくないだけで美しくなりたいわけではありません。美しいものを見たいのです。
「よかろう」
そう言って“あの方”は花を持ってすぅっと消えていきました。ですが、もう不安はありませんでした。私はこれから“あの方”と一緒なのですから。
それから私は“あの方”色々なことを教えてもらいました。なぜ動物が醜いのか、なぜ花は美しいのか。だが私が知りたいのはそんなことではありませんでした。
それから一年くらい経った頃でしょうか。ついに“あの方”は私に教えてくれました。あの花の咲かせ方を。
「これを見てごらん」
あの方は手のひらに置いた赤い種を私に見せました。
「これが花の種だよ。醜い生き物を養分にして、花が咲く」
あの方はこの種を持って死んだ子犬の腹部に手を潜り込ませました。あらかじめ刃物で裂いてあるため、中に手を入れるのは簡単でした。ただ、血がたくさん飛び散るのが難点です。
「まずは胃の中に種を一つ。これは絶対だ。次に中を探って他の臓器に触れるんだ。すると醜さのあまり鳥肌が立つようなものがある。その臓器の中にまた種を入れていく」
入れる種が一つではないのが以外でした。でも今まで見てきたあの花は全て一匹につき一輪だけです。
“あの方”は手をごそごそと動かして色々な臓器に種を植え付けます。血はあたりに飛び散り、種を植え付けなかった臓器が飛び出たりしましたが、慣れてしまったのか何とも思いません。
「これでよし」
必要なだけ種を植え付け終えた“あの方”は子犬の腹部から手を抜くと、その場で放置しました。小さな公園の片隅、雑草に隠れて人には見つからないはずです。
「明日になればきっと綺麗な花が咲く」
“あの方”は嬉しそうに言いました。
子犬の傷口がびちゃびちゃと音を立てて蠢いていました。
翌日、子犬の口から血色の花が咲きました。なんて美しい色をしているのでしょう。その花弁の一つ一つに宿る魔性が私を虜にしているような、そんな錯覚を覚えます。
「素晴らしい。あれほどまでに醜かった子犬がこんなにも美しい姿に変わるなんて」
拍手をしながら“あの方”は言いました。手と手が触れると音と同時に周囲の空気が黒く歪みます。花はそれに同調するようにうねうねと動きました。まるで舞っているようなその光景に、私はさらに興奮しました。
「そろそろ、だな」
なんのことでしょうか。私は“あの方”に問いました。
「次は君の手で花を咲かせるのだ」
“あの方”は優しく私を包み込みました。
◆
「それがこの種ですよ」
男は刑事に花の種を一瞬見せると、ポケットにしまった。
「おい、よく見えなかったぞ!」
刑事は叫ぶ。
「まだ種を植える段階ではないですからね。また後で見られますよ」
やれやれと言った感じで男は答えた。
「お前はあいつにもその種とやらを植えたのか?」
刑事は自分より少し離れた場所で倒れている同僚の方を見ながら言う。
「ええ、とっくに植えましたよ。次はあなたです。まあ、話の続きをしながらゆっくりと作業を進めましょう」
男は語りを再開した。
◆
それから数日後、私は“あの方”と一緒に小学校に来ていました。零時を回っているため、周りには私たちを除いて誰もいません。
私たちはウサギ小屋の扉を開けて中に入りました。放課後にこっそりと鍵を空けておいたのです。“あの方”のただならぬ雰囲気を感じ取ったのかウサギたちは一斉に隅へと逃げ出します。
「一匹選ぶのだ。なるべく醜いものが好ましい」
私は言われた通りにウサギを一匹選ぶと、両手で持ち上げました。“あの方”と違ってウサギが醜く見えるわけではないのでどれが一番醜いかどうかなど分かりません。だから適当に選んだのですが“あの方”は特に何も言いませんでした。
ウサギを抱えて小屋を出ると、敷地内の隅に移動しました。塀の陰で私はこのウサギに種を植えるのです。
ナイフを取り出し右手で握ると、左手でウサギの首元を押さえます。そして腹部にナイフの刃を差し込みました。ウサギが暴れるので左手の力を強めますが予想以上に力が強く、うまくナイフを扱えません。
なんとか握りなおすと、ナイフを下に引きました。うまく切り裂けませんが無我夢中になってナイフに力を込めました。
