心の底から湧きあがる恐怖。傭兵となってまだ日が浅いリンは、初めてそれを感じていた。
――ありえない、ありえない、ありえない!
リンの眼の前に仁王立ちしている鎧を着こんだ巨漢は、その巨体よりもはるかに大きい大槌を振り上げていた。
――逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!
歯をガチガチと鳴らしながら必死に足を動かそうとするリンだったが、恐怖のせいでまともに動いていなかった。振り下ろされる大槌を前に、リンは頭を抱えてうずくまった。
次の瞬間、地面を大きく抉りながら、その大槌の一撃は雷鳴のごとく鳴り響いた――。
盗賊達を蹴散らし、商人の親子から謝礼をもらい、街道の途中まで馬車に乗せてもらうことになった3人はゆったりくつろいでいた。
「しっかしまあ、あんたよくそんなバカでかい剣を振り回せるわねぇ」
馬車の荷台で血のこびり付いた大剣を手入れしているジーノにリンが話しかけた。
「これでも、もっと使いやすい武器を使った方がいいって何度も言ったんですけどねぇ。なんでもジーノさんの師匠の形見らしいですよ?確かバスタードソードブレイカ―って名前でしたっけ?」
ジーノは一度顔を上げて頷くと、黙々と手入れを再開した。その様子を見てリンは軽くため息をすると、話し相手を完全にフィーに絞って話し始めた。
「ねえ、いつもジーノはあんな感じで敵を蹴散らしてるの?」
「まあだいたいあんな感じですが、いつもはもっと最初の一撃で逃げ惑う人とか居るんですが、今回はいませんでしたねぇ。それに気になっていたんですがさっきの方々、只の山賊にしては随分いい装備でしたねぇ」
普通農民が出稼ぎや小遣い稼ぎのためにやっているにわか山賊というのは、農具を武器として持っていることが多い。無論剣や槍を持っている者もいるだろうが、錆びてぼろぼろだったりするものが多いのだ。
「そういうもんなの?」
「山賊や盗賊業をしてる6~7割の方が食うに困って仕方なくやってる人達ですから、武器を買うお金なんて無いですよぅ」
リンは腕組をしてフィーに感心した。
「じゃあ今回は仕方なくじゃない3~4割に当たったってこと?」
「そう考えるのが普通ですねー。もしかしたら、結構規模の大きい山賊団の一部隊だったのかもしれませんねぇ」
くつろぎながら時間つぶし程度に会話しているリンだったが、その話を聞いて表情が凍りついた。
「それってシャレになんないんじゃない?報復とか警戒した方が…」
「全滅させちゃいましたから多分大丈夫ですよぅ。もし報復とかあったとしても、ジーノさんがいれば逃げるくらいはなんとかなりますから」
その言葉にリンは訝しげな表情をつくった。
「…経験談?」
苦笑いをしながら眼を逸らすフィーの態度に、リンは何となく察した。
それから丸1日過ぎた頃、森に挟まれた街道から出る直前、ジーノは僅かな金属音に気付き馬車を止めようとした。しかし、ここでジーノが声を出せないことが災いして馬車はそのまま森を抜けてしまった。
その瞬間、轟音と共に馬車を牽いていた馬の胴がつぶれて、馬車が勢いよく前に倒れた。荷台に乗っていた3人はそのまま馬車から放り出されてしまったが、ジーノはかろうじて受け身を取って体勢を立て直した。ジーノが睨んだ目線の先には、全身巨大な甲冑を纏った大男が佇んでいた。
「お前がそうか。若いな」
鎧男はそう言うと手に持っていた大槌を握り直した。
ジーノは男から眼を離さずに、地面に落ちたバスタードソードブレイカ―を拾い上げて戦闘態勢を整えた。ちょうどその時、鎧男の姿を見たフィーが後ずさりながら呟いた。
「ファ、ファントム…!」
ファントム、傭兵をしている者ならその名を知らない者はいない。頑丈な鎧と巨大な大槌を使いこなす最強の傭兵である。どれだけ攻撃されても倒れず、その大槌の一撃であらゆるものを粉砕し続けているという。基本的に彼は避けることはせず、攻撃を受け止めるか弾き返すことしかしない。このような無茶苦茶な戦い方しかしない彼があまりにも強いので、人々はあの鎧の中には人は入っておらず、幽霊が動かしているのだと噂したそうだ。故に彼は呼ばれている、ファントムと…。
