Neetel Inside 文芸新都
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くじで出たお題で小説書こうぜ企画
Wait/光るためにはうってつけの日/つばき

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◇Wait/光るためにはうってつけの日/つばき



「何を見てるの?」

 少女は暗い池のほとりに座り込んでいた。原っぱの真ん中にあるそれほど大きくはない池だ。蝙蝠のまとう影よりもずっと暗く、よどんでいて、覗き込んでも何も見えない。
 少女に声をかけたのは顔のない少年だった。真っ黒な影の中に鼻と思しき突起だけがある。少女は特に驚かない。顔のない人は時々居るものだと、昔母親から教わったことがあったから。実際に目にするのは初めてだったけれど。
「サカナを見てるの」
 少女が答えると、少年も隣にやってきてしゃがみこみ、池を覗き込んだ。
「真っ暗で、何も見えない」
 少年が言う。目がどこにあるのかわからないけれど、見えているんだな、と少女は思う。
「時々見えるの。光るサカナ。それは特別なサカナなの。いつもは泥の底にもぐりこんでいて、めったに浮かんでこない。ほんの時々だけ息をしに水面に出てくる。そうしたら池全部がぱあっと光る。すごくマブシイ」
 それを待っているの、と少女は言う。
「本当に? そんなの、聞いたことないな」
「ホントウ。だってお母さんが言ってたもの」
「僕はずっとこの辺りに住んでいるけど、そんな話知らない」
「ここはお母さんの生まれ故郷なの。だからホントウだと思う。お母さんがウソをついたことってないから」
「じゃあ、君はどんな風に生まれたか知ってる?」
「どんな風に生まれたか?」
 変な質問。少女が首を傾げると、少年が頷く。
「僕は小さい頃から顔がなかったんだ。どうしてなのかわからなかった。母さんに聞いたら、生まれてすぐに悪い犬が来て僕の顔を食べたって言ってた。でもそれは嘘だった。母さんは僕を生むときに顔を落としてしまったんだ。それはずっとずっと深い穴に落ち込んでいったから、もう拾い上げることはできない」
 少年は小さくため息をついた。もしも色がついていたならゆっくりと沈んでいくのが見えそうな、少し重みのあるため息。
「お母さんだって嘘をつくんだよ」
「じゃあ、君の顔はまだどこかにあるのね?」
「たぶん。どこか暗い穴の底に」
「でも顔がなくたって、君はとても自然に見える」
「僕もそう思う。だから、母さんを恨んではいないんだ。目がなくても見えるし、においもわかる。歌も歌えるし野球だって出来る。僕の身体はとびきり丈夫だ。顔なんて実のところ、それほど大したものじゃないんだって思うよ」
「ホントウにそう思う?」
 少女の問いに、少年は言葉を止める。時間に小さなしるしをつけるような短く確かな沈黙があった。
「いや、それは、時々は周りが羨ましくはなるよ。でも慣れてしまった」
「そう思えるようになるまでに、時間がかかった?」
 少女が丸い目で見上げながら訊ねる。少年は小さくうなずいた。
「一番辛いのは表情がないことかな。そればっかりはどうしても手に入らないから。でも、今頃顔が戻ってきても変な感じがするのかもしれないね。なんといってもそれは見慣れないものだから」
「私も、私の顔を見慣れてない」
「そう言われてみればそうだな」
 なるほど。と少年はどこか楽しげに言う。鼻のような突起がわずかにひくりと動いた。もしかしたら今笑みを浮かべたのかもしれないな、と少女は思う。
 話をしているうちに、世界はゆっくり夜に移っていく。紗(うすぎぬ)を重ねていくみたいに空の色がだんだんと深みを増し、太陽の気配は切なく遠ざかっていく。山の向こうで星がきらきらと降り始めたのが見えた。時間が重みをまといはじめ、空気の流れがゆっくりになっていく。