気がつくと辺りは血だらけ。私の服も真っ赤になっていました。ウサギはピクリともしません。息絶えています。
「腹を開いてみるといい」
私はナイフで切った部分を開きました。
「うまく切れなかったようだな。内臓に傷がつきすぎている。だが、初めてだからしょうがないことだ。気にせずに進めよう」
私は傷口に手を入れると胃袋と思われる臓器に穴を開けて種を一つ植えました。次に他の臓器もゆっくりと触ります。触った瞬間にゾクリとした臓器に種を植えると、中から手を抜きました。両手とも真っ赤に染まって自分のものとは思えませんでした。
「これでいい。あとは明日を待つだけだ」
私は水道に行き手を洗うとあらかじめ持ってきていた替えの服に着替えました。作業中に来ていたのは元々捨てる予定だった服なので帰る途中にゴミ箱に捨てました。
翌日。学校ではウサギの死体が転がっているということで騒ぎになっていました。昼休みに遊んでいる生徒が発見したそうです。
先生が来る前に私はウサギの確認をしに行きました。
“あの方”が植えたものほどではないですが綺麗は花が咲いていました。少し濁った血の色でしたが、自分が咲かせたということが関係しているのか何とも言えぬ感動を覚えました。
先生たちが来るとすぐに花を片付けてしまいましたが、気にならなくなっていました。
それから“あの方”に教えてもらいながら何度も何度も花を咲かせ続けました。
色々な種類の動物を花に変えたと思います。咲かせれば咲かせるほど花弁の色は洗練されたものになり、私はその美しさに酔っていきました。
◆
「そんなことは分かってるんだ!」
刑事は叫んだ。
「お前が近所の動物を殺しまわって一度警察沙汰になっているのは分かり切っている」
「殺した、では少し語弊がありますよ。最終的に花になったのですから」
「殺したんだよお前は。大量の動物、そしてに――――」
男は手に持った包丁で刑事の腹を突き刺した。断末魔の叫びが響き渡る。
「これでは私が何を言っても聞こえないかもしれませんね。だけど、続けますね」
血に濡れながら、男はまた口を開く。
◆
話は私が大学生のときに飛びます。
“あの方”曰く、私は同年代の人間の誰よりも穢れていない、醜くない、とのことでした。
それも全て“あの方”のおかげです。私は充実した生活を送ることができていました。
ある日、“あの方”は言いました。
「この時を待っていた。お前はこの世に存在するどの人間よりも美しい」
それは前にも聞きました。この時を待っていた、とはどういうことなのでしょうか。
「お前が咲かせる花には私が咲かせる花とは違う魅力がある。そんなお前が最も醜い生き物で花を咲かせたらどうなるのか……。私はそのことばかり考えていた」
つまり人間を花に変えるときが来た、ということでしょうか。
「成長したその頭脳と体躯ならば人を花に変えることも問題なくできるだろう」
正直、私も動物から咲かせる花の美しさに限界を感じていたところでした。“あの方”に言われる前から人間という新たな花の媒体に興味を示していた私としては願ってもない提案でした。
私は同じゼミのNという男に目を付けました。今まで接してきた人間の中でもひと際性格の悪い男でした。“あの方”でなくてもやつが醜いことが分かります。
美しく変えるならこの男しかない。私はそう思いました。“あの方”も同意してくれました。
Nは普段から周りに嫌われて距離を置かれているので表向きだけでも仲良くなるのは簡単でした。何度もNと飲みに行き、彼は完全に私を親友だと思い込んでいました。
ある日、私の家で呑もうとNを誘いました。Nは二つ返事で了承します。この時点で彼の運命は決まったも同然でした。
Nが浴びるように酒を飲んで勝手に潰れてくれたのは好都合でした。私は風呂場に彼を引っ張ると、浴槽の中に放り込みました。
風呂場が薄暗くなっていきます。黒いもやが充満し、私を包み込みました。“あの方”が私に包丁とハンカチ、ロープを手渡しました。
私はNの両手両足をロープで結ぶとハンカチを丸めて口に詰め込みます。そして彼の服を包丁で切り裂き腹部を露出させました。
