投げられたピザを見送る目は冷たい
夜のペイントシティ
◆夜のペイントシティ
僕が振り返ると、ジェイミー君はご丁寧に靴を脱いでいた。ずいぶんとサイズが大きい。
たぶん、僕が毎朝食べる食パン二枚分ぐらいはあるだろうか。やっぱりサルだなぁ、と思った。
「君の」
玄関にぽつんと寂しそうに立てかけられているほうきの横に、彼は二足の友人を添えている。
それを見ながら、ぼくはつぶやいた。
「足のサイズに合うスリッパはないんだ。すまない」
腰を上げながらジェイミー君は目を丸くした。
「とんでもない。おいら普段から裸足なんで、この方が断然落ち着くんです」
彼はそれぞれの指先にまるで生命が灯ったかのように、足先を器用に動かして見せる。
五本の指が、それぞれ独立して美しい軌道をえがいていた。
なるほど。こんな素晴らしい生命の技巧をスリッパで隠すのはもったいない。
僕は納得してうなずくと、彼の先に立って廊下の奥を指差した。
「ささ、どうぞどうぞ」
「おじゃまします」
「突き当たりがリビングだから、ソファーででもくつろいでくれ。僕は飲み物を用意するから」
「恐縮です」
最初から思っていたのだが、どうも彼は行儀がよい。というより、言葉遣いが丁寧だ。
こういう客人に対しては、別に相手が求めていなくてもおせっかいを焼きたくなるのが人の常。
僕はモノリスばりに真っ黒な冷蔵庫をゆっくりと開けると、中の小品に目を這わせた。
缶コーヒーばかりが目立つのは、僕がコーヒーが好きだからである。
とりあえず、僕はお気に入りの一本を右手にとった。
「もう一本は……」
薄明かりに目を細めながら、僕は冷蔵庫にさらに首を突っ込む。
ジェイミー君はサルだから、きっとバナナが好きなのだろう。
彼の飼育員、名前は忘れたけれど、バナナの皮ですべって転んで死んだのなら、間違いない。
だけど、あいにくこの冷蔵庫にはバナナは無い。しょうがないので、僕はフルーツ系の飲み物を探した。
「えーと」
ふと、グレープフルーツのサワー缶が目に止まった。よし、これにしよう。
僕は二つの缶を右手に持って、左手で冷蔵庫を閉めた。
◇
リビングに行くと、ジェイミー君は映画を見ていた。
「これは?」
「テレビつけたら、たまたまやってました」
「あぁ、なるほど」
借りた覚えのない映画だったので少し拍子抜けしたが、考えてみれば今は深夜だ。
映画の一つや二つやっていてもおかしくない。
テレビに映っていたのは、白黒の古い洋画だった。
「これ、口にあいそうかな」
「ありがとうございます! おいらミカン系大好きなんで」
僕が差し出したサワー缶を丁重に受けとると、ジェイミー君はスカした音を立ててすぐに缶を開けた。
そのまま、いっきに飲み干していく。
「んぐ」
僕はその間に彼の隣へと滑り込む。
「んぐ」
映画はちょうど、傘を持った男が隠れるように女と熱烈なキスを交しているシーンだった。
「んぐ」
僕はそれを、無機質な視線でしばらくながめた。ジェイミー君はしばらくサワー缶を飲みつづけた。
「んぐ」
ふと、僕の頭の中に疑問がよぎる。
「んぐ」
このペイントシティに動物園はない。一番近くても、隣の隣のマッドタウンヒルズの丘の上にあるやつだけだ。
そこに行くには、電車で何十分も空疎な外の景色を眺めていなければならない。
徒歩で行くのならば、どこかにテントを張って一晩を過ごさなくてはいけないぐらいの距離だろう。
僕は、どうにもジェイミー君がここにきた経路を知りたくなった。
「あのさ、ジェイミー君」
「んぐ、なんでしょう。あ、おいらならJって呼んでくれて構いませんよ」
かんきつ系のすっぱい臭いをほのかにただよわせながら、Jは手で口をふいた。
僕はテレビの画面に目を向けたまま。訂正を込めてたずねてみる。
「J、きみは一体どこの動物園にいたんだい?」
「クレープタウンです」
彼の台詞に合わせて、画面の向こうでギャングが銃を乱射した
男がみじめに吹っ飛んだ。
僕は思わずソファーから飛び上がりそうになった。
「なんだって」
僕はそれだけ言って、しばらく絶句した。
クレープタウンは、海を一つ越えた、べつの国の首都じゃないか。
そんなところから、逃げてきたというのだろうか。
さすが、サルなだけある。僕はそう思った。
「あ、どうも勘違いしてるみたいですが」
映画の中の彼女のように、唖然としていた僕を見つめてJが人差し指を立てる。
「おいらそこから逃げてきたわけじゃないんです。ちょうど、こっち側の……マッドタウンでしたっけ? あそこに巡業してた最中で」
「あぁ、そういえばチラシがきてたような……」
肩の力がすうっと、抜けていく。
そうだ。思い出した。僕が体調を崩したあの日だったか。
最後にポストを確認したあの日。
ぽろりと一枚の紙が落ちてきて、確かにそこには「クレープタウン」とかなんとか書いてあった気がする。
「あっちでトラブルが起きたんなら慣れたものなんですけどね。おいら、どうにもこっち側の勝手がわからなくて、無駄に慌てちゃって……」
照れくさそうに、申し訳なさそうにJは頭をこする。
確かに、知らない土地に初めて足を踏み入れるときはいつも、不安と期待でいっぱいだ。
そのバランスが、彼の場合アクシデントをきっかけにくずれてしまったのだろう。
不安の波が、彼の心の中を何度も駆け巡ったのだろうか。
想像することしかできないけれど、僕はその想像の中でJに同情した。
それにしても、寝込んでいてニュースはほとんど見ていなかった。もしかしたらこの辺ではもう結構なさわぎになっているのかもしれない。
僕はテレビの画面の見つめるJの横顔を見てみた。ブラウン管から照らされた光が、不安の色で染まっていた。
「J。君はクレープタウンに帰るべきだ」
僕は言った。確証はなかったけれど、ただそうすべきだと思った。
「はい。おいらもそうしたいと思ってます」
Jは、十本の指先を器用につつき合わせながら、そう答えた。
気づけば、血まみれの男がモノクロの中で息を引き取っている。
僕は、彼に同情した。
今夜だけは、いつもより少し多めに。