Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
3月は悪い月

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 3月は悪い月、ということにした。ろくなことがなかったから。
 そう思えば3月は悪月なのだからよいことがないのは当たり前、と諦めもつく。4月も悪い月ならそれも悪月、死ぬまで悪月なら生まれて来なければよかっただけという話になる。人生は苦だ。
 何か書きたいような気がするのに、帰ってくると疲れて寝てしまう。やっぱり俺にダブルワークは無理らしい。奴隷として生きて奴隷として死ぬのも悪くはない。そもそもよいことなど存在しないのだから悪いことばかりなのは当たり前。それをやり過ごすのが人生。
 まあ、言うほど悪いことだらけじゃなく、紐解いていけばいくらかは何かしらあるんだろうけど、要するに『それが代償』と言われるとよかったことさえムカついてくるから、悪かったもんは悪かったんだ、3月なんて二度といらないくらいに思っておくのが精神衛生上で望ましい。良かったことを悪かったこととつなげるとろくなことにならない。
 この世界はもうダメなんだから、流れる滝に抗っても意味はない。


 バイオRE4やライザ3が出たらしいけど、見送ることにした。
 オクトラ2でさえダルくてやれていないのに、遊んだところで意味もない。
 最近のゲームは忙しい。ロックマンみたいにサッと遊んで、自分の体調とかプレイヤースキルを観測する、みたいなことができない。
 欲しいものをためてためてためて、射幸心を満足させる。
 そういうのは疲れる。
 ちょっともったいないけど、どんなゲームもさっさとネタバレを見てしまって、なんだべつに大したことも起きないのか、くらいで納得して次へ行ってしまうに限る。
 ゲームはあまりにも多くの時間と体力を消耗させる。俺にはもうできない。


 昔、ひたすらバイオをやっていたことがある。リメイク1は3時間クリアとかもやっていた気がする。
 ゾンビが襲ってきて生き残ろうとする、という物語のフォーマットは基本的なものだから、ゾンビものを履修しておけば創作に役立つと思った。
 考え方は悪くない。正しかったのかもしれない。
 とはいえ、ゾンビものは誰がさわってもゾンビものとして収束しやすい、という点を俺は見逃していた。
 要するに職人向きの題材なのだ。ゾンビとはこういうもの、として客も期待して見る。それにお約束を踏まえながらどう応えていくか。
 どちらかというとテーマパークを作る才能、マインクラフトで遊園地を作る才能向きの題材であって、俺みたいに触ったものを片っ端から腐蝕させてブッ壊してしまうタタリ神みたいなタイプ向きじゃない。
 だから、創作の参考としてはまったく役に立たなかった。
 デイズゴーンでひたすらバイクを乗り回して、ゾンビを狩りまくっていたことくらいが楽しかった思い出だ。
 どんなにリメ1をやり尽くしても、消費し尽くしたその記憶や経験値は何か他のものに転化できない。一つのゲームで稼いだ通貨が、別のゲームで使えないように。狭い考え方かもしれないが、現実はそうだ。
 遊びとしてはいい。でも、自分の役に立ったか、というと、そうじゃない。
 まあ、自分の人生で役に立ったことなんて、何もないけれども。