ジーノはフィーの言葉を聞いて、一層気を引き締めた。
コトダマ使いを除く傭兵の中で最強と言われている男が相手では、恐らく勝ち目はないのだろう。たとえこちらが複数とはいえ、望みは薄い。リンのコトダマは正直言って強力ではあるのだが、コトダマを使う本人が経験不足に見える、あまりあてにはならない。フィーは論外、商人の親子は最初の衝撃で気絶してしまっている。もはや頼りになるのは自分の腕のみだ。
ジーノは敵までの距離を目測で測り、体勢を低くしてバスタードソードブレイカ―を背負った。
「ほう、正面から来るか。面白い」
そう言いながら、ファントムはジーノに対して半身になってから大槌を構えた。
低姿勢を保ちながら疾走するジーノ。距離が短いため、二人の間合いは一瞬で狭まった。
バスタードソードブレイカ―は本来、振り下ろして攻撃するのがデフォルトの武器である。それはそうすることでしか、普通の人間ではこれほど重い武器を使う方法が無いからである。”誰もがそう思う”ことに付け込んで不意を突くことができれば、それは大きなアドバンテージとなる。そう、それは格上の相手を倒すことすら可能にする――。
ジーノは背負ったバスタードソードブレイカ―を左肩から下ろすと、全体重をかけて左から右へと薙ぎ払った。狙うはファントムの足。低く斜めに振られるバスタードソードブレイカ―。その剣先に、ありえないほどの衝撃が走った。
耳を塞ぎたくなるほど大きな金属音と共に、バスタードソードブレイカ―は宙を舞った。地面に尻もちをつき、やや混乱していたジーノだったが、バスタードソードブレイカ―が地面に刺さる音を聞いて現状を理解した。ファントムの大槌を振り切った構えを見ると、どうやらバスタードソードブレイカ―の軌道に合わせて正面から弾かれたようだ。
「打ち負けはせんよ。…当たるのであればな」
未だにさっきの衝撃が両手に残っているジーノだったが、とっさに起き上がりファントムと距離を取った。昨日に引き続いてバスタードソードブレイカ―の奇襲技を使ったためか、それともさっきの衝撃のせいか、左肩の感覚はほとんどなく、両手は痺れ切っていた。たった一撃で勝敗を決するほどの実力差が、今のジーノとファントムとの間にはあった。もはやジーノにはファントムを睨みつけることしかできない。
アイノコトダマ
ファントム
そんな時に、横合いからリンがファントムに攻撃を仕掛けた。
「喰らえ、投げナイフぅ!!」
無論それにファントムが気づいていないはずもなく、ファントムは左手のガントレットで投げナイフを弾いた。しかし、その予想以上の衝撃にファントムは少しよろめいた。
「ほう、コトダマか。まるで槍で攻撃されたかと思ったぞ」
そう言い放つと、ファントムはリンとの距離をゆっくり詰めていった。
「な…投げナイフ、投げナイフ、投げナイフう!!」
混乱して滅茶苦茶に投げナイフを投げるリン。ファントムはそれを一つ一つ確実に弾いていった。地面には刃の部分が完全に折れた投げナイフがいくつも転がっている。
リンは焦り過ぎて足元も確認せずに下がっていたため、小石につまずいてそのまま尻もちをついた。
心の底から湧きあがる恐怖。傭兵となってまだ日が浅いリンは、初めてそれを感じていた。
――ありえない、ありえない、ありえない!
リンの眼の前に仁王立ちしているファントムは、その巨体よりもはるかに大きい大槌を振り上げていた。
――逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!
歯をガチガチと鳴らしながら必死に足を動かそうとするリンだったが、恐怖のせいでまともに動いていなかった。振り下ろされる大槌を前に、リンは頭を抱えてうずくまった。
――おかあさん!