さあ、もうすぐです。私が彼を花に変えるのです。“あの方”のために、そして自分のために私はNに突き刺しました。
Nの目が大きく見開かれました。ハンカチ越しに声にならない声を上げ、身体をじたばたと動かします。私は馬乗りになってNの動きをなんとか押さえながら包丁を下に引いていきます。初めてウサギに種を植えたときのことを思い出し、感慨深い気持ちになりました。
Nが息絶え、動かなくなったことを確認すると、私は種を持って腹部に手を入れました。今までの動物よりも大きな身体、大きな臓器に圧倒されながら胃袋に触れ、穴を開けて種を植え込みました。そして今までと同じように他の臓器の中にも種を植えると、身体を洗って寝ることにしました。
翌朝。目を覚ますと部屋の中に異臭が立ち込めていました。動物のとき以上の臭いです。
風呂場を見てみると、そこには今まで見た花のどれよりも大きく美しい血色の花がNの口から咲いていました。私はあまりの美しさに口をぽかんと開けながら膝立ちになって見とれていました。
“あの方”が現れ、盛大な拍手をします。風呂場が歪み、花が舞うように揺れます。“あの方”の喜びがこれまでにないくらい私に伝わりました。
「素晴らしい……最も醜い人間を最も美しい人間が花に変える……ここまでとは……」
私は自分が咲かせた花の美しさと“あの方”の喜びが自分の喜びとイコールになっていることに今更気付きました。
私は、私はもっと美しい花を咲かせられる。
それから私は対象を動物から人間に変えて花に変え続けてきました。気づけば大学にもいかなくなってしまいました。
今までの人間の写真がありますよ。ほら、見てください。写真は八人目まで。九人目があそこで咲いている大きく美しい血色の花です。確かあなたの同僚でしたね。ほら、綺麗な花でしょう。あんなに美しいもの、他では見られませんよ。
◆
男は離れた場所で倒れた刑事の同僚を指さして言った。その手は刑事の血で真っ赤に染まっていた。
「……あ……が……」
刑事は呻く。
「あなたのお腹も切り終えましたし、次は種を植えますよ」
男は写真をしまうと、代わりに別の何かを取り出した。
「ほら、見てくださいよ。さっきよく見えないって言ってたでしょう。ほら、これが種です」
男は何かを摘まんだ指先を刑事の眼前に持っていく。
「な……も……ない……じゃ……」
「え? よく聞こえませんよ」
刑事は辛そうな表情で大きく息を吸う。
「何も……ないじゃ……ない……か……!」
「何言ってるんですか。よく見てください。でも、意識が朦朧としているなら無理ですよね」
男は指先を刑事の顔先から離した。
刑事はぜえぜえと荒く呼吸を続けながら首を倒れている自分の同僚に向けた。
「死ぬ前に花が見たくなったのですね。よく目に焼き付けて天国に行ってくださいね。あんなに美しいものは天国でも生まれ変わっても見られないでしょう」
「……ない」
刑事は腹部を裂かれて死にかけた状態とは思えないほど大きな声で言った。
「花なんてどこにも咲いてな…………い……――」
血だまりの中で、全ての力を使いきったように刑事は事切れた。
「やっぱり……意識が朦朧としていたのですね。見えなかったなんて、残念です」
男は哀れむような目で刑事を見下ろしながら言う。
「さて、種を植えましょうか。この人はどんな花を咲かせるのでしょうか」
男は刑事の腹部に両腕を沈めた。臓器が血と混じりぐちゃぐちゃと不快な音を立てる。
一心不乱に体内をかき回すと、男はゆっくりと腕を腹部から引き抜いた。
「さて、この人はどんな花が咲くのでしょうか」
臓器の位置、形がめちゃくちゃになった刑事の赤黒い体内が蠢き始めた。黒さが少しずつ増していき、全てが混ざり合っていく。
それは黒いもやに変わり、そのもやの中で二つの目が開いた。
「きっと美しい花が咲くだろう。あそこで咲いた花のように」
「そうですね」
黒が、辺りを包み込む。
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〆切を二時間過ぎた状態でアップしてしまいました。遅刻です。ごめんなさい。
読んでいただきありがとうございました。