 Kindleアンリミテッドを読み進めている。
 確かに、このサブスクのせいで本を買わなくなった。作家にとってはかなり厳しい。ただ、俺みたいに買いたくてもカネがないやつには、これしかない。連続して4冊くらいばあーっと読んだけど、新刊で買っていたら4000円近くロスしている。そんなカネはない。
 最近、思うんだけど、最初の読み進めていくのが実に辛い。文章を追いかけるだけでイライラしてくる。ただ、読み進めて、途中までいくと、展開が面白くなっていくのもあるけど、読むのが苦痛じゃなくなっていく。
 レンツの方式みたいだなと思った。磁束の変化を時間の変化で割ったものが、起電力になるというやつ。磁束が変化している間は逆起電力が働く。しかし時間が経つにつれて、その起電力が減っていく。
 要するに、最初は、知らない文章の作家を追いかけるのはすごいストレスなんだけども、読んでいくうちに慣れていって、読み込むのが苦ではなくなっていく。
 この、最初に起きる『苦』は避けられないのかもしれない。まったくそういうのがないやつもいるのかもしれないが、俺は毎回起きる。そういうのがまったくないのは、最初から惚れ込んでいる作家くらいだ。
 だからこれも、そういうもんだ、と受け入れたら、苦手なタイプの書き方をする作家の文章もなんとか読めるようになってきた。もちろんADHDが発動してかなりの頻度で読んでいるはずなのに頭にイメージが湧かなかったり、自分の中の違う物語が白昼夢みたいにフラッシュしたりは続いている。これはもう病気なのだから受け入れるしかない。
 それでもゲームをやるよりは、読書の方が楽しい。それは向き不向きの問題で、俺は現実世界でプレイヤースキルを求められ、まったく適応できていない。不器用だから。できるはずになったことも、ふとした瞬間に頭の手のひらから零れ落ちてできなくなる。理想にも完璧にも程遠い。
 読書はひたすらに読み込むだけだし、一人で出来る。これからの時代はいかに一人でも平気で生きていけるかが問われる。LINEで「もう引っ越すから久々に飲みにいかない?」とグループラインして全員既読無視される俺のような好かれにくい体質のやつは、一人で生きていくに限る。別に誰が悪いわけじゃない。俺がそういうふうに生きてきただけのこと。
 好かれないなら好かれないで、誰にも構わず好きにやれる。それも自由のカタチだ。ただ、ツイッターとかで暴れたり、ここでも過激なことを書いたりすると、かなりの確率で後悔する。結局、『俺が俺として生きること』が誰も幸福にせず、闇雲に誰かを傷つけ、何一つ価値あるものを生み出さないことが辛いんだろう。それでも俺は俺をやめられない。自分勝手で傲慢で他人のことに興味がない。自分が何をどうするかしか興味がない。頭の中はそれで一杯だ。死ぬべき魂。
 存在することそれ自体が他人にとって害悪になる。それは俺がずっと昔から抱えてきたテーマだ。俺の作品で、誰からも愛されて幸せに生きてきたやつはまず出て来ない。そんな人生は想像ができない。珪素生物くらいの隔たりを感じる。そんなやつは間違いなく俺じゃない。
 で、『あやうく一生懸命に生きるところだった』という韓国のエッセイがあるんだけども、これを再読した。ああ、やっぱり俺もこのテのタイプだよなあ、と読みながら思った。言っていることは岡本太郎と似たようなもんなんだけど、結局、これを『是』とするやつは社会では生きていけない。だから俺も、どう誤魔化しても、反社会的な人間なんだと思う。だからどのみち、これから先の人生のどこかで、社会から駆逐されるだろう。無事に生きていくことはできない。
 この世界にとって俺は存在してはいけないし、主人公でもない。だから俺が書く話には、『世界の主人公』が別に設定されていて、『物語の主人公』はそれと異なるようにしてある。それくらい、俺はこの世界にとって主人公じゃないと強く感じる。それは誰にとっても当たり前のことかもしれないが、俺の場合はその色が強く出ていると思う。
 仕方ない。諦めるしかない。
 どうも上手くいかないし、元気も出ない。結果も出ないし、過程も楽しめない。踏んだり蹴ったりだ。
 しかし、少なくとも、そうやってイラついているのは俺にとって真実であって、臭いものにはフタの理論で無かったことにしようとしても、中で圧力が増悪して最後には大爆発を起こすような気がする。だからこうして、ガス抜きしているんだけども、「やっぱりあんなこと書かなきゃよかった」と結局後悔する。もうどうやっても逃げ場はないという感じで、そりゃRE4をやる元気もないわな、と自分に対して思う。
 何かで誤魔化して生きていきたいのに、そのごまかす対象がない。
 期待しすぎてガッカリするを繰り返すけれども、期待をかけられるくらいじゃないと自分が失ったものへの代償となり得ない。
 そんなことばかり繰り返している。
 人間はなんで記憶喪失に自分からなれないんだろう? 不要な記憶を削除して、現状に適応しやすい人格だけ残せばいい。そうやってカスタムするほうが便利だ。バニラがクソならMODを使えばいい。最後にはバニラに戻ってくるとしても、MODを使ったあとの話だ。
 人生にMODはない。とんでもないクソゲーだ。