次の瞬間、地面を大きく抉りながら、その大槌の一撃は雷鳴のごとく鳴り響いた――。
「小僧、あそこで割り込んでくるとは、なかなか肝が据わっているな」
ジーノはとっさに右肩で体当たりをして、大槌の軌道を逸らしていた。リンの約30センチほど隣には大きな穴ができていた。その衝撃のせいか、それともその前のプレッシャーのせいか、リンは気を失っていた。そのことを確認して少しだけ安堵したジーノだったが、状況は悪化する一方だ。今の体当たりで右肩が脱臼したらしい。両手をだらんと垂れ下げた格好でジーノはファントムを睨んだ。
「まだ戦意を失わないか、若いのに大した奴だ。ならそれに敬意を表して、最大の一撃で終わらせてやろう」
ファントムは腰を落とし、体を最大限まで捻った状態で静止した。
ジーノにはギシギシと金属の擦れる音が、もはや死神の嘲笑のようにしか聞こえなかった。
だが、ここで諦めることは、今までの自分の選択を無駄にする行為だ。タイミングを計り、カウンターでドロップキックを顔面に喰らわせる、それであいつがどうにかなるとは到底思えないが今有効な攻撃はそれくらいしかないだろう。
ジーノが覚悟を決めてファントムを睨みつけたその時、急いでいたせいか息を切らせながら男が走ってきた。
「若!依頼はキャンセルです!!」
それを聞いて、ファントムはジーノに顔を向けたまま構えを解いてその男に話しかけた。
「騎士共か?」
「ええ、最近妙な動きをしてましたが…、案の定といったところですな」
ファントムは大きく息を吐いて、ジーノに説明し始めた。
「私は山賊団の依頼を受けてお前を始末しに来たわけだが、その依頼主がたった今騎士共に殲滅させられたらしい。よって私にはお前とこれ以上やり合う理由はない。襲っておいてなんだが、そっちにこれ以上戦う意思が無いのならこちらも引き上げるつもりだ」
ジーノは少し考えたが、ここまで追い詰めておいて騙す必要が感じられなかったので、素直にその申し出を受けることにした。
「なら私たちはこれで引き上げる」
そう言ってファントムと男が立ち去っていこうとした時、ファントムは去り際にこう言い放った。
「小僧、なかなかいい剣を持っているな、大事にしろよ?」
フルフェイス型の兜だったためファントムの表情まではわからなかったが、何故だかジーノにはファントムが笑っているように思えた。
「喰らえ、投げナイフぅ!!」
無論それにファントムが気づいていないはずもなく、ファントムは左手のガントレットで投げナイフを弾いた。しかし、その予想以上の衝撃にファントムは少しよろめいた。
「ほう、コトダマか。まるで槍で攻撃されたかと思ったぞ」
そう言い放つと、ファントムはリンとの距離をゆっくり詰めていった。
「な…投げナイフ、投げナイフ、投げナイフう!!」
混乱して滅茶苦茶に投げナイフを投げるリン。ファントムはそれを一つ一つ確実に弾いていった。地面には刃の部分が完全に折れた投げナイフがいくつも転がっている。
リンは焦り過ぎて足元も確認せずに下がっていたため、小石につまずいてそのまま尻もちをついた。
心の底から湧きあがる恐怖。傭兵となってまだ日が浅いリンは、初めてそれを感じていた。
――ありえない、ありえない、ありえない!
リンの眼の前に仁王立ちしているファントムは、その巨体よりもはるかに大きい大槌を振り上げていた。
――逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!
歯をガチガチと鳴らしながら必死に足を動かそうとするリンだったが、恐怖のせいでまともに動いていなかった。振り下ろされる大槌を前に、リンは頭を抱えてうずくまった。
――おかあさん!
次の瞬間、地面を大きく抉りながら、その大槌の一撃は雷鳴のごとく鳴り響いた――。
「小僧、あそこで割り込んでくるとは、なかなか肝が据わっているな」
ジーノはとっさに右肩で体当たりをして、大槌の軌道を逸らしていた。リンの約30センチほど隣には大きな穴ができていた。その衝撃のせいか、それともその前のプレッシャーのせいか、リンは気を失っていた。そのことを確認して少しだけ安堵したジーノだったが、状況は悪化する一方だ。今の体当たりで右肩が脱臼したらしい。両手をだらんと垂れ下げた格好でジーノはファントムを睨んだ。
「まだ戦意を失わないか、若いのに大した奴だ。ならそれに敬意を表して、最大の一撃で終わらせてやろう」
ファントムは腰を落とし、体を最大限まで捻った状態で静止した。
ジーノにはギシギシと金属の擦れる音が、もはや死神の嘲笑のようにしか聞こえなかった。
だが、ここで諦めることは、今までの自分の選択を無駄にする行為だ。タイミングを計り、カウンターでドロップキックを顔面に喰らわせる、それであいつがどうにかなるとは到底思えないが今有効な攻撃はそれくらいしかないだろう。
ジーノが覚悟を決めてファントムを睨みつけたその時、急いでいたせいか息を切らせながら男が走ってきた。
「若!依頼はキャンセルです!!」
それを聞いて、ファントムはジーノに顔を向けたまま構えを解いてその男に話しかけた。
「騎士共か?」
「ええ、最近妙な動きをしてましたが…、案の定といったところですな」
ファントムは大きく息を吐いて、ジーノに説明し始めた。
「私は山賊団の依頼を受けてお前を始末しに来たわけだが、その依頼主がたった今騎士共に殲滅させられたらしい。よって私にはお前とこれ以上やり合う理由はない。襲っておいてなんだが、そっちにこれ以上戦う意思が無いのならこちらも引き上げるつもりだ」
ジーノは少し考えたが、ここまで追い詰めておいて騙す必要が感じられなかったので、素直にその申し出を受けることにした。
「なら私たちはこれで引き上げる」
そう言ってファントムと男が立ち去っていこうとした時、ファントムは去り際にこう言い放った。
「小僧、なかなかいい剣を持っているな、大事にしろよ?」
フルフェイス型の兜だったためファントムの表情まではわからなかったが、何故だかジーノにはファントムが笑っているように思えた。