「私はごくフツウの生まれだと思う。そして、お母さんはウソをついてないと思う。でももしかしたら光るサカナはもういないのかも。泥の底で、長い長い眠りについているのかも。ずっとここで観察してるけど見つからないの。もうどこか別の池に移って行ったのかもしれないし」
 少女は言って、池を見つめる。暗い暗い池だ。底があるようには見えないくらいに、闇そのものの色をしている。落ちたらひとたまりもないだろうな。きっと浮かんでは来れないだろう。引きずり込まれてしまう。輪郭さえ溶け込んでしまいそうだ。サカナだって随分大変な思いをして水面までやってくるはずだ。あるいはもう、闇の中でチッソクしてしまったのかも。
 少年は何も言わずに少女の隣に座っている。やがて山の向こうからやってきた夜が、静かに世界を覆い始める。空に星が瞬きだす。深いアメジストの空に、淡い色合いの星が散りばめられている。
 琥珀色の三日月が一番東の方に現われた。それは時間をかけて少しずつてっぺんの方に移動しながら、次第に赤みを帯びた暗い色に変わっていく。何かしら不吉な色。
 蝕だ。月が隠されている。
「今日はサカナが光るためにはうってつけの日なのに」
 暗く赤い月を見つめながら少年が言い、少女はうなずく。
「今日はサカナが光るためにはうってつけの日なのに」
 少女が繰り返す。まるでジュモンみたいだ、と思う。キョウハサカナガヒカルタメニハウッテツケノヒナノニ。
 二人は期待して随分長いこと水面を眺めていた。そうしていると、知らないうちに気持ちが溶け合って、呼吸がひとつになっていた。同じように吸い、吐く。同じ場所をじっと見つめる。同じリズムで鼓動を刻む。そうやって同じ時間をゆっくりと通過していく。やさしい音楽を聴いているときみたいに、不思議に身体が温まってくる。
 けれど、いくら待っても池は光らない。やがて蝕が明け始める。無慈悲な月は、見慣れたいつもどおりの色に戻っていく。
 少女はがっかりして肩を落とす。少年が慰めた。
「落ち込むことないよ。君はこの池が光ることを知ってる。それを待ってる。それだけでも十分なことだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ。どこかに僕の顔が眠っているみたいに、サカナもきっと眠っている。でもそれは絶対になくならないものなんだ」
「たとえこの目に見えなくても」
「そう。見えなくても、どこかにはある」
 少年はじっと彼女の方に顔を向けている。暗がりに包まれた顔を。
 ふと、少女は思う。私は今、見つめられているのだろうか。
 この顔に触れてみたらどうなるのだろう?
 少女は手を伸ばす。少年は少し身じろぎをした。少女の指先が少年の頬に触れる。あるいは、頬があるはずの場所。そこにはただ虚空がある。暗い影がある。手応えはない。なにかぬるい気配だけが漂っている。不思議な感触だ。鼻のような突起に触れると、そこは少しだけ硬く存在感があった。海の底に住む生き物の柔らかな骨を思わせる手触り。それを指先でなぞる。少年が今どんな表情をしているのか、正確にはどんな表情をしたいと望んでいるのか、少女にはわからない。
 それでも今、自分が触れるべきものに触れているのだという感覚が、彼女の中に生まれる。触れるまでは知らなかった。でも触れてみてわかった。この頬は私に触れられるためにある。
「あったかいのね」
 少女は言った。少年はじっと黙っている。
「お母さんはどうして君の顔を落としちゃったんだろう」
「わからない。単にうっかりしていたんじゃないかな」少年が答える。
「うっかり、深い穴に落としてしまった」
「深い穴っていうのは思いがけないところに突然あるものだから」
「そこに時々誰かが落ちてしまう」
「そう。すっぽりとはまりこんでしまう。大きな渦に飲み込まれるみたいに、避けがたく宿命的に。顔だけで済んだのは幸運だったのかもしれない」
「池は光るわ」
 少女が言う。少年が首を傾げる。
「そう?」
「光るわ。君と私がここにいれば、きっと」
「そうだといいな」
「今わかったの。きっと光る。だって、」