 ツイッターも見ていてつらい。というか、どういう仕組なのか、HSPについて語ればHSP寄りの記事が、仕事について書けば仕事関係の記事がフォローもしていないのにタイムラインに載っかって来る。本当にうんざりする。
 SNS向いてないし、見なければいいんだけども。ついついつぶやいてしまう。
 右を見ても左を見てもあーしろこーしろ、成功するためにはうんたらかんたら。俺はもう疲れた。
 みんなでお手手を繋いで、人類という歴史を店じまいするんじゃダメなんだろうか?
 墓じまいのあとは人じまい、生まれてきたけどろくなことなかったね、で眠るようにみんなで死ねたら幸せなんじゃなかろーか。


 俺が好きだったもの、俺が信じたかったもの、みんなどこかへ消えていった。
 庵野秀明は幸せなんだろうか。
 シン・仮面ライダーは作って満足できたんだろうか?
 俺にはよくわからない。
 どんなに自分の『好き』を貫いても、誰も彼もが消えていく。どこかへ行ってしまう。
 そんな中でどこまでも自分の好きを貫いても、辛いだけじゃなかろうか。
『ブルックリンナインナイン』も、シーズン8まできた。ウォーキング・デッドをシーズン5あたりで脱落した俺にとっては快挙だ。それだけ見やすかったのもある。
 けれども、時々、ブルックリンは重たい話をしてくる。黒人差別の話とか。警察の腐敗の話とか。
 俺はそれを見るのが辛い。
 何もかも忘れて、笑って幸せでいたいのに、そういう重たい話をされると、なかよし家族をやっている夢を見ていたのに急に両親が夫婦喧嘩を始めた時のような気まずさを感じる。
 もちろん、作り手がそういう話をしたかった、というのはわかる。スイカは甘さの中に塩を振るから味が引き立つんだ、というたとえ話もわかる。理屈はわかる。
 それでも俺は嫌だった。
 つらい現実なんて見たくない。それを忘れるためにはどうすればいいかしか考えたくない。
 そうかと思えば、幸せでしか構成されていないエロ小説漁りをしても、確かに甘いばかりで救われるわけじゃない。
 どうすればいいのかわからない。
『ブルックリン』に関しては、俺はジェイクが自分の父親に対するコンプレックスを乗り越えていくのは、理解できたし、好きだったし、それは間違いなくスイカの中の塩だった。けれども、実際の警察の腐敗に関するエピソードは、個人の問題じゃなく社会の問題であり、ブルックリンでそれをやられてもキツイ、というのが正直なところだった。警察の腐敗なんていうのは、ヒッチコックやスカリーを笑って見られなくなってしまう。
 俺たちにどうこうできるのは個人の問題だけだ。社会の問題はどうすることもできない。明治維新みたいに革命でも起こすか? そんなことしても人が大勢死ぬだけだ。
 社会があるから生きていける。そして社会があるから変えられない苦痛がある。だったら、俺はみんなで手を繋いで死にたい。この世界から離脱したい。
 それが俺の本音だ。もう疲れた。


 ADHDにとっては苦しい世界だ。俺が共感を覚えるやつらは、みんなこの世界に苦しんでいる。なんとかなってるやつらは、クリエイターとして成功している。ほかにはいない。みんな苦しんで死にかけだ。
 どこまでいっても出口がない。
 だから、最近はもう、どう生きるかより、どう死ぬかを考えた方がいい気がしてきた。
 自殺するというのじゃなく、どういう形で死んでいくか。少なくとも助かることなんてないんだから。
 こうして、書きたいことをひたすら書き連ねる、というのも、俺が選んだ死に方の一つだ。何も書かず、うちに秘めて死ぬのは嫌だ。
 俺は本当は、誰かを傷つけることになっても、自分の書きたいものを書きたい。ただ、それで誰かが傷つくのは、本当は嫌だ。
 この矛盾の中でいつも俺は死にそうになっている。
 ヤマアラシのジレンマとか、そんな知ったふうな理屈じゃない。自分が本当に望むことをすると、誰かが必ず傷つく。つまり俺はどれだけ望むことをしても、必ず後悔する地獄の中にいる。その中で、それでも自分を貫くとすればやっていることは悪魔だし、もし自分を曲げれば、俺の精神は死ぬ。どちらを選んでも救われない。
 存在したくなかったし、生まれて来なければよかったと思う。
 もし子供が生まれてくるなら、自分が望むことで誰かが喜ぶ生き方をしろと言いたい。そして他人を蹴落として、自分だけが搾取する側にまわり、いつでも安全マージンを取りながら危険に生きるやつらを高みから見下ろして、小馬鹿にして生きていけと言いたい。
 幸せの正体はそれだから。
 社会にとって価値ある存在となって、カネをかき集め、危険から一歩でも遠のく。それが幸せだ。俺もそんなふうに生きたかった。知ったふうな口をきいて、逃げたいものからは簡単に逃げ出せる人生。
 少なくとも、最も逃げたいものが『自分』である人生なんて、歩んでほしくない。それこそ地獄だ。俺が今まで自殺して来なかったのは、本当に痛かったり苦しかったりする肉体的なデメリットが嫌だったからだと思う。そういうものがなければスッと消えていたような気もする。


