Neetel Inside 文芸新都
表紙

くじで出たお題で小説書こうぜ企画
Noise/シンプルノイズ/猫瀬

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 音のない世界に連れて行くのは、決められた旋律だけでいい。
 
 今日も僕の左耳を支配するのは音楽だけだ。
 あの日から僕は他人との付き合いとか馴れ合いとかは放り出した。僕が求めたのは孤独であって、音楽であったからだ。
 あいつらだって分かってる。だから長い間無視してやれば自然と僕の目の前から消えて行った。それは当たり前のことで、僕は彼らのことを薄情者だとは言わない。わざわざ違う世界に行く僕を追いかける必要なんてないんだ。話し相手ならまた作ればいい、遊び相手なら他のやつを誘えばいい。だから彼らは消えたのだ。だから僕は消えたのだ。
 
 だって、僕はここにいない。
 
「僕は今日限りで消えることにするよ」
 そう僕はいつものように悪戯っぽく笑って、あの日彼女に言ってやった。
 彼女は意味ありげな表情で一度こくんと頷いたが、僕にはその頷きの意味がわからなかった。今だってわからないんだ。彼女はたしかに頷いたのに、今この瞬間、彼女は目の前にいる。そして、下手糞な笑みを浮かべて、今日も僕に訊ねる。
 
「何の音楽聴いてるの」
 
 僕はそんな言葉、最初から無視してやるつもりだった。それがわかっているのか、彼女は僕の返事を待つのではなく、強引に僕の使っていない右耳のイヤフォンを奪い取って自分の右耳につけた。
 イヤフォンなんてものは首一回り分の長さしかないものだから、自然と僕達の距離は近いものになる。ほら、彼女の小さな肩が僕をつっついた。僕は嫌そうな顔をしてやったけど、彼女はそんなのお構いなしに右手で右耳を押さえて、僕の音楽を聴いていた。

「エロイカだ」
 
 彼女がその言葉を発すると、なぜか幻想的に響いた。
 たしかに僕の左耳は第三だけが支配しているのに、彼女が横にいるとそれは全く聴こえなくなってしまう。ただ彼女の声だけが深くイヤフォン越しに響くのだ。まるでそれはテレパシーのように。
 彼女はきっと僕にとっての雑音だ。音楽だけの世界に紛れる、不規則な音。
 僕はそれが決して嫌いではなかったけど、時間のない僕には必要なものではなかった。それはひどく優先順位の低いものだ。人の声なんて歌でもなければ何も価値はない。耳の聞こえる人間たちは失うことを知らないから、コミュニケーションとして声を発し、聞き取るに過ぎない。
 音のない世界に行く僕には、もう必要のないものなんだ。手に入らなくなるものなんだ。もうすぐ価値のなくなる紙幣を、誰が欲しがる。僕は短いあいだの裕福の時より、新しい紙幣を手に入れて、新しい世界で生きていきたい。
 
 どうか辛いことがないように。
 
 僕は彼女にイヤフォンを返すよう要求したけど、彼女はまたあの下手糞な笑みを浮かべてそれを断った。それだけではなく、僕に次の曲を流すよう求める。まだ聴き終わっていないのにも関わらずだ。なんて横暴っぷりだろうか。
 彼女の手が僕の身体をぽんぽんと叩く。あなたのiPodはどこ、とイヤフォンのコードを辿っていくではないか。iPodまで取られたらたまったものじゃない、僕は彼女が僕にそうしたように右耳のイヤフォンを奪い取ってやった。
 ああ、と残念そうな顔を浮かべる彼女を無視して、席をたった。
 どこいくの、と彼女は不安そうに訊ねる。僕は付いてくるなよ、とだけ言ってやった。それは突き放すつもりで言ったのに、それに反して彼女は僕の横を歩き始めた。
「どっか行け」
「いやー」
「離れろ」
「いやー」
 僕の左腕に彼女が抱き着いて離れない。こうされると僕と彼女では歩幅は違うから、少し歩きづらいんだ。
 彼女は僕が左腕が使えないことをいいことに、今度は左耳のイヤフォンを奪い取った。これでは音楽が聴けない。さっきから音楽なんて聴いちゃいなかったけど、これでは本当に聴こえない。代わりに彼女の細かい息遣いが僕の左耳を支配した。
「音楽ばっか聴いてないの」
「なんで」
「たまには人の声も聞きなさい」
「お前の声は覚えたよ」
「他の人のは?」
「人の声なんて雑音だよ」
「私のも?」
「そうだ」
「じゃあ、どうして私の声は覚えたのさ」
 僕はその理由を恐ろしいほど小さな声で口にした。自分の衰えた左耳では聞き取りづらいほどだったが、彼女の耳にはちゃんと届いたようで、横をみれば馬鹿みたいに嬉しそうな表情を浮かべてる。
「私も」
 きっと彼女には何を言ったって僕から離れない。他人とは違う雑音のような存在なんだ。

       

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