 今日はサカナが光るためにはうってつけの日だから。
 少女が言葉を発する前に、池の水面がわずかに揺れる。大きな地震の前触れみたいに、予感を湛えてざわざわと震え始める。でもやってくるのは地震じゃない。何か大きな、薄い緑色を帯びた光の塊のようなものが、水の奥深くに生まれたのが見えた。それはごく僅かに池を染めて、深い場所でゆらゆらと揺れている。あわせて星が降り出した。きらきらとした小さな粒が二人の周囲に落ちてくる。それは雪みたいに音もなく落ちてきて、地面にたどり着く前に、池の光に輝きを奪われて消えてしまう。
 水の中の光の塊はじっくりと浮上している。と同時に、辺りを眩しく照らし出した。始めはほのかに闇に浮かび上がるくらいだったのが、池全体が光の塊になったみたいに輝き始め、幾筋もの光が空に突き抜けていく。高い高い耳鳴りのような音が遠くから聞こえる。星や月が飲み込まれる。視界が光に満たされる。
「サカナよ。綺麗」
 少女は目を細めながらうっとりと言う。
「まぶしい」
 少年は(たぶん)顔をしかめながら、手で顔を覆う。
「こんなに強い光は駄目なんだ。顔が本当に消えてしまう」
「消えないわ」
「消えるよ。影がなくなっちゃう」
「なくならないわ」
「どうしてそんなことがわかる?」
「なくならない。ちゃんと見て。大丈夫だから」
 少女は言って、少年の手にそっと自分の手を添える。そして顔から引き離す。少年はとっさに顔を背ける。少女は彼の手を握り締める。強く強く握り締める。それは引力だ。誰かを繋ぎとめるための重力だ。誰かの存在をかたちづくり、この世にとどめておくための力。特別なときに特別な誰かのためにだけ使える魔法。どこか遠くの冷たい場所で静かに生まれて、時間をかけて育ってきたもの。植物が根を張るような確かさと、花びらが開くような鮮やかさと、水が流れていくような自然さと、夜が迫り来るような圧倒的なものと、そういう全部が混ざり合いひとつになったもの。
 私がホントウに待っていたものはこのマホウなのだ。少女は悟る。
「ちゃんと見て」
 もう一度少女が呟く。少年が恐る恐るゆっくりと、池に顔を向ける。一瞬で顔の影が吹き飛んだ。そこにあった暗がりは少しもしがみつくことなくあっさりと顔を離れ、空の彼方に掻き消えた。
「見える?」
 少女が訊ねる。
「見える」
 少年は答える。
 少年は何もないところから涙をこぼしていた。それは光を含んできらきらと輝いた。空も地面も全部が光に溶け込んでいる。光の真ん中に小さな影が見えた。淡い輪郭に囲まれた小さなお面のようなもの。それはゆっくりと浮かび上がってきて、水面に漂っている。
「僕の顔だ」
 少年が言った。少女は頷いた。
「光るサカナが持ってきたの。君の顔はずっとずっとここにあった。サカナと一緒に眠っていた。サカナがそれを運んでくるまでに随分時間がかかったけれど」
「でも今頃顔が戻ってきても、どうすればいいのかわからない」
 少年は呆然と呟いた。
「僕はとっくの昔に、顔がないことを受け入れたんだ。それを認めるために随分たくさんの時間を費やしたし、色んなものを諦めた。諦めざるを得なかった。そうするしかなかったんだ。僕はようやく僕として固まったのに、なぜ今頃戻ってくるんだ。どうして今じゃなくちゃいけないんだ」
「情けないのね」
 少女が口元で少し笑う。少年は小さく呟く。
「だってそれこそ、どんな顔をすればいいのかもわからないし」
「早く顔を取り戻して。そうすればいろんなことが出来る」
「たとえばどんな?」
「たとえば、ホントウの目で一緒に星を見るの。ホントウの鼻で風の匂いを嗅ぐの。それから」
 少女はにっこりと微笑んだ。
「ホントウの唇どうしでキスができる」
「それは素敵だ」少年もたぶん笑った。少女にはそれがわかる。この目に見えなくても。遠くの花の香りが確かに届き、心の中で花を咲かせるように。
 それはもうすぐ、ホントウの笑みになる。



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