 でんきポケモンが好きだというのは偽りだった、というのはちょっと前に書いた。そもそもポケモンが好き、というのも、俺は偽りだ。
 なんとなく、ポケモンをやっている自分、というのを建前として張りたい。なんとなく、俺自身の中にある無限の理不尽を表現するより、ポケモンが好き、というほうが、理解されやすそうだから。
『悪魔のミカタ』にザ・ブルマという人物がいる。高校教師で、子供の頃からブルマ好きというキャラでやってきたから、ブルマについて熱く語るが、実はそれほどブルマが好きじゃない。周囲が認めてくれたアイディンティティだから、それを演じているに過ぎず、実は本物のブルマ好きと話が合わない。
 俺がポケモンについてあーだこーだ言っているのもそれだ。
 本当にポケモンが好きなわけじゃない。手頃なアイディンティティだから、たまたま安く見つけたブルゾンみたいにとりあえず羽織っているだけ。
 それでも、アイディンティティなく、混沌のまま生きるのは苦しい。
 悪魔のミカタは、処女作で、そういうキャラクターを少ない文章で一瞬で表現する作品だった。そういった苦しみを理解している作者だった。
 今、そういう作者は少ない。
 求めても、仕方ないことだけれども。


 偽りなのに、拘り続けるのも、偽りのおかしなところだ。
 最近はカセキポケモンに目覚めた。絶滅したポケモンというのは、つまり負けたポケモンであり、社会から『生きていてはいけない』という現実を突きつけられて抹殺されたポケモンだ。今の逼塞した気分の俺に近い。
 俺も絶滅種だ。滅びるのは確定している。うまく器用にトントン生きていけるやつらと俺は違う。
 だから、敗将びいきというやつで、古代パラドクスとか、カセキポケモンとかを眺めては満足している。ウネルミナモもそうだし、頭が悪すぎて絶滅したとかいうラムパルドにも興味がある。絶滅にはロマンがある。
 変化できずに死んでいく。それも悪くない。


 ここまで書いてみて、やはり3月は悪月だったから、ずいぶん病んでいるなあと思う。
 このわが地獄もかなり俺の病みを吐き出す場所になっているけれども、もう30年近く生まれてからずっと病んでいるんだから、それだけ生きにくい世の中だったんだなあと思う。俺一人、幸福にできない社会なんて、壊れたって構わない気がする。一人、不幸なやつがいたら、みんなで手と手を取り合って不幸になり、全員で死ぬ。究極の共産主義だ。生まれてこないことこそ至高なんだ。
 こういう考えを、自分でも否定しないわけじゃない。むしろ常に否定している。そんなこと考えちゃいけないと。しかし、否定するだけじゃ消滅させることはできない。消滅させるには、どこかで文章にし、どこかで消化して、発散させないといけない。それでも新たにストレスが支給されてくるから、終わらないように見えているだけで、こうして書くごとに、何かが少しずつ完結している。完結していないのは、世の中のクソさのほうであって、俺のせいじゃない。俺を止めたければ、世の中を改善すればいい。
 少なくとも、俺から見て、みんな生きることに必死過ぎる気がする。死に方について考えれば、余計なことでイライラしなくても済む。生きようとするから苦しい。海の中で呼吸しようとすれば水を飲むだけだ。肺の中にあるだけの酸素でなんとか息を止め、それで死ぬなら仕方ない。それでも水を飲むよりは、波の流れ次第では海面から打ち上げられて酸素を吸える確率は高い。打ち上げられた時に肺が水で満タンで溺れているんじゃどうにもならない。
 それでも水の中で呼吸してしまう気持ちはわかるんだけども。
 人間が機械のようにいろんな感覚をカットできるようになれば、幸せになれるのに。

       

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Neetsha